手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

ミスターマジシャン待望論 3 

ミスターマジシャン待望論3 絵コンテを描こう 

 本当は昨日ミスターマジシャンの3を書こうと思っていたのですが、弟子希望の電話が来て、弟子の話でインスピレーションがわき、間に差し込んでしまいました。それはいいとしても、ミスターマジシャン待望論2、のお終いに、絵コンテを描く話をしましたが、話の流れからすると突然重要な主題が出て来て、しかも話が中途半端に終わっています。つまり私が頭の中でまとめきれないうちに勝手に書いてしまったのです。

 この手の散漫な文章を書くとついつい食い足りない文章になってしまいます。済みません。もう一度、絵コンテについて書いてみます。

 

 絵コンテと言うのは、新しい手順を考えるときに、漠然と頭の中に思い描いているアイディアを客観的に見直すために、紙の上に表現して見るのです。これはとても重要なことです。然し、なかなか実践している人は少ないと思います。私の所に習いに来る人や、弟子には、絵コンテを描くことの重要性を勧めています。その理由は後でお話しします。

 私は、たとえ3分の手順を作る場合でも、必ず絵コンテを書いています。3分の演技なら、6枚を書きます。つまり自分の演技を時間経過で考えて、30秒に一回、その時、その時に自分が何をしているかを絵にするのです。

 

 私の手妻の手順でお話ししましょう。

初めは「出」です。どんな舞台設定で、どんな格好をして出て来るのか。手には何を持っているのか。お客様にはどんな世界を想像させるのか。全て絵にかき込んでみます。お客様にファーストインプレッションを印象付けるとても重要な場面です。テーブル一つでも、小道具でも、ありふれたもの、イメージからそれたものは舞台には出せません。緞帳が開いたときから藤山の和の世界が出来上がっていなければいけません。

 次に「発端の演技」です。あいさつ代わりに何か軽い演技が始まります。言葉では軽いと言いましたが、これこそ始めのマジックです。全体を象徴していて、しかも不思議でなければいけません。ここは創作する際に、とても苦しむところです。私の手妻で言うなら、赤い紙を手に丸めると、赤い帯になって空中に飛びます。更に帯がもう一本出ます。この一芸で、お客様を引き付けなければいけません。

 そして次の30秒で「小さな結末」に至ります。出た帯をまとめると、大きな赤い風呂敷になり、まとめるとそこから和傘が咲きます。ここで初めて、お客様は私が傘の演技をするのだと言うことを知ります。ここまでで約1分です。

 次に「バリエーション」の演技です。袖から長い赤い帯を出してその中ほどを蝋燭の炎で焼き切ります。「真田紐の焼き継ぎ」と言う手妻です。赤い帯を出した後に又、赤い帯を出すのですから、変化がありません。然し、蝋燭灯りで絹を焼くと言うのは印象が強く、この絵柄はしっかり記憶されます。30秒

 焼いた帯は無事につながり、まとめた帯の中から傘が出ます。30秒。ここまでで合計1分です。

 次に「ギヤマン蒸籠(せいろう)」の演技です。これは旧来の蒸籠の手順に似せてありますが、全く私の創作です。手妻は箱の中から物を取り出す作品が多いのですが、それを全くクリアな状態にして見せようと考えて作ってみました。ここまでくると、お客様はかなり見たいと言う気持ちが強まっていますので、少しテンポを落とし、ゆっくりガラス箱の中から絹の小切れが出てくる演技をします。小さな絹が3度出ます。30秒。

 小さな絹帯が出た後で、ガラスの蒸籠の中からたくさんの小切れがあふれ出ます。30秒。その後、赤い大きな風呂敷が出て来て、風呂敷の中から傘が出て、見得を切ります。30秒。ギヤマンは1分30秒の演技です。合計3分30秒の手順です。

 これが私の傘出し手順の前半になります。後半には二つ引出し(帰天斎派では夫婦引き出し)と言う古い手妻を演じて、お終いに傘が出ます。ここだけで3分30秒かかります。この引出しも、30秒ごとに、見たさまが変わるように手順に工夫を凝らしています。お終いの傘は、初めの一本目に出した見得と同じ見得を切ります。

 すなわち、初めの一本を出した後、何気に手で空をかざし、雨がやんでいることに気付き、もう傘は不要と思って傘を脇に置きます。いろいろ演技があって、引き出しで、お終いに煙管を加えて、見得を切ろうとしたときに、ポツリと雨が降り出したことを演技で表現します。そこで一本傘を出して、煙管を咥えたまま傘を持って見得を切り。話が元に戻ったことを示して、7分の傘の手順を終わります。

 つまりこの演技は、傘を持っていながら、わずかな晴れ間を見たときに、7分間の遊びをして、お終いに又時雨(しぐれ)が振ってきたために、傘をさして足早に帰ろうとする短かい間の出来事なのです。

 前半の傘出しと、後半の二つ引出しを合わせて7分の手順です。

 

 多くのマジシャンは、手順を作る際に、自分の演じたい道具を並べて、それをどうつなげるかと工夫します。然し、そうして作った手順はどうしても類型的な作品が出来てしまいます。初めにネタありきで、ネタとネタを如何につなげるかと言う作業だけで手順が出来てしまいます。特にスライハンド手順は、カード、鳩、四つ玉、ウォンド、どれも従来のハンドリングを並べて、途中に既製品のトリックを間にちりばめることで手順を作りがちです。

 然しそれでは誰が作っても似たり寄ったりの作品が出来てしまいます。明らかに人と違うものを作りたいと考えるなら、自分が原点に帰って、「自分は本当は何がしたいのか」、心の中を覗いてみないといけません。なまじそこにネタがあるから、ネタやハンドリングに義理立てして、本当にやりたいことを見失ってしまいます。

 先ず世間のしがらみから離れて、自分がしたいことをスケッチブックに描き出してみるのです。当然それは実現が難しい絵空事が描かれます。それでいいのです。その一枚がとても重要なのです。なぜなら、そこに描かれたものはあなたにとっての真実だからです。そこから現実の手順作りを始めるのです。

 

 自動車業界が、ベルトーネジウジアーロと言った工業デザイナーに高額な費用を支払って設計を頼みますが、彼らは、色々自動車会社の条件を聞いたうえで、スケッチブックに簡単な自動車の絵を描きます。それが最終的に一般道路に出るかどうかは未知数です。然し何気に書いた一枚の絵が数千億円の産業を決定づけます。

 ファーストインプレッションと言うものはそれほど大切なもので、自分が語りたいことをたった一枚の絵で表現できたなら、それは名車になり得るのです。と、またも重要な話がお終いに出て来てしまいました。然し紙面がありません。この続きは明日描きます。願わくば弟子入りの電話がかかってこないことを願いつつ。

続く

 

弟子入り希望の電話

弟子入り希望の電話 

 昨日(19日)、午前に日本舞踊の稽古に行こうとしたときに、弟子入り希望の人から電話がかかってきました。初めはマジックを覚えたいと言っていたので、てっきりレッスンを受けたいのかと思い、指導料など伝えたのですが、どうも弟子希望のようです。

 地方で働いていて、その仕事をやめて、東京に出て来たそうです。今日泊まるホテルもまだ予約していないうちに着いてすぐ電話をしたと言うのです。

 「私を何で知ったのか」、と聞くと、「ネットで」、だそうです。「マジックの経験はあるのか」、と聞くと、「ない」と言います。「それでどうして、私からマジックを習いたいと思ったのか」。と聞くと、「ネットを見ていて、面白そうだと思ったから」。と言います。年は20歳くらいです。正直困りました。私は言いました。

 「まず、私を一度も見ていない人が、私からマジックを習おうと言うのは無理です。私のすることに興味を持ったのなら、一度私の生の舞台を見ることです。

 以前から私と面識があって、私に了解を取って尋ねて来るなら話もしますが、会ったこともなくて、いきなり、会社を辞めて、東京に出て来てしまうのは無謀です。

 あなたがすでにマジックをしていて、マジックが好きで好きでたまらないと言う人であるなら、相談にも乗りますが、まずは、アマチュアさんにレッスンをしている日がありますので、そこで指導を受けるべきです。ただしそれはレッスン料がかかります。弟子修行と言うのは人一人の人生を面倒見ることですので、まず私が相手のことがわからなければ軽くは引き受けられません。それは電話で話す話ではないのです」。

 と言いました。最近は、何でも簡単にネットで検索して、連絡してくる人が多いのですが、こんな話をするのでも10分以上時間がかかります。お陰で日本舞踊は遅刻です。でも考えようによっては、家まで来て、玄関に座ってねばられないだけでも良かったと思います。

 何事も人には善意で接したいとは思いますが、人とかかわると言うことは、少なからず私の人生をその人に使うことですので、簡単には引き受けられません。私はこれまで何十人と言う人を弟子に取りました。それは消えかかっていた手妻を何とか残したいと思ったからです。今から考えると30年前は手妻の認知度はないに等しかったのです。

 それが徐々に認められてくると、弟子希望者が出て来ます。弟子は始めは熱心に、入門を求めます。私の所は補償金を取って、両親の承諾書を取って、更にプロマジシャンを保証人に立てた上で弟子を取ります。

 そうまでしても3か月と持たずに辞めて行く人がいます。まじめに事務所に来たのは3日間だけで、翌日から遅刻、さらに翌日も遅刻、そこで一度きつく叱ると、しばらくは時間通りに来ますが、一週間もするとまた遅刻。それが肝心の仕事に時に1時間の遅刻。飛行機や新幹線に間に合わないと言う大失敗をします。時に、アパートまで私が出かけて行って、弟子を起こして仕事に連れて行くようなことまでします。

 そんなだらしない人間をなぜ見抜けないのかとお考えでしょう。それが、人は初めは巧く化けるのです。精一杯まともな人間を演じるのです。両親を見ても誠実な人で、立派な仕事をしています。よもや、そこのお子さんがどうしようもないプー太郎だとは思えません。

 然し、弟子は段々まともな人間を演じ続けられなくなります。それが早い弟子で3日目、3日目を過ぎると3か月目、次が半年、その次が1年目で大失敗をやらかします。

 そこで、私は因果を含めて、辞めてもらいます。自分の限界を知って、さっとやめて行く弟子はいい弟子です。中には散々私の悪口を周囲に吹聴して辞めて行く弟子もいます。いくら悪口を言いまくっても、まともに弟子修行が務まらない弟子の言うことなど誰も聞きません。言うだけ自分の世間を狭くします。

 そもそも、私の所では弟子に給料を支払っています。弟子は他に仕事をしていないわけですから、弟子は生きて行くすべがありません。そこで、生きるだけの金は渡します。金を貰って、食事を食べさせて貰い、マジックを教えてもらい、仕事先を紹介してもらい、顔をつないでもらえるのです。そこまでしてもらって、悪口で返すような人が何を言っても誰からも信用されません。

 弟子から見たなら師匠というものは、人生で初めてつかんだスポンサーなのです。そのスポンサーに対して、いかに自分にとって気に食わないことがあったとしても、スポンサーを大切にしなければいけません。さんざん世話になった師匠の悪口を言い廻っているようではその人の将来はないのです。仮にマジックをやめて別の道に進んでも、元の仕事先を悪く言うような人は、相手の経営者も気付きます。「この人に情けをかけても、結果は悪く言われるだけだ」。と、

 そこに気を付けなければいけません。人の情けを無にして、せっかくの縁を生かせない人は、どんなに才能があって、どんなに世渡りが巧くても、結果同じことを繰り返し、仕事が定着しません。

 私は去って行った弟子を追いかけません。松旭斎天一師はやめて行った弟子のことを、「いくら上手い奇術師だったから、いい弟子だったからと言っても、やめて行ったものはどうしようもない、死んだと思えばあきらめがつく」。これは至言です。

 

 幸い今は手妻も認知され、習いたいと言う人も数多くいます。弟子希望者もいます。然し、弟子は安易には取れません。特に私自身の年齢を考えると、前田が卒業した後は、次の弟子は取れないかもしれないと思います。70歳を過ぎてしまうと、仕事の数はがたっと減るでしょう。そうなっては人を育てることも、手妻を教えることもできないかもしれません。いろいろ考えるともうピークに来ているなと思います。

 蝶や、魚はつくづく偉いと思います。自分の体以上にたくさんの卵を抱えて、身を犠牲にして死んで行きます。なんでそこまでするのかと思いますが、限られた一生に、ひたすら子供を残そうと必死になって生き、死んで行きます。それを思えば私のしてきたことはささやかなものです。たった一人、一縷の思いでかけて来た電話の相手の夢すらも叶えてやれないのですから。蝶は偉大です。一本の電話からそう思いました。

続く 

ミスターマジシャン待望論 2

 昨日(18日)は午後から3人の学生さんが習いに来ました。今彼らは手順を作り直しています。内容が良ければ、玉ひでか、来年2月のマジックマイスターに出してみたいと思います。まだ学生ですし、舞台回数も殆どありませんので、DVDなどを見る限り、まだまだの演技です。でも、熱心に私の所に通ってくると言うことは、相当に熱意のある証しですし、話を聞いているといろいろな人の演技をネットなどで見ています。この中から必ず将来のマジシャンが生まれます。気長に待つ以外ありません。

 

 30日のマジックセッションは、残り10席くらいです。観覧ご希望の方はお早めにお申し込みください。

 

 来月の玉ひでは、21日です。お食事付きで、座敷の距離でマジックと手妻を見る企画です。毎回お客様は満足して帰られます。ぜひ一度ご覧になってください。

 

 秋の集中合宿は、11月14日15日です。二日間で都合6時間の指導をします。指導料は二日で1万円。食事代は4食で3000円。交通費は、レンタカー代ガソリン代などで、一人3000円くらいです。自家用車でお越しの場合は交通費は自己負担です。新幹線でお越しの場合は、上越新幹線上毛高原駅下車です。時刻をお知らせくださればそこまでお迎えに上がります。みっちり2日間の指導ですので、手順物などを固めて習うには良い機会です。

 

ミスターマジシャン待望論 2

 結局。若いマジシャンが育つには、初めに、ちゃんと自分の演技で生活しているマジシャンが存在していない限り若い人は育ちません。当たり前の話です。生活して行けるとはいっても、部屋代を支払って、諸経費を引いたら何も残らないと言う生活では悲しすぎます。それなら勤め人の方がましです。勤め人は、会社から交通費も出ますし、ボーナスも出ます。それを貯金をすればわずかでも財産が残ります。

 マジシャンが、自分の創造を生かして1年仕事をして、何も残らないかったと言うのは、生きてきたことにはなりません。創造が創造と認められていないのです。認められる、イコール金ではありませんが、金のために仕事をするわけではなくても、人を育てたり、次の自分の夢を実現させるために必要な資金が貯まらなければ、何のために生きているのかがわからなくなります。

 先ず、ある程度生きて行くうえでゆとりのあるマジシャンがいなければ、若い人は目標を定められないはずです。このレベルから話をしなければならないと言うこと自体が、今のマジック界を如実に物語っています。

 

 実際、芸能で生きて行くことは並大抵のことではありません。特に今は、コロナウイルスのせいで、全ての芸能は危機的状況です。でも、ウイルスがなかったころですら、俳優でも、音楽家でも、落語家でも、ちゃんと生活して行けると言う人は数えるほどでした。ほとんどの人はサイドビジネスを持っている人か、奥さんに養ってもらっているか、親に養われているか、そうした人が大勢います。無事、自力で芸能で生きている人はほんの一握りなのです。

 然し、それでも、各分野には、確実に表芸だけで生きている人はいます。マジックの世界も、各カテゴリーに10人、20人は表芸で生きている人が欲しいのです。その中で、知識もあって、演技がしっかりしたマジシャンが出てこそ、それがミスターマジシャンです。

 

 私が望むマジシャンと言うのは、コンテストなどで入賞したマジシャンではありません。それはそれで努力を認めますが、コンテストは、プロで生きて行く登竜門に過ぎません。コンテストには、プロを目指さないアマチュアでも参加しています。そんな人たちの中で入賞を勝ち得たとしても、それでその先マジックで安定して生きて行けるものではありません。自分を試す意味でコンテストに出るのはいいとしても、そこでどうにかなったら、いつまでも勝利に浸っていないで、さっさと生きる道を素早く切り替えなければだめです。

 プロになるなら、プロとして生きることがどういうことなのかを真剣に考えなければいけません。コンテストはどんなに苦しいと言っても一回こっきりの勝負です。生きると言うことは、その先数十年続く苦労なのです。

 

 第一、コンテスト手順などと言う奇怪な手順をこしらえて、横から見られたら出来ない、舞台を暗くしないとできない、一度緞帳を降ろさなければできない、などと言った手順を作り上げても、それをどこで仕事にして行くのですか。それをコンテスト手順だなどと言って、「日本のショウビジネスは、タレントに冷淡で、しかも舞台環境が悪い」。等と言っているマジシャンを見ると悲しくなります。

 世界中どこに行ってもきっちりとした舞台設備のあるところのほうが稀です。どこの国でもマジシャンに都合の良い舞台などそうそうあるわけがないのです。

 そうは言っても、確かにいい舞台はあります。然し、そうした舞台は、自分が自分の看板で1000人1500人集められる芸のある人でなければお呼びが来ないのです。1000人を集められる力のない人が、いかに日本のショウビジネスの不甲斐なさを語っても、語るそばから北風が吹きます。

 自分がまずどこへ出しても通用する演技を持たなければだめなのです。一部の理解者のためのマジックをしていても誰も注目してくれないのです。

 自身の原点を見直してください。あなたは本来どんなマジックがしたかったのかそれをもう一度考えてみることです。一度自分の理想の演技を絵にかいてみることです。

 10分の手順なら、30秒に一回、その都度、どんな演技をしているかを絵に描いてみることです。10分なら20枚の絵になります。それを何度も何度も眺めてみることです。

 それが出来たら、道具を作り、手順を作ってみます。

 何度も推敲したうえで手順が出来たなら、それで仕事になるかどうかを先輩のプロマジシャンに相談してみることです。行けそうなら、次に、その演技を買ってくれる人を探すのです。道は簡単ではありません。でもやるしかありません。

続く

ミスターマジシャン待望論

 昨日(17日)は、玉ひでの舞台でした。これで5回公演しました。お客様も定着して来ましたし、演者の方も、演技慣れして来て、ある種のスタイルが出来て来ました。早稲田さんはスライハンドを熱心に稽古しています。ザッキーさんはトークマジックを掘り下げて考えています。日向さんはシルクマジックをまとめ上げようと熱心に稽古しています。前田は手妻を一つ一つ演じています。

 今は不慣れでも食い足りなくてもいいのです。こうした場があって、毎月舞台が踏めると言うことが大切なのです。若いうちは思い通りに行かない舞台を繰り返して、そこで悩むことが大切です。簡単に出来上がった芸は、簡単に消えて行くものです。じっくり基礎から学んだものは一生の宝になります。今は基礎を作る時期なのです。

 もう少し彼らがいい手順を作ったなら、大阪のセッションに出演させてあげようと考えています。また逆に、大阪のメンバーを東京のマジックセッションに出演させようと考えています。互いが交流して出演の場所を増やせば、若い人の活動の場を増やすことが出来ます。それこそが彼らの技量を伸ばす近道だと思います。

 前田はまだ24歳ですが、大阪の国立文楽劇場や銀座博品館劇場にたびたび出演しています。始めは文楽劇場の800人の観客を前にして、がちがちに緊張していましたが、二度目に出た時にはもうリラックスして演じています。文楽劇場を経験すれば、次に博品館に出ても少しも臆することがありません。若い者の順応性はこんなことで簡単に人を強くします。若い者にはなるべく早く、大舞台、観客に求められている舞台を提供することが人を育てる近道なのです。

 それには日ごろしっかりと基礎を学び、その基礎を土台として手順作りをしておかなければ大舞台は踏めません。売り物の道具で手順をつなげたり、自分勝手な、変なオリジナル手順を作って、得意になっていては永久にチャンスは来ないのです。

 

 

ミスターマジシャン待望論

 私が、東京大阪でマジシャンズセッションの舞台を続けている理由はただ一つ、誰もが認めるプロマジシャンが欲しいからです。一般の客様が見ても、マジック関係者が見ても、「この人はプロだ。日本を代表するマジシャンだ」。と、みんなが認めるマジシャンが欲しいのです。

 今の日本の奇術界を見ると、上手い人はたくさんいますし、いいアイディアを持った人もたくさんいます。然しその演技と内容を総合的に見て、この人が日本を代表するマジシャンだと言う人が見当たらないのです。

 

 イリュ―ジョンのカテゴリーには、メイガスさんや、原大樹さん、田中大貴さんなど何人か優れたマジシャンが活躍しています。彼らはアマチュアだけを相手にしているわけではありませんし、実際に多くの仕事を持っていて、一般客を相手に活躍しています。マジックのジャンルの中では、唯一と言っていいくらい、一般観客とつながった活動をしている人たちです。

 そうならこの人たちが日本のミスターマジシャンであると、申し上げたいところですが、私は少し躊躇します。皆さん優れた人です。いい人です。稼いでいます。然し、カリスマ性はと見ると、どうでしょうか。仲間のことですのでこれ以上は書きません。

 

 スライハンドはどうですか、今の時代にスライハンドマジックで一般の観客に認知されることは難しいと思います。然し、だからと言って、マジック愛好家の中に埋没して、コンベンションの中にばかり入り浸っていても仕事の数は増えないはずです。そこから抜け出て、一般客が本気になって追いかけたくなるスライハンドマジシャンの姿を、演じて見せない限り、大きな成功はないはずです。さて、そうなら誰かミスターマジシャンと、讃えられるスライハンドマジシャンがいますか?。

 

 トークマジシャンはどうですか?。かつてのアダチ龍光、ゼンジ―北京、ダーク大和、マギー司郎と続いた、日本のトークマジシャンの世界で、それを超えた、独自の世界を作り上げている人が今いますか。なんとなく喋りが達者で、器用にこなして、小ネタのマジックを演じている人はたくさんいても、そこに話術を感じて、他のジャンルの人、例えば漫才さんや、噺家さんが押し掛けて来て、マジシャンのトークを勉強したがるような独自の世界を作り上げている人をなかなか見ません。どなたかご存知の方がいらしたら、教えていただけませんか。

 

 クロースアップマジシャンは如何です?。巧い人はたくさんいますが、どうもアマチュア臭さが抜けない人が多いように思えます。あまりに近所の仲間の目を気にしすぎていて、狭い世界に埋没しているように思います。周りの人がいいの悪いのと言っても、この道で生きて行くには何にも関係ないはずです。なぜなら、近所の仲間が仕事をくれるわけではないからです。

 中には自分の世界に埋没して、観客の存在を無視している人もいます。観客が見えなければ仕事は来ません。プロと言うのは、観客を楽しませるから仕事が来るのであって、自分の楽しみでマジックをしている限りそれは素人です。そうした人たちが、コンベンションの評価だけを当てにして、その世界でしかマジックを考えていないのではプロは育ちません。

 

 なぜ日本のマジック界はこんなことになってしまったのでしょうか。それは各ジャンルに基準となるプロマジシャンが少ないからです。「マジックとはこう演じるべき」、「マジシャンとはこう生きるべき」、と、言う手本を示せるマジシャンが少ないのです。そして、自分の演技でちゃんと生活して見せられるマジシャンが少ないのです。それ故に、多くの若手が自分が生きるために何をしてよいかがわからず、右に左にうろうろしなければならないのです。

 プロマジシャンとして生きて行きたいなら、物を売ったり、レクチュアーをしていてはいけません。生きるためにはディラーもやむを得ないかもしれませんが、そうしつつも自分が毎月何日か、お客様の前に立って、マジックを見せる場を作らなければいけません。どんなに苦しくても、お客様からもらうギャラで生活して見せなければプロではないのです。そうした生き方に切り替えることからプロの道は始まります。

続く

 

ビゥレットトレイン(弾丸列車)3

 今日(17日)は人形町玉ひででの公演です。毎月一回若手マジシャンと一緒にショウをしています。ただ、いつもの演技をするだけではマンネリになってしまいますので、半分は内容を変えてご覧頂いています。今回は、袖卵と五色の砂を出します。

 「袖卵」は過去には随分される方がいらしたのですが、最近はあまり演じる方を見なくなりました。私自身は、若いころに覚えはしましたが、およそ舞台に掛けることはありませんでした。たまに自分の会で演じる程度のものでした。

 実際演じてみると、道中のハンドリングは面白いのですが、卵が一つずつ出るだけの手順で、どうにも盛り上がりに欠けます。5分程度かかる手順を実際演じてみると、どこに演技の重点を置いていいのか、ちょっと困ってしまうような演目です。

 その昔なら日がな一日のどかに手妻を見て楽しむお客様を相手に、演じるほうも、のどかに演じて、それでよしとされたのかもしれません。然し今の若い人が見たならあまり面白いものとは思わないかもしれません。そのため私は、もっぱら袋卵の方を良く演じていました。

 それが数年前、帰天斎正華師匠から帰天斎流の袖卵を習い、面白いと思いました。袖の表からも裏からも卵が出て来ます。いちいち裏と表を二回ずつ改める必要がない分スピーディーです。更に私なりに袖卵に改良を加えました。その上で演じてみると、結構面白い作品になったので、今では時々演じています。

 さて、その袖卵を昨日、久々に稽古をしました。やってみるとうまく行きません。結構難しいのです。このところの私自身の物忘れもあって、手順が止まること度々です。

 結局半日、袖卵に関わってしまいました。でもやっているうちに、「あぁ、いい手妻だなぁ」。と改めて思いました。全く演じないのは勿体ないなと思いました。そこで今日演じてみます。

 五色の砂は、大本は中国の奇術だと思います。19世紀ごろ西洋に渡り、西洋でも時々演じられています。日本にも江戸時代初期に入ってきたようで、よく演じられていました。私は口上を手直しして喋りながら演じています。この口上は、20代半ばに作ったもので、基本的にはそのころから変わっていません。

 砂を説明して行く前半が、話術の能力を必要とします。後半は、砂が出て来る面白さと、水の色変わりで変化を見せますので、マジック的にも受けのいい作品です。もっともっと頻繁に演じられていい作品だと思います。

 このほかに、柱抜き(サムタイ)金輪、蝶、を演じます。30日には、ヤングマジシャンズセッションがありますので、演技が重ならないよう、配慮しています。

 

ビゥレットトレイン(弾丸列車)3

 結局私は50年間新幹線に乗り続けています。新幹線が日本の経済に果たした役割は計り知れないくらい大きなものだと思います。古くは明治政府が、いの一番に手掛けた仕事は、郵便、電信、そして東京大阪間に鉄道を敷くことでした。

 

 東京、大阪、神戸間の600㎞がつながったのは明治22年です。当初は20時間かかりました。それでも歩くことを思えば大変に便利だったのです。新幹線ができる前の東京大阪間は、特急こだま号が走っていました(今のこだまとは全く違う列車です)。こだま号に乗って大阪に行くのに、約7時間かかりました。子供のころの絵本には、こだまが颯爽と走る絵が載っていました。これが当時の日本では最速の列車だったのです。

 今から考えると550kmの距離を7時間で移動すると言うのはずいぶん遅く感じますが、未だに世界の国々の大都市間を結んでいる列車と言うのは、これくらいの時間をかけて移動するのは普通です。

 東京大阪間の移動に7時間かかると言うのはビジネスに生かすには難しい時間です。往復14時間かけて、大阪に行き、そこで8時間用事をするのはかなり無理があります。往きか帰りのどちらかを夜行列車にしなければ無理でしょう。然し、夜行を使うと翌日の仕事に響きますから、結局一晩大阪に泊まって翌日帰るようなスケジュールになるのでしょう。かつては大阪出張も一泊させてくれたのでしょう。

 これが3時間になれば、多くのビジネスマンは日帰りで仕事ができます。実際吉本の芸人は新幹線が出来たことで、毎日のように、東京大阪間の新幹線に乗って、テレビやイベントの仕事をこなしています。私でも毎月数回新幹線を利用しています。

 新幹線が出来た当初、東京大阪間は3時間10分かかっていましたが、今は2時間30分で行けるようになりました。この2時間30分と言う時間はいろいろと便利です。マジックのアイディアを考えたり、手紙を書いたり、パソコンを出して企画書を書いたり、ブログを書いたり、このブログも多くは新幹線の中で書き溜めています。少し疲れると、焼売弁当を食べたり、コーヒーを呑んだりしています。何にしても軽いデスクワークができると言うのは幸いなことです。

 もちろん飛行機も利用しますが、東京から西に行くことを考えた場合。四国は飛行機を利用します。山陽線は、広島までは新幹線を使います。広島より西は飛行機を使います。九州は無論飛行機です。北は、大概新幹線を使います。八戸、青森は飛行機も使います。北海道は飛行機です。金沢はかつては飛行機を使いましたが、今は新幹線です。

 天一祭で毎年伺う福井は通常は、新幹線で米原まで行って、そこから特急に乗り換えます。この乗り換えがいつもせわしなく、道具を持っていると、階段の上がり降りに苦労します。これが数年のうちに金沢から福井まで延びるそうですが、新幹線でつながったらマジシャンにとっては大変便利です。早くそうなることを願っています。

 今現在でも、朝、東京を立って、昼前に福井に入り、天一祭を済ませて夕方6時くらいに福井を立ち、10時過ぎに東京に戻っていますから、新幹線が出来れば、往復で2時間くらいゆとりができるでしょう。早くそうなると有難いと思います。

ビゥレットトレイン終わり

 

ビゥレットトレイン(弾丸列車)2

 12月4日の鎌倉芸術館小ホールでの落語会は、柳家三三師匠が二席落語を演じます。間に私が入って手妻をいたします。どうぞご参加ください。

 

第六十一回 鎌倉はなし会

柳家三三独演会 

演題:「御神酒徳利」他一席

 

日時:12月4日(金) 18時半開場 19時開演 

 

場所:鎌倉芸術館小ホール

主催: 鎌倉はなし会 

木戸銭:4000円(全席指定)

出演:柳家三三  藤山新太郎 桂宮治

 

お申し込みは、m-aki@df7.so-net.ne.jpまで

電話でのお申し込みは 0467-23-0992(秋山)まで

 

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ビゥレットトレイン(弾丸列車)2

 昨日は、新幹線の企画が実は戦前の昭和14年から考えられていたと言う話をしました。現代人から考えると、戦前と戦後の時代は別物と考えがちですが、色々な本を読んだりして行くと、戦前も戦後もほとんど違いがなかったことがわかります。

 私の母親に聞いた話では、戦後にあって戦前になかったのはテレビくらいなもので、戦前にはすでに何でもあったと言います。

 新幹線が完成した昭和39年と言う時代は、まだ日本は貧しく、随分明治以来の質素な生活をしていました。私の家には火鉢がありましたし、こたつの火は炭をおこしていました。親父は部屋着に丹前を着ていましたし、爺さんは煙草を煙管で吸っていました。

 そんな時代に新幹線を走らせたのですから、当時の日本人はびっくりしました。私が初めて新幹線に乗ったのは15歳の時で、新幹線が出来て5年目のことです。それは驚きの世界でした。

 先ず、ドアのあく音からして宇宙的でした。ピュウと言う音がして、すぐにシュッと空気の抜ける音がして、ドアが静かに開きます。これがまさに宇宙船に乗り込むような感覚でした。車内は、日頃狭軌の電車に乗り慣れていた者からすると、広々としていて開放感がありました。照明もいきなり天井に蛍光灯が嵌めてあるような無粋なことがなく、間接照明だけで照らされています。吊るしの広告もなくすっきりしています。

 当初の新幹線の顔つきは弾丸列車そのものでした。顔の先端は丸く突き出ていて、ライフル銃の玉にようでした。この時代にこんな顔をした列車は他にありませんでした。この顔でなければスピードが出ないんだろうと勝手に得心していました。

 私が30代までは、車両の真ん中には食堂車があり、ハンバーグやビーフシチューが食べられました。値段もそう高いものではなかったと思います。私は新幹線から景色を眺めながら食事をするのが楽しみでした。こんな体験はここでしかできません。大人になってからはビールやウイスキーを頼むようになり、シチューを肴に、ちびちびウイスキーを飲みながら車窓から景色を眺めるのは幸せでした。

 ただし、いつのころからか、随分揺れがひどくなりました。レールにゆるみが出たのか、車両のサスペンションが古くなったのか。テーブルに置いたグラスがガタガタ、ずれて行き、床に落ちそうになります。この揺れが改善されないものかと思っているうちに、やがて食堂車が廃止されてしまいました。やむなくワゴンを運ぶお姉さんから缶ビールとナッツなどを買って車窓から眺めるようになりましたが、何とも寂しい思いを感じます。世界に冠たる新幹線なら、効率ばかりでなく、食にこだわってほしいと思います。やはり出来立ての熱々の食事が食べたいのです。

 大阪からの帰りには、551の肉まんを買って帰ります。家には6個買い、自分の晩飯用に別に2個買います。ついでに太巻き寿司を買って、これが私の車中の晩飯です。551は蒸し立てで熱々です。但しニンニクが入っていますので、周りのお客様に匂いが漂って迷惑がかかります。周りに断ってから食べています。肉まんをトリスのハイボールと共に食べるのは、指導の疲れも忘れて至福のひと時です。

 

 逆に東京を立つときには、崎陽軒の焼売弁当を買って車中で食べます。これは私が子供のころ食べた味と変わらない味です。内容も、焼売が5個、卵焼き、かまぼこ、唐揚げ、焼き魚、支那竹の甘い煮物、生姜と昆布の佃煮、飯と、中央に小さな梅干し、それに杏子です。昔と同じです。唯一違うのは醤油入れが陶器の瓢箪からビニール製に変わったことだけです。

 食べる前にしきたりがあり、まず、5つの焼売に洋辛子を塗ります。そして醤油をかけて、余った分はかまぼこにもかけます。これで準備完了です。飯は俵型に8っつに区切られています。この8っつの俵をどう配分しておかずを食べて行くかが工夫です。

 私はまず俵の一つを箸で摘み取り、半分食べます。そして焼売を一つ食べます。残った半分で支那竹を三つほおばり食べます。同じことを五回繰り返して、焼売と俵が5つなくなります。梅干しは合間に頂き、次にかまぼこで俵を半分食べます。昆布の佃煮で残り半分。更に、卵で半分食べ、昆布で半分。焼き魚で半分食べ、唐揚げで半分食べます。これでおかずも飯もすべてが消えます。お終いにデザートの杏子を頂きます。

 初めからお終いまで全部おいしいおかずです。いつも残さず食べています。焼売のきゅっと締まった肉は味がしっかりしていていくら食べても飽きません。ホタテの貝柱が隠し味になっているそうですが、この味の発見は大したものです。香港や台湾の本場の中華料理屋で焼売を食べてもこれほどの味わいは経験したことがありません。冷めた焼売でここまで納得させる力があるのはすごいことです。駅弁でうまいものはたくさんありますが、私は焼売弁当を一番に推します。

 と熱弁をふるっているうちに、新幹線のことを書くのを忘れていました。

 

 先ほど新幹線が揺れると書きましたが、その後、サスペンションが改良されたのか、今の新幹線はほとんど揺れなくなりました。室内の音も静かです。その上、新幹線の顔つきが変わってしまいました。かつての弾丸の面影はなく、今の新幹線は、南米の淡水魚のピラルクのような顔をしています。よくこんなデザインを考え出すものだと思います。異常に鼻が長く、滑(ぬめ)っとした顔でホームに入ってくる姿は、まるで宇宙基地に異星人のロケットが入って来たかのようです。我々日本人は見慣れていますから、それを普通に受け止めますが、海外の人が初めてこの光景を見たなら、日本の科学技術に震えが来るでしょう。

 私は、富士に指導に行くときには、東京からこだまに乗ります。1時間10分で富士に着きますが、その間、何度か停車中にのぞみと行きかいます。この行きかう時の音が実に未来的です。初めに対向車がホームに近づくと、小さくガーと音がします。すぐにグワンと大きな音がしてものすごい風圧がきます。先頭車と行きかう瞬間乗っている車体が左右に揺れます。そして、シュシュシュシュと16回音がします。これは16両編成を意味します。一両毎にシュと音がして、16両が過ぎると音は遥か彼方に消えて行きます。

 日本人にとっては日常のことですが、こんな音が聞けるのは、未来の世界にいるからこそで、メキシコでもポーランドでも、世界中のどの国でもこんな音は聞いたことがないはずです。外国人が新幹線に乗りたがる理由がよくわかります。私はいつも焼売弁当を食べながら、停車した車内で、行きかう新幹線の音を聞きつつ、「すごい国に生まれたなぁ」。と、新幹線の科学技術に感動しています。

続く

 

ビゥレットトレイン(弾丸列車)

 17日は人形町玉ひでで公演します。若手マジシャン4本と、私の手妻です。11時30分オープン、12時から食事、12時30分から若手マジックショウです。

 30日は、高円寺、座高円寺でヤングマジシャンズセッションの公演です。峯村健二、伝々、他若手マジシャンです。真ん中に峯村、伝々、私の対談を挟みます。6時オープン。6時30分開演です。席数わずかです、お早めにお申し込みください。

 12月4日、鎌倉芸術文化会館での落語会、柳家三三師匠の落語、長講「芝浜」が聞けます。そこに私の手妻があります。神奈川県のお客様、たまにじっくり落語と手妻は如何でしょう。どうぞお越しください。

 

 ビゥレットトレイン(弾丸列車)

 新幹線のことを海外ではビゥレットトレイン(bullet train=弾丸列車)と呼びます。今でこそ新幹線は海外でも、「シンカンセン」で、通用しますが、それでもビゥレットトレインと呼ぶ人もたくさんいます。

 実はこの呼び名は、昭和14年に当時の鉄道省が弾丸列車計画と言うものを立案した時の名称で、東京から、大阪、下関を経て、海底トンネルで釜山に上がり、そこからソウル、平壌を経て、満州鉄道とつなげ、奉天長春、新京とつなげて、さらに先のシベリア鉄道とつないで、モスクワ、ベルリン、パリまで伸ばそうと言う遠大な計画があったのです。これが弾丸列車計画です。

 当時の日本は、朝鮮半島も、満州も自国の領土であったため、満州の首都、新京と、朝鮮の首都、ソウル(当時は京城=けいじょう)、そして東京、の三都を最短で結ぶ鉄道網を必要としていたのです。現実には昭和初年でも、東京から東海道線山陽線、フェリーに乗って、朝鮮鉄道と、満州鉄道を乗り継げば、約3日間で新京まで行けたのです。これを一気に同じ鉄道でつなごうとする計画です。当時の蒸気機関車(満鉄には世界に冠たる蒸気機関車亜細亜号が時速130キロで走っていたのです)。これと、一部電化された鉄道を併用して、二日間で新京まで行くと言う企画です。

 実際、昭和初年の東京駅では、満州奉天でも、北京でも、ベルリンでも切符を買うことが出来たのです。但し日にちがかかります。それを満鉄の亜細亜号を改良して、時速200キロまで性能を上げたなら、東京新京間は2日間で移動できます。朝6時に東京を立てば、夕方4時に下関に付きます。そこから地下トンネルを通って、釜山に着くのは深夜11時です。そして早朝6時にはソウルに着きます。ソウルまではわずか24時間で到着します。そこから北に上って、満州に入り、新京まではさらに24時間で行けます。当時の世界の鉄道と比較しても驚異的な速さです。

 

 さてそれを実現させるためには、日本の鉄道に大きな問題がありました。日本の鉄道は、狭軌と言って、車軸の幅が狭かったのです。満鉄の亜細亜号は、広軌(1435㎜)の車軸幅の列車ですから、日本国内の鉄道では使えません。地形の複雑な日本で列車を通すには狭軌で作ることのほうが経費が罹らず、簡単だったのです。それを広軌にすればカーブもゆるく作らなければなりません。そのため在来線を広軌に変えて使うことは不可能です。結局新たに、東海道線山陽線をもう一つ作らなければならないのです。

 そこで鉄道省は早速用地買収に取りかかります。かなりの部分、在来線に並列に進みますが、ところどころ時速200㎞の列車が通すために、緩いカーブにするための用地買収をしました。日本坂トンネルは設計上やむを得ず新規に作らなければならず、実際掘削が始められました。昭和16年のことです。今は新幹線が利用しています。

 結局弾丸列車計画は、太平洋戦争のために中断し、戦後は、満州国は崩壊し、朝鮮も独立したため、アジアへの野望はついえました。然し、弾丸列車計画は消えたわけではありません。当初、蒸気機関車で走らせようとしていた列車は、電化に変わり、弾丸列車は新幹線と名前を変えました。スピードも、200㎞から300㎞と機能をアップさせ、東京大阪間を当初は3時間10分で結ぶ企画が作られました。

 新幹線が考えたプランで今日までも世界が称賛するアイディアがあります。それは、新幹線は一か所も地面の上を走っていないのです。新幹線のレールを見たらわかりますが、殆どの区間は、橋脚を建ててその上にコンクリート製の大きな樋(とい)を作り、その樋の中を新幹線が走っています。そのため、新幹線には踏切がありませんし、在来線とも交差しませんから、人とも、自動車とも、在来線とも接触しません、当然、事故も起こらないわけです。これはとても費用の掛かるやり方ですが、これによって格段に安全は守られます。また、台風や、地震津波災害からも守られています。地震によって、レール幅が広がり、列車が脱線すると言うことがないのです。災害の多い日本ではこうする以外に安全を確保することはできないわけです。

 

 私が初めて生の新幹線を見たのは小学校4年生の時でした。昭和39年。オリンピック開催に合わせて新幹線が出来ました。ニュースなどでは度々走る姿を見ていましたが、実物はまだ見ていなかったのです。

 それがあるとき、友達が、「近所に新幹線が走っているよ」。と教えてくれたのです。そこで数人の仲間と歩いて、新幹線の走っているところまで行きました。当時私は池上に住んでいました。そこから20分くらい歩いたと思います。そこは住宅街で、馬込と言うところでした。こんなところに新幹線が走っているとは思えません。半ばあきらめかけた時に、友達が「この下だ」。と言いました。私は、てっきり高い橋げたの上で悠々と新幹線が走っているのを期待していましたが、橋の上から眺めると、そこはまるで川底のように、低く彫り込んである溝の中でした。

 然し、間違いなく新幹線は走っていました。シュウシュウシュウと音を立てて新幹線が走り抜けて行きます。子供たちはしばらく走る新幹線を黙って見続けていました。「これはすごい、池上線とは大違いだ、ガッタンゴットンなどと言う音とは違う。まるで宇宙船を見るようだ」。私は呆気にとられました。子供心にも、周囲の世界とあまりに違い過ぎる世界がそこにあったのです。

 そうなると、今度は何とか新幹線に乗って、その速さを体感してみたい。と考えました。然しそれを実現させるのは容易ではありませんでした。私が舞台でマジックをするようになって、15歳で名古屋に行ったときに、その目的は達成できました。

続く