手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

ああしてこうすりゃこうなるものを

 私は2月のブログで「ロックダウンは意味がない」と書きました。仮にロックダウンをして、一時的にコロナの感染が収まったとしても、ロックダウンを解除すればまた感染者数が増加して、ロックダウンの意味がなくなるからです。

 3月に学校閉鎖をしたときには、「元々若年層に感染しにくいコロナウイルスを抑制するために学校閉鎖をするのは意味がない」。と書きました。今では学校閉鎖は間違っていたと言うのは誰もが理解していることです。間違っていたなら、さっさと学校を再開させるべきですが、大学などの授業再開は遅れたままです。

 学校閉鎖はスポーツ界に暗い影を落としています。学校の施設が使えない。生徒を集められない。観客が集められない。多くの問題を抱えて維持が難しくなっています。それでも仲間を集めて練習すると、クラスターなどと言って、集団感染をマスコミにリークされます。何人感染しようと、それで重症になった若者はいないのです。みんな完治しているのです、そうなら風邪をひいたことと同じことです。それを針小棒大にマスコミが騒ぎます。お陰で練習再開が思うに任せない状況です。

 馬鹿な騒動はおやめなさい。コロナが大したウイルスでないことはみんな気づいているはずです。それを大袈裟にして、騒いでいるのはマスコミです。そして都知事や府知事です。お陰で人は出歩かなくなり、経済はどんどん委縮しています。

 

 今は一生懸命、コロナの責任を感染者にかぶせています。感染者の名前を出して大騒ぎをして、自分たちは逃げ隠れしています。逃げる理由もなければ隠れる理由もありません。感染者を悪人に仕立てて騒げば、全てが丸く収まりますか。被害者を加害者のように扱って魔女狩りをすることが楽しいですか。そこに何の意味がありますか。

 毎日のように芸能人が感染者として、ニュースに写真入りで載っています。彼らがテレビに顔を晒すほど悪いことをしましたか。なんの罪あって報道するのですか。

 また、毎日マスコミが感染者の数を公表することに何の意味がありますか。「東京の感染者は200人です」。と報道されて、誰がその情報をメリットとしますか。知っても意味のない情報ではありませんか。それよりも連日の企業の倒産件数のほうが生活に重要ではありませんか。経営者の自殺のほうが深刻な問題ではありませんか。

 

 焼鳥屋や、飲み屋の親父が廃業することは、焼鳥屋一軒が倒産することではありません。焼鳥屋が廃業すれば、店を貸していたビルのオーナーの経営が危うくなります。それがやがてビルに金を貸していた銀行が傾いてきます。そうなると、銀行の支店長が買おうとしていたクラウンが売れなくなり、ビルのオーナーが買おうとしていたレクサスが売れなくなります。焼鳥屋の親父が買おうとしたミラも売れません。クラウンもレクサスもミラも売れなくなるのです。焼鳥屋の廃業が自動車産業を脅かします。それが地域社会の不況につながって行きます。

 マスコミも、政治も、視聴者も、すべて、コロナを他人事に考えて、感染者を加害者に仕立てて、全ては自分が関与しないところの話だと、逃げて隠れているうちに日本の景気は悪化します。コロナを常に被害者意識からしか見ようとしない意識から早くに脱却して、感染を恐れるのではなく、普通の生活に戻らなければいけません。それには無用な煽りをする人たちを抑えなければ、この先の生活が成り立たなくなります。

 いくらGOTOキャンペーンで割引制度を取り入れても、マスコミが感染者を煽っている限り、マッチポンプの関係は変わらないのです。煽りを止めさせない限りGOTOキャンペーンの税金は垂れ流されます。

 私は3月に、スゥエーデン方式が正しいと書きました。今もそう考えています。結局ロックダウンをしようと、非常事態宣言をしようと、感染者の数は変わりません。それはロックダウン以降の感染者の数を見たなら明らかでしょう。ワクチンも特効薬もできていない状況で感染を抑えることは不可能なのです。

 確かに、手洗いとマスクは効果的です。然し根本的な解決ではありません。幾らマスクと手洗いを勧めても、現実に山手線や中央線にラッシュ時間に電車に乗っていれば感染者は確実に増えます。にもかかわらず日本でそれほど感染者が爆発的に増えないのはコロナウイルスがそもそも感染力の弱いウイルスだからです。また感染しても、重い持病のある人か、衰弱した年寄りでもない限り、重症にはならないのです。そうであるなら、あまり神経質になる必要もないはずです。

 衛生面に気を付けて、手洗いマスクをして、極端に密な接触を避けて、日常生活を送っていれば、別段危険な状況には至らないのです。そうなら、スゥエーデンが初めからやっている方式と何ら違いがないのです。

 

 ところで、表題の、ああしてこうすりゃこうなるものを、と言う言葉は、昔、松鶴家千代若千代菊師匠と言う漫才さんが、舞台でやっていた都都逸(どどいつ=7775の洒落唄)で、その唄は、「ああしてこうすりゃこうなるものを、知りつうこうしてこうなった」。と言う、恋の唄です。一連のコロナの騒動を見ていると、どう考えても、知りつつこうしてこうなるにきまっているのに、誰も責任を取らず、まだ大騒ぎを続けて、誰か犯人を捜して、自分だけ逃れようとしています。

続く 

 

お茶漬け

 今週末は、玉ひでがあります。若いマジシャン4組が出て、私が出ます。私も、毎回必ずめったにかけない作品を1,2作出しています。当然、余り演じない作品は練り込みが足らないのですが、こうしたものをやらないままにしていると、結局自身のレパートリーを狭くしてしまいます。私の会であれば理解者も多くご覧になっていますので、こんな時こそ以前の作品を出してもう一度、細部を考えるようにしています。

 17日、11時30分からオープンします。詳細は東京イリュージョンまで。

 

 30日のヤングマジシャンズセッションは、残り20席です。まだ今なら間に合います。いいメンバーですからぜひお越し下さい。座高円寺、6時開場、6時半開演です。

 

お茶漬け

 昨日は卵かけごはんが出たので、今日はお茶漬けを書きます。私はそれほどお茶漬けが好きなわけではないのですが、それでも人生で食べた食事の中からベストテンを選べと言われると、お茶漬けが3っつ入ります。

 一つは京都貴船の鮎茶漬け。二つ目は、松江の料亭、皆美の鯛茶漬け。三つめは博多の鯛茶漬け。この三つは、甲乙つけがたいほどうまいと思いました。

 貴船の鮎茶漬け、これを食べたのは後にも先にも一回きりで、しかも学生の時でした。貴船に遊びに出かけた時に、川沿いの料理屋に入ろうとしましたが、値段が高くて入れません。

 うろうろしているうちに茶漬けの店を見つけ、入ってみました。店の作りは大したものではありません。出てきたものは、蓋つきの茶碗と柴漬けです。蓋を開けると、飯の上に鮎の甘露煮が乗っています。鮎は小さく、見かけは黒くておよそ冴えません。これにお茶をかけて、蓋をして、3分待ちます。蓋を取って、鮎を箸で押すと簡単に崩れます。鮎を小さくほぐしてして、その上に柴漬けを散らばせて、飯と一緒に頂きます。

 これが絶品です。甘露煮の甘みがお茶によって沈められ、鮎のわずかな脂身が飯と合わさって飯の旨味を引き立てます。元々鮎は淡い味ですが、ところどころ甘露煮の醤油がしみ込んでいて味を引き締めます。しかも沈んだ醤油味がいいだしのつゆに飯を入れたようになります。わずか一膳の飯ですが、食べた後うなってしまいました。茶漬けを旨いと思った初めての体験でした。

 

 松江の鯛茶漬けは、宝屋さんというショッピングセンターにマジックショウで出演した折、専務の西川さんが車を飛ばして、中心街の料亭まで連れて来てくれました。ここは宍道湖を一望に臨める好立地に日本庭園を構え、大きな店を構えている皆美と言う料亭です。ここは入るだけでも躊躇してしまうような立派な店です。とてもショウの出演の合間に食べに行くようなところではありません。

 ここのお店で、宍道湖を眺めながら、お茶漬けでもとなります。然し、簡単な料理ではありません。何品も並んだ膳が出て来ました。刺身や、なますが出て、そして、いよいよ鯛茶漬けが出ました。

 茶碗にはご飯が盛られています。別の皿に、そぼろの鯛の身と、卵の白身のそぼろ、黄身のそぼろ、それに刻んだ海苔が並んでいます。それらを適当に飯にかけ、だしをかけて食べます。鯛の身は噛むとわずかな脂味を感じます。卵は甘く作ってあります。これが飯と、だしとに合わさって、今まで体験したことのない旨さでした。

 松江では何かと不昧(ふまい)公好み、と呼ばれる独自の価値観があります。不昧公とは江戸時代の松江の名君と言われた殿様で、茶道に精通していて、松江の今日の文化を形作った人です。この殿様の審美眼が、不昧公好みと呼ばれるもので、掛け軸から、茶室の拵えから、服装、食事に至るまで、不昧公好みと言うと高級品、レベルの高い文化を意味します。

 このお茶漬けもまさに不昧公好みで、卵の甘み、鯛のこく、だしの香り、米の甘み、が混ざって巧さが重層的に迫ってきます。

 さらにこれに、カレイのから揚げが付きます。カレイはお客様が来てすぐに揚げ始め、じっくり30分かけて揚げます。身は小さいものですが、揚がったカレイは、頭から尻尾まで全て食べられます。鰭などは煎餅のようにぱりぱりしています。骨まできっちり上がっていて残すところがありません。朝、宍道湖で上がったカレイだそうで、小さくても、十分満足する味わいです。刺身から生ものから、カレイのから揚げ、そして鯛の茶漬けでフルセットです。このお茶漬けが一番贅沢な一品でしょう。

 

 博多の鯛茶漬けは松江のものとは違います。これは飯の上に鯛の刺身を乗せて、そこにゴマダレを掛けます。それにだしをかけて食べるものです。鯛の身のほのかな脂の乘りに、ゴマダレを加えることで、味が強まります。そこへだしをかけて食べるわけです。味はさっぱりとしています。この茶漬けは鯛の刺身の良し悪しで味が決まります。脂の乘りの良い、だしをかけるとほんのり脂が浮いてくるような鯛ならうまいことは間違いありません。

 その鯛に、熱いだしを掛けて、蓋をして少し置き、レア状態になった鯛の刺身を口にほおばります。しまった鯛は、味が凝縮して、噛むといい味が出ます。これと飯とだしが合わさることで美味と感じます。

 弟子の大樹や、前田が大好きな一品です。但し、いつも酒を飲んだ仕上げに食べますので、私は小料理屋の鯛茶漬けしか知りません。ここの鯛茶漬け、と決定できる店をいまだ知らないのです。いづれ博多のどこかいい料理屋に入ったおりに決定的な茶漬けを知ることになるでしょう。その折またご報告します。

続く

 

 

 

 

岐阜 徳専の卵かけごはん

  昨日(11日)は、名古屋の指導から帰って、片づけをしているうちにくたびれてしまい、すぐに寝てしまいました。私のブログを期待してくださっていた皆様には失礼いたしました。

 10日の朝は台風で新幹線が止まるのではないかと心配し、いつもは朝10時に家を出るのですが、この日は朝7時半に家を出ました。前田は7時半前に来ています。私が一人で指導に出かけるときは、荷物が重いため、いつも中野駅まで前田が運転をします。富士は、通常は1時から指導をしますが、台風のため、前日に10時から指導をしますと伝えました。そして8時半に東京駅着、新幹線を見ると、間引き運転もありません。

 「あぁ、これなら通常に出かけてもよかったかな」。と思いましたが、それは結果論です。台風が少し本州に寄って進んでいたなら今頃突風が吹いて、木が倒れたりして事故が連発していたでしょう。

 と言うわけで富士の指導は、10時から、午後3時半まで致しました。基礎指導プラス個人指導ですので、5時間くらいかかります。富士は皆さん熱心です。四つ玉をする人、リングをする人、お椀と玉をする人、みんな少しづつですが上達しています。

 さて、指導を終えてから新幹線に乗り名古屋へ、さらに在来線で岐阜へ向かいま

す。辻井さんには、いつもの時間を早めて、7時集合にしてもらいました。無論、峯村さんも一緒です。行く先は岐阜一番と噂の料理屋、徳専です。1年前にも伺いましたが、忘れられない店です。私はいきなり常温の三千盛りを頂きました。飲み口のいい酒で、うっかり気を抜くと幾らでも入ります。

 料理は、何品目かに北海道産のシシャモが焼かれて出て来ました。長さ10センチ、皿に一匹盛られてちょこんと出ました。見かけは何とも寂しいのですが、頭からかじりつくと適度に脂がのっていて、しかも軽い塩けが合わさって実にいい味です。始めはなんだこんなものと思いましたが、このサイズが、酒飲みにとっては、腹に邪魔にならず、酒を引き立てるつまみとしては最高です。

 シマアジとマグロの刺身が出ましたが、これも量がわずかです。然し、素材がいいせいか、これで十分に楽しめます。お終いの方に松茸が天ぷらではなく、フライで出て来ました。噛むと中は温かく、松茸の香りが漂います。これこれ、この香りです。この香りを楽しみながら、「今年ももう10月になったんだなぁ」。としみじみ思います。先週は、岡山まで行きながら松茸にお目にかかれませんでしたが、岐阜で再開できたことは喜びです。岡山の高上社長もいい人ですが、辻井さんはとてもいい人です。

 と、話はここで終わるはずなのですが、締めにおじゃこごはんが出て来ました。そうです、徳専噂の卵かけごはんの第二段。おじゃこご飯です。先ず茶碗に温かい飯が出て来ます。通常の半分の量の飯ですが、私としてはいつもの糖尿患者の晩飯の量です。然し、飯が少し違います。キラキラ輝いています。

 少し箸でつまんで食べてみました。甘みがほのかに感じます。いい米です。ここにおじゃこを二種類かけます。通常の塩で炊いたおじゃこと、山椒と一緒に醤油で炊いた茶色いおじゃこです。これが料理人の魔法です。塩で炊いたおじゃこの塩味、醤油で炊いたおじゃこの醤油味と山椒味、これが飯に混ざって異なる塩気が交互に出て来ては飯を引き立たせます。「うまい、飯のおかずは、飯を引き立たせるものでなければいけない」。こんな基本的なことを、私は忘れていました。

 たらこでも、塩鮭でも、飯を引き立たせるからうまいのです。と、感想を話すと、峯村さんが、「こないだ食べたからすみもそうですねぇ」、と未練たっぷりにからすみの話を持ち出しました。すると、辻井さんは、「それなら来月は八祥でからすみを食べますか」。と言うと、みるみる峯村さんが笑みを浮かべました。私が、「峯村さん、おじゃこ飯を食べながら、からすみの話をするのは浮気ですよ」。と言うと、その言葉に恥じらいも見せずに、「さっきから噂していた、卵かけごはんも食べてみたいですねぇ」。と、浮気の二股話です。言われて私も急に卵かけごはんが食べたくなりました。

 然し、飯を半分にして終わるところが会席膳の余韻なのでしょう。それを腹いっぱい食べるのはまるで大衆食堂の労働者のようで失礼かと思いましたが、食べたい欲求は収まりません。そこで、おじゃこ飯を食べながら、卵かけごはんを注文しました。傍から見たなら無粋で間抜けな男供です。

 そして飯が出て、生卵が出て来ました。「ご飯はこれですべて終わりですので」と、くぎを刺されました。馬鹿な客が三杯目を注文されたらどうしよう。と、牽制球を投げてきたのでしょう。そう言われると悔しいので、三杯目を頼んでレトルトカレーでもかけてやりたいと思いましたが、一流料理屋で馬鹿な争いをしても意味がありません。

 さて、この卵は、奥美濃地鶏と言う種類だそうで、最高級の卵だそうです。つるんと丸い黄身が白身の上で盛り上がっています。醤油をかけて、飯にかけ、混ぜて食べますと、確かに卵の黄身の味わいに、ほのかに脂身のようなこくを感じさせます。「あぁ、いい卵は脂みのこくを感じるものなんだ」。改めて納得です。飯との相性も抜群です。あまりにうまくて、前に出て来た料理を忘れてしまいます。こうして、三人は食事に満足して、柳ケ瀬のグレイスに向かいました。

 グレイスはロシア女性はいませんでした。チーママは淡い水色の単衣の着物で迎えてくれました。ママは濃い目の単衣です。帯には厚い刺繍でウサギが描かれています。お月見に合わせたそうです。いい趣味です。ここでまたばかばかしい話をして、11時。ホテルに行きました。さすがに私は早朝から起きていたので、少し疲れました。このまま部屋に入って休みました。

 翌朝は峯村さんと食事をして、名古屋駅まで一緒に行き、そこでお別れしました。指導会場に行き、半日指導をしました。指導を終えて、少し時間があるので、その周辺を歩いてみました。

 円頓寺と言う古いお寺があり、大きなアーケードがありました。昔栄えた地域なのでしょうか、何十年も名古屋に来ていながらこの町は初めて来ました。周囲に立派な倉造りの家が並んでいます。一度寂れた地域が、再度見直されて、若い人が集まってきているようです。名古屋にこうした古い美観地区があるとは知りませんでした。この町は名古屋の新たな核になるやもしれません。来月又散策してみます。

続く

台北の福建炒飯

 今日(10日)は富士の指導です。然し、今日は簡単には行けないかもしれません。日中は台風が一番激しい時間だと思います。新幹線が動いてくれることを願っています。余裕を見て、2時間ほど早く東京駅に行くようにします。

 晩には岐阜に行き、柳ケ瀬で食事をします。このところこのスケジュールが定着しました。月に一度、辻井さんと峯村さんとの飲食会が楽しみです。

 明日は名古屋の指導です。今回は大阪には行かず、名古屋から帰ります。

 

台北の福建炒飯(たいぺいのふっけんちゃーはん)

 もう20年以上前のことですが、台北でレクチュアーをしに行ったおりに、時間を作ってあちこち食事をしました。台北はどこで食事をしてもおいしい店が多く、朝昼晩の食事たびに新しい店を探すのが楽しみでした。

 朝は屋台でお粥を食べました。お粥の中に油で揚げた細長いパンが入っています。何でもない食事ですが、このお粥のスープと塩加減が絶品です。そして揚げパンをお粥につけながら食べるのですが、この味が忘れられません。結局台北にいる間は毎朝屋台のお粥を食べました。

 昼はヤオハンデパートの近くの食堂で、ビーフンを食べました。ビーフンは既に炒めてある真っ白な麺に、お好みでトッピングを乗せます。私は肉野菜炒めを乗せて食べました。サービスにスープが付きました。肉野菜炒めの乘ったビーフンは、東京の台湾料理屋で食べたものとそう違わない味でした。

 驚いたのはおまけに付いてきたスープです。白湯(ぱいたん)スープに小さな白身の魚が一切れ入っています。魚はほんの3㎝角ほどのもので、大したものではないのですが、素晴らしかったのは白湯スープです。薄い塩味で、それでいてコクがあり、私の知る限り、おまけで付いてきたスープの中で、これ以上旨いスープは後にも先にも飲んだことがありません。これを只で飲ませる料理人の技は大したものです。

 数年後台湾でマジックコンベンションが開催され、私は蝶と水芸を演じました。その時に母親を連れて行きました。

 晩に、新市街の方にある香港飯店と言う大きな店に行きました。生のエビを是非食べてくれと店が勧めますので、エビとビールを頼みました。生のエビが深い皿に入っていてそれを剥いて、たれをつけて食べる料理が出ました。一度に20匹くらい生きたエビが出てきて、それを手で剥いて食べるのですが、いちいち殻を剥かなければいけません。手間がかかるのでなかなか食べきれません。それでもビールのつまみには最高です。残しては勿体ないので全部食べました。

 さて、その後で、何か炒め物を2,3品食べたいのですが、エビをたくさん食べたため、あまり多くは食べられません。何か適当に腹にたまって、量の少ないものはないかとメニューを見ていると、福建炒飯(ふっけんちゃーはん)と書かれたものが目に留まりました。炒飯の上にあんかけの炒め物が乗っています。「これなら量も少なくて、炒め物と一緒に飯が食べられるからちょうどいい」。早速福建炒飯を頼みました。

 炒飯は珍しくはありませんが、福建炒飯と言うのは初めてです。出てきたものは、大きな皿に、かなり立派な炒め物がどっさりかかっています。肉と野菜の中に袋茸(ふくろたけ)と言うウズラの卵くらいのサイズのキノコがたくさん入っていました。キノコの味はあまりはっきりしたものではなかったのですが、触感が素晴らしく、肉や野菜と併せて食べると旨さを感じました。炒めものは醤油味で炒めてありますが、ほのかに甘みがあり、それぞれの野菜がシャキシャキしています。

 少し食べて行くと炒飯が出て来ました。炒飯は卵と一緒に炒めてあり、飯が卵で黄色くコーティングされています。飯自体には具がなく、唯一卵が合わせてあるだけです。この炒飯とあんかけの炒めものを口に含んだ時の相性が絶品で、

 「あぁ、世の中にこんな食べ物があることを知らなかった。もし今晩ここにきてこれを食べなかったら、一生この味を知らずに終わっていただろう。そうなら人生で大きな損をしたことになる。今日、福建炒飯を知ったことは何て幸せなことだろう」。

 と、正直思いました。たかが炒めものの乘った炒飯です。然し、今も忘れられないほど見事な味でした。

 

 その後、日本に戻ってから福建炒飯を探しましたが、なかなか見当たりません。たまにあっても食べてみるとがっかりです。台北で食べたあの味わいはどこにも見当たらないのです。いつしか私は日本で福建炒飯を食べることを諦めました。

 

 落語に目黒のサンマと言う話があります。将軍様が今の目黒のあたりで鷹狩りをして、昼に百姓家によって飯を所望します。百姓は、飯だけでは失礼と、焼き立てのサンマを添えて出します。鷹狩をした後の将軍様は空腹で、その上焼き立てのサンマですから、旨い、旨いと腹いっぱい食べます。

 城に戻ってもサンマの味が忘れられません。そこで料理人にサンマを所望します。江戸時代は脂の多い魚は傷みが早いため、身分の高い人は食べなかったのです。そこで料理人は、サンマを仕入れて、油抜きをし、味を加えて煮魚にして出します。それを一口食べて、あの時の百姓家で食べたサンマとあまりに味が違うため、料理人を呼んで、「何だこのサンマは、どこのサンマか」、と尋ねると、「銚子沖で取れたものでございます」。すると将軍様は、「何、銚子、銚子はいかん、サンマは目黒に限る」。

 あの落語と同じです。福建炒飯は台北の香港飯店に限る。お後が宜しいようで。

続く

 

 

 

鰻は野田岩か尾花か

 明日から富士と名古屋の指導に出かけますが、台風が心配です。ひょっとすると延期になるかもしれません。午後に判断を立てようと思います。

 

 17日の玉ひではまだお席があります。目の前でマジックと手妻を楽しむにはまたとない場所です。どうぞご興味ございましたらお越しください。

 

鰻は野田岩か尾花か

 食べ物の話をします。外で食事をすると言うことは、味がいいことは勿論ですが、店の雰囲気が楽しめることはとても大切です。長く続けている店は細部にまでこだわって店が拵えてあって、何度か出かけて行くうちに、「あぁ、こんなところにも工夫がしてあるんだなぁ」。と納得することがあります。50年100年と続いた店はそれなりに独特の雰囲気を醸し出しています。

 さて、東京で鰻を食べるとしたらどこがいいでしょうか。多くの人がすすめるのは、飯倉にある野田岩か、南千住の尾花と言ったところでしょうか。どちらも鰻好きにとってはよく知られた店ですが、店の雰囲気も、味も両極端な店です。

 野田岩は東京タワーの裏手近くにある店で、ここのたれはこってり甘いので有名です。その昔の江戸のアッパークラスの生活をしていた人にとっては、甘みは必要欠くべからざるものだったようで、江戸の料理の好みは、高級店であればあるほど甘みが強かったようです。卵焼きにしても、関西が塩味なのに対して、江戸の卵焼きはお菓子のように甘く作ります。正月の伊達巻も、煮豆もきんとんもべたアマです。

 砂糖が高価だった江戸時代には甘いものイコール高級品だったのでしょう。野田岩はその昔は大名や、旗本などの高給武士の暮らす町の近くにあったためか、昔ながらの伝統のまま、たれはかなり甘めです。

 私の好みからすると、余り甘いたれは好きではないのですが、ここの鰻は別格です。鰻の質と言い、焼き具合と言い、たれの甘みと言い、甘みも、ただ甘いだけでなくしっかりと奥行きを感じさせます。このたれなら少々甘くても十分納得です。

 野田岩は江戸時代から、かれこれ180年くらい続いているお店です。五代目の親父が今も調理場で若い衆をにらんでいます。毎日、細かく焼き具合をチェックしているのです。その甲斐あって上がってくる鰻の焼き具合は均等で見事です。

 時に天然鰻も入ってきます。値段はかなり張りますが、一度は天然を食べる価値はあります。脂の乘り具合は養殖鰻のほうが脂が乗っています。なんせ養殖は毎日たくさん餌を与えていますからよく太っています。一方、天然はあちこち動き回って餌を探しますので身がスマートです。しかも、水草などを食べているせいか背中の皮が緑色をしています。味は天然のほうがさっぱりしていて香りがあります。旨さを言うならやはり天然のほうが味が複雑で旨いと思います。

 いずれにしても身の厚い鰻が見事に焼かれていて、飯の上に乗っている姿はほれぼれします。酒を飲みながら、ちびちびと鰻を箸で割いて、口に乗せた途端にほぐれます。極上の触感です。店も古めかしくて雰囲気があります。値段が少々高めなことはやむを得ないとしても、「やはり東京ではここが一番かなぁ」。と思わせる店です。

 

 と、野田岩だけ見たなら野田岩がいいと言うことになりますが、南千住の尾花に行くと、また様子が変わります。南千住は、かつては水戸街道の第一番目の宿場町でした。

 今では浅草からタクシーでいくらもかからないくらい近い所ですが、昔は江戸ではなく郊外都市だったわけです。その水戸街道に、小塚っ原と言う処刑場があり、かつてはここに罪人の首が並べられていました。そのすぐ近くに尾花があります。

 店は広い敷地に平屋が建っており、昼も夜も一度門を閉ざして店を閉め、その都度お客様は外で行列をして開店を待ちます。予約はありません。開店後にゆっくり行けばよさそうなものですが、人気店のため、その後もずっと行列は続きます。このやり方が店の好みがわかれる理由です。接待には不向きな店なのです。

 店に入ると、大きな下駄箱があり、靴を脱いで、上がり框(かまち)を過ぎると、大きな入れ込みになっていて、広間に四人が座れるテーブルが所狭しと配置されています。このあたりは江戸時代の宿場の鰻屋そのものです。その卓がお客様の入場とともにすぐに満卓になります。さてここから、お客様から注文を取り、それから生きた鰻を捌いて、蒸しにかけ、焼いて行きます。どうせすぐに一杯になる店ですから、事前に捌いて、蒸すまではしておいてもよさそうなものですが、ここはそれをしません。あくまで、お客様が来てから鰻を〆ます。

 そのため、注文してから焼き上がるまで小一時間かかります。これを我慢できない人はここの鰻は食べられません。

 この長い時間をどうするかと言うと、酒と鯉の洗いを頼みます。洗いと言うのは刺身のことです。脂の多い鯉の身を水で洗って、少し脂気を取ります。それを酢味噌でいただきます。川魚は臭いのではないかと思う人もあるかと思いますが、決してそんなことはありません。育ちのよい鯉は臭みなどありません。芸人と同じです。

 広い入れ込み座敷で、鯉をつまみながら酒をちびちび飲んでいるとまるで江戸時代の宿場町で旅の疲れをいやしているかのような錯覚に陥ります。今の東京では全く体験できないような独自の世界です。

 やがて重箱が運ばれてきます。蓋を開ければ飯が見えない程に大きな鰻が見事に焼き上げられています。分厚い身は箸で簡単に捌けます。一口ほおばると、かなり醤油の効いた辛めのたれです。実はこの辛めのたれこそが江戸庶民の味です。野田岩の甘いたれはアッパークラスの大名、旗本の好みです。庶民はこの辛いたれにこそ魅力を感じていたのです。どちらがいいかは個人の好みに任せるとして、今となっては尾花の、これほどピリッと締まったたれはなかなか出会えません。

 開店前に門前で待たされて、店に入っても焼き上がりまで一時間待たされて、待って、待って、出てきた味は文句なく上等の鰻です。悔しいけれどここでなければ味わえない鰻なのです。鰻ファンなら一度は食べてみる価値はあります。

 弟子の大樹が卒業間際に連れて行った店が尾花でした。無論大樹は大感動していました。弟子の間は酒は禁止でしたが、この時から解禁になり、大樹が酒を飲みながら鯉の洗いを旨そうに食べていたのがつい昨日のことのように思い出されます。大樹のすれば卒業と、尾花の鰻の味わいと二重の喜びを経験したことになります。人生の中のいい思い出となったでしょう。

続く

浅草 並木の藪

 10月30日のヤングマジシャンズセッションは、もう80%くらい切符が売れています。コロナの状況下としは誠にいい成績です。一時は日にちも二転三転して、開催できるかどうかも分かりませんでしたが、周囲のマジックショウが軒並み中止されている現状で、開催できることは幸いです。峯村健二と伝々の顔合わせが楽しみです。面白い公演になると思います。

 

東洋館

 浅草の東洋館で水芸ができないかと言う依頼がきました。東洋館は何百回も出演していますが、あの舞台で水芸の経験はありません。社長に電話をしたのですが、今一つ要領を得ません。そこで昨日(7日)午後に東洋館に行ってみました。

 水芸は水の高さがほぼ4m上がります。水圧を下げることもできますが、下げてしまうと効果は半減します。なるべくめいっぱい水を吹き上げたいと思います。

 調べてみると、確かに天井高は4mあります。然し、照明機械や、文字(もんじ)と言う、寸法の短いカーテンが飾られていて、部分的には3.2mくらいしかありません。これは舞台の手直しが必要です。これからいろいろ打ち合わせをする必要があります。

 

 東洋館は今はお笑いの劇場になっていますが、初めはここはフランス座と言って、ストリップを見せていました。元々は、一階がストリップで、4階に落語の寄席があったのです。私が学生の頃円生師匠の道具屋を見たと言うのはここのことです。いつ覗いてもお客様の少ない寄席でした。

 そこにはよく柳家つばめと言う師匠が出ていました。インテリ噺家とかいうキャッチフレーズを持っていたと思います。新作落語をしていました。眼鏡をかけていて、もっちゃりと話すのが特徴のようでした。あまり面白い人とは思いませんでしたが、私が寄席を覗くたびに出会いました。

 見ていてワクワクするのは志ん朝師匠でした。テンポが良くて、軽くって、実に爽快な話っぷりでした。時々聞かせてくれる長い話、船徳や、愛宕山などは絶品でした。

 お兄さんの馬生師匠は逆にしっとりとした話し方で、名人の風格のある人でした。但し、親父さんの志ん生師匠を真似て、酒を飲んで高座に上がることがあり、それでろれつが回らなくなり、噺がうろうろすることがありました。それが愛嬌になったのなら親父譲りと言えたかもしれませんが、馬生師匠は只の下手に見えました。私はまだ学生でしたが、この差が芸人にとって決定的だと直感しました。

 その後、東洋館の経営者が、「これからはストリップの時代ではない」。と悟って、演芸ホールを一階に移し、ストリップを4階にしました。このころエレベータボーイをしていたのが北野武さんです。ストリップ小屋でコントの修行をしていたのです。

 やがて、ストリップもやめて、東洋館と名前を変えて、演芸場にしたのです。そのため、舞台はほぼストリップ時代のままで、客席に貼り出したスペースもあり、カラフルな照明なども今も残されています。

 

 天井高を図りつつ、客席を見ると、客席は20人ほどでしょうか。そばにいた漫才さんに、「これじゃぁ、やって行けないね」。と言うと。「それでも2か月前までは閉鎖していたんですから、舞台に上がれるだけでも嬉しいです」。と返事が返ってきました。

20人のお客さんでは劇場の借り賃も出ません。出演者が何となく暗い顔をしているのは収入に問題があるのでしょうか。にゃんこ金魚の二人が舞台脇にいたので、「噺家の寄席はどうなの」、と聞くと「同じですよ。上野の鈴本も一日10人何て言う時がありますから」。「10人の客さんで30人の噺家が出演していたんじゃぁ、生きて行けないね」。「厳しいと思います」。どこも大変なんだなぁ、と思いました。

 

 あれこれ苦労して舞台の寸法取りをしたころに前田がやってきました。本当は前田に高い所に上ってもらい、舞台高を計ってもらおうとしたのですが、30日の切符の手配などで遅れて、今、東洋館にやってきたのです。然し、もう寸法取りは済んでしまいました。とにかく陰気臭い東洋館を後にしました。

 

浅草 並木の藪

 久々浅草に来たので、色々買い物をしようと思い、あちこち歩いたのですが、休みの店があったり、いいものが揃わなかったりで結局、無駄足になってしまいました。どうも東洋館で陰気な神様を背負って来てしまったようです。これは験直しをしなければいけません。「そうだ、並木の藪に行ってみよう」。

 並木通りに近づくといつもの藪の行列が見えません。「あれ、休みかなぁ」。と、思っていると開いています。中に入るとお客さんは二組だけ。寂しいものです。ざるを二枚頼んで、菊正の樽酒を注文しました。

 「行列が見えないからやっていないのかと思ったよ」。「最近の平日はこんなものです」。「へぇ、藪でもそんななんだ」。菊正の樽が枡に盛ってやってきます。蕎麦味噌が付いています。前田にもサービスで一つ余計に来ました。そばの実が炒ってあってコリコリしています。そのそばに飴のように甘く煮詰めた味噌が絡めてあります。ちびろちびりと舐めながら菊正を一口づつ流し込んでいきます。前田は修行中ですから、菊正は飲めません。私が巧そうに飲むのを見ているだけです。

 枡に顔を近づけると、木の香りがプーンと薫ってきます。樽酒の証しです。菊正は甘口の酒です。この甘い酒が、並木の藪の辛いつゆにぴったり合うのです。夕暮れ時に、樽酒を飲んで、藪のそばを食べる、こんな贅沢ができるのは最高の幸せです。菊正を少し飲んではゆっくり息をします。すると腹の中の樽の木の香が鼻に戻ってきます。これが気持ちがいいのです。

 やがてそばがきます。薄い茶色のそばは昔の通りです。噛むと腰があって、そばの香りが口の中に広がります。つゆをそばに全部つけないで、七分ほどつけて啜ると、つゆの旨味と蕎麦の香りが両方味わえます。それを口の中で混合わせると一層旨く感じます。そこへ菊正を少し含みます。贅沢です。

 前田はしみじみ「巧いそばですねぇ」。と言いました。この男は結局浅草にそばを食べに来ただけです。楽な弟子です。まぁ、このところ大阪の仕事など立て続けに忙しかったので、今日はいい思いをさせてやります。

 外に出るとしとしとと雨が降っています。然し陽気がいいせいか雨が邪魔になりません。私は久々に日中に酒を飲んで、藪のそばを食べて上機嫌です。「こんな日があってもいい。こんな日があるから幸せなんだ」。蕎麦と酒一合で手に入る幸せなお話、まずはこれまで、です。

続く

猿ヶ京の稽古場

 今月の玉ひでの公演は、10月17日です。11時半から入場できます。12時から、親子丼のセットを食べて、12時半から若手のショウがあります。私の手妻は1時半から致します。どうぞ振るってご参加ください。お席はまだございます。

 

 来月11月14日と15日に猿ヶ京の稽古場でマジックの合宿をします。以前にお話ししましたが、猿ヶ京は温泉街で、今も10軒以上の温泉宿や、ホテルが営業しています。

 場所は群馬県の北部で、山を越えたらもう新潟県です。三国街道と言う、江戸時代の街道筋にある温泉町です。かつての三国街道は今は17号線となって、多くの車が新潟県に向かうために利用していました。特に冬場は、三国トンネルを超えた先に苗場があり、スキー客が苗場スキー場に行くために渋滞したところです。

 そのスキー客が、スキーの行き帰りに温泉に寄って、宿泊したり、温泉に浸ったりして休憩するなどして随分にぎわったようです。ところが、山の東側に関越自動車道が出来て、東京新潟間はあっという間に高速道路でつながってしまいました。これが昭和60(1985)年のことで、これによって、猿ヶ京は忘れられた存在になって行きます。更には、スキーブームが去り、苗場に観光客が来なくなります。なお且つ、温泉ブームも、去って、温泉客は減少します。

 この観客減少に歯止めをかけるべく、竹下総理大臣が提唱したふるさと創生資金を投入して、猿ヶ京は町の改造を始めます。その改造プランを引き受けたのが、当時の読売広告社で専務をしていた宮澤伊勢男さんでした。(この人が後に会社を退社して私のマネージメントをするようになります)。

 宮沢さんは、三国街道を昔の風景に復活させて、水車を作ったり、小川を作ったり休憩所を作ったりしました。広い公園を作って吊り橋をこしらえたり、蛍が生息する池を作りました。高校生や大学生の体育部が合宿しやすいように、グラウンドを整備したり、テニス場を作りました。然し、一度お客さんが離れた猿ヶ京にはなかなか人は戻りませんでした。

 

 話は10年前のことですが、私は以前から古民家で生活してみたいと考えていました。藁葺き屋根の家で、囲炉裏で火で煮炊きして、生活することに憧れを持っていました。

宮沢さんに相談すると、早速猿ヶ京の中から江戸時代の家を紹介してもらいました。三国街道沿いで素晴らしい佇まいです。私は早速借りることにしました。

 そこへ毎年3,4回泊まり込みで合宿をしていました。家は水道も引いてありますし、トイレも簡易水洗便所になっています。誠に快適です。ここを7年間借りました。やがて、町がこの家を街道の休憩所にしたいから出てくれないかと言われ、そうなら別の家を提供してほしいと話すと、芸者の検番を紹介してくれました。

 

 これが今の稽古場です。ここは古い家ではありませんが、二階に大きな舞台があります。芸者衆が、ホテルの宴会場に行く前に、ここで集合して、衣装を着替え、三味線や、踊りの稽古をして夜にホテルに向かいます。昭和30年、40年代は、たくさん芸者がいて賑わっていたのでしょうが、平成になると、観光客が減少して、宴会の数も減って行きます。そしてついに町に芸者衆がいなくなります。

 この10年は見番は空き家になっていました。この先見番が復活する可能性はありません。建物は木造のモルタル建築です。築40年を超えています。まだしっかりしてはいますが、それでも古さは誰が見てもわかります。この建物を生かす方法は見当たりません。そこを3年前から私が借りることになりました。

 私は見番の一階の倉庫に、使わない大道具をたくさん運びました。これで高円寺の一階の倉庫にあった大道具が大幅に減りました。部屋中掃除をして、台所用品や、布団、机、椅子、火鉢などを運びました。これで何とか生活ができます。片付いてみると、前の古民家は壁と柱の間に隙間が多く、夏でも夜は寒かったのですが、そうした心配はなくなりました。何にしても広い舞台があるのが魅力です。

 手妻にしろ、マジックにしろ、全く舞台の感覚で稽古が出来ます。これは得難い稽古場です。舞台の雰囲気をつかみつつ稽古が出来ます。いい物件を手に入れました。と言うわけで、毎年3回くらいここで稽古をしています。

 稽古場の向かいには町営温泉があって、広々として、しかも綺麗な施設です。稽古の後は露天ぶろや、サウナなどで汗を流しています。露天風呂からは赤谷湖が見えます。これはダムによって堰き止められた人工湖ですが、利根川の上流の水で美しく、周囲の山も、春は桜で、秋は紅葉で、とてもいい景色です。この露天風呂に横たわって、周囲の紅葉を眺めていると、余計なことを忘れて、気分爽快になります。

 夜はみんなで鍋をしたり、たこ焼きをしたりして一杯やります。私もこの時は酒を飲みます。これがとても楽しいひと時です。

 

 次回は11月14日15日です。費用は、2日間合計5時間のレッスンで10000円、食事代は4食で3000円。周囲の散策などありです。交通費は、車でお越しの場合は自費のみです。私らと一緒の車に乗る場合は、一人3000円程度のレンタカーとガソリン代と高速運賃の費用を割り勘で支払っていただきます。泊りは稽古場の広間に寝るのでしたら無料です。近くのホテルに泊まるのでしたら、ホテルをご紹介します。

 ご興味ございましたらお知らせください。習いたいマジックは事前にお知らせください。無理なものもありますのでその際はご相談します。たくさんの人と一緒になって稽古をするのは楽しいものです。しかも多くの情報が手に入り、自身のマジックが充実します。どうぞご参加ください。

続く