手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

時代の感覚

 昨日は大阪で若手指導でした。大阪の教室はプロ活動をしているマジシャンが5人います。一般のアマチュアさんもいらっしゃいます。いづれも、手妻とマジックの指導をしています。指導はもう10年にもなります。

 今朝は大阪から福井に出かけます。天一祭は8年続いている催しです。この会のゲストに大阪教室の若手プロさんに出演してもらいます。土井崇雄さんと、ジュンマキさんです。今日の出演のために昨日は手順の稽古をしたわけです。

 朝早くにサンダーバードに乗って、福井まで、毎年続けている活動です。北陸ではマジックを見る機会が少ないので、何とかプロのショウを見る機会を作りたいと続けています。そして、そこに必ず何組か若手のマジシャンを連れて行っています。

 今、ステージマジックを目指す若手は出演場所が少なくて苦労しています。決してステージの需要が少ないわけではありません。様々なイベントではマジックショウを見せる機会は多いのですが、そこに出演するマジシャンは、バブル時期に活躍したマジシャンが、今もそのまま名前を維持して出演しています。買う側は安定した実力を持つマジシャンばかりを使うわけです。しかしその反面、次の世代が勉強しつつ出演する場が少ないのです。そのためステージマジシャンは減少しつつあります。

 何とか現状を打破するには、私らが出演場所を作ってゆかなければなりません。そのため、ささやかではありますが、私の関係するステージショウには若手のマジシャンを必ず加えるようにしています。費用面で難しい部分もありますが、私が贅沢することを少し我慢すれば、何とか費用は捻出できます。

 

 松旭斎天一と言う人は1853(嘉永6)年、福井市に生まれています。亡くなったのが1912(明治45)年です。私は子供のころからその名前は知っていました。私の生まれは1954(昭和29)年です。物心ついてマジックを初めたころと言うのは昭和40年代(1965年~)です。実際年代を逆算してみると53年前までは天一が存在していたことになります。

 しかし私の実感からすると天一は歴史のかなたの人でした。西暦で考えると53年前ではありますが、明治、大正、昭和と数えてみると、遠い過去の人に思えたのです。

 それでも、昭和40年、50年代までは天一を見たと言う人は何人か存在していました。ダイバーノンしかり、天洋師しかり、マジック研究家の松田昇太郎さんしかりです(海外留学をした設計師、浅草松屋や渋谷東横百貨店を設計した人。デパートの中を電車が走ると言う発想は、昭和初年の時代では、今日、宇宙ステーションを作るような発想だったそうです)。松田昇太郎さんは私に、子供の頃に天一を見たと話してくれました。当然、昇太郎さんにすれば、天一は過去の人ではなく、実際に見たマジシャンだったわけで、どこの劇場で見たのかは知りませんが、まるで昨日見たように天一の声から、しぐさまで真似して、私に話してくれました。

 この時の昇太郎さんの思いと言うものがどんなものだったかを、今の私の立場で考えてみると、私が小学6年生の時(53年前です)に、天洋先生を見た時、志ん生師匠を見た時、柳亭痴楽師匠に会った時の感覚が、昇太郎さんと天一のそれに近いのかと得心します。そう考えると、私にすればそれはそう遠い過去ではありません。

 

 現代の日本のマジック愛好家はなかなか日本の過去のマジシャンを評価しようとはしませんが、歴史に残るマジシャンの多くが欧米人である中で、天一とその弟子の天勝はダンテやハリーケラーなどの大物マジシャンと並んで、今も歴史の一コマとして語られています。ほとんど欧米人以外の人種で名前を残しているのはこの二人だけなのです。

 それと言うのも、アジアの諸国は軒並み植民地化されていて、豊かな日常生活を享受するにはかなり困難だったのに対して、日本のみは、明治の半ばで既に、欧米の中進国くらいの生活水準を維持していたのです。どこの都市にも大きな芝居小屋が何軒もあり、連日芝居やマジックを演じていました。 天一一座は各都市を3日から5日演じては鉄道で移動して、半年一年と日本中を興行して回っていました。

 福井にも、昇平座、加賀屋座、という千人近く入る劇場がありました。そこを天一は福井に来ると10日間出演しました。福井と言う都市のサイズ(明治の福井市は恐らく2万人くらい)からすると10日間は不可能に思ええますが、生まれ故郷と言うことで、福井市民の支援も厚く、来れば必ず連日満員になったそうです。

 

 師の名前を一躍大きくしたのは足掛け4年にわたる(1901~1905年)欧米興行を成功させたことです。別段海外からオファーがあって出かけたわけではありません。いきなり行って、サンフランシスコでオーディションを受けて、仕事を見つけて行ったのです。それでもたちまち知名度を上げ、世界5大マジシャンと持ち上げられて、Aランクの劇場に出演して、しこたま外貨を稼いで帰国したのです。氏の名前を有名にしたのは、水芸と、サムタイ(和名は柱抜き)です。この二つのマジックで師の名前は今も不動です。

 

 さて、今日明日は天一祭で、私はその天一ゆかりのサムタイを演じます。天一祭ですから当然演じなければなりません。私の人生の中でもこの作品はとても重要なものです。既に5千回くらい演じているかもしれません。それでも。天一祭に来るたびに心の中で初心に帰って演じています。こうした日が年に一度くらいあってもいいのでしょう。それでは福井に行きます。