手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

ビゥレットトレイン(弾丸列車)

 17日は人形町玉ひでで公演します。若手マジシャン4本と、私の手妻です。11時30分オープン、12時から食事、12時30分から若手マジックショウです。

 30日は、高円寺、座高円寺でヤングマジシャンズセッションの公演です。峯村健二、伝々、他若手マジシャンです。真ん中に峯村、伝々、私の対談を挟みます。6時オープン。6時30分開演です。席数わずかです、お早めにお申し込みください。

 12月4日、鎌倉芸術文化会館での落語会、柳家三三師匠の落語、長講「芝浜」が聞けます。そこに私の手妻があります。神奈川県のお客様、たまにじっくり落語と手妻は如何でしょう。どうぞお越しください。

 

 ビゥレットトレイン(弾丸列車)

 新幹線のことを海外ではビゥレットトレイン(bullet train=弾丸列車)と呼びます。今でこそ新幹線は海外でも、「シンカンセン」で、通用しますが、それでもビゥレットトレインと呼ぶ人もたくさんいます。

 実はこの呼び名は、昭和14年に当時の鉄道省が弾丸列車計画と言うものを立案した時の名称で、東京から、大阪、下関を経て、海底トンネルで釜山に上がり、そこからソウル、平壌を経て、満州鉄道とつなげ、奉天長春、新京とつなげて、さらに先のシベリア鉄道とつないで、モスクワ、ベルリン、パリまで伸ばそうと言う遠大な計画があったのです。これが弾丸列車計画です。

 当時の日本は、朝鮮半島も、満州も自国の領土であったため、満州の首都、新京と、朝鮮の首都、ソウル(当時は京城=けいじょう)、そして東京、の三都を最短で結ぶ鉄道網を必要としていたのです。現実には昭和初年でも、東京から東海道線山陽線、フェリーに乗って、朝鮮鉄道と、満州鉄道を乗り継げば、約3日間で新京まで行けたのです。これを一気に同じ鉄道でつなごうとする計画です。当時の蒸気機関車(満鉄には世界に冠たる蒸気機関車亜細亜号が時速130キロで走っていたのです)。これと、一部電化された鉄道を併用して、二日間で新京まで行くと言う企画です。

 実際、昭和初年の東京駅では、満州奉天でも、北京でも、ベルリンでも切符を買うことが出来たのです。但し日にちがかかります。それを満鉄の亜細亜号を改良して、時速200キロまで性能を上げたなら、東京新京間は2日間で移動できます。朝6時に東京を立てば、夕方4時に下関に付きます。そこから地下トンネルを通って、釜山に着くのは深夜11時です。そして早朝6時にはソウルに着きます。ソウルまではわずか24時間で到着します。そこから北に上って、満州に入り、新京まではさらに24時間で行けます。当時の世界の鉄道と比較しても驚異的な速さです。

 

 さてそれを実現させるためには、日本の鉄道に大きな問題がありました。日本の鉄道は、狭軌と言って、車軸の幅が狭かったのです。満鉄の亜細亜号は、広軌(1435㎜)の車軸幅の列車ですから、日本国内の鉄道では使えません。地形の複雑な日本で列車を通すには狭軌で作ることのほうが経費が罹らず、簡単だったのです。それを広軌にすればカーブもゆるく作らなければなりません。そのため在来線を広軌に変えて使うことは不可能です。結局新たに、東海道線山陽線をもう一つ作らなければならないのです。

 そこで鉄道省は早速用地買収に取りかかります。かなりの部分、在来線に並列に進みますが、ところどころ時速200㎞の列車が通すために、緩いカーブにするための用地買収をしました。日本坂トンネルは設計上やむを得ず新規に作らなければならず、実際掘削が始められました。昭和16年のことです。今は新幹線が利用しています。

 結局弾丸列車計画は、太平洋戦争のために中断し、戦後は、満州国は崩壊し、朝鮮も独立したため、アジアへの野望はついえました。然し、弾丸列車計画は消えたわけではありません。当初、蒸気機関車で走らせようとしていた列車は、電化に変わり、弾丸列車は新幹線と名前を変えました。スピードも、200㎞から300㎞と機能をアップさせ、東京大阪間を当初は3時間10分で結ぶ企画が作られました。

 新幹線が考えたプランで今日までも世界が称賛するアイディアがあります。それは、新幹線は一か所も地面の上を走っていないのです。新幹線のレールを見たらわかりますが、殆どの区間は、橋脚を建ててその上にコンクリート製の大きな樋(とい)を作り、その樋の中を新幹線が走っています。そのため、新幹線には踏切がありませんし、在来線とも交差しませんから、人とも、自動車とも、在来線とも接触しません、当然、事故も起こらないわけです。これはとても費用の掛かるやり方ですが、これによって格段に安全は守られます。また、台風や、地震津波災害からも守られています。地震によって、レール幅が広がり、列車が脱線すると言うことがないのです。災害の多い日本ではこうする以外に安全を確保することはできないわけです。

 

 私が初めて生の新幹線を見たのは小学校4年生の時でした。昭和39年。オリンピック開催に合わせて新幹線が出来ました。ニュースなどでは度々走る姿を見ていましたが、実物はまだ見ていなかったのです。

 それがあるとき、友達が、「近所に新幹線が走っているよ」。と教えてくれたのです。そこで数人の仲間と歩いて、新幹線の走っているところまで行きました。当時私は池上に住んでいました。そこから20分くらい歩いたと思います。そこは住宅街で、馬込と言うところでした。こんなところに新幹線が走っているとは思えません。半ばあきらめかけた時に、友達が「この下だ」。と言いました。私は、てっきり高い橋げたの上で悠々と新幹線が走っているのを期待していましたが、橋の上から眺めると、そこはまるで川底のように、低く彫り込んである溝の中でした。

 然し、間違いなく新幹線は走っていました。シュウシュウシュウと音を立てて新幹線が走り抜けて行きます。子供たちはしばらく走る新幹線を黙って見続けていました。「これはすごい、池上線とは大違いだ、ガッタンゴットンなどと言う音とは違う。まるで宇宙船を見るようだ」。私は呆気にとられました。子供心にも、周囲の世界とあまりに違い過ぎる世界がそこにあったのです。

 そうなると、今度は何とか新幹線に乗って、その速さを体感してみたい。と考えました。然しそれを実現させるのは容易ではありませんでした。私が舞台でマジックをするようになって、15歳で名古屋に行ったときに、その目的は達成できました。

続く