手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

今更の芸

 昨日はブログを休んでしまいました。何も書いていないのに、160人ほどに来訪者がありました。さぞやがっかりしたでしょう。何とか期待にこたえたいと思いつつも、他の用事に忙殺されて、ついぞ時間が取れませんでした。でもこうした日があってもいいかな、と思います。スカを引く日もあれば、きっちり書いている日が価値を生むのではないかと、勝手に思って、今日こそはしっかり書かせていただきます。 

 

 今日は、弟子の前田将太は千葉県にある,某市の催しで、手妻の舞台に出ています。本来まだ弟子の立場ですし、いくらかでも収入を得る仕事と言うのは責任を求められますので、とても一人で出すことはできないのですが、当人がたっての希望の出演でしたので、出してみることにしました。

 それにしても、私が出演せずに、前田一人で、手妻を30分します。それも初めから内容が、手妻を演じてほしい、と言う依頼です。一般の地方公共団体の職員が手妻を依頼するなど、10年前までなら考えられないことです。

 もっとも、この話は北見翼さんが私のところに持ってきた話です。あまりに安いギャラのため、翼さんは「それで手妻は無理だ」。と言って、断りかけたのだそうです。しかし、ふと私のところで弟子修行している前田を思い出し、連絡をして来たのです。

 そうであるなら全く無にするのも失礼と思い、引き受けました。ところで、仮に私のところで受けられなかったとしたら誰がその舞台に出るのでしょうか。最近は私の知らない手妻マジシャンが、30本くらいはいるようですから、そうした人たちが引き受けるのでしょうが、それにしても、手妻が一般に大きく認知されたことはありがたいと思います。ただしこれが一時のブームに終わらないことを願います。手妻はブームではないのです。

 1300年、脈々と続いてきた芸を、この先、少なくとも50年は次の世代につなぐことが我々の仕事なのです。自分たちだけが食い荒らしてそれでおしまいと言うのは許されません。まず、継ぐべき技を磨き、それを次に世代に伝えることが仕事なのです。今、活動している手妻の方々も、少しでも、きっちりと手妻を学ぶ姿勢を持つことを願っています。

 

 ところで、前田将太ですが、彼は学生の頃から私の舞台を手伝ううちに、手妻の面白さを知って、今年の2月に弟子入りしました。私のところは安易な形では弟子を取りません、まず人柄、技量を見定めた上で、保証人、後見人を立てて、その二人から印鑑を押してもらって、なおかつ保証金を支払って初めて入門できます。

 保証金と言うのは若い人には大きなハードルだと思います。しかし、これは必要なのです。何しろ、入門してくる人は道具も持たず、着物も、帯,足袋、下着に至るまで、何も持参しないで入門します。それを私の方ですべて揃えなければいけません。舞台用の絹の着物から、袴まで揃えると確実に25万円くらいかかります。道具と合わせたなら50万円は下りません。それを仮に無償で与えて、真剣に教えたとして、半年と務まらずにやめてしまって、その道具と衣装を持って温泉場の宴会場で営業活動されたなら踏んだり蹴ったりです。実際そうした弟子もいるのです。そうならないために保証人を取って、保証金を積んで修行させます。幸いこの方式に改めてからはいい加減な気持ちで入ってくる人は無くなりました。

 

 彼はその通りに入門を申し込み、中央大学卒業と同時に弟子修行に入りました。しかしいまだ9か月です。まだ形としては成り立ってはいません。物覚えのいい人ですから、教えることに心配はありません。

 まじめで素直なところはいい性格です。しかしまじめで、素直なら舞台人として成功するとは限りません。もっと、もっといろいろなことがわからなければいけません。

 日頃は私の事務所を手伝い、舞台があれば私の舞台を手伝っています。週に一回、朝に稽古をつけています。稽古の内容は、手妻をする場合が多いのですが、他にも、基本的なマジックを稽古します。今月に入って、ピラミッドを稽古しました。稽古したのはいいのですが、ピラミッドの製作者が亡くなってしまい。新しいピラミッドが手に入りません。困っています。

 三日前に不意に思いついて6枚ハンカチをしました。私が子供の頃はこれをやるマジシャンが何人もいたのです。私の師匠、清子もやっていました。清子は1ヤール(90センチ)の、大きなシルクで演じていました。清子は昔の人でしたから身長が150センチくらいしかありません。90センチのシルクを対角線に持てば140センチ近くあります。にもかかわらずシルクは床をつくことなく美しく宙を舞い、きびきびと演技していました。その姿を思い出し、妙に懐かしくなって前田に教えたのですが、よく考えれば、今更の芸です。

 

 6枚あるシルクをカウントし、3枚はそのまま上手のテーブルに置き、残り3枚を縦一列に結び、下手のテーブルに置きます。ジェスチュアーがあって、上手のシルクを引っ張って見ると、上手の3枚がつながっています。下手のシルクを見ると、下手の3枚はバラバラになってしまいます。もう一度上手のシルクを引っ張って見ると上手のシルクもばらばらになっています。説明すればこれだけの芸です。清子は全部バラバラにした後でシルクをもう一度つないで見せ、その中からくす玉を二つ咲かせていました。これがとりネタです。思えば昭和の芸と言うものはずいぶんと地味なものだったと思います。これでマジシャンの生活が成り立って、生きて行けたのです。

 さて、こうした演技を今の若い人が喜ぶかどうか、半信半疑でしたが、予想に反して前田は面白いと言います。まず前田にすれば、1ヤールのシルクを扱うことが初めての経験なのです。実際1ヤールのシルクをきれいにさばくことは一つの技術です。裾を引きずってはいけません。いつでもシルクの裾が床上10センチ以上になければいけません。無論踏んではいけません。腕に掛けたシルクを引っ張るときでもシルクの端がピンと反対の先まで飛んでゆかなければいけません。

 今でもこれをきちんと守って演じているマジシャンは能勢裕里江さんです。裕里江さんの先生はスピリット百瀬さんです。百瀬さんは私よりも年長で、昔これを演じていた松旭斎の女流マジシャンを何度も見ていたのでしょう。氏は氏独特の感性で昔の型を再構築したのです。裕里江さんの演技は多くの人がご覧になって、支持されていますので、ご存じの方も多いかと思います。

 しかし、そうは言っても、こうした技は今は演じる人が少なくなっています。結び目がほどけた、つながった。ただそれだけです。真剣にこれを学ぼうと言う人はわずかです。しかしやってみるとわかりますが、いいマジックです。不思議さは薄いですが、独自の世界があります。

 

 実は徒弟の修行と言うのはここに集約されます。弟子修行と言うのは、絶対人が習うことのできない。口伝のようなものを覚えることが修行だと思っている人があります。実際そうした秘密も勿論あります。しかしむしろ修行をすることで役立つマジックと言うのは、素人がするような何でもないマジックです。少し訳知りのマジックマニアなら馬鹿にしてやらないようなマジックをまじめに学ぶことが修行なのです。

 なんでもないマジックもちゃんと稽古をしてみると、マジックのうまみを感じる部分があります。そこを見つけ出すことが修行です、それこそマジシャンの感性なのです。

 マジシャンとして生きることは、マジックの何が面白いのかをしっかり知った上で演技ができなければいけません。そこがわかって演じるのと、ただ一つことを知っているだけでマジックを演じているのとでは、天と地ほども演技に違いが生まれます。

 感性を磨くことの大切さはどうも今に時代、どこかに置き去りにされています。新しいマジック、不思議なマジックを追い求めることは良いのですが、みんなが新しいことに集中すると、気がついてみると、同じところに数千人のマジシャンが集まっていて、みな同じことをしています。アマチュアならそれも許されますが、プロが数千人の中にいては食べては行けません。

 マジシャンならもっと大きくアンテナを張って、広くマジックを眺めていないと生きては行けないのです。広く深くマジックを学ぶと言うことは、日本だから出来ることです。日本には手妻は勿論、西洋のマジックですら、160年くらいの歴史と蓄積があります。これは日本の財産なのです。多くの人はこの財産に気づいていません。

 例えば韓国や台湾には歴史としてのマジックの蓄積がありません。それゆえ、つい、つい、みんなが同じところを攻めようとします。結果、同じ演技のマジシャンが増え、結果、プロ活動が成り立ちにくいのです。

 誰かがしっかり古典の基礎から指導すれば、違ったマジシャンが生まれて来るでしょうが、それが育たないのはマジックの土壌が痩せているからです。韓国も、台湾も、今は若い人がたくさん集まっていますが、この先、彼らが生きて行くためには日本のような蓄積のないことが大きな枷となって来るでしょう。

 弟子の営業から、ついつい話が長くなってしまいました。アジアのマジック界のことは次回詳しくお話ししましょう。

 

 前田は今日の仕事から何をつかんでくるでしょうか。少々楽しみです。