手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

ノームニールセン一代記 その1

 ノームニールセンさんとはこれまで、もう何十回もお会いしています。ともにステージを踏ませていただいたこともしばしばですし、日本国内のSAMのコンベンションにも何度も出演していただいています。海外のコンベンションなどでお会いしても、必ず一緒に食事します。マジシャンには、巧いマジシャン、魅力あるマジシャン、すごいマジシャンといろいろありますが、私の好みに合ったマジシャンとなるとダントツにノームニールセンさんになります。なぜそうまで好きかは後でお話しします。

 テレビでは何度も見ていましたし、ビデオでは穴のあくほど演技を見ました、もちろん早くからの大ファンでした。初めて直接お会いしたのはIBMのパサディナコンベンションでした。ショウを生で見るのはこの時が初めてで、とても楽しみでした。

 大会二日目にロビーにニールセンさんがいて、私が和服を着ていることに気づいたのか、近くに寄ってきて、「こんにちわ」と日本語で話しかけてくれました。いろいろ話しているうちに、「高野さんはお元気ですか」と言います。高野さんがだれか知りません。すると、「池袋の西武デパートでマジックを売っている高野太郎さんです」と言います。それなら知っています。しかしなぜニールセンさんから高野さんの名前が出るのか謎です。ニールセンさんは、米兵として朝鮮戦争に行って、戻ってきて、日本にしばらくいたそうです。

 日本にいたのは昭和27,8年くらいから30年ころのことでしょうか。そのころ頻繁に池袋の西武デパートに行き、高野太郎さんからマジックを見せてもらったそうです。ご当人も二十代の頃ですから、楽しい思い出だったのでしょう。

 

 このパサディナ大会の時のニールセンさんの演技は素晴らしいものでした。

 ニールセンさんは背が高く、スリムで、声は穏やかで、顔は二枚目と言うほどではないしろ、金髪に典型的な白人です。以来私はニールセンさんに接触し、お茶を飲んだり、食事をするようになります。そうしたときにいろいろニールセンさんの生い立ちを聞くと、面白い話がいろいろ聞けました。以下は師の告白です。

 

 師は子供の頃はボストン近郊の小さな町に住んでいたそうです。師のマジックの目覚めは、よく行く床屋の親父さんがコインの消えるマジックや、煙草の消えるマジックを見せてくれた時に始まります。師はとても驚き、また見たいと思ったそうですが、気が弱くて言い出せなかったそうです。何回か通ううちに勇気を出して、「コインの消えるマジックを見せてください」と言うと、前に見たのと同じ演技をしてくれたそうです。師にとって床屋の親父さんの見せてくれるマジックは夢の世界だったそうです。

 その後マジックの好きな仲間と知り合い、情報を教え合ったりしてアマチュア活動をしていたのですが、ある時、町にカーディーニが来たそうです。野外の広場の仮設舞台で演技をしたそうですが、人が多くて見えません。仕方なく電柱に上って、電柱からカーディーニを見たそうです。師がカーディーニの生を見たのはこれが唯一の接点だったそうです。但し、かなり距離が離れていたため、かろうじて内容がわかる程度のもので、感動と言うレベルのものではなかったそうです。

 

 そして朝鮮戦争に行き、アメリカに戻ると職業訓練としてチャベツスクールに入校します。この時すでにポロックは卒業していて、チャベツに直接習ったそうです。師はここで初めてマジックを基礎からきっちり覚えることになります。

 さて、チャベツを卒業して、シカゴに出て、シカゴの芸能事務所のオーディションを受けます。チャベツでしっかり習った実績がありますから、得意になって、カードと四つ玉、ゾンビボールを披露しますが、そこにいた審査員から、意外な言葉を聞きます。

「君がマジシャンになりたいなら、マジック学校で習ったすべてのことは捨てなさい。

なぜなら、私はここで君と同じ演技をする退役軍人を日に何人も見ている。アメリカのショウビジネスでは、指の間に玉を挟んだり、ボールが宙に浮くマジシャンはそんな何百人もいらないんだ。我々が見たいのは君のマジックだ。君がどう考えたかが重要なんであって、誰でもするようなマジックはいらない。」

 この言葉はニールセンさんにとって大ショックでした。まじめにうまくやっていれば、この技で一生食べて行けると思っていたものが、それではだめだと言われます。そうならどうして行ったらいいのか。いきなり目の前が真っ暗になりました。

 それまでは軍人としての給料をもらいつつ、マジック学校に通っていたのですから、生きて行く心配はありませんでした。しかし、軍人をやめて、マジシャンになろうとしたら、入口で拒否され、次の日から無一文です。

 同じようにマジックを始めたばかりの若者に、ジョニートンプソン(トムソーニ)がいました。トンプソンとは仲良く、いつも一緒にマジックの研究をしていたそうです。

しかし、ニールセンさんはなかなか自分のマジックが見つけ出せなかったそうです。

 ある日、シガレットを出すマジックで、ただシガレットを出しただけでは面白くないから、シガレットに赤や、青などいろいろな色を付けて、次々に出したらカラフルできれいなのではないかと思いつきます。早速煙草を買って来て、色を塗り、事務所のオーディションを受けたのですが、その結果は散々に罵声を浴びせられ、一層落ち込んだそうです。

 私は師から聞いた話で、この煙草の話が大好きです。師ほどの人でも、若いころは素人のような発想でマジックを考えていたのです。しかも、トリプルAをつけたいほどの駄作です。細い煙草に色を塗ったところで、少しもショウアップしないばかりか、色を塗っていないシガレットマジックを少しも超えたものになっていません。それを大真面目で手順を作るところが若かったと言えます。私は師からこの話を聞いたときに、あまりのばかばかしさで笑いっぱなしでした。

 普通で言ったら、こんなマジックを考える人は奇術界で生き残れません。しかしなぜ、師が今日も名前を残しているのかは、また次回にお話ししましょう。