手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

多難なオリンピック

多難なオリンピック

 

 本当は「天一」の東京進出を書かなければいけないのですが、どうも世間がせちがらくなってきていますので、一言書かせていただきます。

 

オリンピックを皆さんは本当に望んでいますか

オリンピックは世界中のスポーツマンが一堂に会して日頃の練習の成果を人々に見せるもので、ここで開催ができるかできないかはアスリートにとって大問題です。オリンピックの成果如何で、その後に盛り上がる種目が出てきたり、時には消えて行く種目が出てしまうこともあるのです。

 アスリートの人生を考えても、昨年にオリンピックの照準を合わせていた人たちの多くは、もうすでにスポーツマン人生のピークを越えてしまっている人もあります。昨年開催した場合と、今年開催するのとでは優勝者はかなり変わるはずです。それでも開催されるならまだチャンスはあります。これで、東京開催が全く中止となると、次のオリンピックには参加できない人が続出するでしょう。開催如何でスポーツマン人生を終えてしまう人がたくさん出てしまうわけです。

 オリンピック効果などと言って、企業や、経済を発展させる起爆剤にすると言う考えもありますが、それだからやるやらないではなくて、先ずアスリートの日ごろの努力を讃えることからオリンピックを考えなければいけないでしょう。

 そのためには、早急にやる、やらないを決定しなければいけません。日本は国際社会でオリンピックの開催を宣言したのですから、やることは当然のはずです。どんなに、参加国が少なくても、無観客でも、スポンサーが少なくても、とにかく開催すべきです。そして早く細かな日程を決めて、アスリートがベストを尽くせるように調整をしなければいけません。

 

 そして、やると決めたら些末なことで騒がないことです。どうもこのところ日本人はヒステリックになりがちです。森さんの発言も、発言に間違いはあっても謝罪をしたのならそれ以上追及すべきではありません。

 そもそも森さんの発言は、「何が何でも開催する」。と言うものでした。それはオリンピック委員長としては当然の発言です。ところが森さんはそこに尾ひれをつけて語ったために格好の揚げ足取りになったのです。尾ひれにSNSがかみついて、辞めろやめろの大合唱に発展しています。

 正直くだらない騒ぎです。マスコミが執拗に追い続けて、森さんの辞任に発展したりすれば、世論は動揺しすぐに中止を叫ぶ人が出て来ます。そうなれば日本の国際的な信用が落ちます。アスリートの日ごろの努力は無駄になります。

 皆さんは本気でオリンピックの開催を望んでいますか。いい加減な気持ちで野次っている人たちは、真剣に練習に励んでいるアスリートの気持ちを理解していますか。中島みゆきさんの曲に、ファイトと言う曲があります。

 

 ファイト! 闘う君の唄を 闘わない奴等が笑うだろう 

ファイト! 冷たい水の中を 震えながら登って行け。

 

 アスリートの努力を考えたなら、どうしたらオリンピックが開催できるかをみんなで考えることです。反対者は沈黙していてください。

 

 この先に来るもの

 オリンピックを開催することはとても重要なことですが、どうもこの話は人類の体験する危機のほんの入り口に差し掛かっただけのことのように思えます。この一年、日本は勿論、世界中の人々の行動を見ていると、人類の衰退をまっしぐらに突き進んでいるような気がするのです。

 コロナの過度な反応がまず話の始まりです。コロナのことは何度もここで話しましたので繰り返しません。コロナは結果として、経済を破綻させています。方や大量の失業者を生み、国は税金でこれを助けています。同時に医療機関などでは人が足らず、これも膨大な税金によって補助をしています。

 税金とはサンタクロースのズタ袋ではありません。人に頼まれれば幾らでも袋から金が出て来るものではありません。本来徴収すべき税金を逆に国民にばらまいて、この先、人口の減って行く日本がどうやって使った金を返済して行くのでしょうか。

 いや、まだ日本は国力があるからましとしても、そもそも経済が脆弱な、イタリアやスペインや、ロシアやギリシャや中国、韓国、アフリカ諸国は、この先どうやって借金を返して行くのでしょうか。

 

 ローマ帝国が滅亡するときに帝国政府は間際までローマ市民に対して年間に半年もの祝日を設けていたそうです。連日コロシアムでは猛獣と人間の闘うショウが開催され、風呂は入り放題、食べ物も豊富でした。そうした生活に慣れたローマ市民は幸せそうだったかと言えば、当時ローマを旅した歴史研究家の目には市民の表情は、目がトローンとしていて、精気がなく、ただ、日々の刺激的な催しばかりを追い求めていたそうです。誰の目にもこの国が早晩終わってい行くことは分かったそうです。わかっていながら、市民も、帝国政府も現況を変えようとはしなかったのです。

 

 今回のオリンピックが仮に開催できないとなった時に、次の開催国は、本気でオリンピックを開催するでしょうか。仮に開催にこぎつけたとして、またも日本同様に、ウイルスが蔓延すれば、開催国は大きな損害を被ります。

 いや、オリンピックだけではありません。万国博覧会も、大きなスポーツ大会も、有名ミュージシャンのライブ公演も、その他、数々のコンベンションも、マジックの世界大会も同様です。この先のイベントは常に中止の危機に直面します。

 SNSや、テレビは、主催者の努力を考慮せずに、中止に向けて大合唱し、人の行動を制止しています。世間では、森さんの失言を声高に叫び、辞任を求めています。ネットの中の市民は王様です。大物政治家を平気で辞任に追いやろうとします。

 更に、自粛を守らない飲食店や、町を歩く人をカメラが追い続け、なぜ自粛を守らないかと執拗に攻め立てます。自粛であるなら、必ずしも守る必要はないはずです。自粛なのですから。

 どうしても守らせたいなら法律を作るべきなのです。その上で、法を守った人には補償をすべきなのです。補償もなく、自粛ばかりを求められては生活して行けません。自粛も中途半端なら、鵜の目鷹の目で周囲の人を監視している自警団の連中も異常です。それを連日話題にして騒いでいるマスコミも変です。

 こんな騒動を見ていて、人はこの先幸せに生きて行けるのか不安になります。何をしようとしても足の引っ張り合い。国は思い切った政策を打ち出せない。打ち出せないまま自粛と言う曖昧な物言いで人を縛り付ける。縛った人に世間は容赦ない監視の目が光る。自粛と言う名の強制。国は大赤字、世間は失業者であふれる。

 身の回りには何でもありながら、人は何かが足りないと常に思っているようです。何が足りないかは明らかで、ネットだのコンピューターだの、テレビだのと言う画像ばかり相手にしているため、いくら見ていても実態がないのです。そこから生み出される上辺だけの感動に浸っていても、次の瞬間には醒めて、何かが足りないと、またぞろネットを彷徨うのです。

 本当の感動を手に入れるには、自らが実体のない世界から離れて、自らの手で感動を探し出す努力をしなければいけません。寝ころんで、ポテトチップスを食べながら、だらだら映像を眺めていて「最近感動がない」。とはどの口で言うのですか。これは亡国の始まりではありませんか。

 こんな時代の少しでも明るく楽しく、光を当てたい。そう思ってマジックの活動を続けています。然し道は険しく、遠のくばかりです。

続く

 

 

 

天一 16 奇術博士

天一 16 奇術博士

 

 天一一座は大阪を出る前に,マネージャーの三越幸太郎を先に東京に送り、横浜と東京の劇場と交渉をしています。新富座が駄目だと言う話はやむを得ないとしても、東京の名だたる劇場と交渉をしたはずです。その結果、名乗りを上げてきたのは文楽座でした。文楽座は四月にジャグラー操一を半月興行して大当たりでした。

 文楽座の座元の梅本は操一で稼いだ収入で、全館ガス管を配備して夜の芝居ができるようにしました。新富座同様に、昼夜の興行を可能にしたことで、またひと稼ぎしたいと望んでいます。大阪で、操一よりも評判の高い天一が来援するとなれば、文楽座は願ってもないことです。互いの思惑が一致し、三越文楽座と契約をし、11月1日から、二か間の興行を決めました。

 天一の東京初お目見えは文楽座と決定しました。ところが、ここに問題が発生します。所轄の役所が劇場で奇術をすることを認めないのです。奇妙です。ノートンも、操一も何の問題もなく興行しました。天一のみ認められないとはどういうことでしょう。

 役所が言うには「あれはあくまで特例で、特例を何度も繰り返せば特例ではなくなってしまう。奇術は芸能としては寄席で行うべき種類のもので、寄席で興行するなら問題ない」。と言う話でした。寄席と言うのは、100人200人規模の小さな劇場です。床の間のような舞台に、足袋裸足で上がり、小さな奇術をして見せる場所です。役所は奇術をそうした寸法に閉じ込めたいと考えているようです。それにしてもなぜ急にそんな要求が出て来たのでしょうか。

 これは私の推測ですが、これまで奇術は、小屋掛けか、寄席で行っていたものでしたが、ここへきて大劇場に進出してきたことで、他の役者連中から反発が起きたのでしょう。新派や、新劇、歌舞伎役者たちが、ノートンや操一の成功を見て、奇術が劇場で興行されたなら周囲の芝居をする劇場が閑古鳥になってしまう。それを役者が危惧して、役所を動かしたのではないかと思います。ここで天一は、超えられない壁の大きさに直面します。

 

 天一が東京進出を考えたのも、劇場で興行したいと考えたのも、全ては千日前の仮設の舞台から脱脚したい一心からなのです。小屋掛けに出続けていたから、道頓堀の五座に出られなかったのです。然し、観客が呼べるなら、奇術であれ、曲芸であれ、どんな大舞台にでも出られるはずです。それを職種と身分を混同して、人の発展を妨げようとするのは間違いです。天一はそれを多くの人にわかってもらおうとして、東京進出を決め、劇場に出て、実際にたくさんの観客を集めて見せることで、日本中どこの劇場も納得して、天一一座を迎えるに違いないと考えたのです。

 そうなら、天一は、まず東京の一流劇場を押さえて、実績を見せなければなりません。そのことは、天一だけでなく、操一も同じだったはずです。彼も文楽座に出ることで、小屋掛けから脱極したかった一人なのです。

 なぜ二人が、こうまで劇場に出ることに固執したのかと言うなら、それは、5年前に東京に出た中村一登久が、浅草の小屋掛けで半年に及ぶロングランを打って、大当たりしたのですが、その後も、未だに小屋掛けに出続けているからです。

 一登久は多くの人に愛されていますが、いわゆる上流階級の人たちには相手にされていません。小屋掛けには上流階級は来ないのです。当然活動の幅は限られます。新しい時代が来て、地方都市にもどんどん劇場が建っているにもかかわらず、一登久は殆どそうした場所とは無縁の場所で活動をしているのです。明らかに時代に取り残されつつあります。操一も天一も、そうした一登久の姿を見ているのです。

 天一は、これまでのように、生きるためにどんな場所でも奇術を見せていたことを恥じました。もっと、もっと大きく自分を売って、高い理想を持って活動しなければならないことを知ったのです。

 そうであるからこそ、東京に出て文楽座を狙っていたのですが、結果は不許可です。天一は困りました。マネージャーの三越も同様です。三越は、悩んだ挙句、自分の妻、美千代の叔父が横田香苗と言い、政府の賞勲局の書記官をしていたのを思い出し、横田を訪ねて相談をしました。すると横田は秘策を教えてくれました。

 それは、文楽座が一度劇場の申請を取り下げて、寄席として申請し直す。そのため、文楽座を文楽亭と改名すればよい。と言うものです。勿論、天一の興行が終ったなら、また元の文楽座に戻せばよいと言うのです。

 座を亭に替えれば許可が下りると言うわけです。三越にすれば「なんだそんなことか」。と呆気に取られてしまいます。毎日悩み抜いていたのは一体何だったのかと馬鹿らしくなりました。恐らく横田は、「役所なんてそんなものだ」。と言ったと思います。書面面(づら)さえ合っていればそれでいいのです。このことは現代でも役所を相手にしていると度々経験することです。

 すぐさま、天一にこのことを話すと天一は大喜びです。文楽座の梅本も了解です。梅本にすれば、劇場の格が落ちることよりも、収入を失うことのほうが劇場の危機なのです。それほど文楽座はひっ迫していたのです。

 早速文楽座は文楽亭となって、天一一座を迎え入れます。天一の人生を見ていると、何度も危機が訪れます。然しその都度工夫をして、危機を乗り越え、乗り越えた後にはそれまでの何倍も大きくなっています。天一を幸運な人と見るのは簡単なことですが、ただ世の中の流れのままに生きて来たのではありません。

 特に、この東京進出は、天一の立場を決定づけました。この興行以後、天一は日本一の奇術師になり、他の日本の芸能人をはるかに超えた、観客動員力と収入を上げて見せたのです。天一は奇術師の中の一人ではなく、他のジャンルの芸能人を凌ぐほどに有名だったのです。九代目団十郎、五代目菊五郎川上音二郎、桃中軒雲右衛門と言った、明治期の芸能人と並んで、常に名前の挙がる人だったのです。さて天一文楽座での興行がどんなものだったのか、それは明日お話ししましょう。

続く

天一 15 文楽座

天一 15 文楽

 

 さて、アメリカのノートン一座を迎え撃つジャグラー操一は、浅草猿若町にある文楽座で15日間興行しました。この文楽座は、江戸時代の芝居小屋ではありません。明治になって芝居町から中村座が鳥越に移転し、市村座が二丁町に移転し、守田座が築地に移って新富座となって行ったことで、猿若町は灯が消えたように寂しくなります。そこで、町の有志が資金を出し合って、明治18年、中心地の劇場に敗けないような立派な劇場を建設します。これが文楽座です。

 文楽座は名前の通り、文楽(人形芝居)を主として、浄瑠璃語りの芝居小屋として始めましたが、明治の中頃は文楽が不人気で、杮落し(こけらおとし=新築落成)興行ですら満員にならず、千秋楽(最終日)には、座元が夜逃げをすると言う惨憺たる成績でした。その後も看板の浄瑠璃大夫を招いて興行しますが、どれも不入り。慌てたのは出資者で、かさむ負債を何とかしなければならず、もう文楽の、伝統のと言っている場合ではなくなり、当たるものなら何でもやらなければならないと、血眼になって、新規の芸能を探すようになります。

 そうして見つけたのがジャグラー操一です。大阪で評判の西洋奇術師、彼を起用してノートン一座に対抗しようと決めたのです。折からの新富座でのノートン一座は新聞や、チラシなどを使って大宣伝を掛けています。対する文楽座も、西洋奇術に対して東洋奇術と銘打って、初日は、新富座と同じ、4月17日にぶつけて行きます。まさに東洋西洋対抗奇術合戦となり、東京の話題を独占します。これは互いに効果を上げたようで、両者とも大当たりの成績を上げます。

 

 明治21年に東京の話題をさらったノートンとはどのような人だったのでしょう。今日ワシントン・ノートンと言う人のことは全く奇術界では知られていません。ニューオリンズ生まれで、寄席演芸の世界で名前を売った芸人で、40代で引退し、カリフォルニアに農場を買い、余生を農場で送ろうと考えていたようですが、なぜか、再度チームを組むことになり、一座を興して日本にやって来たようです。この時49歳。

彼がどんなことをしたのか、チラシを見ると、

 「箱抜け」夫人を箱に入れ、紐で縛って、夫人が脱出する。現代も演じられている人体交換術でしょう。

「空中催眠」長い棒に夫人が寄りかかり、空中静止する。今日の邯鄲夢枕。

「大理石美人」石造の美人が人に変わる。人造人間でしょう。

「首切り術」自らの首を切り、机の上に置くと、目を開き、歌を歌う。

「早変わり」お客様の目の前で衣装が素早く変わる。この衣装チェンジがノートン一座の得意芸だったようです。

 こうしたイリュージョンの合間に、歌ありダンスあり、テンポの速い演出で、あっという間にショウが展開されるため、お客様は圧倒されました。いわゆるアメリカのボードビルショウですが、歌や踊りは当時の日本の観客には動きがせわしなく、あまり理解されなかったようです。然し珍しいショウですので連日満員でした。

 一方、ジャグラー操一は、

 「七つの箱」空中に大きな箱を七つ吊り、一つの箱に子供を入れ、別の箱から瞬時に出す。どこから出て来るかを観客に当てさせて、当たったら賞金を出しました。

「磁気術」これは催眠術ショウのこと。舞台に上げた観客が催眠効果で踊り出します。「帽子術」観客から帽子を借り、空中に吊り、そこから観客の声が聞こえます。読心術か、腹話術でしょうか。

「帽子からの取り出し」メリケンハットのこと。

「縄抜け」操一の得意芸。操一の体を観客に自由に結ばせて、抜け出して見せたのでしょう。後年のフーディーニの拘束衣からの脱出に近い芸かと思います。

 

 内容としては、手先のマジックや、メンタルマジックなどが含まれていて、珍しさにおいては十分珍しかったと思います。ただし、ノートンのような華麗さ、陽気さが乏しく、不思議を強調して、技の妙味を見せて行くショウになっています。

 この後、東京進出して来る天一と比べても、操一の芸は不思議ではあっても地味で、玄人(くろうと)好みです。ノートンとの勝負は、宣伝効果で世間の話題となって、知名度を上げましたが、天一が出て来るに及んでその影は薄くなって行きます。

 晩年の操一の舞台を明治38年に名古屋の御園座で、若いころの天洋(天一の又甥)が見ています。「その舞台姿はとても寂しかった」。と言っています。天洋翁いわく、「どんなに技があっても上手でも、舞台の暗い人は大成しない」。と言っています。実際その後操一は、岩手の盛岡座の楽屋で首つり自殺をして生涯を終えています。

操一は、文楽座を満杯にしました。当時の文楽座は昼興行のみでしたので、夜は、芝の寄席、恵智十に出演しました。寄席に出ているところを見ると、操一の本分は手先の芸にあったのでしょう。

 

 さて天一の出番です。大阪でジャグラー操一や、ノートン一座の成功を見るにつけ、天一はいてもたってもいられなかったでしょう。天一は、明治21年7月末に横浜に着き、横浜で一か月の興行をします。恐らく横浜、東京興行は、既に大阪の時点で交渉が進んでいたでしょう。

 ところが横浜は難なく出演できましたが、東京の劇場が決まりません。天一はどこの劇場を狙っていたのでしょうか。恐らく新富座でしょう。ところが新富座ノートン一座が大成功を収めている前から大きな難問を抱えていました。

 それは、翌年、明治22年に、新富座の近くに歌舞伎座ができると言う情報が入って来ました。総体が石造りの西洋式の劇場で、室内は3000人が収容できる、東洋最大の劇場です。そんなものが出来たなら、新富座はひとたまりもなく倒産してしまいます。そこで守田勘弥は策略を巡らして、東京の看板役者を密かに契約で抱え込みます。

 その際、歌舞伎座には出演しないと言う一文を契約に盛り込みます。そんなこととはしらない歌舞伎座側は、歌舞伎座が建てば役者は皆出たがるだろうと高を括っていました。ところが守田勘弥の策略を知って大慌てになります。

 劇場を建てても役者がいなければお手上げです。それまで勘弥との交渉などは鼻にもかけなかった歌舞伎座役員が平身低頭で、新富座参りをし始めます。勘弥とすれば「ざまぁみろ」。と言う思いだったでしょう。

 然し、この間も看板役者との契約を維持するために、新富座は毎月歌舞伎を打たなければならず、高給取りの看板役者を何人も出演させ、大きな出費を余儀なくされます。こんな時に、如何に奇術が儲かるからと言って、大看板を休ませてまで奇術の興行をするわけにはいきません。結果として天一新富座出演は決まらなかったのです。

 横浜まで来ていて、東京の劇場進出が決まらないと言うのは、天一にとっては痛恨だったでしょう。無論、浅草や両国あたりで仮設興行をすることは可能だったでしょう。然し、天一は、東京のお目見えは何としても劇場に出演したかったのです。その理由については来週申し上げましょう。

 明日は日曜日ですので、ブログは休みます。

続く

 

天一 14 東京進出

天一 14 東京進

 

 天一は、梅乃と明治13年に結婚し、しばらく子供が出来なかったのですが、四国を興行しているときに知り合いの漁師から勝蔵と言う子供を譲り受け養子にします。この勝蔵が後の天二で、二代目天一になります。新古文林では2歳で養子にした。と書かれていますが、実際には5歳でした。頭のいい子で、芸事の覚えもよく、すくすく育ちます。梅乃は舞台の後継ぎができると、その後は次々と子供を産んで行きます。勝蔵も、自分の子供も分け隔てなく育てたようです。

 天一を書いて行くと、天一の個性が強いため、ついつい周囲の人のことはあまり詳しく書きませんが、梅乃は天一にとって理想の女房と言えます。梅乃はしばらく天一のアシスタントをして舞台に立っています。明治20年に十字架の磔(はりつけ)の景を写真を見ると、右手側に梅乃がアコーディオンを持って並んでいます。その脇でラッパを吹いているのが天二です。梅乃は洋装で、帽子をかぶっています。珍しい写真です。天二はこの時12歳でしょうか。まだ体も小さいです。

 梅乃はこの他にも子供がいて、舞台に、子育てに大変だったでしょう。この後東京に新居を構えた後は舞台から離れ、子育てに専念しています。

 一座のマネージメントは、三越幸太郎が引き受けます。梅乃の兄です。あまり大きな体ではなかったようですが、顔が役者のような、まっすぐ鼻筋が通っていて見るからに頭のよさそうな人です。更に幸太郎は、義兄の山田恭太郎を一座に引き入れ、共に一座の事務を引き受けました。

 この時代の一座と言うと、やくざ崩れの得体のしれない興行師が事務員をしていることが多かった中で、天一一座は住友や大丸の番頭でも務まりそうな固い男(幸太郎、恭太郎)を番頭に据えています。このあたりが大きな仕事をして行く上で、信用を勝ち得る大事な決め手となります。これで一座の体制は整いました。

 

 明治20年天一は多忙を極めていました。多忙と言っても依然として、活動の中心は小屋掛けで、大阪ならば千日前に出ていました。装置も整い、一座としての実力も備わって来ましたが、道頓堀の五座には出演できません。なぜかと言えば、千日前の小屋掛けに出続けていたからです。大阪では天一は千日前の芸人と言うレッテルを張られてしまっていたのです。何とかこれを改めさせて、道頓堀に進出したいと考えていましたが果たせません。天一にとってつらい時期です。

 一方、ジャグラー操一の人気はうなぎ登りで、来年には東京進出を早々に決めます。天一は内心穏やかではありません。「一登久師匠の次は何としても自分が東京進出を果たしたい」。と考えていたものを、思いがけなくも素人上がりのジャグラー操一がしゃしゃり出て来て東京進出を果たしてしまう。許せません。天一は、明治21年に上海の興行を予定していましたが、上海などに行っている場合ではありません。なんとしても、明治21年中に東京進出を果たさなければ、世間の話題から取り残されてしまいます。天一は、ジャグラー操一の情報を知ると、即座に上海をキャンセルし、東京行きのための準備を始めます。

 

 明治21年、東京で一大西洋奇術ブームが起きます。まずアメリカからノートン一座が来日し、3月から浜町の千歳座(今の明治座)で一か月の興行をします。更に4月から築地の新富座で半月興行します。これまでも西洋奇術師は頻繁に来日していましたが、20人もの大一座が来て、東京の中心で興行すると言うのは初めてです。

 しかも場所が、千歳座と新富座です。両座は旧来の芝居町の芝居小屋から脱して、東京の中心に進出し近代的な建築物を建てていました。江戸時代は、大きな芝居小屋でも、建物は本建築を認めませんでした。興行はあくまで仮設の扱いだったのです。

 そのため、外見はきっちり建てられていても、礎石を置くことが許されないため、四五年も使っていると、建物全体が傾いてきます。しかも屋根は、板葺きでした。1000人以上も。入る大きな芝居小屋が板葺きでは、近所に火事があると、火の粉が飛んできて、簡単に屋根が燃えてしまいます。大屋根が燃え上がればすぐに大火につながり、周辺一帯は大被害にあいます。

 このため座主は度々瓦屋根を乗せることを奉行所に懇願しますが、奉行所は認めません。結局、270年間、芝居小屋は本建築は認められませんでした。このため、様々な点で芝居見物は不便を強いられます。先ず便所は、芝居小屋の裏に、別に小屋を建てて、地面に穴を掘り、大きな壺を埋め、上に板を渡して、お客様は板をまたいで用を足します。臭気はものすごく、しかも仮設の便所ですので冬は寒く尻を冷やします。そのため、金持ちは、芝居茶屋を通して、食事や用便は茶屋でするようになります。

 それが明治になっても、浅草の猿若町にあった中村座市村座守田座は江戸時代のままの経営を余儀なくされていたのです。同様に、大阪の道頓堀も、五座ある劇場はすべて、江戸時代のままで、便所は大きな壺の上で用を済ませていたのです。権威のある五座と言っても現実は前近代的なスタイルから脱却できずにいたのです。

 こうしたことは、海外から来日した大使や駐在員には不評で、日本が演劇や興行に理解を示さないことは不当だと不満をぶつけます。実際、西洋に視察に行った日本の役人は、パリでもウイーンでも、石造りの立派な劇場を見て圧倒されます。芸能に対する評価が日本と欧米では雲泥の差なのです。そこで明治5年に、興行を猿若町だけにとどめるのではなく、東京の中心に出て劇場を立ててもよいと言う許可を出します。それを待っていたかのように中心街に進出したのが千歳座や新富座です。

 新富座は当時、日本一の劇場で、天井にはシャンデリアが飾られ、ガスランプが各所に配置され、客席も廊下も昼のように明るく照らされています。ロビーも廊下も赤じゅうたんが敷かれ、客席も半分は椅子席になっていました。客席数は1500人。当時としては最新式の劇場です。

 これを建てたのは、守田座の座主、守田勘弥です。実業家としての手腕のある守田勘弥は、いち早く出資者を集め、京橋に劇場を建てます。ところが三年もしないうちにもらい火で焼失します。普通なら座主としても経営者としても命脈を終えてしまいますが、勘弥はへこたれません。

 再度出資者を募って、更に豪華な劇場を築地新富町に建てます。これが新富座です。新富座は日本中の話題を集め順調に興行成績を上げますが、何分京橋の火災が大きな負債になっています。なんとしても興行を当て続けなければいけません。然し、明治の中頃になると歌舞伎は不入りが目立つようになります。西洋演劇や、新派、新劇が出て来て、旧劇(歌舞伎)は圧されて行きます。ここで大きく当てなければ新富座自体の存続が危うくなります。そこで窮余の一策としてノートン一座を招いたわけです。

 それを迎え撃つかのように、ジャグラー操が、浅草猿若町にできた文楽座で興行をします。西洋と東洋の奇術師の戦いが始まります。東京の話題は奇術に集中しました。

続く

コロナ時代にどう生きる 4

コロナ時代にどう生きる 4

 

 昨日(3日)は、「劇場があったらいい」、「マジックキャッスルが日本にも欲しい」。と思っていても、自分自身がお客様を集める力を持たなければ、劇場はできないし、出来ても維持できない。と言う話をしました。

 日頃、お客様とつながりを持って、小さな会でも維持している人たちが、寄り集まっているから寄席が維持されているのであって、何の努力もしないで、出演させてもらおう、と考えていても、それはそれは周囲に負担を与えるだけの人でしかないのです。

 どんな劇場でも何もしないでお客様が来るものではありません。マジシャンにに対して、「お客様を集めて上げましょう」。「出て下さったなら出演料をお支払いしましょう」。と言ってくる劇場はありません。話は逆で、出る以上は、劇場に利益をもたらすタレントでなければ劇場としても出てもらっても意味がないのです。

 私は長いこと、寄席と言うのは、人気者や、実力ある噺家が出ているから人が集まるのか、と考えていましたが、新宿末広亭の席亭が言うには、「別に看板らしい看板が出ていなくても、お客様は来るよ」。と言っていました。実際、人気者が出ていれば、確かに客席の入りはいいのですが、そうした人たちが出ていないからと言って、客席が極端に減るわけでもないのだそうです。

 そのことはつまり、お客様は特定の噺家を目当てに寄席に来ているのではなく、寄席の世界に浸りたくて来ている人が多いのです。こうした点で言うなら、寄席は既に文化になっていて、寄席と言う大きなくくりで、お客様に認知されているのです。

 結果として長い寄席の歴史が底堅い観客動員力を作り上げているわけです。しかしそれもこれも寄席を運営しているから、お客様がどこからともなく湧いて出て来るわけではありません。一人一人の噺家さんが、蕎麦屋の二階などで小さな落語会を開いてお客様とつながりを持っているから、わずかずつでも世間に落語が認知され、それが寄席の観客動員につながっているわけです。

 

 マジックの世界も、私の知るこの40年間でも、何度もマジックキャッスル構想が持ち上がり、実際小型の劇場が何度も出来たのですが、維持できずにどれも数年で終わっています。かつて千葉の舞浜にはウイザードと言うシアターレストランが出来て、日本のマジシャンプラス、アメリカからのゲストマジシャンが出演していました。しかしここも二年くらいで閉店してしまいました。資本家が、マジックに注目してくれることは有り難いことですが、せっかく劇場が出来ても維持できず、話題が広がって行きません。

 このことは日本ばかりのことではありません。アメリカも同様で、本家のマジックキャッスルの成功を見て、何度もアメリカ国内でマジックキャッスルに似たシアターレストランが出来ました。然しどこも長くは続きませんでした。先に申し上げたウイザードは初めにできたのはロサンゼルスだったのですが、そこも維持できませんでした。

 ラスベガスにも、かつてマジックの大きな施設が出来て、クロースアップから、イリュージョンまで、大きなドーム内を巡り歩いているうちに、いくつものショウを見られる企画が生まれましたが、残念ながら続きませんでした。アメリカですら、音楽のライブや、演劇、サーカスを見ると言う文化ほどにはマジックを見る文化が定着してはいなかったのです。

 日本のマジシャンも、アメリカのマジシャンもよくよく見ていると、マジックのエフェクトには興味があっても、目の前にいるお客様の心の奥を掬い取ることを考えていないのではないかと思ってしまうマジシャンを多々見ます。

 彼らマジシャンは自らが演じるマジックの不思議に没頭するばかりで、マジックを自分の世界に引き込んで自己の楽しみに浸っているように見えます。アマチュアならそれでもいいのですが、プロであるなら、まず目の前にいるお客様をしっかり見つめてお客様の求める夢の世界を確実に具現させてみなければいけないのです。

 自分にとって都合のいいマジックではなく、お客様の役に立つマジックをしなければいけません。役に立つとはどういうことか、それを日頃からお客様と仲良くなって、お客様の心の内を探っていなければわからないことです。

 お客様の気持ちに立ってマジックをするマジシャンが大勢出て、そのマジシャンが自らが住んでいる町で毎月ショウを開催し、ささやかでも観客を持つようになって、マジシャンが数多く結束して、ようやくが外部の資本家が、劇場建設を考えるのです。

 

 それを今、私はささやかながら、人形町玉ひでで毎月実践しています。そこからマジシャンが育ってきたなら、毎年劇場で開催している、マジックマイスターに出演してもらいます。更にそこで実力が付いてきたなら、これも毎年開催している、マジックセッションに出演してもらいます。セッションは東京と大阪で開催していますので、両方に出演するチャンスがあります。

 更に、毎年福井で開催している天一祭のゲストに出演してもらいます。また、私が年に一度開催している私のリサイタルのゲストにも出演してもらいます。何とか、次々と舞台出演をしてもらいたいと考えていますが、それには、確実にお客様が見えていて、お客様に喜んでもらえるようなマジックを演じられる人でなければ出演できません。

 自分の世界に閉じこもっていてはマジックは発展しません。私は残りの人生で劇場を一軒建てようと考えています。然しその劇場がうまく運営できるかどうかはマジシャンがお客様を呼べるかどうかにかかっています。イフェクトの研究も結構ですが、お客様とどう向き合うかを真剣に研究するマジシャンが現れない限り、マジックの専門劇場は、砂上の楼閣のごとく、出来ては消え、出来ては消えを繰り返すだけなのです。

コロナ時代をどう生きる 終わり

コロナ時代にどう生きる 3

コロナ時代にどう生きる 3

 

 噺家さんの独演会の話をしたら、興味を持っている方が多くいたため、もう少しお話ししましょう。

 噺家は、東京と大阪で、450人くらいいます(色物は除く)。演芸の中では最大勢力です。人数が多い分、中で生きて行くことは大変だと思います。マスコミに出て、司会や、ディスクジョッキーなどしている人は、それなりに知名度を得て活躍しています。が、古典落語を専門に話すとなると、かなり地味な活動をして日々苦労している人を多々みかけます。将来を不安視している人もいます。

 ところが、常に新しい弟子は集まってきますし、客層も、高齢者は多いのですが、常に安定して人を集めています。なぜ落語ばかりが安定しているかと考えるなら、彼らは寄席を大切に守っているからでしょう。

 東京の噺家は、4軒の寄席と契約をして、毎月、毎日公演する場所を維持しています。東京には、二つの落語の協会があり、(落語協会落語芸術協会、他に円楽一門と、立川流の組織があります。円楽一門、立川流は4軒の寄席には出演していません。)そこに所属する噺家が、交互に寄席に出演することで活動をしています。大阪では、上方落語協会が、繁盛亭と言う寄席を作り協会が寄席を維持しています。

 寄席にはそれぞれ経営者がいて、噺家は直接経営には関与しません。寄席の経営者は席亭と言い、寄席を運営しつつ、時折重要な会議では、協会と対等に発言する力を持っています。江戸の昔から席亭の発言力は大です。

 寄席の規模は概して小さく、100人から200人程度の劇場です。舞台も床の間のように小さく、足袋裸足で上がって座布団に座って噺をします。マジックなどの場合は立ちで演じます。マジックや漫才、曲芸は色物と称し、協会に所属している専門の人たちが出演します。形は噺家に従属していますが、実際はゲスト扱いされ、寄席に出演する機会も噺家よりは数多く出られます。

 寄席の出演料は、「割り」と言う形式で支払われます。その日の入場者の数を、協会と、席亭とで半分に分け、協会の分を出演者の数で割って支払われます。昼と夜の公演では出演者が違うため、昼夜合わせると30本も出演します。その30本の出演者が、100人から200人程度のお客様の入場料を分けるわけですから、収入はわずかです。

 然し、噺家はそれを厭(いと)いません。知名度のある噺家ですら、年に何十日かは必ず寄席に出演します。テレビのレギュラーなどをずらして出演することは、経費を考えたなら見合わないはずですが彼らは出るのです。

 それは、自分の弟子が修行をする場となると、やはり寄席は必要ですし、弟子が真打になるなどと言う時には、真打披露をしなければなりません。その時には、仲間の噺家に手伝ってもらわなければならないため、日頃の義理は欠かせないのです。

 いろいろな意味で、寄席と噺家のつながりは日本的なシステムで成り立っています。理屈ばかりでは運営できません。

 

 噺家は、演芸の世界で、寄席を維持しているため、活動が安定しています。寄席に毎日出ていることで、噺の稽古に役立ちますし、寄席に来たお客様からパーティーや、イベントの依頼を受けることもあります。寄席ファンが独自に開催している地方の寄席に招かれるたり、学校公演などもあり、日本全国の市民会館の主催する落語会などの依頼も数多くあります。更に、仲間が持っている自主公演に頼まれて噺をすることも多々あります。

 落語そのものは外部から見たなら、あまり目立った活動をしているようには見えませんが、実際には、こうした活動に出演することでかなり安定して生活している噺家もたくさんいます。

 

 こういう話をすると、マジシャンは、「落語家はいいよなぁ。専門の劇場があるから生活に困らないんだよなぁ。誰かマジシャンに劇場を作ってくれないかなぁ」。

と、まるで人ごとのように劇場ができることを待っている人があります。これはマジシャンのとんでもない勘違いです。

 席亭と言う、噺家でない人たちが、寄席を建てて、経営すると言うことは、そこから利益が上がらなければ経営は無理です。席亭は、噺家の理解者ではありますが、善意で経営しているわけではありません。外部の人に芸能の協力者になってもらいたいと考えるなら、わずかでも利益が出なければ無理です。空を仰いで、「誰か劇場を作ってくれないかなぁ」。と眺めていても、誰も協力者にはなりません。マジシャンと付き合ったなら儲けさせてくれる、と言う約束がなければ誰も協力してはくれないのです。

 マジシャンと付き合うと儲かるとはどう言うことかと言うなら、簡単に言えば、マジシャンにお客様がいるかどうかと言うことです。毎日運営している寄席に、出演者の一人一人が何人お客様を呼んでいるか。と言うことが大事なのです。お客様を呼ぶ力のある人が出演するから、寄席にお客様が集まるのです。

 実力あるタレントや、有名タレントにぶら下がって、出演している以上、それはいてもいなくてもどうでもいい芸人なのです。噺家がなぜ寄席に毎日出演できるかと言うなら、噺家が日頃、毎月独演会を開催しているからなのです。彼らはわずかではあっても自分でお客様を呼ぶことが出来るのです。そうした噺家が、30人40人集まることで、毎日寄席はお客様が絶えないのです。

 マジシャンはこの部分を勘違いしています。「誰かがマジックキャッスルを作ってくれれば、出演できる」。「そこに有名マジシャンが出たならお客様が集まる」。とまるで、全てを人ごとに考えて神頼みばかりしています。そうしたマジシャンに私は問います。「あなたは一体、お客様を集めるために今、何をしているのか」と。何一つ、自らの体を動かすことなく、仲間にメールや電話をして人集めをすることもなく、「マジックの劇場が出来たらいい。お客さんが来たらいい」。と願っていても、百年経っても劇場はできないし、人は集まりません。今の状況は何も変わらないのです。

 一人一人のマジシャンが、30人のお客様を集め、月に一回マジックの会を開催することで、初めてマジックは世間に認知され、初めてそこから協力者が生まれるのです。そうした地道な活動を続けるマジシャンが、百人育ったときに、はじめてまじっくキャッスルを作ろうと言うスポンサーが現れるのです。

 勘違いをしないでください。マジック界が恵まれていないから劇場が出来ないのではありません。あなたが世間に認められていないからマジシャンの境遇が不幸なわけでもないのです。あなたがお客様に無頓着で、芸能の世界にいながら、少しも人とつながる努力をしていないから、今の境遇が変わらないのです。

続く