手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

踊り をどるなら 3

踊り をどるなら 3

 

 まったく舞踊に興味のない人を舞踊の会に誘ってその感想を聞くと、「うまさの基準がわからない」。とか、「名人、上手の舞踊がなぜ名人と言われるのかわからない」。などと言う反応が返ってきます。

 西洋の舞踊、例えば、バレーやジャズダンスなどと日本舞踊を比べると、大勢の人が曲にぴったり合わせて細かな振りを踊る西洋の舞踏は、上手いかまずいかは一目でわかります。西洋の舞踏は、一人で踊っていても、カウントが細かく決められていて、きっちりカウントにはめているか否かは素人が見てもわかります。

 方や日本舞踊を見ると、もちろんカウントは決められてはいますが、曲そのものがゆったりとしたものが多い上に、細かなカウントが厳密ではありません。演者の裁量に幅があります。

 振りは様々あって、それ自体は市井風俗を真似ていて、演じ分ける才能を求められるでしょうが、如何せん今の時代と程遠い生活を映した振りがついていますので、何を表現しようとしているのかが理解しにくいものがあります。

 しかも長唄、清元と言った唄の歌詞が、何を語ろうとしているのかがわかりにくく、初心者にはまごつくばかりです。決して江戸時代の話し言葉がわかりにくいわけではないのですが、如何せん使わない言葉や、今はなくなった職業を語っていたりするともう聞く人には何を言っているのかわかりません。

 「松の位の外八文字」長唄の松の緑と言う曲に出てくる歌詞ですが、始めに聞いたときには何のことかさっぱりわかりませんでした。遊郭の吉原にいた花魁の最高位の女性が、松の位です。すなわち絶世の美女です。

 この花魁が、吉原をお練りをして歩くときに、ぽっくりのような高下駄を履きます。下駄があまりに高いものですから、持ち上げて歩くことが出来ず、左足を前に出すときには、左足をゆっくり半円を描くように下駄を地面に滑らして回しながら前に出し、次に右足をゆっくり半円を描くように前に出して歩いて行きます。これが外八文字と言う歩き方です。

 つまり絶世の美人の花魁が、吉原をお練りをして歩いている姿を言っているのです。しかし現代においてそれを歌詞から想像できる人は限られています。

 歌詞が良くわからないまま、所作が演じられると、一体何を表現しようとしているのかがわからない場合があります。

 上手い人が踊ると、きっちり役になり切っていますし、一つ一つの所作がちゃんとできていて、意味が伝わってきます。江戸の世界がきっちり見えてきます。然し、歌詞の表現するところがわからないと、何もわからなくなります。古典芸能の難しさは年々表現する世界が今と離れて行ってしまうことです。それゆえに理解者を減らして行っています。

 

 もう一つ申し上げると、日本舞踊のお師匠さんと言うのは、どこまでがプロでどこまでがアマチュアなのか、基準が曖昧なところがあります。マジシャンの場合、一般から依頼される舞台を引き受けて月に数本、或いは十数本活動しています。それが成り立っていることは、マジック界では当然と思われていますが、舞踊家は、自宅で生徒さんを取って、指導をするのが仕事の主になっています、これはプロの指導家だと思います。年に一、二度、市民会館などで、舞踊を踊っている、と言うのは、プロの舞踊家としては余りに舞台回数が少ないのではないかと思います。

 舞踊が芸能の一ジャンルであるなら、発表会で舞踊をきっちり踊ることも大切ですが、本来は魅力溢れる個人の舞踊家が現れて、その舞踊家が見たくて、人が大勢劇場に押し掛ける状況にならなければ、本当のプロとは言えないのではないかと思います。

 大劇場での発表会を見ても、客席は生徒さんの家族が来ている場合が多く、一般客が入場料を支払って入ってくる人は稀です。身内が集まって、認め合う緩い社会の中での活動が、半世紀以上も前から出来上がってしまっています。

 なぜもっともっと一般客を相手にした仕事を取らないのかと思います。私が活動している玉ひででの自主公演のようなものを舞踊家もしたらいいのにと思います。どんなところにでも出て行って、一人でも多くの一般客を相手に踊りを見せなければ、新たな観客はつかめないだろうと思います。

 この10年は日本舞踊を習う生徒さんの数が大きく減少していると聞きます。支持者が減って行くことをただ嘆いていてもどうにもなりません。もっともっと前に出て言って仕事を開拓して行けばいいのにと思います。

 

 然し、一般客を相手にしているから、マジックは優秀で、日本舞踊は劣っていると言うわけではありません。舞踊は現代の芸能にありながら、稀有な程純粋です。純粋に芸能を追求した結果、きわめて純度の高い感動が生まれるのです。但し、その感動を評価できる審美眼を備えた、理解ある観客が必要です。優しく温かく、気長に見てやらなければそ舞踊の良さが理解できないのです。残念ながら、その理解ある観客が近年減少しています。

 明日はそのあたりのことを詳しくお話ししましょう。

続く