手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

たけちゃん金返せ3

 この小説のタイトル、たけちゃん金返せは、私がたけちゃんに53000円を貸したままになっていることからつけた名前です。当時、たけちゃんは漫才の仕事が少なく、生活が苦しかったため、キャバレーに出ようと考えます。

 ただ、キャバレーはアルコールを飲んだお客様が相手ですから、漫才はなかなか聞きません。そこで、マジックならみんな見るだろうと考え、私にマジックの道具を依頼します。私はマジックのメーカー、トリックスに出かけ、赤沼敏雄社長に話をつけ、後払いで道具を53000円分仕入れてきます。そしてたけちゃんに指導をしました。後は、毎月のキャバレーの仕事から1万円ずつ返済すればよいと言う段取りまでしました。

 ところが、何年かして、道具の請求書が、私のところに来たのです。たけちゃんは道具代を一銭も支払っていなかったのです。結局私が背負うことになり、何度かたけちゃんに請求したのですが、全く払う気がありません。たけちゃんもそのことを忘れているわけではありません。新潮社でたけちゃんと対談したとき(北野ラジオ)も、覚えていて、「あの時ネタをもらってマジックしたものなぁ」。「もらったじゃないよ、費用は私が立て替えたんだよ」。「あの金払ってなかった?」。とぼけていました。

 また、2014年、東スポ芸能大賞を頂いた時も、審査委員長のたけちゃんが、楯と目録を私に渡してくれた時に、「この金で、昔の借金のことは忘れてくれ」、と言いました。受賞のコメントを述べるときに私は目録を振りかざし、「これで済んだと思うなよ」。と、昔の東映時代劇の悪役、上田吉二郎が言いそうなセリフを吐いて、これまでの恨みを語りました。

 結局その後も借金の返済はありません。そこで私は、「どうせ払わないなら、一生言い続けて、ネタにしてやろう」。と考えました。どこかで効果的に貸したお金を生かすところはないかと考え、ついに小説のタイトルに至ったわけです。

 

 このたけちゃん金返せは私が作ったコピーではありません。浅草にキヨシと言う乞食がいて、性格のいい男ですから、みんなに可愛がられて、洋食屋や、料理屋の食べ残しなんかをもらって生活していました、このキヨシが演芸好きで、町の飲食店に宣伝で撒いた演芸場のタダ券を店からもらって、毎日演芸を見に来ます。いかに人がいいからと言っても、乞食ですから、近づくと臭いので、普通なら、劇場や映画館には入れません。然し、キヨシはマナーがよく、人にたかることもしませんし、朝一番に入ってきて、二階の上手の先端にある席に座ります。ここにはほとんどお客様が来ませんから臭いも移りません。キヨシの特等席です。キヨシは毎日そこに座って演芸を楽しみます。

 このキヨシを題材にして、俳優の小沢昭一さんがキヨシ物語という小説を書き、芝居をします。これが当たって相当稼いだそうです。小沢昭一さんはキヨシに感謝して、まとまった金を渡します。するとキヨシは有頂天になって、毎日酒の自動販売機の前で残飯を食べながら豪遊をします。

 たけちゃんはキヨシが金を持っていると聞きつけ、1万円を借ります。普通ならとても貸すことはできませんが、この時は気持ちが大きくなっていますので、キヨシも貸したのです。しかしそのあと一向に返済がありません。そこでキヨシは、いつもの席に座って、ツービートが出て来ると、「よっ、たけちゃん金返せ」。と言います。これがどっと受けます。引っ込むときも同じようにに言います。これが何か月か続きました。

楽屋では、たけちゃんが乞食から金を借りたと話題になりました。その後、返済したのかどうかはわかりません。このセリフをタイトルにしたわけです。

 

 私とたけちゃんは出演順が並ぶときもありました。そんな時は、たけちゃんが漫才をしているときに私が燕尾服を着たままそっと後ろを通ります。これはお客様が笑います。するとたけちゃんは仕返しにと、私が鳩を出しているときに上着を脱いで、「あぁ、暑い暑い」と言って後ろを通ります。これも受けました。次の日には私もシャツで後ろを通ります。毎日これが続くのですが、ある日たけちゃんは私の後ろをフルチンで通ったのです。これで私の負けです。鳩を出したって、カードを出したって、フルチンにはかないません。観客の大砲のような笑いの前に私は撃沈しました。

 たけちゃんの話は皆様お好きなようですので、また明日お話しします。