手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

浪速のことは夢のまた夢 

 今日は、早朝に東京を立って、名古屋に行き、名古屋で二人の生徒さんを指導し、それから大阪に向かい、関西演芸推進委員会の新年パーティーに出席して帰ってきました。何分今日は雪になるのではないかと心配され、朝6時に家を立ち、時間にゆとりを持って名古屋に向かいました。案ずるほどではなく、雪も降らず、新幹線のトラブルもありませんでした。まったく新幹線のダイヤの正確さには頭が下がります。

 新幹線の中ではずっと企画書を書いていました。前々からせかされているもので、かなりの確率として、仕事につながる話です。本来一生懸命書かなければいけないのですが、なんせ忙しいのと、少し疲れているのとで、なかなか進みません。それでも3ページ書けました。

 

 名古屋では、午前中に二人の指導を終え、昼は峯村さんと食事をしました。今日は、あとが控えているため、いつものように落ち着いて話ができませんでした。但し、私の周りには、何となく妖しい話がいくつか寄って来ています。うっかりすると、泥沼に足を踏み入れるような結果にもなりかねない話もあります。私を慕って来てくれる人はありがたいのですが、中にはおかしな話を持ち込んでくる人もいるのです。

 そのことを峯村さんに話してみると、やはり、その話は妖しいと言います。峯村さんからそのことが確認できただけでも話をしてよかったと思います。

 

 さて2時に名古屋を立って、3時に大阪に着きました。道頓堀に行き、ZAZA(元、中座跡に立った劇場)のオーナー、吉元さんに会い、4月25日のマジックセッションの確認や、大阪のインバウンドの話を伺いました。今、大阪は大きな金が集まってきていますが、何をするかの企画が貧弱で、四方模様眺めの状況です。どこかでに風穴を開ければ、思いっきり大きな仕事ができますし、名前を成すチャンスでもあります。

 私はもうそんな大きく無茶な活動はできませんが、少し小銭稼ぎをしてみようとは思います。これが成功すれば、今年前半はかなりの頻度で大阪で活動することになりそうです。

 

 6時からは、難波のスイスホテル(高島屋の裏手)で、例年の新年会、関西演芸推進委員会の新年パーティーに参加。名称は堅苦しいものですが、実際は、関西の演芸を応援しようと言うもので、お好み焼きの千房さんの会長、中井さんが音頭を取って、何十年も主宰しています。ホテルのメイン会場に大阪の実業家、演芸出演者、歌手、相撲取り、480人も人を集め、マグロの解体ショウや、ビュッフェがたくさん出て、ぜいたくなパーティーです。

 恐らく大分、千房さんが出費しているのではないかと思います。実は千房さんは、私の大阪で公演をするたびに、座席を買ってくれたり、宣伝広告を載せて下さっています。有難いことです。今度の4月25日のZAZAも同様に応援してくださっています。そのため、このパーティーもはせ参じなければならず、義理は欠けません。

 パーティーではなかなかお会いできない方々がたくさん来ていて、私の丸テーブルの左隣りは、落語の、桂文福さん。この人は50年近く前に大須演芸場で10日間私と一緒だった人ですが、あの時と少しも変わりません。但し、今は大阪の落語界の重鎮です。総鹿の子絞りの羽織なんぞを着ているところを見ると、よほど稼ぎがいいのでしょう。久々話ができて楽しかったです。

 私の右隣は、名乗られたときは、森下さんと仰いましたが、名刺を見ると、森下仁丹の社長さんでした。おとなしそうな人ですが、仁丹の名刺を出されたときは親近感を感じました。更にその何人か先にサッポロビールの社長さんが座っています。このテーブルだけでも、相当な人物が座っています。こうした人たちと話ができるのは幸せです。

 その後福引が始まりましたが、もう帰らないと今晩中に東京につきません。新大阪駅で、女房の土産に551の豚まんを買い、夜9時の新幹線に乗って、一路東京に戻りました。企画書の残りを書こうと、テーブルにノートを置き、少し書いているうちに眠ってしまい、起きたら新横浜でした。やはり、もう根を詰めた仕事はできません。それでも、わずかでも何か前に進められるようにしたいと思いつつ仕事をしています。

 今日一日は随分疲れました。でもたくさんの人と会い、楽しい一日でした。

明日は、アマチュアマジッククラブ5、を書こうと思います。