手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

フレッドカプスの上着

  私は10代の頃に、テレビでフレッドカプスの演技を見て、すっかりとりこになってしまいました。そのころお粗末ながら私もスライハンドマジックをしていましたので、何とかうまくなりたいと思って、あれこれビデオを見ていましたが、1970年代のマジック界ではフレッドカプスが群を抜いてレベルの高いマジシャンでした。

 日本にも何度か来日し、そのたびにテレビに出演しました。師が演じたマジックは8分程度の、コイン、お札、煙草の煙の手順、塩を手に握ると、手から塩が零れ落ちるのですが、いつまでたっても塩が途切れない。などと言った手順でしたが、初めて見た時にはどういう技法を使っているのか見当もつきませんでした。後になってビデオを繰り返し見ると、基本的なパスとパームの繰り返しなのですが、あまりに見事で、全く普通の動作に溶け込んでいて、パスもパームも見えません。

 いや、そもそも、その時代の日本のマジシャンのパス、パームは、誰が見てもパスをした、パームをしたとわかるような、稚劣な技法だったのです。私は、フレッドカプスの演技を見て、初めて、パス、パームは第三者に気づかれてはいけないものなのだと知りました。今こんなことを言えば、多くの人から「何を言っているんだ」と嘲笑されるでしょうが、マジックの大前提であるはずのことが当時のマジック界では理解されていなかったのです。

 

 さて、それから私は基本技法の稽古を始めました。幸い、日本には石田天海と言う名人がいて、この人は無論フレッドカプスばりに優れたスライハンドを見せた人ですが、天海師の技を会得していると言う先輩の芸を見に行っても、パス、パームは何となくわかるのです。私は、「あぁ、あの程度でも素人にはばれないのかな」と勝手に思い込んで、今まで深く稽古をしなかったのですが、やはりそれは間違いだと気づきました。

 どんな技法も、観客には「無」でなければ技法としては完成されていないのです。「あの人のパスはうまい」などと言われているうちは名人でも何でもないのです。

 火のついた蝋燭をシルクのハンカーチーフに貫通させ、さらにはハンカチの中で蝋燭が消えます。蝋燭が消えたことをハンカチを持ちながら右手左手と改めるのですが、これがパス、パームの技法であることに気づくまでは半年以上かかりました。まったく何もしていない動作に見えるからです。

 ここから私は、何か新しいネタを求めるのではなく、基本技法を確実にこなすことの大切さに気付き、基本技法の稽古を始めます。その過程で、名古屋の仕事に行ったときには、仕事の合間に、松浦天海師から個人レッスンを受け、松浦師を通して、石田天海師のマジックを習うことになります。松浦師は唯一石田天海師の技法を継承していました、無論パス、パームは自然です。私は年齢的に石田天海師にじかにお会いしてマジックを習うことができませんでした。子供のころ、パーティー会場で遠目に師を眺めたのがたった一度の接点でした。その後すぐに天海師は亡くなりました。私は成人して後、松浦師を通して天海師を学びましたが、それは宝の山でした。

 今ではそれらの技法は自分の舞台で披露することはありませんが、私のところに来る、生徒さんや、弟子には伝えています。

 

 話を戻して、23歳の時にベルギーのブリュッセルで催されたFISMの大会に行きました。その時に偶然にもフレッドカプス師が来ていました。しかし師は体の調子が悪いらしく、廊下の端を壁に掴まって歩いているような状況でした。

 背は190センチくらいあるでしょう。体全体が大きく、およそコインやカードを駆使してスライハンドをする人には見えません。会って話をすると、笑みを絶やさず、静かな声で話をしてくれました。私は尊敬する師に、できることなら弟子入りしたいと思い、喉まで「弟子にしてください」と言う言葉が出掛かっていましたが、師の体を思うとそれも不可能かと思い、ついに言い出せませんでした。

 もしあの時、弟子の話を言い出して、さらにフレッドカプス師が了解したのなら、私の人生は大きく変わっていたでしょう。人の一生なんてどうなるか分かったものではないのです。人一人は、大きな川を流れる木の葉のようなもので、どこの棒杭に引っかかるか、どこにも引っかからずに枯葉となって、川底に沈んでゆくかは木の葉の決めることではないのです。

 

 そのフレッドカプスに私は図々しくも、カードマニュピレーションのことをいくつか質問しました。師にすればめんどくさい話だったと思いますが、私と言うものが、師の波長にあったのかどうか、その質問に答えてくれて、私が持っていたファンカードを使っていくつかの技法を見せてくれたのです。たまたま人の集まらない場所でお会いできたことが幸せでした。ほんの10分程度のレクチュアーでしたが、師は誠実に私の質問に答えてくれました。

 後で師を知る何人かの人に聞くと、フレッドカプスがそんな、道端で、見ず知らずのアジア人に指導をすることはあり得ないと言われました。私の人生にはそんなあり得ないことがこの先にいくつも発生します。私自身は特に才能のあるマジシャンではありませんが、私が各師匠に質問する姿勢が、多くの師匠連の興味につながるらしく、一つ面倒を見てやろうと言う気持ちを起こさせるようです。

 そのことは、後にサルバノに会った時に師から直接言われました。「君のように本気に質問してくる人は少ない。だから君にだけは話す」と、高木重朗師にも、松浦天海師にも同じことを言われました。これは私の長所かもしれません。お陰で私はなかなか人が知り得ない、マジシャンの奥の院の謎を多くのマジシャンから学ぶことになります。

 その、フレッドカプス師から習った秘密の技法は、後日また、お話ししましょう。

 

 その後、師が来日した時に楽屋に挨拶に行くと、楽屋の入り口にパーティションがあり、そこに黒いピアノのカバーがかかっていました。なんでこんなところにピアノのカバーがあるのかとめくって、部屋の中の様子を眺めると、誰もいません。また後で来ようと外に出ようとしたときに、ピアノのカバーだと思っていた生地に、襟がついています。何だろうと思ってよく見ると、それはフレッドカプスの燕尾服でした。あまりに大きな燕尾服なので、それが衣装であるとは思いませんでした。

 師の演技は徹底した職人芸であり、そのプレゼンテーションはヨーロッパ特有のエンターティメントでした(上品で、決してオーバーなジェスチュアーのないもの)。タイプでいうなら、2、技術崇拝型と3、エンターティナー型の混合と言えます。しかし、その姿勢は極めて職人的で、ほとんど2に近い人でした。

 

 今日、師が残した映像を見ると、師は度々失敗をしています。度々と言うよりも毎回どこかで失敗があります。オープニングの蝋燭が消える演技も、火を吹き消して、蝋燭を消すのですが、完全に消えなくて、あとでテーブルに蝋燭を置いたときに、ハンカチに火が燃え移って、テーブルから煙が上がったりします。演技の途中で慌てて手ではたいて消すのですが、当初はそれも演技なのかと思って見ていましたが、他のビデオと比較してみると、明らかに失敗です。どうもあがり症の人だったようで、失敗の対処に仕方が、本気で慌てています。あれほどの技を持った人でも失敗があるのですから、舞台と言うのは恐ろしいと思います。

 

 師は私が26歳の時にがんで亡くなりました。その死亡情報は、私がアメリカでレクチュアーをして回っているときに聞きました。正直ショックでした。アメリカの中部の小麦畑をフリーウェイで飛ばしながら、そっと師に手を合わせました。

 いずれにしても、数々マジシャンのある中で、私が弟子入りしたいと思ったマジシャンはフレッドカプス只一人でした。今冷静になって考えれば、決して私のするマジックとは違うタイプのマジシャンだったのですが、若いころはそんなことはわかりません。ただ一途に憧れたマジシャンでした。私にとっては忘れられない人です。

 

 今日は朝から弟子の稽古です。そして夜には生徒さんが習いに来ます。結局一日人のための稽古を見ます。間に自身の新作の手順の絵コンテを書こうと思います。丸一日マジック付けです。それが楽しいのですから私は幸せです。