手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

ああしてこうすりゃこうなるものを

 私は2月のブログで「ロックダウンは意味がない」と書きました。仮にロックダウンをして、一時的にコロナの感染が収まったとしても、ロックダウンを解除すればまた感染者数が増加して、ロックダウンの意味がなくなるからです。

 3月に学校閉鎖をしたときには、「元々若年層に感染しにくいコロナウイルスを抑制するために学校閉鎖をするのは意味がない」。と書きました。今では学校閉鎖は間違っていたと言うのは誰もが理解していることです。間違っていたなら、さっさと学校を再開させるべきですが、大学などの授業再開は遅れたままです。

 学校閉鎖はスポーツ界に暗い影を落としています。学校の施設が使えない。生徒を集められない。観客が集められない。多くの問題を抱えて維持が難しくなっています。それでも仲間を集めて練習すると、クラスターなどと言って、集団感染をマスコミにリークされます。何人感染しようと、それで重症になった若者はいないのです。みんな完治しているのです、そうなら風邪をひいたことと同じことです。それを針小棒大にマスコミが騒ぎます。お陰で練習再開が思うに任せない状況です。

 馬鹿な騒動はおやめなさい。コロナが大したウイルスでないことはみんな気づいているはずです。それを大袈裟にして、騒いでいるのはマスコミです。そして都知事や府知事です。お陰で人は出歩かなくなり、経済はどんどん委縮しています。

 

 今は一生懸命、コロナの責任を感染者にかぶせています。感染者の名前を出して大騒ぎをして、自分たちは逃げ隠れしています。逃げる理由もなければ隠れる理由もありません。感染者を悪人に仕立てて騒げば、全てが丸く収まりますか。被害者を加害者のように扱って魔女狩りをすることが楽しいですか。そこに何の意味がありますか。

 毎日のように芸能人が感染者として、ニュースに写真入りで載っています。彼らがテレビに顔を晒すほど悪いことをしましたか。なんの罪あって報道するのですか。

 また、毎日マスコミが感染者の数を公表することに何の意味がありますか。「東京の感染者は200人です」。と報道されて、誰がその情報をメリットとしますか。知っても意味のない情報ではありませんか。それよりも連日の企業の倒産件数のほうが生活に重要ではありませんか。経営者の自殺のほうが深刻な問題ではありませんか。

 

 焼鳥屋や、飲み屋の親父が廃業することは、焼鳥屋一軒が倒産することではありません。焼鳥屋が廃業すれば、店を貸していたビルのオーナーの経営が危うくなります。それがやがてビルに金を貸していた銀行が傾いてきます。そうなると、銀行の支店長が買おうとしていたクラウンが売れなくなり、ビルのオーナーが買おうとしていたレクサスが売れなくなります。焼鳥屋の親父が買おうとしたミラも売れません。クラウンもレクサスもミラも売れなくなるのです。焼鳥屋の廃業が自動車産業を脅かします。それが地域社会の不況につながって行きます。

 マスコミも、政治も、視聴者も、すべて、コロナを他人事に考えて、感染者を加害者に仕立てて、全ては自分が関与しないところの話だと、逃げて隠れているうちに日本の景気は悪化します。コロナを常に被害者意識からしか見ようとしない意識から早くに脱却して、感染を恐れるのではなく、普通の生活に戻らなければいけません。それには無用な煽りをする人たちを抑えなければ、この先の生活が成り立たなくなります。

 いくらGOTOキャンペーンで割引制度を取り入れても、マスコミが感染者を煽っている限り、マッチポンプの関係は変わらないのです。煽りを止めさせない限りGOTOキャンペーンの税金は垂れ流されます。

 私は3月に、スゥエーデン方式が正しいと書きました。今もそう考えています。結局ロックダウンをしようと、非常事態宣言をしようと、感染者の数は変わりません。それはロックダウン以降の感染者の数を見たなら明らかでしょう。ワクチンも特効薬もできていない状況で感染を抑えることは不可能なのです。

 確かに、手洗いとマスクは効果的です。然し根本的な解決ではありません。幾らマスクと手洗いを勧めても、現実に山手線や中央線にラッシュ時間に電車に乗っていれば感染者は確実に増えます。にもかかわらず日本でそれほど感染者が爆発的に増えないのはコロナウイルスがそもそも感染力の弱いウイルスだからです。また感染しても、重い持病のある人か、衰弱した年寄りでもない限り、重症にはならないのです。そうであるなら、あまり神経質になる必要もないはずです。

 衛生面に気を付けて、手洗いマスクをして、極端に密な接触を避けて、日常生活を送っていれば、別段危険な状況には至らないのです。そうなら、スゥエーデンが初めからやっている方式と何ら違いがないのです。

 

 ところで、表題の、ああしてこうすりゃこうなるものを、と言う言葉は、昔、松鶴家千代若千代菊師匠と言う漫才さんが、舞台でやっていた都都逸(どどいつ=7775の洒落唄)で、その唄は、「ああしてこうすりゃこうなるものを、知りつうこうしてこうなった」。と言う、恋の唄です。一連のコロナの騒動を見ていると、どう考えても、知りつつこうしてこうなるにきまっているのに、誰も責任を取らず、まだ大騒ぎを続けて、誰か犯人を捜して、自分だけ逃れようとしています。

続く