手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

キャバレー時代

 もう40年も前のことになりますが、私は10代の末からキャバレーの仕事をしていました。当時キャバレーは日本中に3万軒はあったそうです。主だった駅には必ずと言っていいほどキャバレーがありました。キャバレーとは、社交場ですが、生バンドがいて、ホステスがいて、ショウがあるのが三種の神器で、ショウは欠かせない存在でした。そのショウも、演歌あり、ヌードあり、マジックあり、曲芸あり、コミックバンドありと、日々内容が変わり、実に多彩でした。

 当時は、芸能人の数よりもキャバレーの数のほうが多いのですから、日本中の芸能人をフル回転させても間に合わない状態です。大都市には、キャバレー専門のプロダクションがあって、そこに所属していれば、10日や15日は間違いなく仕事が入ります。人気の芸人は一日も休みなしです。

 但し、ショウなら何でもよいわけではなく、お客様が酒を飲んでいますので、話はあまり聞きません。従ってトークマジックはだめです。スライハンドマジックのような、バンドを使って、音楽に乗せて、スピーディーに進行する芸能がよく売れました。

 私は17歳くらいからキャバレーに出ていたのですが、初めは仕事の本数は月に2,3本でした。それでも一本5千円。三日で1万5千円です。学生のアルバイトが8時間働いて1200円の時代ですから、いい収入です。親の家に暮らしていれば、それで十分ですが、行く行くこれで生活して行くとなるともっと収入がなければいけません。そこでいろいろ工夫をしました。

 

 通常のマジシャンは、通常15分のショウを二つ持っていれば仕事になります。一部に鳩出しをメインにしたとすると、二部は、ロープとか、コインとか、煙草など、あまり片付けのいらない簡単な演技をします。当然衣装は一部も二部も黒の燕尾服かタキシードです。テーブルも同じものを使います。言ってみれば、マジックの内容は変わってもあまり大きな変化がありません。それを何十年も変わらない手順で、15分の演技を二つ演じて、それで生きて行けたのです。見ようによっては消極的な生き方です。それでも当時のマジシャンはかなり派手な生活をしていました。

 私は、他のマジシャンと同じことをしていては仕事が増えないと思い、一部で鳩とカードを演じ、二部は和服の手妻を演じました。和服の演技は珍しがられ、しかも一部と二部の違いがはっきりしていて、店からの評判も良く。お陰で私のスケジュールは忙しくなりました。何しろ学校を卒業したてで、若くて、顔がつやつやで、燕尾服を着たり、着物を着たりしてマジックをするわけですから、随分注目されました。毎月20本くらいのキャバレーをこなしていました。しかも当時は一本1万円になりました。大学出の初任給が5万円くらいの時に、毎月20万円の収入です。

 しかし私は危ないと思いました。この先きっとキャバレーは廃れて行くと思っていました。その理由は三つありました。

 

 1つは、私と同年齢で、キャバレー遊びをする人がいません。ホステスがいて、ホステスとラテンの曲でダンスをすると言うパターンは私の世代にはすでに古く見えたのです。きっとこのシステムのままでは飽きられると思いました。

 

2つ目は、当時私は、よくテレビ局のオーディションに顔出しをしていました。私が所属する事務所の社長は、この先キャバレーだけに頼っていてはどうなるかわからないと思って、テレビに顔の聞くマネージャーを一人雇っていたのです。寺田さんと言って、その後も私のマネージャーとなります。事務所は寺田さんを雇ったのはいいのですが、

所属のタレントは、演歌歌手や、ヌードダンサーでしたから、あまりマスコミで活躍を希望しているタレントがいませんでした。そこで私に期待が集まりました。

 寺田さんはよく、フジテレビや、NHKのオーディションに私を連れて行き、私はそこでマジックを手見せしたのですが、鳩出しや手妻は全く興味の対象になりませんでした。まず「燕尾服を着て出て来ると言うのがそもそもテレビ向きではない」と、頭から否定されました。「若いんだから、もっと、若い人のファッションを見たほうがいいよ」。と言われました。手妻に至っては、全く相手にされませんでした。

 つまり、キャバレーで受けると言うものが、テレビでは通用しないと言うことを知らされたのです。今受けているからいい、という考えは必ず5年先、10年先には覆(くつがえ)ってしまうと言うことです。

 

 3つ目は、前年にヨーロッパに行ったときに、FISMの会場で、パリの、ピエロの格好をしたマジシャンと友達になりました。FISMの後にパリに行くと、彼はホテルまで来てくれて、その晩のナイトクラブのショウを見せてくれました。パリのナイトクラブなんてどんなに洒落た所だろうと期待して行くと、その晩、店にお客さんがほとんどいないのです。友達は少ないお客様の前でマジックをして、そのあと、家に連れて行ってくれました。そこには同じような芸人や、マジシャンがいて、ささやかなパーティーをしましたが、みんな一様にナイトクラブが減って、仕事が少ないと言います。

 まだ日本のキャバレーは大忙しですが、パリがこんな状況ではきっと日本もダメになるなぁ、と思いました。

 

 私はその後も毎年アメリカに行き、キャッスルの舞台や、イベントなどに出演しました。レクチュアーも随分やりました。アメリカに行くたび100万円単位の収入を得て帰ってきました。アメリカのレクチュアー旅行の話はまた別の機会にお話しします。

 私は、稼いだ収入を無駄使いせずにせっせとためて、イリュージョンや、衣装、アシスタントの衣装などに投資しました。それは、キャバレーはもう先がないと思っていたからです。この先はイベントに乗り出さなければ生きて行けないと考えていました。

 このころ都内のホテルは、宿泊客だけを相手にしていては頭打ちだと気づき、庭園を壊して、コンベンションホールを作り始めていました。結婚式や、会社のパーティーに乗り出してきたのです。無論パーティーは昔からホテルが手掛けていましたが、それまでのホテルのパーティーは100人とか150人規模のものが多かったのです。それがコンベンションホールを作ることで、500人1000人と言う規模のパーティーを呼ぼうとしたのです。しかしそうなると、従来の、一人でシルクやロープをするマジックでは間に合いません。イリュージョンを演じなければなりません。まだ東京にはイリュージョンチームは数組あるのみです。何とか私はその中に参入しようと考えたわけです。

 実際、昭和57年に、チームを起こし、イベントに乗り出します。一方キャバレーは昭和58年を境に、坂道を転がり落ちるように、店が閉店してゆきました。昭和60年になると、東京ですら数件と言う状況でした。

 15分の手順を二つ持っていれば、20年先、30年先までも生活に困らない、と思っていた多くのマジシャンは、廃業してゆきました。この先はまた明日。