手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

カードマニュピレーション 4

カードマニュピレーション 4

 

 日本では、カードマニュピレーションの技法が、度々断絶して、必ずしも継承されていないと言うことを前回書きました。天二にしろ、天海にしろ、せっかく海外で技術を学んできたにもかかわらず、国内でその継承がうまくなされていないのではないかという危惧を書いたわけです。

 但し、天海師は、帰国後、東京のアマチュアと交流があり、更に、引退後名古屋に帰り、そこで多くのアマチュアに指導をしました。古くは金沢天耕さん、フロタマサヨシさん、二代目松浦天海さん、スピリット百瀬さん、多くの人が天海師からマニュピレーションを習い、今にその技を残しています。

 但し、天海師は本命を島田晴夫師に定めでいた節があります。八つ玉を作り上げた10代の島田師を天海師は高く評価していたのです。ところが島田師は、当時流行の鳩出しの方に気持ちが移り、好意を寄せていた天海師から離れて行きます。

 これから売り出して行くには、カーディーニや天海師のような、クラシックなスライハンドよりも、より斬新な鳩出しを得意芸にして行くことの方が有利だったのでしょう。

 それはそれとして理解したとしても、それでも天海の数々の技は消えてしまうことは残念だったと思います。天海師は帰国後、多くのアマチュアに指導をしましたが、それぞれが習いに来る内容を断片的に教えたわけで、自己のマジックを体系立ててしっかり本質を指導したわけではなかったと思います。

 そうした指導の仕方をすることは生涯で一人か二人、よほどの技量を備えた相手でない限り、本当の指導は出来ないものです。

 天海師と島田師はそうした意味で、接点を持ちながら微妙なところですれ違いになっていたと思います。

 

 私は、20代に頻繁に松浦天海氏から初代天海師の作品を指導してもらうことになりました。それらはどれも今に至っても宝石のような輝いた作品の数々です。中には未公開のハンドリングもいくつかあります。

 本当なら、天海師から断片的に習った作品を一度整理をして、天海師が何に感動して、そうした作品を書き溜めていたのかを考えるべきなのです。然し、今に立っても天海氏の作品は未整理です。

 多くの場合、今日、天海師の作品と言われているものは、実は、当時のアメリカ(1920年代)で、実際演じられていた有名無名のマジシャンのアイディアを天海師が授業料を支払って、習ったものが多いのです。

 悲しいことですが、名前の知られていない創作者の作品は作者の名前も残らず、評価もされずに消えて行くことが多いのです。それを天海師は自身の審美眼で評価をし、自分の作品に取り込んで行ったのです。

 恐らく明治時代の天二さんも同じことをして、1900年代のアメリカで多くの作品を習い覚えたはずです。時としてこうした人が現れないと、マジックの作品は残らないのです。

 同様にカーディーニもそうだったと思います。それぞれの名人が見せる技の数々は、彼らの創作の部分はごく僅かであって、ほとんどはその時代に同じように活動していたマジシャンの亡骸である場合が多いのです。

 そうして考えて見ると、何を作り出したかという、創作者のの力は勿論評価しても、むしろ、何をどう見たかと言う、ものの評価できる目を持った人がどれだけいるかと言う、いわばクリエーターの才能よりも、エディターや、プロデューサーの才能を持った人々が多く存在することこそが、大きなマジシャンを生み出すことになるのではないかと、私は考えています。

 マジックの世界は、創作者を高く評価しますが、それは当然なことと理解しても、それと同等に、作品を評価できる人を見つけ出さないと作品は地下深く消え去って行きます。

 

 作曲家のメンデルスゾーンが、当時名前の消えかけていたバッハの作品に興味を持ち、そこからマタイ受難曲を探し出し、自費で初演したのは有名な話です。今日、マタイ受難曲は、バロック以降、古典派、ロマン派、現代音楽を併せても最高の作品だと唱える人は多いのです。

 ところが、19世紀にあって、バッハの曲は全く顧みられることはなく、膨大な作品は捨てられ、譜面は、近所に肉屋が肉を包んで売るための包み紙になっていたそうです。メンデルスゾーンは慌てて散逸した譜面を買い取り、バッハを年代、作品別に仕分け、バッハの再評価をしました。

 この努力がなければ、その後の西洋音楽は、軽佻浮薄な世界に落ちていたでしょう。ロマン派音楽が花咲いていた遥か昔の時代に、既に、音楽はバッハによって語りつくされていたのです。

 

 戦後の日本は多くの有名マジシャンがやって来て、優れた演技を披露しました。シルバン、ノームニールセン、リチャードロス、数えたらきりがありません。しかしそうした中、マニュピレーションを芸術としてとらえ、その価値をしっかり再評価できる人が現れなければいけません。

 実はそうした人が現れてこそ、スライハンドは芸術として進化します。それは名人が存在するか否かと言うこととは別の次元のことなのです。

 せっかく優れた世界を持ちながら、現在、なぜスライハンドマジシャンは不遇なのか。明日はそのことをもう少し詳しくお話ししましょう。

続く