手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

NHKラジオ深夜便 2

NHKラジオ深夜便 2

 

 この時私は、神田の家で独演会を催していて良かったと思いました。私は若いころから、私の芸に興味を持ってくださった方から、「どこに出ていますか」。と聞かれて、「どこと言って決まったところには出ていないんです」。と答えることに恥ずかしさを感じていました。

 多くのマジシャンは、企業のプライベートパーティーのような仕事ばかりしているために、仕事先に別のお客様を紹介できないのです。多くのマジシャンは、いつでも入場券を買って見に行ける舞台を持っていません。このため、お客様との個別の接点を持ちずらく、結果としてファンを作り出せずにいます。

 私はそれではいけないと考え、毎月必ず一日、神田の家で自主公演を続けていました。この公演はおよそ5年間続きました。その後、コレド室町という日本橋の大きな商業施設のビルの中にある座敷で2年。そして、神田明神に新しくできた江戸っ子スタジオで2年、更に人形町玉ひでに移ったわけです。

 考え方は終始一貫していて、人に尋ねられた時に、紹介できる舞台があることが貴重なのです。こうした場を持つことで、お客様と私の芸がつながるのです。無論そこでは若いものを育てることが出来ます。こうした場はとても大切なのです。

 

 ところで、キョードー大阪の橋本社長は、その後、大阪セントレナホテルでのディナーショウの仕事を紹介してくださいました。高級なホテルで、多くの大阪の著名人が集まり、私の手妻を見てくださいました。その後、ここにいらしたお客様とのご縁により、様々な舞台の依頼が来るようになりました。

 こうして年に一日、二日と大阪で出演依頼が来るようになりました。できることならこのご縁をより深めるために、東京と同様、月に一回大阪で舞台活動が出来たら有り難いと思い、東京のコレド室町のような、座敷を探し始めました。然し、大阪で座敷文化と言うものは東京以上に衰退していて、適当な場所が見つかりません。

 そこで考えを変えて、京都で探してみてはどうかと思い、京都に詳しい、経営コンサルタントをしている、Aさんにお願いして、京都の座敷の女将さんを紹介してもらうことにしました。幸い、私は毎月一回、大阪で手妻の指導をしていますので、その翌日、京都に行って、あちこちの座敷を回り、売り込みをかけることにしました。

 そして、手見せに何か所かの座敷で、手妻をして見せたのですが、正直言って、これは失敗でした。押しかけて行って交渉をして、ただで手妻を見せると言うのでは値打ちがありません。相手も本気で見ようとはしないのです。

 京都の座敷は明日にも消えるかも知れない境遇にありながら、自分の現状にに気付いていないのです。いや、気づいてはいてもどうしていいのかわからないのです。ただなんとなく、ポツンポツンと座敷の依頼が来るのを幸いと、消極的な商売を続けているわけです。

 ここへ東京者の芸人がやってきて、お客様を集めましょう、話題を作りましょうと言っても警戒するばかりです。京都では仕事の話をするのに、した手に持っていっては何も決まらないところのようです。

 また、経営コンサルタントに仕事の拡大をお願いすると言うこと自体が間違いでした。芸能は健康器具のセールスとは違うのです。売り込んで売れるものではありません。買い手がほれ込んで使ってくれない限り、お付き合いは続きません。

 やむなく、小さな座敷はあきらめて、京都の歌舞練場を借り切って、1000人の会場で、手妻の興行をして、マスコミを利用して、話題を作ろうと考えました。文化庁補助金などもいただいて、大きく会を開いたらマスコミなども注目してくれるのではないかと考えたのです。

 この時、Aさんは、京都の俳優や、演出家、舞台方、ダンサー。琴や尺八の演奏家、京都NHKのアナウンサーなどを紹介してくれて、この人たちに出てもらえば、皆さん京都で知られた人たちですから、お客様も来てくれるでしょう。と言いました。そして実際、多くの芸能人やアナウンサーが集まりました。

 ここで私は不安になりました。先ず、二時間の枠の中で、琴の演奏家や、ダンサーに時間を割いたとして、さて実際、私はどれほど手妻が出来るのかと考えたなら、半分もありません。しかも、そこに集まった人たちは、私の芸とは縁もゆかりもない人たちばかりです。手妻の演技とは全く関係ない人ばかりが集まって、ワイワイガヤガヤにぎやかな会議が始まります。

 私は少々不安になって、Aさんに、この人たちに幾ら謝礼を支払うのかと尋ねると、とても支払えないような高額な金額を提示されたのです。Aさんは、私が文化庁の支援金がもらえることを過大に考えているようでした。しかも、歌舞練場と言う京都の有名な劇場に出られると言うことで出席者は勝手に話が盛り上がっています。

 然し、まず支援金は私の手妻に支払われるものですし、歌舞練場は、私の手妻を見せるために借りる場所なのです。私は、Aさんに「この人たちは、一人何枚くらい切符を負担してくれますか」。と尋ねると、「皆さんゲスト出演するわけですから、切符負担はありません」。と言います。「でも、皆さん京都で有名人なのですよね、そうなら、それぞれお客様がついていて、お一人30枚や50枚は切符が売れるのではないですか」。「いや、そんな失礼なことはできません。あくまでゲストとして出演してもらいます」。「はぁ、なるほど、そうなら、1000人入る劇場で公演したとして、私が売れるチケットはせいぜい100枚と言うところでしょう。あと少なくとも500人分のチケットは売らなければいけませんが、どこで売ったらいいのでしょうか」。

 言われてA さんは絶句します。「それはみんなで手分けして売ります」。「その皆さんは始めからチケットを売る気はないのですよね。誰が売りますか」。ここで話が止まります。

 結局のところ、A さんが仲間にいい顔をするために、毎回私が食事を提供して、彼らがやりたいことをやろうとする企画に私が費用を出して、舞台を借り、切符を私が売ると言う構図が見えました。

 この三年間は、経営コンサルタントの言いなりになって金を使いましたが、結果は私の夢にたかられていたのです。人を頼れば結果はこうした結末なのです。私は帰り際、京都駅の喫茶店で再度Aさんと話をして、京都の公演を中止にしました。合わせて、コンサルタントの契約も終了を伝えました。

 これで話は振り出しに戻りました。然し、関西での公演をやめることはできません。文化庁の支援金は許可が下りています。急ぎどこかの大きな舞台を探さなければなりません。私は帰りの新幹線の中で考えました。「この最悪の状況からどうしたら最高の効果を作り出せるか。自分ならきっとできる、いやなんとか、最良の結論を考え出さなければどうにもならない」と。

続く

NHKラジオ深夜便 1

NHKラジオ深夜便 1

 

 今から10年前、突然NHKから電話が来まして、「ラジオ深夜便と言う番組があるんですが、ご存じですか」。私は何か聞き覚えのあるタイトルだと思い、「あぁ、母が夜、寝付かれなくて、よく聞いていると言っていました」。

 「そうなんです。タクシーの運転手さんや、トラックの運転手さん、それから高齢者の方が結構聞いているんですよ。番組は深夜12時から、ずっと朝方まで長時間放送しているんですが、深夜二時くらいにエッセイのコーナーがあります。毎回一人のタレントさんをお招きして、その人の歴史とか、これまでの仕事の内容とか、なんでも結構ですがお話ししていただいています。そこに藤山さんをお願いしたいと思ってお電話しました」。

 聞いて面白そうだ、とは思いましたが、問題は、ラジオ番組、と言うことです。テレビなら、途中、手妻を見せることも出来ますが、全くの喋りだけで手妻の歴史や、演技内容を一人で語ると言うのはかなり難しい話です。

 「あの、面白いお話だとは思いますが、私が視聴者さんを納得させるだけの話術があるかどうか、私が引き受けた結果、却って番組に対して失礼なことになりはしないかと心配です」。

 「それは大丈夫です。今までの藤山さんがテレビに出てお話しされていたものをいくつか拝見しましたが、大変魅力的な話し方をされます。内容も個性的で、他の人では話せない内容ばかりですので是非お願いしたいのですが」。

 そう言われると、まんざらでもないと思い、お引き受けしようかなと考えましたが、NHKさんの求める内容はかなりハードルの高いものでした。

 「但し、一回10分程度で、5日間連続でお話ししていただきます。そしてその5回分はNHKに来ていただいて、一日で録音します。宜しいでしょうか」。

 言われて私は悩んでしまいました。10分で5回と言うことは、50分の原稿をこしらえなくてはいけません。単純に原稿用紙50枚です。そこで、

 「とにかく簡単な内容を書いて持参しますので、それで良いかどうかご判断くださいますか」。

 と言って、引き受けるとも何も言わずに、打ち合わせ日を決めて、それまでにラフに原稿を書き上げてNHKにお伺いしました。打ち合わせの結果それでいいと言うことで、収録日までに正式な原稿を書き上げて、再度NHKに伺いました。

 私の人生の中で、50分、マジックをしないで語りだけでNHKに出演したことはありませんでした。これもいい機会かなと思い、原稿作成に力を入れました。手妻をしないで手妻を伝えるのですから至難です。

 そこで、例えば水芸の口上とか、金輪の曲の口上などを、目の前で演じているかのごとくに、演技をしている尺で、口上を挟んで語ったならどうだろうか。当時の芝居小屋の雰囲気を出したなら面白いのではないかと考え、とにかく古風な形式で原稿を作り上げました。

 ラジオの放送室は、テレビのスタジオとは違い、スタッフも少人数ですし、部屋はとても小さなところで録音します。小部屋に私一人閉じ込められて、ガラスの窓越しからきっかけを出されて喋ります。机の上にはマイクと水が一杯あるだけです。

 なるべくゆっくり話しますが、話しているうちに自分自身のテンポが出て来て、思っていた以上に快調に話すことが出来ました。しかし、一本撮り終えて、緊張から汗が吹き出しました。10分くらい休憩し、二本目に入ります。原稿は出来ていますので、ただ読むだけですが、これが簡単ではありません。間違えてもとにかく続けます。

 5本撮り終えるとぐったり疲れました。椅子に座ってただ喋るだけですが、これがこんなに大変なものとは知りませんでした。

 

 さて、録音を終えて、放送日を楽しみにしていましたが、なんせ深夜2時の放送ですので、聞く機会も限られています。幸いNHKさんからまとめて録音を送っていただきました。まぁ、可もなく不可もないものでしたが、果たしてこれが皆さんに喜んでいただけるか。それが心配でした。

 聞く人がいると言っても、深夜二時のことですので、何人興味の方がいらっしゃるのか。あまり当てにしないでいました。ところが、放送のたびにアンケートをいただき、面白がって聞いてくださる視聴者さんがかなりいたことをうれしく思いました。

 

 そうした中で、私の公演が見たいと言って、NHKに私の連絡先を聞いてきた方がいらっしゃいました。お客様は大阪の方で、大阪での公演はないかと聞かれました、ちょうど、文化庁の学校公演で京都の小学校で公演する日がありましたので公演日をお知らせしました。

 実はこのお客様はイベント会社のキョードー大阪の社長さんで橋本福治さんとおっしゃる方で、大阪では最大手のイベント会社です。大物ミュージシャンや、オペラなどを招聘して興行しています。あまりに規模が大きすぎて、私の企画などとは縁遠い会社でした。

 京都の公演に橋本社長は仕事の都合で来ることはできませんでした。然し、女性社員が来て下さって、えらく気に入って下さったので、恐らく会社で報告をされたのでしょう。すると、橋本社長から連絡が来て、東京ではどこに出ているのかと聞いてきました。

 当時私は毎月一回、神田明神にある、神田の家と言う古民家の座敷で手妻を見せていました。20人も集まれば満杯という小さな座敷です。そこを紹介すると、橋本社長は東京まで見にいらしたのです。座敷に座って、一時間、私の手妻を楽しそうに見てくださいました。大きなイベントばかり手掛けている橋本社長にとっては、真逆な催しです。が、この座敷の企画をえらく気に入って下さったのです。

 全く不思議なご縁でした。元はと言えば、ラジオ深夜便と言う、語りだけの放送から、私を探し出してくれて、熱心に追いかけて下さって、ご贔屓になって下さったのです。これがのちに大きな仕事につながって行きます。

その話はまた明日。

続く

 

どう残す。どう生かす 8

どう残す。どう生かす 8

 

 植瓜術(しょっかじゅつ)

 マジックの歴史の中で、最も古い作品は何かと考えると、確実にベスト5の中には植瓜術が入るでしょう。植瓜術は同じようなマジックが世界中にあります。インドではマンゴー術と言い、中国や日本では植瓜術と言います。要するに、最終的に生る果物が違うだけで、現象は同じです。

 欧米では、インドから伝わったとされる、マンゴー術という呼び名が一般的なようです。西洋式のものは、陶器の植木鉢に土が入っていて、始めは植木鉢と土があるだけです。土に水をかけて、全体に布をかけてしばし待ちます。

 布を取りと、小さな双葉が出ています。また布をかけてしばし待ちます。布を取ると、双葉が伸びて、弦になっています。何度か布をかけたり、水をかけたりするうちに、弦はどんどん伸びて行きます。そしてお終いにはマンゴーの実が生ります。

 現象が明快です。それだけにこの演技は喋りの面白さが評価を決定します。まさに私の演技にぴったりです。

 植瓜術を一芸として作り上げたいという考えは、30代の末にはすでに持っていました。然し、それを形にするには解決しなければならないことがたくさんありました。

 まず陶器の植木鉢と言うのでは、サイズが小さすぎます。舞台で演じるなら、もっともっと大きなサイズでないと見栄えがしません。

 次に土です。実際の舞台で土を使って、しかも土に水を撒くと言うのでは、必ず手が汚れます。汚れた手のままでそのあと他のマジックをすると言うのがきれいごとになりません。舞台で土や泥を使うと言うのはよほどの工夫が必要です。

 全体の構成は、平安時代に書かれた今昔物語の中にかなり詳細に出ています。また、江戸時代にこれを得意にしていた放下の演技などが残っていますので、おおよそのところは理解できます。

 物売りを主題として、怪しげな薬を売りながら、弦が伸びて行き、瓜が育って行く術を見せると言うのは、今となっては見ることのない世界ですので、貴重な面白い術になると思いました。

 こうした芸をリメイクするときに考えなければならないことは、どこまで古い形を忠実に残し、どこを変えて行くか、と言うバランスです。私の場合は飽くまで1000年前から行われているかのごとき形式を残して、その中に今のお客様が退屈しないように、少しずつくすぐりを入れるようにしています。

 然し、そうは言うものの、実際の昔のやり方は、地面を掘って、土を柔らかくして盛り、そこに種を植え、水を撒くところから始めます。大道芸ですから、地面を適当に掘って種をまくのは何でもないことですが、舞台の上でそれはできません。さてどうしたらいいものか。いきなり初手で考えは止まってしまいます。

 西洋ではそれを小さな植木鉢を利用して、すべてを植木鉢の中で行います。しかしどうもそのやり方は美しさを感じません。植瓜術を演じているところを、日本画家の絵師が見たなら、思わず描いてみたいと思わせるような、美しい世界を見せなければ価値がありません。

 まず私は簡易な折り畳み式の木枠の台を作りました。これで40㎝くらいの高さを作ります。こうしないと舞台では何も見えないのです。台の上には、大きな笊(ざる)を乗せました。笊には漆を塗り、見た様、古風な色合いにしました。

 この笊を通常の地面に見立てて、そこに土を盛ります。但し実際に土を持ってくると舞台が汚れます。そこで鳥の餌になる、粟粒を土に見立てました。粟粒は遠目に見ると荒い砂に見えます。見た様も黄色くてきれいですので舞台で使うにはちょうどいいと思います。

 実は、長年、植瓜術をやりたいと思いつつも、手ごろな砂の代わりになるものが見つからないために、工夫がストップしていたのです。粟粒を見つけ出したことで一気に問題が解決しました。

 枠の台の四隅には穴があいていて、細い竹を差し込めるようになっています。竹は4本を端で縛ってあり、枠に竹を立てるとピラミッド状の四角錐が出来ます。この竹に風呂敷を巻くことで遮蔽を作ります。

 これでようやく全体像が出来ました。これら一式を大きな風呂敷で包んで、いかにも大道芸人のように見立てて風呂敷を担いで舞台に現れます。

 

 太夫「これよりご覧に供しまするは、植瓜術にございます」。

 才蔵「大夫さん、植瓜術とはどのような術ですか」。

 太夫「これは奈良平安の頃より伝わる、一粒万倍の術です」。

 才蔵「いちりゅうまんばいですか、一粒万倍ねぇ、あの、一粒万倍って何ですか」。

 太夫「君ね、知らなかったら始めから聞きなさい、一粒とはひとつぶの種でひとつぶの種を撒くと、万倍の果実がなる。これが一粒万倍」。

 

 と、こんな会話で進行します。風呂敷を巻いたり外したりするうちに、双葉が生り、弦が伸び、弦が四つ柱の竹に絡みつき、やがて上からたくさんの瓜が生ります。お終いに風呂敷を取ったときに弦が四つ柱に絡みついて、上からいくつもの瓜が生った姿はとても美しく、暑中見舞いのイラストに描いても様になるくらいです。

 私はこの作品を作るにあたって、実際インド人でこれを演じている人の映像を見ました。演技と言うか、通行人を相手に、緩慢な演じ方で、一時間くらいかけて見せていました。インドや、江戸時代の日本なら一時間かけて演じるのもやむを得ないでしょが、現代の舞台奇術で一時間は長すぎます。私はこれを15分で演じています。

 それでも15分は長いです。かなりテンポを速めて、極力無駄を省いてお客様を飽きさせないように工夫して演じています。15分間掛け合いをするわけですから、弟子の喋りの勉強には最適です。幸い好評ですのであちこちで演じています。

 恐らく植瓜術は明治の時代に廃れて、演じ手がいなくなったものと思われます。芸としての作品がだめなのではなく、怪しげな薬を売ることが流行らなくなったため、演じられることが無くなったのでしょう。

 舞台で手妻を演じる人たちは、大道の物売りの芸を演じたがりません。洗練されていないためでしょうか。私は、これを復活させて良かったと思います。この作品には手妻の原点があります。種仕掛けも、掛け合いも、ぜひとも残すべき作品です。

続く

どう残す。どう生かす 7

どう残す。どう生かす 7

 

 お椀と玉

 お椀と玉は品玉とも呼ばれ、マジックの歴史の中ではきわめて古い作品と考えられていますが、実際には、1000年。2000年と言うほどの歴史はないと思います。せいぜい宋の時代(960~1270)くらいにインドやペルシャあたりで生まれたものが、明の時代に中国に伝わったのではないかと思います。

 と言うのも、日本に伝わったのが戦国時代です。少なくとも、奈良、平安の時代の、散楽一座(奈良の政府が抱えていた、芸能一座)がお椀と玉を演じたという資料がありません。古い中国にはお椀と玉はなかったと思います。

 中国のお椀と玉は、ずっと時代が下ったのち、「仙人栽豆(せんにんさいまめ)」と言うマジックと、お椀と玉が合体した形で演じられており、お椀と玉の玉も小豆や大豆を使うため、とても小さい現象です。

 日本では仙人栽豆を、「小豆割(あずきわ)り」と呼び、お椀と玉とは全く違う演技として、別々に演じられています。小豆割りは、一粒の小豆をテーブルの上に置き、指に唾を付けて、小豆に擦り付けているうちに、小豆が二つに増え、三つに増えて行きます。また、一つずつ減って行き、お終いの小豆を鼻に入れ、息を吸い込んで消してしまい、消えた小豆が、瞼の裏から出現します。

 この瞼の裏から出て来ると言うのが奇抜で、私の興味をそそります。但し、文献でしか見たことはありません。実際に、事前に瞼の裏に小豆を隠しておきます。小豆が小さいとはいえ、目の中に入るかどうか。私はいまだ試したことはありませんが、鼻の穴に五寸釘を刺すのと同様、やってみたら案外簡単なのかも知れません。但し、今この芸をして、人気者になれるかと言えば、微妙でしょう。金魚や、碁石を飲んで出して見せる危険術と同類に見えると思います。しかも規模が小さい分、効果も限定的です。

 小豆割りは、完全なクロースアップマジックで、せいぜい5~6人を対象とします。大道で、少人数の通行客を相手に見せていたのでしょう。日本では古くから座敷手妻として演じられています。

 小豆割りは室町時代にはあったようですが、お椀と玉は江戸時代の伝授本に出るまでは記録がありません。恐らく戦国時代あたりにやってきた西洋人か、中東の人が日本で見せたのではないかと思います。素材が簡単なため、一度伝わると普及は早かったようで、たちまち日本中で演じられるようになりました。

 今日まで随分といろいろな手順が散見されますが、日本のものは、お椀を二つないし三つ使い、玉は3cmほどの柔らかい布製で中に、棕櫚(しゅろ)や藁(わら)、小石などを入れ、膨らませます。この玉を椀の中に入れ、開けると消えていて右や左の椀に移ったりします。

 中国のお椀と玉が、伝助賭博(でんすけとばく=路上で通行人に、3つの椀の中に一つ玉を入れ、椀を素早く動かし、どこに入れたか賭けをさせるもの)の、玉の移動が主であるのに対して、日本のそれは手順が出来ていて、西洋のカップ&ボールに似た構成になっています。

 但し、今日残っているお椀と玉の手順が、江戸時代に演じられていたお椀と玉の演技かと言うと、どうも違うように思います。

 なぜかと言えば、パームとパスの手順がくどいのです。まったく同じ技法が10数回出て来ます。恐らく、これを江戸時代に大道で演じたなら、必ずお客様に種がばれたでしょう。恐らく、もっともっと複雑で、面白いハンドリングがあったはずです。

 なぜこうまで無理の多い手順が残ったのかと言うなら、それは伝授屋(でんじゅや=マジック指導家)の出現に理由があると思います。江戸の中期から伝授屋という商売が流行りだし、お椀と玉は道具が簡易なこと、作品に起承転結があって、手順が完成していることなどで、指導ネタとして人気の手妻だったのです。

 今日文献で残されているお椀と玉は、伝授屋の教材から引っ張ってきているのです。そもそも伝授本(でんじゅぼん=マジック指導本)と言うもの自体、プロの手妻師が書いたものではありません。手妻は本に書き残すようなことはしなかったのです。書いてあるものは、当時のアマチュアが推測で書いたものばかりです。

 その本を読んで、当時の江戸時代のマジックのレベルを言うのは間違っています。本当にいいマジックは書かないものです。

 但し、アマチュアに伝えるには、複雑なハンドリングは習得に時間がかかるために技法は単純にまとめられました。今日残されている手順は、プロの演技ではなく、アマチュア指導用の簡易手順なのです。

 

 そこで、私は、35歳くらいから二年ほどかけて、お椀と玉の資料を集め、手順を組み直しました。バブルが弾けて、仕事が激減したため、時間はたっぷりあり、じっくりお椀と玉の改案が出来ました。できた手順はあちこちで演じました。海外でも評価され、アメリカ、フランス、香港、韓国、台湾と随分演じました。然し、演じてみて気付きましたが、サイレントで、類似の手順を繰り返すお椀と玉は、アマチュアは喜びますが、一般の反応は今一つです。

 一般のお客様に見せるにはもっとインパクトのある手順でなければ喜んではもらえないのです。そこで、40代になってから、お椀と玉を掛け合いでする手順を作りました。それが今舞台で演じているお椀と玉です。

 それまでの6段もある手順を半分にし、真ん中に、手妻とは言えいないような、大きなリンゴをお椀に入れ、明らかにリンゴがお椀からはみ出しているのに、「リンゴどれ」、と聞く手順を加えました。これはマジックではなく、明らかにギャグです。然し、「リンゴどれ」を入れてからのお客様の食いつきはよく、仕事先でも、「リンゴをやって下さい」。と言う注文は頻繁にあります。

 弟子との掛け合いも、弟子にギャグとは何かを教えるにはうってつけで、笑いとはテンポと休符のわずかなずれを楽しむこと、と言うのを教えるには最適な作品です。この呼吸がわかると何を言っても面白く、笑いの才能がつかめます。

 マジックは必ずしも、不思議であるから愛されるわけではありません。たった一言のセリフがお客様の心に留まり、それが忘れらずに、繰り返し繰り返し見たくなるのです。お客様とのつながりが何なのか、そこを探すことが芸能なのです。

 お終いに出すアンパンも、ミカンを出したり、キャラメルの箱を出したり、饅頭を出したりと模索しましたが、アンパンが一番ボリュームがあって効果的なことと、アンパンと言う言葉の響きが軽薄でばかばかしいため、アンパンを出すと、異常にお客様は喜んで下さいます。この辺りの言葉遊びを見つけ出すことが笑いのセンスだと思います。饅頭でなく、アンパンと言うおかしさは、笑いを理解しない人には一生気付かないセンスです。

続く

どう残す。どう生かす 6

どう残す。どう生かす 6

 

 掛け合い物

 手妻の中には、口上を言いながら、お喋りをしながら演じるものが多々あります。私の持ち芸でいうなら、札焼き、柱抜け(サムタイ)、などがそれです。これらは20歳くらいから演じ続けてきたもので、私一人で喋りながら演じられますので、今も頻繁に演じています。

 然し、公演の規模が大きくなると、私一人が舞台上でポツンと喋ってばかりいては、舞台が寂しくなりますし、ショウの構成も変化が出しにくくなります。

 と言って際限なく大道具を持参するには限界があります。そこで、どんな場所でも演じられて、簡易な道具で、少し大きな演技ができるものが必要になります。そこで、弟子と一緒に掛け合いをしながら手妻を演じる。「掛け合い物」の需要が生まれます。

 私が40代になって一番力を入れたのが、「掛け合い物」の演目でした。これは一人喋りではなく、大夫と才蔵のコンビによる喋りです。但し、弟子を相手に喋って行くものですから、弟子の技量によってうまいへたがはっきり出てしまいます。

 そのため、弟子の技量を考えつつ、難しいきっかけを省いたり、弟子が言うべきセリフを私が言ったり修正します。逆に喋りの達者な弟子には、ギャグを足して、無理難題を押し付けて、弟子と激しいやり取りをするような作品を考えます。掛け合いは相方に合わせて、個人差を考えてセリフを書き直して演じています。

 掛け合いの話芸は、お椀と玉、若狭通いの水、植瓜術(しょっかじゅつ)などがそれにあたります。これらは今も手妻の公演では頻繁に演じています。これら一連の作品は来週、詳しくお話ししましょう。

 

 上記三作の他に、20代から演じていたもので、「一里四方(いちりしほう)取り寄せの術」と言うものがあります。演じるのに30分以上かかり、弟子との掛け合いの面白さが演技のすべてと言ってもいいくらいに喋りの技量が求められます。

 明治15年に、亜細亜萬次(あじあまんじ)と言う奇術師が西洋奇術からアレンジしたもので、箱の中から、お客さんの注文により、なんでも品物を取り出して見せると言う術です。これはどこで演じても好評で、今も時々演じています。

 

 40代になって作った、「壺中桃源郷(こちゅうとうげんきょう)」は、古典の作品をアレンジして作りました。これも掛け合いがたくさん出て来ます。大きな壺で、口が小さく、人が入ることは不可能なのですが、壺の口の上で女性が胡坐(あぐら)をかいて首に布を巻いて座っていると、徐々に体が溶けて行くかのごとくに壺の中に入って行きます。布を取ると女性は消え、壺の中に入ってしまいます。やがてまた出現します。この作品はめったに出す機会がありませんが、作品としては珍しく、見ていても面白いものです。これを生かさないのは勿体ないと思います。

 

 「怪談手品」と言う、ブラックライトを使用した演目も、一度演じたきりです。演じるとこれも30分以上かかります。骸骨が出て来て踊ったり、豆腐小僧と呼ばれる、身長40㎝ほどの小さな子供が出て来たり、犬のサイズくらいの狸が出てきて綱渡りをしたり、夢があってとても面白い作品です。但し演じるのに、人手がかかり、舞台の裏はてんやわんやです。これもいつか再演したい作品です。

 

 手妻ではありませんが、「テーブルクロス引き」なども掛け合い物に入ります。文字通り、テーブルクロスを引き抜く技ですが、それを掛け合いにして、面白く作ってみました。マジックでもなければ、手妻でもありません。然し、これを見たいと注文されるお客様は多いのです。無論頼まれれば致しますが、できる弟子と出来ない弟子がいます。無論、私は出来ますが、私は脇で邪魔する役ですので、クロス引きはしません。最近前田が習得しましたので、時々演じています。

 

 喋り物は、どれも5分から、長いもので30分演じます。30分とかかる作品は、大きな公演をするときの取りネタになります。いずれにしましても、私が2時間でも3時間でも公演が出来るのは喋り物の手順をたくさん持っているためです。つまるところ、舞台芸の要(かなめ)は喋りなのです。喋りが達者で、何時間聞いていても飽きない喋りが出来るマジシャンなら、長時間の公演は難なくできます。

 但し、掛け合いとなるとハードルは高く、一人で喋るのとはわけが違います。しかも相手は、まだこの道に入って間もない弟子を使って掛け合いをするのですから、実際には何気に演じているように見えますが、実はものすごく気を使います。弟子は自分の話し方、自分のテンポでしか話すことが出来ません。人に合わせるとか、お客様の興味をつなぐなどと言うことは考えたこともないのです。

 お客様が弟子のセリフを聞いて、明らかにダレているのに、弟子はのんびりたらたら喋っている姿を見ると、まだるっこしくて、内心イライラします。しかしここは我慢をします。弟子とすれば必死なのです。いきなり本舞台で師匠の相手役をするわけですから緊張の連続です。然しこの緊張が大切で、いくら喋りが下手な弟子でも、師匠にリードされれば技量はたちまち向上します。

 大樹も前田も、どちらかと言えば口の重たい引っ込み思案な性格でしたが、どんどんセリフを与え、舞台の感覚を仕込みます。できなければ毎回楽屋で思い切り叱ります。そうするうちに、喋りの達者な才蔵に成長します。

 実はこの、大夫と才蔵と言うコンビこそが、手妻の伝統的な形式です。手妻をする人なら必ず掛け合いの技は習得していなければいけません。これが出来るマジシャンなら、テレビのドラマや、クイズ番組にも起用されるでしょう。

 蝶の名人と言われた江戸期の柳川一蝶斎などは、一人で優雅に蝶を飛ばしていたかのように考えている人が多いのですが、実際の一蝶斎の演技は、脇に鉄漿(おはぐろ)坊主と呼ばれる、才蔵がいて、一蝶斎が演技をしている脇で太鼓をたたいたり、口上を言ったり、ギャグを言ったりして、盛んに太夫と掛け合いをしていました。

 つまり一蝶斎の演技は、シリアスなものではなく、常にギャグを取り入れたコミカルな演技だったのです。それは、昭和の名人と言われた三代目帰天斎正一も同じで、息子さんの正楽さんを才蔵にして、笑いを取り入れた演技をしていました。

 東京の一徳斎美蝶も、弟さんの蝶二さんを才蔵に使って、コミカルな演技をしていました。然し、この形式は、昭和になって各師匠が亡くなると、掛け合いを継ぐ者が耐えてしまい、今では見ることが出来なくなりました。

 私はそれを残念に思い、平成10年に芸術祭大賞を頂いて以降、自分自身の演技をより古典の形式に戻して行くことに専念し、大夫才蔵の形式を次々に復活させています。こうした活動が私のライフワークになっています。その作品の数々は来週以降、詳しくお話ししましょう。

続く

 

 明日はブログをお休みします。

どう残す。どう生かす 5

どう残す。どう生かす 5

 

連理の曲

 今ほど手妻をする人のいなかった昭和の40年代以降でも、連理の曲と蒸籠はプロも、アマチュアも演じる人がありました。特に連理の曲は、半紙、鋏など、殆ど道具らしい道具を使用しないで出来るため、その簡易さゆえに人気で、しかも、見栄えの良さが愛されて、最も手妻らしい手妻として、今も人気の演目です。

 一枚の半紙をハサミで何度か切って行くと、5㎝四方の四角い紙ができ、それが一列につながります。これがお供え餅の下に敷く、御幣の形になるので日本的で美しいため、よく演じられます。

 ただし、それほど人気の種目でありながら正しい演じ方が伝わってはいません。簡易ゆえ、適当に演じてしまう人が多いようです。

 

 まず題名がでたらめな人が多いのです。「連理の紙」と書くのは間違いではありません。「連離」と書くのは誤表記です。これでは意味が通りません。連理は、比翼連理から来ているもので、連なる力を意味します。比翼連理とは蛇の求愛の姿から生まれた言葉で、二匹の蛇がまるで縄のようにきつく絡み合い、求愛行為をするところから、夫婦の固い絆を表しています。切っても切れない仲と言う意味です。

 お正月に玄関に飾るしめ縄は蛇の求愛行為をそっくり縄で表現しています。

ここから手妻では、切っても切ってもまたつながってしまう手妻を連理と呼び、つながる手妻の総称として連理の言葉を使っています。

 例えばチャイニーズステッキは比翼連理の棒(比翼連理の竹)、と言います。ロープ切りも、連理の種目の一つになります。実際、紐切りの古い口上には比翼連理のひとくさりが語られます。題名も、「紐切り」と書いてしまうと、現象の先言いになってしまいますので、連理の紐、連理の曲と言ってもよろしいかと思います。

 然し、半紙を使った連理は極めて有名な手妻ですので、連理と言えば半紙の切り分けの芸を言いますが、あくまで連理の曲は、つながる芸の総称と言うことになります。

 曲と言う言葉は手妻の世界にはよく出て来ます。これは技を意味する言葉で、術も、芸も、曲もすべて技と言う意味です。音楽の世界でも、作品を一曲、二曲と数えますが、あれも全く同じで、曲とは技のことです。ただし、厳密に言うと、剣術、柔術などのような、術と言う呼び方と、連理の曲、音楽の曲は同じ技でも、剣術、柔術の術は鍛錬の意味合いが強く、曲と言う言葉の裏には、遊び心が語られているように思います。

 江戸の言葉で、「曲がない」という言い方があります。今日でいう「センスがない」。と同義語です。現代で「お前のすることは曲がないよ」。などと言う人はまずいませんが、江戸の黄表紙本などにはよく出てくる言葉です。例えば、芝居を工夫するときに、「ただ芝居しても曲がない。そこは洒落を取り入れて、三味線に乗せて語ったら面白い」。などと言う使い方をします。遊び心を加えることで、より洗練させる、と言うようなときに曲と言う言葉を使います。

 音楽も全く同じで、ただ語るのでなく、節がつくから曲なのです。手妻に関して言うならば、リンキングリングは、金輪の曲と言い、紙の蝶を飛ばす芸は蝶の曲と呼びます(流派によって、蝶の一曲、浮かれの蝶、胡蝶の曲、胡蝶の舞など様々です)。

 題名に曲を用いるのは、曲芸の世界と共通です。曲芸の世界では、咥え撥の曲、篭毬(かごまり)の曲、傘の曲、など、一つ一つの作品に曲を使います。それらすべてを演じるから曲芸なわけです。

 元々曲芸も奇術も近い関係にあったわけですから、いろいろな点で似ているのは当然と言えます。

 

 話を戻して、連理の曲とはつなげる術の総称ですが、通常、連理と言うと、半紙を切ってつなげる手妻を指します。但し厳密には半紙を御幣(ごへい)の形に切ってつなげるところ、すなわち前半が連理の曲です。

 そこから先、半紙を燃やして、撒き(滝、または蜘蛛の糸)を投げる所と、散り桜(紙吹雪)は、別の作品です。連理だけでは寂しいので、後半を派手にしようと、別の作品を持って来たわけです。私のところでは、前半後半は分けて指導しています。無論一緒に演じても構わないのです。実際、撒きと散り桜があるために連理は人気があります。

 いつからこうした形になったのかはわかりません。そもそも、江戸時代に連理の曲があったかどうかも定かではありません。あったとしても江戸の末期ではないかと思います。連理の曲ほど簡易な手妻であるのに、記述が少ないのです。それをまた、撒きや、散り桜を加えて一連の作品にしたのは、明治かも知れません。手順の作り方が西洋風な組み立て方であるところから、どうも明治の匂いがします。でも、これはこれでありかと思います。

 連理は、それそのものが切り紙細工のような演技ですので、まるで事務的にさっさと軽く演じる人がありますが、これはとても重要な演技です。元の考えに比翼連理があるわけですから、切っても切れない夫婦の中を語らなければなりません。初めに鋏を入れるときには、一つ一つをはっきり切り分けていることを見せるように丁寧に演じます。そこを丁寧に演じると、つながったときにお客様の拍手がより大きなものになります。

 連理は都合、二回つながりますが、つながるときに魔法のジェスチュアーをかけてはいけません。マジシャンの魔法によってつながったわけではなく、夫婦の強い絆によってつながったのですから、ここは魔法はかけません。

 次につながった御幣を、一枚一枚切り分けるときも、はっきり丁寧に切り分けます。幾多の困難があっても、夫婦は離れないと言うことを語っています。そして切り分けた御幣を半紙の上に乗せ、再度つなげますが、何事もなかったかのようにつなげて見せることで連理が完成します。

 

 その昔はこれらの演技をすべて口上を言いながら演じていたのですが、口上を語る際に、「切る、離れる、別れる」と言う言葉を使ってはいけません。結婚式ならなおさらのことです。どうしても語らなければならないときは、切ると言わずに「増える」と言います。この辺りを無遠慮に、「紙はご覧のようにバラバラに切れました」。などと言う人がありますが、セリフはくれぐれも注意してください。

 撒きや吹雪の投げ方も細かな口伝がありますが、その話はまた次回いたしましょう。

 続く

 

5月15日の玉ひで公演

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