手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

九州奇術連合会を作る

 さて、私のキャバレー時代のことですが、キャバレーは毎晩8時と10時ころにショウをします。地方都市などへ行くと、例えば仙台2日間、山形2日間、酒田2日間、などと、一週間分のスケジュールを事務所が作ってくれます。日曜日はキャバレーは休みですから東京に戻ります。私は、学校を卒業すると、中古のブルーバードのバンを買い、ほとんど車で日本中のキャバレーを回りました。

 ブルーバードは2リッターの中型車です。大き目な車ですが、道具や、衣装や、鳩を入れると一杯です。既に8万キロ乗っていたもので、外見は傷が目立ちましたが、その後3年間乗り回して、全く故障のないいい車でした。3年目にタクシーに正面からぶつけられ、あえなく処分しましたが、いまだに忘れられない車です。

 キャバレーは夜だけしか仕事がないため、昼に遊んでいるのはもったいないと、マジックメーカーのトリックスに頼んで、よく商品を買う地方のアマチュアの連絡先を教えてもらいました。当時はどこの町にもマジッククラブがあり、クラブによっては指導者がいないため、本や、商品を買い求めることで自分たちだけで活動をしているクラブがあったのです。私は行く先々のアマチュアに手紙を書きました。

 医者であるとか、個人商店や会社の経営者などを尋ねて、昼に時間を取ってもらい、マジックの話をします。相手は、プロに会うのも初めてですし、東京から来た若手マジシャンと言うのが新鮮で、興味を持って接してくれました。そのうち、マジックを習いたいと言ってきます。そこで翌日、また時間を作って会社に伺うと、リングや、四つ玉や、カードなど、日頃習いたかった小道具が用意されてあって、個人指導が始まります。すると、指導に感動して、クラブ員に連絡を取ってくれます。そして、私が日曜日に帰る予定をずらして、講習会を企画してくれました。

 個人指導は1時間1万円でした。レクチュアーは2時間で3万円です。その頃、キャバレーの出演料は地方都市で一晩1万2千円もらっていましたから、指導料のほうが高額でした。指導は好評で、クラブの方から、近所に来たら必ず指導に来てくれと言われ、行く先々のマジッククラブから熱望され、大きな輪が広がって行きました。

 最盛期は、九州、四国、中国、関西、東北、北海道など40クラブの指導の輪ができました。特に、九州、四国、中国では、クラブによっては毎月でも来てくれないかと言われました。そう言われても、キャバレーとか、地方のイベントに引っ掛けて出かけなければ交通費が出ません。しかし、いろいろ工夫をして、九州、四国、中国を20日間かけて指導することで諸経費を捻出し、講習だけで年間3回、指導するようになりました。

 そうなると、教材を求めるクラブが増えてきます。それら注文をトリックスに伝え、発送してもらい、20日間地方を回ったら、残った商品を返品し、売れた分を現金で支払いました。トリックスにすれば私が仕入れた品物が、20日後には現金化するのですから大喜びです。私の舞台が多忙で、指導を休んでいたりすると、社長から電話がかかってきて、「そろそろ指導に行かないの」。と催促されるようになります。

 当時は、マジックブームの陰で、ステージマジックの指導者と言うのは少なかったのです。そのわけは、キャバレーの項で述べたように、当時のプロマジシャンと言うのは、15分の手順を二つ持っていれば生活に困らなかったわけですから、新しいマジックを勉強しようと言う人は少なかったのです。仮に指導を求められても、自分の手順は教えられません。そのため、プロはアマチュアと接することを嫌がっていたのです。

 私は、早くから洋書を読んだり、世界大会に出て、レクチュアーを受けていましたので、アマチュアに指導できる内容を持っていました。それは単純に自己の探求心でしていたことでしたが指導で役に立ったわけです。

 実は、指導は私にとっても大きな収入でした。私は当時、春と秋に二回、リサイタルを催していました。行く行く自分が売れた時に、演じる手順がないとすぐに飽られます。今のうちに手順を作っておこうと考え、3分、5分の手順を作り溜めていました。

 また、将来はチームを作って大きなショウをしようと考えていましたので、大道具も作り溜めていました。当時は、大道具と言うと、赤や黄色の派手な色の箱を使っている人が多かったのですが、私は金属でメッキをして、アクリルなどを使い、透明感を出して、色も、銀、グレイ、黒と言ったモノトーンを基調にした道具を作りました。この道具が、一作60万円から80万円かかりました。一本1万2千円のギャラのマジシャンが80万円をひねり出すのは至難です。そこで、年三回の指導の収入はすべて、道具、衣装、リサイタル費用に充てたのです。結果として、こうして作り溜めた道具が、バブル期以後、イベント活動に乗り出した時に、他のマジシャンとの差別化ができて、大きな活動につながって行くことになります。

 

 さて、九州のアマチュアさんたちと仲良くなって色々話を聞いているうちに、彼らはアマチュアの団体を作って、九州をひとまとめにしたいと言う気持ちが強いことを知ります。そのことは福岡でも長崎でも熊本でも、同じ話が出てきます。実際、彼らは年一回の発表会に他県の奇術クラブを招き、代表者に出演をしてもらう企画を持ち回りでしていたtのです。しかしそれは簡単ではありません。ショウの後の懇親会などの費用負担などが大きくて、2、30人の地方クラブではやり切れません。2、3回持ち回りで開催してはつぶれるパターンをくり返していたのです。しかもアマチュア同士が張り合って、懇親会の席でマジックの出来の良し悪しをあけすけなく言う人までいます。本来まとまりたいと言う気持ちがありながら、現実には周辺のクラブはいがみ合っていたのです。

 そこで私は各クラブに提案しました。「一クラブが、自分のクラブの大会を主催して、なおかつ、ほかのクラブの接待を受け持つのでは負担が大きすぎます。例えばホテルで開催して、接待や食事はホテルに任せて、マジックの部分は各クラブが協力しあって平等に負担してゆけば、連合体はできます」。これはコンベンション形式です。

 このことを各クラブに伝えると、みんな賛同しましたが、ではどこのクラブが音頭を取ってするかとなると、みな尻込みをします。そこで、前々から熊本の奇術クラブが新年会を阿蘇のホテルで一泊して開催していたものを、拡大して開催してはどうかと、熊本奇術クラブの原田栄次会長に持ち掛けました。それでも、ゲストや、チラシなどの費用を捻出しなければいけません。そこで、ゲストは私だけ。講習も私がする。人が集まったら私に謝礼をください。集まらなかったらいりません。と言う条件を出しました。そしてようやく35年前、八代の日奈久温泉で一回目の九州奇術大会を開催しました。参加者は50名でした。これが九州奇術連合会の始まりです。

  この話の続きはまた明日。

 

 九州奇術連合会は、来年2月29日、3月1日の一泊二日、福岡県原鶴温泉、泰泉閣

で開催されます。参加ご希望の方は、九州奇術連合化のホームページをご覧ください。

カズカタヤマ、岩根佑樹、私、藤山大樹も出演します。