手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

小野坂東氏の業績研究とはなにか

 「小野坂東氏の業績研究」なる冊子が出ることになり、私も寄稿しました。企画はマジックフォーラム通称MN7、中村安夫さんが主宰となって活動しています。12月15日、13時から両国江戸博物館内の会議室で刊行記念講演をするそうです。私も行ってみようと思います。

  唐突ですが、私には先生が5人います。一人は松旭斎清子、この人は師匠です。渚晴彦。20代の時には師について仕事を手伝い、カードや鳩出しを習いました。高木重朗。最もお世話になった先生です。どれほど多くのことを習ったか知れません。アダチ龍光。私の親父の友人であり、子供のころから楽屋でお世話になりました。舞台の喋りは絶品でした。ダーク大和。訪ねて行くと常に親身になって考えてくれました。

 この5人の先生は私のマジックの骨格となって行った先生です。そうした先生とは別に、とても多くの影響を受け、今も会えば一時間でも二時間でも一緒に話をする人が小野坂東(とん)さんです。私が20歳くらいから今日まで、ほぼ45年間お付き合いさせていただきました。言ってみれば、私の人生は氏のアドバイスを実行することで今日まで来たのです。

 

 リサイタルの必要性を熱く語ってくれたのも氏です。結果として今も年に数回自主公演をしています。

 海外に出て多くのマジックを見たほうがいい。と教えてくれたのも氏です。実際ずいぶん海外のマジシャンから刺激を受けました。そして多くの仲間を作ることができました。海外のコンベンションに出かけると頻繁に氏とお会いしました、ホテルでも、レストランでも、ずいぶん話を伺いました。

 手妻(和妻)をもっとまとめて、マジックの一ジャンルとして昇華させた演技を作ったらどうか。と言って、手妻の支援をしてくれたのも氏でした。私自身も20代から手妻の工夫はしていて、少しづつ作品はアレンジしたり、新しいアイディアを加えたりして作り溜めてはいたのですが、当時はイリュージョンの仕事が当たっていたため、本格的には手妻に力を注ぐことができなかったのです。第一当時の手妻は、なかなか仕事に結びつきにくく、まだまだ実験の段階だったのです。それを、海外に持ってゆけるような手順づくりを勧めてくれたのは東さんです。いろいろ困難がありましたが、結果としてこれができたおかげでコンベンションなどで手妻ができるようになり、更には、文化庁の芸術祭大賞につながり、そこから新たな人生が開けました。

 私に組織を起こしたらどうかと勧めたのも東さんです。私は私なりに、東さんがコンベンションを開催するたびに大きな赤字を作るのはなぜかと考えていました。それは担保がないからという答えに至りました。赤字が出た時に補填する資金が足らないのです。それゆえ、金が足らなければ東さん個人が埋めなければなりません。奇術界発展のため、社会全他のために活動しているにもかかわらず、結果として個人の負担に頼っていることが間違いです。

 そうなら、組織を起こして、初めから会費を集めて、会費を担保に大会を開催したらいい。と言うのが私の発想です。東さんのやり方では、東さんが情熱を持って運営しても、赤字を目の前にしては次に続くものが現れません。東さんを助け、その情熱を受け継ぐにはどうすればいいか、私なりの解決法が組織です。

 二人で話をするうちに、日本にSAMの地域局を起したらいい。と言う話になり、東さんは早速SAMの本部に連絡を取りました。SAMとはすなわち、アメリカ奇術協会です。現存する世界最古のマジック団体ではありますが、SAMは内部で大きな悩みを抱えていました。悩みとは、見た目がアメリカ国内の団体に見えてしまうことです。ライバルのIBMが、国際奇術協会であるのと全く対照的です。何とかSAMが世界組織であることをアピールしたい。それにはどうしたらいいのか、役員は顔を合わせても、名案が出てこなかったのです。

 SAM本部の苦悩も知らずに、私は日本各地のマジック愛好家に手紙を書き、半年以内に700人の会員を集めました。手紙だけで1000通近くを書きました。今思えばよくそんな行動ができたものだと思います。しかしめでたく組織はできました。

 そして、毎年、日本各地で世界大会を開催することになりました。平成3年のことです。私が36でした。これはいわば、東さんが頻繁に開催していたレクチュアーやコンベンションを私が部分的に肩代わりすることでした。 

 

 平成2年。インディアナポリスで開催されたSAMの大会に日本から私が700人の名簿を持って登場しました。組織としては青天の霹靂です。当時のSAMのメンバーは5000人。その10%強の名簿を持参したわけですから、役員、会員一同が起立して、盛大な拍手で私を迎えたのです。入会した当初から私の人気は絶大なものになりました。無論、東さんと祝杯を挙げたことは言うまでもありません。ここまでは晴れがましい成功の話です。

 しかし、いささかこの企画は成功しすぎました。組織としては規模が大き過ぎて、私の会社ではとても維持できず。名簿の整理や、大会の運営に支障をきたすことがしばしばでした。大会が大きくなったのはいいのですが、予定していた会費の穴埋めではとても足らず。赤字は広がり、なかなかうまく運営ができませんでした。それでもSAMを20年近く続けました。しかしSAMに関わったことは私の人生で大きな失敗でした。面白い楽しいこともたくさんあったのですが、人の面倒を見て、人のために働くと言うことがどれほど大変なことか、その代償がはるかに予想を超えて大きなものでした。その一部始終は語る時期が来たならお話しします。

 

 話を戻して、私が50代になって、いろいろな書籍を出し始めたことも支援してくれました。書籍は、松尾芸能賞などと言う、なかなか奇術師が受賞できない賞をいただくなどして、認めていただきました。こうして何のかんのと東さんが考えてくれたレールに乗って、私は今日まで来ました。面白い楽しい日々でした。

 ただし、将来が心配です。こうしてマジック界を見渡しても、東さんに変わる人がいません。私がその役をしたならいいのでしょうが、私のようなプレーヤーではマジック関係者が集結することが難しいと思います。東さんはある時期から自らマジックをしなくなったことが人生を幸いに導いたのだと思います。

 マジックを演じないこと、これがこの世界でいかに崇高なことか。マジックを演じないから、プロが寄って来るし、世界各地の大会主催者が東さんを頼りにします。資産があってそうしているなら出来ないことではありませんが、全くの奉仕から始めて、やがて人に頼られ、周囲が面倒を見てくれるようになる、と言うのは真に人徳と言うほかはありません。

 願わくばこの先もずっとマジックに協力していただきたいと思いますが、最近の体の衰えを見ると心配です。願わくば体に留意されて、マジック界と優しくお付き合いを続けて行かれることを願っています。