手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

コロナの時代にどう生きる 2

コロナの時代にどう生きる 2

 

 昨日(2月1日)に、どんな状況であれ、常に人にマジックを見せ続けなければいけないと言う話をしました。もっと詳しく聞きたがる方が何人かいましたので、続編を書きます。

 コロナ災害に接して考えることは、いざとなると芸能と言う立場は脆(もろ)いと言うことです。どんなに実力があっても、収入を上げていても、知名度があっても、舞台に立ちたい、出演したいと思っても、先ず主催者に招かれなければ公演することは出来ません。その主催者も、劇場を借り、音響、照明を借り、司会者を借り、スタッフを借り、と、何から何まで借り物で寄せ集め、ショウを立ち上げます。ショウとはすなわち虚像のことなのです。そこに自分のものは何一つありません。

 そうした中で実と呼べるものは、当人の芸の力でしょうか。「自分を求めて人は必ず集まる」。と言えるタレントならなら大したものですが、実際公演してみるとさほどに受けなかったり、お客様の反応が今一つだったりすると、「一体自分のよりどころはどこにあるのだろうか」。と不安になってしまいます。

 全く、50年以上舞台に立っていても、少しも実のある芸を掴むことが出来ません。いや、芸とはそもそも実のないものなのです。舞台に立って、いつもの演技をしていても、長くやっているから何となく及第点を取って、かたちばかりのものを見せてはいますが、それでもお客様の気持ちを細かく掴んでいるかどうか、その実態はつかめていません。いつもひやひやしながら手探りで演じています。

 

 話を戻して、いつでも受け身で仕事を待っていると、ある日突然全くショウの依頼が来なくなります。私が経験した話で言うなら、昭和の天皇陛下が倒れられた昭和63年の夏から半年間。そして、バブルが完全に崩壊した平成5年から3年間。そして、令和2年から今にまで続くコロナ災害です。天皇陛下の時も、バブル崩壊の3年間の時でも、全く依頼が来なかったわけではありません。小さな仕事は来ていたのです。それが今回の災害は二重三重に舞台活動を圧迫しています。

 そもそもショウの依頼が発生しません。決まりかけると政府や、地方自治体が非常事態宣言をして止めてしまいます。GOTOキャンペーンもどこかに消えて行ってしました。それでも何とか公演の開催にこぎつけると、風評被害を煽るマスコミや、個人の監視員がいてお客様の足を遠ざけてしまいます。

 私の親父が昭和19年20年に、ギターを持って演芸をしに行こうとすると、表で国防婦人会や、憲兵に掴まって、「この非常事態に何をしているんだ」。とこっぴどく叱られたそうです。「いや、歌を歌ったり、ばかばかしいことを喋っているんです」。と言うと。「それなことをしていてアメリカに勝てると思っているのか」。と怒鳴られたそうです。親父はアメリカと戦う気持ちなどありません。戦って勝てる自信もないのです。面白おかしく生きて、人の喜ぶ顔が見たかっただけなのです。

 今の時代でも国防婦人会は存在しています。人のあら捜しをして大袈裟に騒ぎ立てています。さて、こんな時に我々はどう生きて行ったらいいでしょうか。

 実際舞台の収入は大きく減少しています。それでも全くないわけではありません。ほかに指導の収入などもあります。それを合計したものが年収です。これを基に生きて行けばいいのですが、それではあまりに受け身です。

 依頼を受けての舞台活動のほかに、私は、年間5本程度自主公演をしています。更に、毎月玉ひでの座敷で手妻を演じています。玉ひでは少ない人数の前で見せていますので、収入はわずかです。それでも収入があります。

 今の私にできることは、この自主公演の部分を充実させてゆくことだろうと思います。わずかでも収入になって、人前で演技ができるなら、そうした活動の場は増やして行かなければなりません。

 

 私は昔から噺家さんと付き合いがあり、噺家さんが日頃どういう風に活動しているのかをつぶさに見て来ました。彼らは、実に熱心にお客様を作る努力をしています。お客様にスポンサーになってもらうように事あるごとに働きかけます。そうして町の寿司屋さんや、蕎麦屋さんの二階で毎月一回、独演会を開催しています。場所は無料で借りて、来るお客様には蕎麦や寿司を食べてもらい、食事代プラスアルファー入場料を頂きます。入場料が、噺家の収入です。これはすなわち私が玉ひでで行っているシステムと全く同じです。

 独演会では、メインの噺家が二席話し、他に弟子や、仲間に出演してもらいます。至って小さな会ですが、仲間に依頼して、公演しますので経費はわずかです。噺ですから、音響照明もいりません。舞台もありません。座敷に座って話をするだけです。マジックで言うならクロースアップか、サロンマジックの規模です。

 とにかく経費を掛けないようにして、出演の場を維持して行きます。こうした話の会は、噺家たち殆どが持っています。古典落語と言う、なかなか一般のイベントには売りにくい芸能を、何とか維持するために彼らは地道な活動を続けているのです。

 私は、マジシャンも、こうした活動をして行くべきだと考えます。依頼された仕事だけをしていては、ある日仕事が途絶えた時に、全く先に進めなくなってしまいます。それがすなわち今のコロナ災害の現状です。そうなった時に、自分にお客様がいないことに初めて気づくようでは遅いのです。

 常日頃から、自分のお客様を作る努力をしておかないと、なん十年マジックをしても、何も実になるものが残りません。実とは何かといえば、何か自分で催しを開いたときに、10人でも20人でもお客様が集まってくれることが実です。

 そのために、常日頃から、マジックの会を開くことを心がけることです。マジシャンが毎月一本の自主公演を作り上げたなら、そこにゲスト出演するタレント二組も含めて三組のマジシャンが出演できます。それを100人のマジシャンが100か所の公演場所を作ったならば、毎月300人のマジシャンがショウに出演することになります。そうすると年間を通して3600人のマジシャンが出演の場を持つことになります。仲間同士ゲストになり合って活動して行けば、小さな仕事場ではあっても、確実に毎月何本か、出演の場ができるわけです。

 自主公演は収入としてはわずかなものですが、マジシャンが確実に人に見せる場を持っていると言うことに価値があります。「演じる場所がない」。「お客さんがいない」。と嘆いてばかりいないで、まず自分自身が出演場所を作り、お客様を作って行かなければ、誰も注目してはくれないのです。

 自分たちの活動の場は、自分たちで作らなければいけません。待っていても誰もマジシャンのために働いてはくれません。先ず、自分で自分の活動の場を作って行くのです。そうすれば、どんな災害があっても、不況が来ても、マジシャンは全く外部のイベント会社やマスコミに頼ることなく、活動して行くことが出来るのです。

続く

コロナの時代にどう生きる

コロナの時代にどう生きる

 

 天一の話が長くなりましたが、ここでインターバルを取りましょう。

 平成3年も2月を迎え、コロナは一向に収まりません。このままでは緊急事態宣言を1か月延ばす可能性が強まっています。多くの人はそれを致し方ないと受け止めているようですが、そうなると、より一層多くの企業、自営業が倒産します。

 つい2年前までは、中国や、韓国の観光客が押し掛けて来て、連日ごった返していた、東京の浅草や、大阪の道頓堀も、京都のお寺さんも、街は閑散としています。

 私を支援してくださっている、大阪のお好み焼きチェーンの千房さんは、関西地域に約70店のチェーン店があり、多くは大阪の北と南に集中しています。然しこれが今は苦境に立たされています。

 浅草の土産店に森銀と言う銀細工師のお店があります。銀でできた鈴や、名札や、干支を切り抜いて携帯電話のストラップにしたりして、高級な細工物を販売しています。平年の正月なら、一店で一日100万円の売り上げがあるそうです。それが観光客が激減し、売り上げが十分の一になっています。私の手妻の道具の銀金具を作ってくれる飾り職人のお店なのですが、今は全く仕事にならないそうです。

 同様に箱長さんです。箱長さんは桐箱に、木目込みで描いた柄をあしらったデザインで有名なお店ですが、私の手妻の道具をいくつも作っていただいています。ここも売り上げが十分の一だそうです。こうした職人のお店は、仮に倒産してしまうと、景気が戻ったからと言って簡単には復活しません。人が持っていた技術が途絶えてしまうのです。頼めばいつでも仕事をしてくれていた人たちが、もう二度と戻ってこない貴重な人たちなのです。

 かつて、観光立国などと言って、たくさんの観光客を呼び込み、賑わっていた観光地が今はどこも壊滅的な打撃を受けています。昨日(1月31日)は、柴又の料亭、川甚さんが店を閉めました。柴又で川甚と言えば大きな川魚料理屋さんですが、コロナの影響で閉店に至りました。お店とともに百年以上の歴史が消えてしまうことが残念です。

 

 草津温泉のお湯がコロナの感染防止に役立つと言う話は朗報です。いいですね。ぜひ草津の湯で手を洗い、食器を洗って、感染防止に役立てましょう。ボトルに詰めて販売しては如何でしょう。他の温泉地も、成分を調べて見てはどうでしょう。

 効果があれば、湯の花として売られている、硫黄の粉末なども、これまでは水虫の治療薬として使われていましたが、コロナに活かせるとなれば大きなチャンスが生まれます。日常の入浴や、洗顔、手洗いや食器洗いに役立つかもしれません。

 

 こうした状況下で、芸能はどのように生きて行ったらよいのでしょうか。アメリカは、マジックキャッスルも、ラスベガスのショウも、ニューヨークの劇場も、軒並み閉鎖です。日本の数十倍の感染者がいるアメリカでは、未だショウビジネスは混とんとしています。マジシャンは一体どうやって生きているのでしょうか。

 これ以上コロナが長引けば、マジックキャッスルも倒産しかねません。50年続いた歴史が、コロナであっけなく消えてしまうのは残念です。長らくキャッスルに縁があって、出演していたものとしては心配です。然し、私の力ではどうすることもできません。ただ、ただ存続することを願うばかりです。

 

 アメリカの心配をするよりも、日本国内をどうにかしなければいけません。現実に仕事が来ない、見せる場がない状況で、マジシャンはどう生きて行ったらいいのでしょうか。私の答えは、見せる場を作ることです。どんな場所でもいいから、必ず毎月どこかでショウをすることです。

 私自身が人形町玉ひでさんで月に一回ショウを開催していることはその例です。玉ひでのショウで私のチームや家族が生きて行けるものではありません。収入よりも続けて行くことが大切です。常に演じていて、どこかで見せていないと、お客さまとも気持ちが離れてしまいますし、自身の腕が落ちてしまいます。

 「そうは言っても、世間では人を集めてはいけないとか、密にならないようにしなければいけないなどと言われて、ショウができにくい状況にあるでしょう」。その通りです。それでも見せる場を作ることです。

 ショウが出来ないからと言って、ネットで演技をしていても、それは実演の効果は生みません。種明かしなどはもってのほかです。レクチュアー指導も小銭稼ぎにはいいかもしれませんが、あまり意味はありません。そんなことをしていては、実演家としての能力がますます遠のくばかりです。

 どんな場所でも結構ですから、毎月一日でも多くマジックが見せられる場所を確保することです。知人の経営するレストランでも、バーでも、見せられる場があるなら無料でもいいのです。とにかく毎月確実にマジックを演じていなければいけません。

 場合によっては野外でもいいのです。人が見てくれる、寄ってくる、そんな場があるなら恥ずかしがらずにどんどん見せて行くことです。やる場がないのではなく、あなたがやろうとしていないだけです。人はマジックが見たいのです。

 そしてなるべく仲間を作って、一緒に出られるようにすることです。演技が終わったなら話をしたり、マジックを見せ合う時間を作ることです。自分一人で落ち込んでいても何も生まれません。他の仕事をしたらマジシャンとしての上達はありません。

 こんな状況が長く続くものではありません。必ず時期が来れば芸能は復活します。その時のために、自分のマジックは休まず演じ続けておかなければいけません。

 

 よく、いつまでコロナが続くのか、と尋ねられますが、私は医師でもなければ予言者でもないので、いつまでコロナが続くのかはわかりませんが、知りあいの優秀な医師によると、ワクチンが入って来る二月の末には今の過熱した報道が一気に収まるだろうと言っています。そして、3月になると、陽気が温かくなりますので自然にコロナは収まると思われます。そして徐々にワクチンの効果が出て来て、収束して行くと言っています。

 但し、変異型のコロナが出て、それが今のワクチンでは効かないとなると、もう少し長引くかもしれません。と言うことでした。

 いずれにしましても、この一か月がピークではないかと思います。何をやってもうまく行かないと言う悪循環な立場にいるときに、それが好循環になるように立ち回らなければ成功は来ません。誰かがそうしてくれるのではなくて、自分自らが好循環を作り出そうと活動しなければいけません。

 当たりを見渡しているだけではだめです。まず自分が立ち上がることが第一です。そして逃げずに、正面から難問にぶつかって行かなければいけません。嘆かず、閉じこもらず、こんな時こそ仲間を作って、ショウ活動を続けることです。

 玉ひでは毎日、申込者が一人、二人とメールや電話があります。有難いと思います。これは私にとって心の支えです。決してマジックに需要がないのではありません。人はみんなマジックを求めているのですから。

続く

天一 13 屈して伸びる

天一13 屈して伸びる

 

 明治13年の千一前での西洋奇術旗揚げ興行以降、21年の東京進出まで、天一は何をしていたのでしょうか。この8年間はほとんど資料がなく、天一謎の時代です。わずかな資料を基に、私の推測も交えてお話ししましょう。

 大道具も水芸も手に入れた天一は、これで日本一の奇術師として順風な活動を続けていたのかと言うと、どうもそうではないようです。まだ天一の行動にはいかがわしい部分が多々あって、失敗も数々しています。

 明治15年12月25日に名古屋の真本座で興行した際に、「明日、火渡りの術をする」と町に触れを出します。それを聞いて見物客はたくさん集まりましたが、一通り奇術を演じた後で、「今日は時間がないので火渡りはお休みです」。と言って終わろうとしたところ、観客が「金返せ」と大騒ぎして、終始が付かなくなり、座元と、天一が舞台で謝って、観客の前で、翌日必ず火渡りを演じる、と証文を書いたそうです。(見世物興行年表 愛知新聞の記事)

 恐らく真本座での観客の入りが悪かったのでしょう。窮余の一策で火渡りをすると触れ込んで人集めをしたまではよかったのですが、やらずに逃げることは出来なかったのです。天一はかつて、和歌山で火渡りの失敗を経験したため、その後に火渡りの仕方は調べてあったはずです。できるにはできたのでしょうが、昔の火傷の痕を衆人に晒すことは恥ずかしかったのでしょう。それでも忌まわしき火渡りを持ち出して、人集めをしなければならないほど、明治15年末の天一一座は運営に詰まっていたのでしょう。

 この記事を見ると、まだ天一は、人を集めるのに、タネ仕掛けに頼っていることがわかります。自身の工夫、自身の魅力が未だ未熟なのです。

 明治16年に京都の亀の屋と言う劇場に出演していた時に、楽屋で火薬の調合をしていた際に爆発し、顔に火傷を負い、病院に担ぎ込まれた。(見世物興行年表 京都絵入り新聞)。天一は、舞台で頻繁に火薬を使います。それを自身で調合していたようです。天一には、火難の相があるようです。なんにせよ、顔に大火傷を負っては興行も中止せざるを得なかったでしょう。

 天一は、病院のベッドで一週間くらい天を仰いで自分を見つめる日々だったと思います。それはちょうど12年前の和歌山の旅館でひと月寝込んでいた時と同じ状況です。

 世の中が悪いのでもなければ、自分が不運なのでもない。自分が未熟なのです。自身がどうにかならなければ今の状況は決して良くならない。と言うことを嫌と言うほど思い知らされたのでしょう。

 この火傷以降、天一の人間が一回り大きくなったと言えば、偉人伝にふさわしい展開になるのですが、恐らくそう簡単に人は偉人にはならないでしょう。数多くの失敗を経験して行く中で、自身が鍛え上げられて行ったのでしょう。

 

 一方一登久は、天一に旧式の水芸を売ったのち、明治15年秋に東京に進出ます。初めに横浜で二か月間興行し、反応を確かめた上で、明治16年の正月から、浅草の小屋掛けで水芸の興行を始めます。これが空前の大当たりで、正月の浅草の人出を当て込んで始めた興行ですが、日延べを繰り返し、春になり、五月に至るまで、五か月間のロングランを達成します。この時の様子を、新聞記者だった成島柳北が絶賛し、詳細に一登久の水芸や人柄を紹介しています(観幻戯記)

 一登久の狙い通り、一登久の工夫した水芸は、東京の観客には珍しく映り、また、一登久の人当たりの柔らかさ、面白さが受けて、一登久はたちまち東京でスターになります。ここから10年間が一登久の全盛期です。然し、明治21年天一が東京に進出してくると、徐々に人気が天一に移って行きます。

 まさかあの時、なにかれとめんどうを見てやった天一が、こうまで早く東京に出て来て、自分をしのぐ存在になるとは予想もつかなかったでしょう。

 

 一登久の東京での成功は天一も大阪で伝え聞いていたでしょう。無論、早く東京に出たいとは思っていたでしょうが、まだ自身の芸に絶対のものがないし、しかも、今自分が出て行っては一登久に迷惑がかかると思ったのでしょう。あれこれ思案しつつ躊躇していたのでしょう。然し、その頃、天一の成功を揺るがすような男が現れます。ジャグラー操一です。

 ジャグラー操一は、安政5(1858)年、大阪の作り酒屋の息子として生まれます。恵まれた生活の中で、奇術に興味を持ち、今日のアマチュアマジシャンのような活動をしていたのですが、明治13年に中座の帰天斎正一の舞台を見て感動し、プロを目指すようになります。こうして見ると、帰天斎の舞台は、この後の明治を代表する奇術師となる、松旭斎天一ジャグラー操一を育てたことになります。

 但し、当初の操一は、小わざのマジックに興味があったらしく、縄抜けや、メリケンハットを得意にしていたようです。メリケンハットと言うのは、明治期に入ってきた西洋奇術で、よれよれの帽子を裏表ひっくり返して見せているうちに、煙草の箱が幾つも出てきたり、絹ハンカチや、紙花、毬、カップなど、様々な品物を出す奇術で、道具立てが少なくて済むため、明治から昭和にかけての奇術師がよく演じていた演目でした。

 その先駆けとなったのがこの時期の操一の帽子の演技でした。当初は寄席に出て、話題を集めていたのですが、徐々に大道具を演じるようになり、読心術などを始めて、大きな舞台に出演するようになります。そして、いつしか、天一と同じように東京進出を考えるようになります。

 天一が、自分自身をどの程度の奇術師と考えていたかを推測すると、一登久よりも、帰天斎よりも、奇術師としては優秀だと自負していたと思います。それは、一登久が曲独楽師としてのスタンスを生涯持ち続けていたところから、一登久にとっての奇術は片手間の余技であったと思います。同様に帰天斎も落語家が本業だったわけで、喋りの面白さは絶妙であっても、やはり奇術は余技であったと思います。

 そうした先輩から比べたなら天一の技は、音羽の師匠から手妻を習い、ジョネスから西洋奇術習い、技はより本物だったと思います。然し、ここに強力なライバルが現れます。操一は金持ちの息子で、幼くして、西洋奇術の訳本などを買ってもらい、大阪で奇術好きの仲間と交わって奇術の研究をしていたのです。生まれついてどっぷり奇術に浸かって育っていたのです。

 その頃天一は、山伏にくっついて、狐落としを習ったり、異人妾にうつつを抜かして剣渡りをしていたのですから、スタートからして差がついています。

 それでも初め、天一は操一を大した奇術師とは思っていなかったようです。それが、大舞台に出るようになって、演技をつぶさに見てみると、自分よりもはるかに奇術師としての腕は優れていることに気付きます。天一は内心恐々としたでしょう。しかもその男が虎視眈々(こしたんたん)と東京進出を狙っていたのです。

続く

天一 12 東京進出まで

天一 12 東京進出まで

 

10年の思い

 私が「天一一代」を書き上げたのは2012年でした。それから9年。今回、もう一度天一一代を読みなおしつつ、天一の足跡を書き綴ってみると、話の内容は大きくは違わないのですが、私自身が年齢が経っていますのでその時その時の天一がどう考えたかと言う心の動きがよく分かるようになりました。

 日々、必死で生きていた天一でしたが、私自身の人生と比べて眺めて見ると、なおさらその時の天一の心の動きがより鮮明にわかります。これは新たな発見です。実際天一は60歳で亡くなっていますが、今の私は66歳です。天一以上に長生きした者が天一を見ると、また新たな発見をするのが不思議です。物を書くと言うことはこうした楽しみ方もあるのかと実感します。

 

天一 12

 さて、千日前の興行を終えて、天一は、二月、三月と大江橋の小屋掛けで西洋奇術をしています。この時は音羽瀧寿斎で出ています。この後心機一転、松旭斎天一と名を変えることになります。帰天斎から大道具小道具を譲り受け、内容は充実してきましたが、まだ大砲術は入手出来ていませんし、水芸も旧式のもので一登久のような華麗な装置にはなっていません。

 先輩たちの西洋奇術と比べると、これはと言う得意芸が育っていません。何とかしなければいけないと、日々苦悩していたことでしょう。舞台は忙しくなっても、まだまだやらなければならないことが山ほどあったのです。

 

 一方帰天斎はこの後数年、大舞台で興行しますが元々寄席から出てきた人ですし、帰天斎の得意芸は話術です。1000人の劇場よりも200人くらいの寄席のほうが帰天斎本来の面白さが伝わります。しかも大きな劇場は当たりはずれも大きく、大阪の時のような空前の大当たりはその後は望めなかったようです。

 やがて帰天斎は大道具を演じることを止めて、手伝いの数も減らして小さな劇場に出るようになります。そうなると大道具を抱えきれなくなり、一つ、また一つと天一に譲り渡して行きます。然し、大砲術だけは譲りません。帰天斎もこれだけは相当に愛着があったのでしょう。これを譲るのは明治21年以降です。

 

 一登久はどうでしょう。実は、一登久は、正月の道頓堀で帰天斎の人気に敗けたことがよほど悔しかったようです。いち早く西洋奇術を覚えて大舞台に掛けたのは一登久が先です。元々曲独楽を得意にしていて、日々道具の改良に余念のなかった人ですから、一作、一作が自分の考えが入っていて独創的です。陽気で喋りも達者でお客様を飽きさせません。人としての魅力も十分にあったと思います。

 一登久からすれば、東京で帰天斎が噺家をしていて全く食えない時代があったことを見ていたはずです。そして、苦し紛れに奇術師になった時も、やっていることは全くの素人芸にしか見えなかったと思います。喋りもおかしな西洋なまりを真似て笑わせていますが、それは流行語のようなもので話芸とは言えません。いつか飽きられるでしょう「こんな芸で売れるわけがない」。と思っていたはずです。

 一登久からすれば帰天斎は全く相手にするような芸人ではなかったのです。それが大阪にやってきて話題を独占して行きます。どうして帰天斎に敗けたのか、一登久には見当もつきません。

 これは私も経験のあることですが、人の人生には大きな波があります。売れ出した時の芸人は何か神がかったような勢いがあって体からオーラが出ていて、何を言っても面白く、何をやっても許され、無敵の力を発揮します。どんな芸のある先輩でも、不思議なことをする奇術師でも、物ともしないような力が備わるのです。一登久は運悪く帰天斎のピークに遭遇してしまったのです。

 一登久は東京進出を考えます。「あんな芸で成功するなら、自分が東京に出たならきっと帰天斎を超えられる」。なんとしても、芸の実力を見せつけて帰天斎を見返してやりたかったのでしょう。

 この時点で一登久は30代末です。明治16年に東京進出を果たしますが、その時40歳です。40歳にして東京に出て、名前を、一徳から一登久に改名します。名前を変えてまで心新たに東京進出に挑んだ一登久の心の内は、よほどの思いがあったのだと考えます。遅咲きどころか最晩年の決断と言えます。

 道頓堀以後一登久は休む間もなく水芸の改良に入ります。東京に出るとなると今の水芸ではまだ不十分です。もっともっと人が目を見張るような水芸にしなければなりません。衣装も自分自身のみならず弟子、手伝いに至るまで、豪華できれいな衣装をそろえたいと考えました。一座が仮に20人いて全員が東京に出るとなると、旅費や、宿泊費など費用がかさみます。そうなると相当に大きな資金が必要になります。

 その資金をどこで調達するかと考えた時に、天一に旧式の水芸を譲って新規に自分のアイディアを加えた装置をこしらえ、東京に出ようと言う考えに至ります。

 そこで天一に相談を持ち掛けます。天一は一登久から水芸を譲ってもいいと聞かされたときには、我耳を疑ったことでしょう。こうも易々と願いが達成されるとは思わなかったはずです。但し、使用許可料と装置代金は当時の天一にはとんでもなく大きな金額だったと思います。然し、機を見るに敏な天一は、これを逃してはチャンスは来ないと判断してすぐに買取を了解したことでしょう。あちこち金策に走って、方々頭を下げて回ったことでしょう。大きくなると言うことは、人に頭を下げて味方になってもらうことなのです。

 恐らく天一が一登久の水芸を譲り受けたのは、明治14年でしょう。一登久は明治15年秋には横浜に出て興行していますので、その前年までには支度金を用意しておきたかったと思います。天一にすれば、明治13年の道頓堀の興行を見た時には、到底追いつけないと思った二人の先輩の芸が、それぞれの思惑から思いがけずも天一の望む方向に進んで行きます。天一は自身の運の良さに驚いたのではないかと思います。

 実際天一は幸運の持ち主です。この先もずいぶん運に助けられます。

続く

天一 11 芸の完成

天一 11 芸の完成

 

 天一は、ひたすら帰天斎や一登久の芸を見たり、道具を譲り受けるなどして、持ちネタを増やして行きます。帰天斎は、大阪の興行の後も関西方面のあちこちの劇場で半年くらい興行していたようです。天一は、帰天斎の興行先には必ず出かけて行ったでしょう。あまりに熱心に寄って来られては帰天斎も邪険には出来なかったでしょう。

 実は天一は、帰天斎の演じていた大砲術が欲しかったのです。あれこそ堂々とした天一が演じるにふさわしい演目です。然し、さすがに帰天斎もトリネタである大砲術は譲れませんでした。天一としては種仕掛けは何度も見ているうちにわかりましたが、帰天斎に無断で大砲を作ることは出来ません。

 要は、天一が演じることの許可が欲しいのです。然し、帰天斎は大砲を許可しませんでした。天一は、芸能の社会で生きることの難しさを知ります。天一は、ひたすら、帰天斎や一登久に接近し、二人の道具を買い取り同時に二人の芸を学びます。然しそれだけではどうしても超えられない一線があるのです。

 この先の話を種明かしすると、結果として天一は、一登久の水芸を手に入れます。水芸も、帰天斎の大道具も手に入れて、さぁ、この先東京に進出して華々しく日本中で興行して行けばよさそうなものですが、そうはなりません。

 天一は、明治21(1889)年になって東京進出します。その時には帰天斎も一登久をもしのぐ実力の奇術師として登場します。明治13年以降、21年までに何があったのでしょう。無論、昼も夜もなくひたすらあれこれ考えて舞台活動をしていたのでしょう。

 然し、それにしても明治13年に西洋奇術の一座を立ち上げて、その後8年間も大阪で足踏みをして東京進出の機会を待っていたことになります。天一の年齢で言うなら、明治13年は28歳です。28歳のデビューと言うのは、現代でも遅いくらいでしょう。人の寿命が50年と言われていた明治期なら相当に遅咲きの芸人と言えます。そして、東京に出た明治21年は、36歳です。明治なら中年、或いは初老の歳です。

 なぜこうまで天一は東京進出をためらっていたのでしょう。それは、恐らく、帰天斎と一登久との兼ね合いだったと思います。彼らに少しずつ自分を納得させて、彼らと悪い関係にならないように配慮しつつ自らの地位を築いて行ったのでしょう。

 天一が、大砲術を作ろうと思えば作れたはずです。しかし天一は無断では道具は作りません。同様に、水芸も道具を買い取ったからと言って、あからさまに一登久の向こうを張って勝負を挑むことはしなかったのです。終生先輩を立て続けたのです。こうした点天一は慎重であり、大人なのです。

 若いころの天一は向こう見ずで、無茶を平気でやるような男でしたが、ある年齢に達してからの天一は実に義理堅く、誠実な人柄に変わっています。これはある意味天一が越前(福井)に生まれたことに大きく関係しているのかもしれません。

 およそ天一と言う人の人生を見ていると、舞台の上でも、普段でも、行ったことのない国に行ったとほらを吹き、ヴィルヘルム皇帝の前で奇術を見せただのと、いい加減なことを言って世間をけむに巻くような人なのですが、その実天一は用意周到で、堅実な人でした。

 決して思い付きで行動せず、じっくり周囲を見て様子をうかがって、その間に実力を蓄えてから行動します。全く雪国の人のような辛抱強い性格を持っていて、根は生真面目で堅実な人なのです。そのいい例が、8年も東京進出をためらっていたことです。

 力を蓄えつつ、尊敬する先輩に嫌われないように、細心の注意を払って東京進出を考えていたのでしょう。

 

 この間に、後に妻となる、梅乃と知り合います。三越梅乃(みこしうめの)彦根藩の武士の子に生まれ、維新後大阪に出て商家で働いていました。万延元(1860)年生まれ。この時21歳。然し、梅乃が奇術が好きで自ら千日前の小屋掛けに来ていたとは思えません。私が想像するに、梅乃の兄の三越幸太郎が誘ったのではないかと思います。

 三越幸太郎は、天一の大ファンです。天一の舞台を見て、その堂々とした姿にいたく感激し、天一と親しくなります。研究家の間では、梅乃が天一を気に入りその後、晃太朗に合わせたと言う人もありますが、恐らく逆でしょう。梅乃が一人で小屋掛けの奇術を見に行くとは考えられません。何にしても、この兄妹は二人して天一の虜になったのです。

 天一いわくは、初めに梅乃が客席で見ていて、その後も何度か梅乃が必ず同じ場所にいて見ていたため気になり、休憩時間に会って話をするようになった。と言っています。恐らくその通りだったのでしょう。梅乃が天一に惚れていたことは事実のようです。天一は人に好かれる魅力があったのです。

 二人はやがて結婚と言う話になりますが、三越の家が皆大反対したようです。千日前の小屋掛けの芸人に嫁ぐと言うのは、武士の家としては許せなかったのでしょう。それを親戚一同に話をして回ったのは兄の幸太郎のようです。

 「天一は、今でこそ奇術師だけれども、元は越前藩の剣術指南役の家に生まれ、漢詩も読み、書も優れ、西洋にまで出て、奇術を勉強してきた努力家だから、きっと名を成す男になる」。等と言って親戚を納得させたのでしょう。

 いずれにしても、梅乃は天一と結ばれます。但し、この時一つ、夫婦間に約束があったようです。それは、子供を奇術師にしない。と言うものです。跡継ぎにする子供はよそから貰う。二人の間の子供はちゃんと学校に入れて、きっちり固い仕事をさせる。と言うものです。

 実際、その後、天一と梅乃の間に生まれた子供はみな固い勤め人になっています。武家社会が滅んだとは言っても、まだ明治13年は庶民の間ではそれまでの伝統的な生活は変えられなかったのでしょう。そのことは天一も重々承知していたようです。

 このことは私も経験をしています。今の和子と一緒になるときに、秋田の和子の実家を訪れて、お父さんと話をしました。お父さんは男鹿市の消防署長をしていました。お父さんは最終的に結婚を認めてくれましたが、

 「君の性格はよく分かった、結婚には反対しない。然し、仕事が奇術師と言うのがどうもなぁ。そこでね、どうだろう、消防士にならないか。消防士なら、私のコネで一人いれるぐらいのことは出来る。消防士になって、男鹿で和子と一緒に暮らさないか」。

 そう言われて、もし私が気の弱い奇術師なら、今頃は男鹿の消防士になっていたでしょう。天一の梅乃との結婚のいきさつを聞くと人ごととは思えません。

続く

天一 10 人生の進路を決定

天一 10 人生の進路を決定

 

 天一にとって明治13年と言うのはエポックメーキングな年になりました。先ず、自らが立ち上げた西洋奇術の一座が人気を呼び、ようやく安定して活動ができるようになりました。次に、同じ時期に、帰天斎正一、中村一登久が道頓堀で興行し、優れた奇術の数々を見せました。これに天一はいたく感動して天一は二人に憧れます。

 天一は、明治13年正月の道頓堀の奇術興行を見て自身の進路を決定したと言えます。つまり、中村一登久と、帰天斎正一を合わせた奇術師になろうと決心します。様々な西洋奇術の大道具、小道具を演じ、喋りが面白く、そして水芸を看板芸にする。そんな奇術師を目指すことを心に決めたのです。

 そのため、西洋奇術と喋りは帰天斎により多くを習い、水芸とお客様とのアドリブの喋りは中村一登久に習い。その都度、言われるままに授業料を支払ったのでしょう。そのため習ったり、接待する費用は、千日前の小屋掛けでいくら稼いでも足らなかったでしょう。

 

 実際に、帰天斎は十字架の刑などの大道具と、柱抜き(サムタイ)、を天一に教えたものと思います。天一が、十字架の刑を演じるのは、明治13年以降ですから、そっくり図面を取らせて貰い、作ったのでしょう。サムタイも、これ以後天一は頻繁に舞台に掛けるようになって行きますので、この時に帰天斎から習ったのでしょう。

 

水芸の大改良

 一登久から水芸一式を習うと言うのは簡単ではなかったと思います。と言うのも、一登久自身の水芸が未だ開発途上だったようですから、全貌を公開することは出来なかったと思います。但し、部分的な部品などは譲った可能性はあります。

 それまでの天一の水芸は、一筋か二筋の水を出たり止めたりするだけのものですから、ショウとして見せるのには派手さもなく、手数が少なすぎます。当時、天一の水芸は、舞台袖に置いてある水枕の上に助手が乗って体の重みで水を送り、細い竹竿の管を通って、毛氈や、合羽紙(かっぱがみ=紙に油を引いたもの)などで竹竿を隠し、舞台上の桶や、花瓶から水を噴き上げる式のものでした。

 人の重みで水を送る式では水圧はわずかで、一筋か二筋の水が30センチか40センチくらいしか上がりません。もっと派手に、あちこちから一斉に水が数m吹き上がる式のものにしようとするには、落差を用います。8mくらいの高さに大きな桶を置き、そこから竹竿をまっすぐ下までつなぎ、地面に着地したところで、ろくろをはめ、ろくろから各方面に竹竿を配管してあちこちから水を出すことになります。この方法も江戸時代からありました。これだと水量は大きく、水の出る個所も多くなりますからショウとしては面白いものになります。

 然し、このやり方は多くのリスクが伴います。ゴム枕なら、人が乗った時だけ水圧がかかるのですが、落差では興行中、初めから終いまで常に水圧がかかっていますので。竹竿が圧を支えきれません。無論竹竿は、簡単に割れないように、内側、外側共に漆が塗られ、外側は細かく糸で端から端まで巻いてあります。こうした竹竿を作る仕事は釣竿師の仕事で、竿の接続なども含めて大変に費用がかかったのです。にも関わらず、水圧には脆(もろ)かったのです。

 落差による水圧では竹竿が長時間持ちません。演技中に突然竹が割れて水が漏れます。また、竹竿と竹竿をつなぐ曲がり角に、ひょろと言う紙製のホースを使っていましたが、これがたちまち圧で破れてしまいます。

 ひょろとは、らせんに撒いた針金に和紙を何重にも巻き、膠(にかわ)で止めてホース状にします。中外ともに漆を塗り、防水の保護をします。そこに外側から糸をぐるぐる巻きつけてあります。これはゴムホースのようにひょろが自在に曲がるため、配管には便利です。これを竹竿に縛り付けることによって、あらゆる場所に配管することが出来ました。漆と針金、糸である程度の圧には耐えられますが、毎日水圧のかかった水芸をしていると、何日かに一度はパーンと音を立ててひょろや竹竿が破れ、あたり一帯水浸しになります。

 結局江戸時代には水芸の送水管の根本的な解決はできなかったのです。壊れては直しを繰り返して、不便な道具を使っていたのです。このため落差の式は、派手ではあっても手妻師はなかなかやりたがらなかったのです。

 それを一登久は大改良を加えます。一つは、つなぎのひょろをゴム管にすることで、格段に破損が少なくなりました。当時ゴム管は高価で、医師が使う聴診器のゴム管を買って来て、数センチ単位で切り分けて竹竿のつなぎに使ったようです。

 ゴム管を初めて使ったのは吉田菊五郎だとも養老瀧五郎だとも言う人もあります。いずれにしても、一登久もかなり早くからゴム管を使用していたようです。

 

 ゴム管を使うことで水圧に耐えうる水芸が出来たため、体に配管をして、手先や、頭から水が出るようにもできます。この発想は、養老瀧五郎もやっていました。一登久の非凡さは、手先に持った扇子で、湯呑の水を掬い取る芸(綾取り)を考えたことです。    それまで、湯呑や、刀の中心や、花瓶から水を出しても、水と水の関連性は全くなかったのです。それが、手先に持った扇子で湯呑の水を掬い、花瓶に移す動作をしたことで湯呑の水と花瓶の水がつながったわけです。しかも、その水の移動を三味線や囃子に合わせて、舞踊のような振りを取り入れたことでショウとしての効果が大きく上がりました。これによって、一登久の水芸は華麗で陽気な水芸に仕上がったのです。

 更に、一登久の工夫は、大夫や手伝いの女性の体の配管と、落差を使った大元の配管を瞬時につないだのです。大夫がほかの奇術をしていて、いざ水芸に入るときに送水管を体につなぐことは、今の時代なら難しくはありませんが、明治13年の日本にあった素材でつないで見せることは至難な技でした。一登久は曲独楽の芸から水芸を演じるのですが、それが簡単ではなかったのです。

 この時代は、曲芸も、曲独楽もみんな奇術の一種と捉えられていました。然し、落差を利用して、手先や頭から水を出す水芸を演じるとなると、体と送水管は初めからつながれていなければなりません。然し、竹竿で体をつないでいては曲独楽は演じられません。それを演技の途中で観客にわからないようにつないで見せたのです。これにより、大夫が自在に動けて、しかも他の芸から水芸に簡単に移行できたわけです。これは大発明でした。

 更に大水(たいすい=お終いに舞台一面に吹き上がる水)も、舞台床から出るだけでなく、舞台の鴨居に釣り灯籠が幾つも下がっていて、そこからそれぞれ噴水のごとく水が出たのです。上からも下からも水が出てものすごい水の量です。

 天一は、一登久の水芸を見て、唸ってしまいました。到底自分の水芸では達成できない技術であり、装置だったからです。天一は、何としても一登久の水芸を手に入れたいと思ったのです。然し、当時の水芸は最先端の奇術です。おいそれと若い奇術師に教えられるものではなかったのです。そこで天一は、ひたすら低姿勢で一登久に近づき、つながりを持とうとします。

続く