手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

韓国マジック事情 1

 私が日本国内のSAM(アメリカ奇術協会日本地域局)を運営していた時に、多くの韓国人が大会に参加してきました。およそ、400名の大会参加者のうち、韓国人だけでも40名いました。SAMの国内大会は1991年に一回目が開催されましたが、大会参加所は総数で800人でした。アジアで大きなコンベンションと言うのは珍しく、海外から約40か国の参加者があり、そのうち20か国はアジア地域の参加者でした。

 アジアの参加者は大会そのものが珍しく、何もかも興味の対象だったようですが、SAMが年次開催されると、徐々にアジアからのコンテスト参加者が増えて行きました。大会は一回目は特別として、通常SAMの国内大会は300人から400人参加者でした。そのうちコンテスト出場者はステージ20名、クロースアップ10名程度で開催していました。

 ところがこれが白熱して来て。韓国だけでも、コンテスト出場者が毎年10名を超えるようになります。そこでコンテストそのものを拡大してゆくようになり、最盛期は、ステージ35名、クロースアップ15名になりました。これを運営するのは大変です。丸一日コンテストに費やされることになります。そのコンテスタントの技量が問題でした。

 今日の韓国と当時の韓国では全く別のレベルです。あまりに物のわからない人たちが参加していました。日本人も下手な人はいましたが、下手の基準が違いすぎます。手順の構成も、技法も何もわかっていない人が、テレビで見た海外のマジシャンの演技を真似して演じるのですが、ひどい内容でした。クロースアップに至っては、何がクロースアップなのかがわからずに、シンブルや四つ玉手順をするものまでいました。

 これは大会を運営する者にとっては迷惑です。度々我々は、韓国の若手を率いてくるジュノさんや、ムンさんに、「もう少し、メンバーをセレクトして連れて来てくれないか」と、苦情を言いました。つまり1990年代の韓国のマジックレベルは、日本のアマチュアのビギナーのようなことをしていたのです。彼らを引き連れてくる中に、リウンギョルや、チョィヒョンウー(今のチャーミングチョイ)がいました。当初、彼らもコンテストに出ていました。韓国では名前が知られたマジシャンだったようですが、初めの内は日本ではコンテストでは入賞しませんでした。

 私は、特にリウンギョルと話をする機会が多く、食事をしたり酒を飲んだりしましたが、彼は常に「もう少し韓国のマジックをなんとかしたい、よろしく教えてください」と切実に頼んできました。その姿勢は謙虚でとても好感が持てました。SAMでは横浜大会でゲストに招きました。既にFISMで受賞した後でしたので、内容は見違えるほどよくなっていました。

 

 朝鮮のマジックの歴史は、韓国人に聞いてもよくわかりません。日本の手妻のような朝鮮独特の古典奇術はなかったと言います。全くなかったのかといろいろ聞いてみると、祭りの時期にサーカスのようなものが来て、そこで中国奇術をする人はいたそうです。何にしても近世に至っても朝鮮半島でマジックを見る機会は少なかったようです。

 1910年以降、朝鮮は日本の統治下になって、松旭斎天勝などの大きな一座のマジックショウが頻繁に朝鮮半島に来るようになります。ソウル(当時は京城=けいじょう)ピョンヤン(当時は平壌=へいじょう)プサン(当時は釜山=ふざん)と言った都市には日本人町があり、大きな芝居小屋があって、天勝は、芝居小屋で、5日間、7日間と興行して回っていたのです。ちなみに天勝は、朝鮮半島を回った後には必ず満州を回りました、当時は満州も日本の管理下にあり、大連、奉天、新京、と言った都市を回って1か月から2か月のコースを作っていました。大正から昭和の初めのことです。

 当時の日本の領土は広大で、満州、朝鮮、台湾、日本本土、樺太まで興行して回ると、二年から二年半かかったと言います。日本人の芝居小屋には当然中国人、朝鮮人も見に来ました。そして、彼らも、天勝のような大規模なイリュージョンショウを演じるようになり、朝鮮にも中国にも西洋の服装をして、ダンサーを使い、大道具を駆使して見せるショウが定着してゆくようになります。

 ちなみに、いま中国ではマジックのことを魔術(もぅすぅ)と言います。この魔術と言う言葉は、明治時代の松旭斎天一の造語で、当初、英書を訳す際にマジックと言う言葉を漢字で、魔術句と当て字をしました。天一は、句の時を取って、魔術と言うようになり、自らのポスターに魔術、魔術師の言葉を用いるようになります。

 天一自身は自らを魔術師と称し、しばしば中国で公演しています。後に、天一の影響を受けた中国人が西洋奇術をするようになり、その際に必ず魔術と言う言葉を使うようになり、中国では伝統的な中国奇術に対して、西洋奇術を魔術と言うようになりました。魔術とは日本の造語です。

 

 話を韓国に戻して、日本統治下の朝鮮半島で、西洋奇術を演じるマジシャンが何人か現れ活動していました。しかし朝鮮は日本から独立した後に朝鮮戦争によって国自体が破壊されます。この時代に奇術師がどう生きていたのかはよくわかりません。奇術で暮らすことは難しかったでしょう。

 それでも朝鮮戦争以後、韓国国内に、ナイトクラブや、イベント施設などができるようになると、マジシャンは身幅を狭めて、一人でマジックをする人たちが出て来て、戦前の日本を思わせるようなマジックが細々と受け継がれて行きます。私の記憶でも、子供のころ、そうした奇術師が日本に来て、ヘルスセンターのようなところでマジックをしていたのを見た記憶があります。ただし、子供が見ても場末感を感じました。

 断っておきますが、これは韓国人だから場末感を感じたのではありません。日本人も同様でした。昭和40年くらいの時代は、輝いている芸能人と、場末感を感じさせる芸能人が混在していたのです。私は子供のころからいろいろな芸人さんを見ていて、心の奥でずっとそれが嫌で嫌で仕方なかったのです。当時の芸人の、闇の世界が見えるような場末の奇術師と言うものが、日本人の中にも少なからずいたのです。

 なんとなく演技の仕方が下品で、衣装も道具もちゃちで、若い女性の奇術師でありながらも、親に言われて仕方なく奇術をしているような、生きるために嫌々奇術をしているような奇術師がいたのです。

 私は当時12歳くらいの子供でしたが、舞台に立って夢ふくらませて奇術をしていました。そうした子供が見ても、自分の知らない過去に、芸人や奇術師の恵まれない時代があったことを想像させるような芸人がいたのです。当時、私はそれを見るのが嫌でした。今、当時と言いましたが、実は私はその後、そこに光を感じたことが、今日私が手妻を維持している根源になるのです。ここの話をすると長くなりますが、とにかく、当時の朝鮮の奇術師には場末感があったのです。

 そうした人たちが、次の世代に過去の芸を引き継げるとは思えません。1990年代から韓国にマジックブームが起きますが、そのマジックとは日本統治時代、あるいは朝鮮戦争以降にナイトクラブで演じていたマジックではないことは明らかです。

 ただ、但しです。韓国人があっさり過去のマジックを捨てさって、その後にアメリカのテレビ番組などで見たマジックにパっと飛び移ってしまったことが、果たして良いものかどうか。継承のない世界にはきっと大きな挫折が来ます。韓国もこの先大きな代償を支払うことになるのではないかと危惧しています。

 

 その後の韓国のことについては次回お話ししましょう。