手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

母親のこと 11

 私は学校と舞台で俄に忙しくなります。平日は学校がありますから、日曜日か夜なら舞台を引き受けられます。更に夏休みや春休みには地方の公演も引き受けられます。一人でどんどん会社のパーティーや、お座敷まで出演しました。出演料はそっくり私の小遣いに貰えました。子供ですから、酒も飲みませんので、金はたまるばかりです。そこで、衣装を仕立てたり、マジックの道具に投資をしました。また、その頃覚え始めたクラシック音楽のレコードを買い集めました。

 私が中学に入った時に、母は家を買う決心をします。上板橋の小さな新築建売住宅です。母にすれば、昔、堤方橋の際に立っていた三角形の家が買えずに痛恨の思いをしたのですが、ようやく状況が好転して、家が買えるまでに金が溜まってきたのです。昭和42年の秋に上板橋に引っ越しました。

 それまで家族4人で狭いアパートに暮らしていたので、ようやく解放感に浸って、実に快適な生活でした。家を持つと、母の性格にも大きな変化がありました。それまで金のことでいつもヒステリーを起こし、親父と喧嘩ばかりしていたのですが、言葉も穏やかになり、家の中で喧嘩が起こらなくなりました。月々の家賃がいかに生活を圧迫していたのか、母は全く別人のように穏やかな性格になりました。

 それにつれて、私のマジック活動にも理解を示してくれるようになり、支援をしてくれるようになります。

 

 親父は家を持つことにはまったく無関心で、家に幾らの金が溜まっているかも全く知らなかったのです。引っ越しの時には家を留守にしていて、手伝いもしませんでした。引っ越して、家のかたずけが全部住んだ数日後に親父から電話がありました。

 「どこに引っ越したんだ、迎えに来てくれよ」。私は紙板橋の駅まで迎えに行きました。新居は上板橋の駅から徒歩15分と言う、少々不便な場所にありました。親父は、

「随分遠いなぁ。毎日歩いて通うのは不便だなぁ」。と、まるで人ごとのように文句ばかり言っていました。然し新居は親父にとっても快適でした。

 毎日遊んで暮らしていた親父が家を建てたということは、浅草の仲間にとっては衝撃的なことだったようです。新居には入れ代わり立ち代わり芸人が尋ねて来るようになり、その都度酒盛りが始まりました。

 特に、相棒の条さんは複雑な思いだったと思います。同じに仕事をしていて、条さんは家が建たなかったのですから。無論、それは母の稼ぎです。母の稼ぎがなければ家は無理でした。人の三倍仕事をして、生活は切り詰めるだけ切り詰めて、出来た金はせっせと定期預金をして、とにかく金を作ったのです。

 然し、外部の人にはそんなことは分かりません。親父が親父の稼ぎで家を建てたと思っています。周囲の芸人は親父に聞きました、「どうやって金をためたんだ」、と。親父は得意になって嘘八百を話をします。それを真に受けて芸人連中は真剣に聞いています。芸人の中には、親父が競馬で当てて家を建てたと言う人もあります。ばかばかしい限りです。

 このこと以来、何となく条さんが気持ちが不安定になります。どちらかと言うと条さんのほうが地味な、まじめな生活をしていたのですから、家を買うなら条さんが先になるはずです。それができないということで条さんは悩み始めます。そして二年後コンビを解消します。直接の原因が家のことだったのかどうかは分かりません。しかし普段の話の中に家の話がよく出て来ました。条さんにすればやるせなかったのでしょう。

 然し条さんとのコンビは、私はいいコンビだったと思います。このまま続けていても十分やって行けたと思います。それがあっという間のコンビ解消です。漫才やチームはいくら実績を重ねても、コンビを変えればまた一から始めなければいけません。いくら芸歴があるとはいえ、新しく組む相手によって、芸は良くも悪くもなります。

 その後すぐに親父は友人とコンビを組みますが、余り品のいい相手ではありませんでした。母や私が見ても、場末の芸に見えました。私が、「親父は面白い人なのに、どうして、こんな古臭い漫才をするんだろう」。と母に話すと、母は、「昔からいい素質を持っている人なのに、ちっとも自分を磨かないんだよ。何時でも世の中に流されて、仕事が来ないのは世の中が悪い、売れないのは世の中が悪いと思い込んでいるんだよ。自分でどうにかしようという気持ちがないんだ」。と言っていました。2年ほどしてこれもコンビ解消します。

 

 それから先は親父はギターを持って、一人でギター漫談を始めます。その頃には私も高校生になっていましたので、芸のことも分かるようになりました。

 ある時、お祭りの仕事で、私と親父が出演しました。私は常々、「ギターをやめなよ。もう数え歌の時代じゃないよ。親父なら喋りだけで十分やって行けるよ」。と繰り返し言っていました。親父も自身の喋りにまんざらでもなかったのです。然し、親父はまだ三十年も前に作ったネタにしがみついています。ボーイズにせよ、漫才にせよ、漫談にせよ、自分のネタが変わらなければ、何も変わらないのです。そこで私は一計を案じ、お祭りの楽屋でギターを隠してしまいました。親父は必死で探しましたが私は黙っています。そして親父に、

 「親父なら出来るよ。喋りだけでやってごらんよ。何時までも人の歌を歌ったり、数え歌をしていても、世間の人は注目をしてくれないよ。試しにやってごらんよ」。

 と、突っ放しました。親父は正直困惑した顔をしていましたが、私に言われて、ギターなしで舞台に上がり20分の漫談をしました。この時くらい辛そうに舞台をした親父を見たことはありませんでした。然し、親父はとにかく喋りだけで漫談をしました。

 今考えても私のしたことは間違っていなかったと思います。そして、もっと早くに漫談へ転換していたら、親父はこの世界で話術の権威者になっていたと思います。

 親父は古いネタにこだわり続けて、いつしか世の中の流れが見えなくなっていたのです。多くのチャンスがありながら、ことごとく生かすことができずに結果、どうにもならないところにまで追い詰められていたのです。それでも、仕方がないとか、何とかなると思って古いスタイルから抜け出せずにいたのです。それを倅に諭されて、初めて話芸で勝負する気になったのです。ここから親父は漫談で生きることになります。

続く

母親のこと 10

 私がマジックを覚えてみたいと親父に話すと、何人かの奇術師から種を貰って来てくれました。その奇術師の名前はよく覚えていないのですが、間違いのない人は、松旭斎小天花さんのお父さんで天遊さんでした。ミリオンフラワー(紙の花が咲く手品)、サムチップ(ハンカチが出たり消えたり、但しギミックは紙製で、肌色の塗料を塗ったものでした)、そうした基本的なものでした。それを楽屋で習って、そのあとは学校に持って行って、仲間に見せました。やがて、デパートでマジック道具が販売されていることを知り、出かけて行っては随分買い集めました。

 私の様子を見ていた親父は、自分の舞台の合間に私を出してくれたのです。まだ何も知りません。ただ、できるマジックをいくつか並べて見せただけです。それなのに、前にいたお年寄りが私に小遣いをくれました。四つに畳んだ百円札だったと思います。私にとって百円は当時一か月の小遣いでした。

 私は愛想のいい子で、舞台に出て来るときに、ニコッと笑って出て来ます。それだけでお客様が喜びます。マジックを一つ演じた時にもニコッと笑って挨拶をします。これが大変に受けが良かったのです。実際にマジックの内容は大したものではなかったと思います。この私の演技を見て、すぐに余興の依頼がきます。然し、いくら仕事を頼まれても、まだまともに見せられる演目が4,5点しかありません。衣装もないのです。親父は、まだ時期尚早とお断りました。

 ある時、相撲部屋の千秋楽に親父と井筒部屋に行きます。そこで親父が芸をした後に私が出てマジックをしました。すると、座敷の正面から私を呼ぶ女性がいます。立派な黒い着物を着ています。髪型は左右に大きく膨らませた日本髪でした。私に小さな祝儀袋をくれました。私は頭を下げて礼を言い、楽屋に戻りました。 後で聞くと八幡製鉄(後の新日鉄)の社長夫人だそうです。井筒部屋の後援会会長でしょう。

 私は道具をかたずけて、親父とタクシーに乗り、帰り道に親父が、「お前、さっきご祝儀貰ったろ。いくらもらった」。と聞かれました。私は多分百円だろうと思って、中を見てもいませんでした。然し、親父に催促をされて開けてみると、5000円が入っていました。びっくりです。私が生まれて初めて手にした5000円札でした。昭和40年です。今の価値なら確実に10倍です。

 親父は、「よかったなぁ、これで上着が買えるな」。と言いました。このことを家に帰って母親に話すと、母は、前々から親父がなし崩しに私を舞台に出すことに反対していました。このままでは芸人になってしまう。親父一人でも持て余しているのに、このうえ、一家にもう一人芸人が育ったならとてもやって行けない。明らかに反対でした。

 ところが、実際私が舞台に出るようになると、必ずしも反対はしませんでした。ジャケットを買いに行くときも、付いてきて、色々選んでくれました。蝶ネクタイも、下のズボンも、見立ててくれて、色々予算オーバーしても払ってくれたのです。

 この時私は、母が、毎日のように親父と口げんかしながらもなぜ別れないのかがわかったような気がしました。母は芸能が好きなのです。かつて自分自身も舞台に立ちながら、思い半ばにして歌手を諦めたことを全く忘れ去ったわけでもなかったのです。そして、自分が舞台に立てなかった分、親父を支援をしたかったのです。支援をしながらも、成功のつかめない親父が腹立たしかったのでしょう。

 そこへ私が舞台に立つようになります。本当なら絶対反対です。ところが、私が舞台に出ることに母はまんざらでもない様子です。そうなら私はもう大っぴらに舞台に出られます。衣装もできて、ブロマイド写真も撮りました。名前もジュニア南と勝手に親父が決めてしまいます。南は親父の南けんじからとったものです。ジュニアは二代目ですからジュニアです。小学校6年生の時にはすでにジュニア南で仕事を取っていました。

 この時代に小学生で舞台に立ってマジックをしている子供なんて一人もいませんでした。ここで両親がしっかりマネージメントをしたら、私は相当に早く売り出して、かなりのタレントになっていたでしょう。しかし親父にも母にもそうした才覚はなかったのです。全く残念でした。

 

 親父の仲間に、当時NETテレビ(今のテレビ朝日)のプロデューサーの谷さんと言う人がいました。この人が、「南さんねぇ、子供さんをあのまま仕事に出していたら、あの子はだめになるよ。何にも基礎を学ばないで勝手にマジックをしているんだもの、今は子供だからかわいいでいいけども、大きくなったら誰からも相手にされなくなるよ」。言われて親父も、それもそうだと思い、何とかしようと考え、松旭斎清子の所に勉強に行かせるようにします。この清子と言う人は親父の麻雀仲間です。親父は軽い気持ちで清子に依頼したのです。

しかしこれが私の人生を大きく決定づけたのです。

 清子と言う人は痩せた小さな女性でした。年齢はその時で50代後半でした。然し、見た目はきれいな人でした。この人はいつでも着物を着ていました。普段も着物、舞台の上も着物でした。演じるマジックは、6枚ハンカチや、タンバリン、三重ボックス(お客様から借りた時計が消えて、三重の小箱から出て来るもの)。パラソルチェンジ、(パラソルが骨だけになって、また元に戻る)。いわゆる松旭斎の女流マジシャンがよく演じる内容のものをしていました。

 清子は女性同士で組んで、コンビで回るときもありましたが、私が知っているのは、清花さんというお弟子さんとよく一緒に演じていました。小さな仕事は一人で演じていました。そんな時には私もくっついて行って随分手伝いました。

 この師匠にいろいろ習ったのですが、習ったものは、リングや、トランプ当て、6枚ハンカチなどでした。その中で、やたらに手の所作にうるさい作品があったのです。初めはよく知らないで習っていましたが、後になって、それが手妻であることを知りました。これが私と手妻の出会いです。

続く

 

母親のこと 9

 さて親父は条さんと言う相棒を得て漫才を始めます。昭和38年のことです。その時に、条さんは、「キャバレーの仕事をしませんか」。と尋ねてきたそうです。初め親父は、「キャバレーは・・」、としり込みをしました。キャバレーと言うのは、お客様がアルコールを飲んで遊びますので、ショウが始まっても、なかなか真剣に見ようとはしません。特に話を主体とする芸能は、なかなか真剣に聞きませんから不向きです。

 親父が難色を示すと、条さんが、「いま日本中でものすごくキャバレーが増えています。ここを仕事場にすれば、十分生きて行けます。逆に、昔のような演芸の余興と言う仕事はどんどん減っています。キャバレーのギャラは余興並みに支払ってくれます。毎月10本以上は決まって行くでしょう。どうですか、やりますか」。

 言われて親父は、仕事のない現実を考えると、キャバレーもやむを得ないのではないかと思うようになります。結局、条さんとコンビを組んで、キャバレーに出演するようになります。この条さんと言う人は名参謀で、親父にいろいろアドバイスをします。

 考えてみれば、親父のコンビは常に親父がリーダーで、その中で親父の芸を批判する人などはいなかったのです。その代り、他のメンバーは親父におんぶにだっこで、仕事のことも台本作りも、全て受け身だったのです。それがうまく行かないと、責任はすべて親父にかかります。しかし親父は、受けても、受けなくても、いつも、「まぁ、こんなもんだ」。と高を括っていたのです。

 然し、条さんと言う人はそういう人ではありませんでした。キャバレーを数回こなすと、親父は自分自身が結構受けていると思い込んでいたようです。ところが、条さんは、「こんな受けでは帰り(再依頼)は来ませんよ。もっと爆発的な笑いを取らないと仕事は来なくなりますよ」。「でも飲んでいる客じゃぁ、聞きゃぁしないから、話ようがないじゃないか」。「そこを聞かせるように工夫するんです。もう一度台本を書き直しませんか」。

 それまでの親父のネタは、まるで落語のように、初めに話を振っておいて、後でそこをなぞってばかばかしく落としてゆく。と言うパターンが多かったのです。それを、話の繰り返しをやめて、セリフもどれも一言で言えるように詰めて、短く短くまとめたのです。つまり、話を起、承、転、結、でまとめていたものを、起、からいきなり結、に持って行ったのです。すると、酔って頭がマヒしているお客様でも、わかりやすくなり、がぜん受け方が変わって行ったのです。

 条さんと言う人は舞台では簡単な受け答えだけしかしない、およそ目立たない芸人だったのですが、人を生かす才能があるのです。お陰で親父の芸が以前よりテンポが出て来て、笑いの数が増え、面白くなって行きました。

 

 親父はようやく家に収入を入れることが出来るようになります。同時に母親も、外に出て仕事をするようになりましたので、一家は人並み以上の収入が稼げるようになります。但し、母は三か所の仕事を掛け持ちしていましたが、二人の働きで、生活はみるみるよくなってゆきます。

 親父は自分の喋りに自信を持ち、NHK漫才コンクールに出場します。NHK初出場でしたが、いきなり準優勝を果たします。この時、なぜ優勝できなかったかを審査員に尋ねると、「漫才コンクールは、喋りの技術を一番評価します。前半のネタはテンポがあって、ネタも斬新で面白かったのですが、後半が、ギターを使って数え歌で、数え歌と言うのが新鮮味がなく、また、歌で終わってしまうのが、漫才コンクールには不向きです」。と言われたのです。

 つまり親父はまだボーイズを引きずっていたのです。ボーイズ時代の取りネタを漫才でもそのまま使っていたのです。「一つとせー、ひねた子供が多すぎる、テレビの影響じゃないでしょか。こいつぁ豪儀だねー」、と一節歌って、ませた子供の話をして笑いを取り、二つ三つと話を進めて、五つになると、「五つとせー、いつまでやってもきりがない。それでは皆さんさようなら、また会う日まで―、また会う日まで―」、と言って終わっていました。

 数え歌は昔の漫才さんが散々使い古した古典的なパターンです。古いのです。型にはまって動かしようがないのです。他の漫才が、取りネタに爆発的な笑いを作ろうと苦心している中で、親父は、「いつまでやってもきりがないー」、と言って終わるのですから、下げを期待しているお客様はがっかりです。それを昭和40年の時点で、まだやっている親父の芸には限界があったのです。それでもよく入賞させてくれたと思います。

 この先、親父が、楽器をやめて、喋りに専念して、喋りの技術を磨いたなら、親父は笑いの世界で大きなポジションを得ていたでしょう。然し、親父は数え歌をやめることをしなかったのです。なまじキャバレーで安定して稼げたことも、後で考えたならマイナス要因だったのかもしれません。条さんも、親父の型を崩してまで喋りの改革をしようとは考えなかったのです。ある程度食べて行けるだけの成功を収めたなら、そこに満足をしていたのでしょう。結果として、親父は生活はキャバレーに安住して、またぞろ、マージャンと競馬に明け暮れるようになります。その先の一手を考えると言う人ではなかったのです。

 

 そのころ私は、学校の休みの時期や、日曜日などには親父にくっついて行って、楽屋に入り浸っていました。そのうち、小学校5年生くらいになると、舞台に上がって見たくなりました。しかし子供に喋りは難しく、親父のような天然の面白さは私にはありません。何か舞台に上がれる方法はないものか、と考えていると、どうもマジックは面白そうだと気付きます。あれを覚えたなら舞台に立てるのではないか、そう考えると急にマジックに興味が湧いて来ました。

続く

クロネコの都築さん

 クロネコヤマトの元社長(その後会長)、都築幹彦さんが8月16日に亡くなりました。享年91。私はどれほど都築さんにお世話になったか知れません。

 都築さんはクロネコヤマトの社長時代からマジックを趣味にしておられて、会長職を2年務めた後、さっとすべての役職を退かれて、趣味の人生に生きることを決断します。東京アマチュアマジシャンズクラブに所属されて、毎年一回盛大な発表会をされて、派手なステージをするのが楽しみでした。特に手妻に興味があり、和服を着て華々しい手妻を見せるのが生きがいのようでした。

 初めは全くの独学でなさっていたのですが、手妻には細かな約束事があり、それを基礎から学ばなければこの先の発展がないことを知り、私の門を叩きます。

 それが平成10年の1月のことでした。

 当時私は、前年の12月に父を亡くし、大きな葬儀をしましたが、父に全く財産のなかったことを知り、結局私の支出になって、のしかかってきました。それは致し方ないことと諦めましたが、肝心なのはこの先のことでした。

 それまで五月雨式に覚えて来た手妻を、本物にまとめようと考えていました。つまり、道具一つにしても、マジックショップが合板で作ったの箱モノをやめて、指物職人に組み込み式に作ってもらい、そこに漆を塗り、金蒔絵を施して本物の道具で演じようと考えました。然しそれをどの作品もそのようにして、衣装から、道具から一式コーディネートをすると、数千万円かかります。その費用をどこから出すか、構想ばかりが先に立ち、現実には全く前に進んでいなかったのです。

 翌年1月に、私は、構想が前に進まないまま頭を悩ましていると、突然都築さんがやってきて、手妻を習いたいと申し出てくれました。それも必ず月に2回稽古をつけてもらい、少なくとも5年間は習いたいという話です。願ってもないことですぐに了解しました。すると、3月になって、多胡輝(千葉大学名誉教授、頭の体操の著者)先生が都築さんの噂を聞きつけて、訪ねて来て、都築さんと同じく習いたいという話になりました。このお二人が私についてくれたことは私の活動を大きくしました。

 お二人とも70歳を過ぎてはいましたが、講演活動が忙しく、随分大きな所得を得ています。そうした方々が私を支えてくれたのですから、一遍に私の活動に火が付きました。リサイタルをするとなれば、チケットを何十枚も買ってくれますし、道具を新規注文するときは必ずお二人も注文してくれました、衣装もどんどん作ってくれます。

 また仕事を随分紹介してくれました。公私ともに随分親身になって協力してくれました。私の活動の幅が大きく変わっていったのは言うまでもありません。

 お二人とも、東京アマチュアマジシャンズクラブの発表会では華々しく派手な舞台を競われますので、そのご指導で随分いろいろご協力をしました。この15年間くらいの活動はお二人の指導をしつつも、手妻のあらゆる部分をレベルアップすることに大いに役立ちました。全く私の人生にどうしてこんなに願ってもない展開が来るのか、何か、大きな運命すら感じました。今、考えても有難い時代でした。

 

 都築さんの従弟さんに榎本健一さんがいます。喜劇王と呼ばれ、大正末期から戦前戦後にかけての大スターです。エノケンさんの名前で親しまれ、三尺佐五平などと言う映画では、体の小さな武士の役をして、体よりも長い刀を差していて、刀のさやの先が地面に着くためにそこに滑車が付いていました。小さな体で、滑車の付いた刀をころころ引きずって動き回るのが面白く、子供だった私は夢中で見ていました。

 このエノケンさんがまだ若いころ、仕事がない時に都築さんの実家の煎餅屋さんを時々手伝っていたそうです。実家は愛知屋と言う大きな煎餅屋で、小売りではなく、全国のお菓子屋さんに卸していたそうです。その恩義を感じて、エノケンさんは、有名になってから、日劇公演などの際には、都築さんを車に乗せて、楽屋に連れて行き、一日遊ばせていたそうです。

 戦時中は米が仕入れられず、愛知屋は店を閉めます。戦後、無一文になって、都築さんは慶応大学に入り、その後就職先を探します。そこでエノケンさんを訪ね、映画会社を紹介してもらいたいと相談しますが、エノケンさんいわく、「もう映画はだめだよ。この先テレビジョンと言うものが出来て、各家庭で映画や芝居が見られるようになる」。と言ったそうです。昭和23年ならば映画会社は全盛期です。然し、その時期にエノケンさんは既に映画の斜陽を見ていたことになります。

 言われて映画会社はあきらめてどこか仕事斎はないかなとみると、ヤマト運輸と言う会社が募集をしていたそうです。ヤマト運輸の名前は知りませんでしたが、面接の練習に受けてみようと考えて出かけて見ると、うまく合格します。そのまま入社したのですが、実はヤマト運輸の初代社長は、運輸会社もこれからは体力のある若者だけでなく、頭脳の明晰な社員を入れなければいけないと言って、たまたま慶応大学に張り紙を出して10人だけ大卒を募集したのだそうです。

 その10人の中に都築さんがいたわけで、全く偶然の入社だったわけです。然し、入社してみると、配送と言う仕事は面白みのない仕事で、すでに契約している会社の製品を決まった場所に届けるだけのことで、変化もなく発展もない会社に見えたそうです。そのため2年の内に9人の慶応の仲間が辞めてしまったそうです。残された都築さんも、やめる時期を狙っていたそうですが、ある時、上司に飲みに誘われて言われたことが、

 「世の中で成功する人は、縁を生かせる人だ。君は縁あって、この会社に入ったのだから、その縁を生かすべきだ」。と言われたそうです。言われてしばらく会社にいると、二代目になる社長の息子さん(小倉さん)が、「企業の製品を輸送するのはやめて、いまアメリカで当たり始めている、小口の配送に切り替えたらどうか」、と言う提案を役員会議でします。当時一番末席の役員だった都築さんはその提案に賛成。他の役員は全員反対だったそうです。

 どんな地域でも翌日配達、どんな荷物も一つ1000円、それを達成させるというのですから、誰が聞いても無謀です。高速道路も満足に出来ていない時代に、陸送で、地方の輸送会社と連携を取って、小口の荷物を運んで、しかも収入が一つ1000円と言うのでは会社は成り立たない。と誰もが思います。然し、大手の運輸会社に押されて、シェアを失いつつあったヤマト運輸に選択の余地はなかったそうです。

 それから二代目の小倉社長と都築さんの涙ぐましい活動が始まります。小口の宅配をするということは真っ向から郵政省(郵便局)と対立することになりますので、反発が大きく、困難を極めたそうです。それが今は75000人の社員を抱える大企業ですから、大変に大きな成果を残されたことになります。二代目の小倉さんの後は都築さんが社長になりました。更に会長になり、そのあと職を退いても、講演活動で大忙しでした。

 都築さんはいつでも陽気ないい顔をしていました。大きな仕事を成し得た人は人相までよくなるのだなとしみじみ思いました。と都築さんを思い、合掌。

続く

母親のこと 8

 私は池上で生まれ、12年間池上で暮らし、都合5回池上の町中を引っ越しました。母にすれば、子供が2人いて、家賃の更新のたびの値上げを求められるのは、辛かったのでしょう。安い間借が見つかればすぐに引っ越していたのです。

 一ノ蔵にいた時に、私と親父がよく散歩をした旧道に、ラジオ部品の店がありました。堤方橋を渡る手前の三角形の敷地に二階家が建っていました。細い三角で、およそ人が住めるのかどうかも怪しいほど薄っぺらな家でした。

 その家が売りに出ていたそうです。当時30万円です。今の物価にして15倍と考えても、土地付き、都内で450万円は破格に安いと言えます。とにかくそんな家でも、引っ越すたびの敷金礼金など払わずに済みますし、第一家賃がいりません。その分貯蓄に廻せます。30万円は母親が手に届かない価格ではなかったようです。母は横浜の親戚まで一軒一軒尋ねて借金の相談をしました。然し、どこも貸してはもらえませんでした。後々までもその家が買えなかったことを残念がっていました。

 私が小学校に入り、アパートに引っ越したときに、母は編み物をやめ、働きに出ました。大森駅ビルデパートの店員でした。そして駅ビルが終わると有楽町に行き、日本料理店の仲居をしていました。定休日は別の店の店員をしていました。正月の3日間を除くすべての日を働き続けていました。当時の女性の給料は安かったので、これだけ働いても普通の男性の勤め人とそう変わらなかったようです。

 私にすれば朝から晩まで編み物の機械ががーがー騒がしく鳴っていた生活から解放されて、すっきりしましたが、家の中は誰もいなくなってがらんとしてしまいました。

 親父はいましたが、私が朝学校に行くときは寝ています。そして帰って来るとまだ寝ています。親父は用事のない日は競輪か競馬、パチンコか、仲間と麻雀に出かけます。

 私が後年、北野たけしさんや、仲間の芸人から、「あんな面白い親父さんと一緒に暮らしていたのに、何でお笑い芸人にならなかったの」、と、よく聞かれましたが、私が親父に憧れるわけはないのです。

 お笑い芸人の寿命は短く、終わってしまえば何一つ残らない人生です。ギャラは安く、一軒の家も残せません。時代が過ぎてしまえば、仲の良かったプロデューサーまで冷たい目であしらわれ、どこにも行き場がないのです。仕方なく池上の町中で博打をして遊んでいます。仕事のある時には、浅草などに出かけ、これもまた芸人仲間と博打をしています。全く先の展望がないのです。それを見ていて、親父の後を継ごうとはとても考えられなかったのです。

 親父はいつでも私と一緒にいたかったようです。しかし親父の行くところは悪い場所ばかりです。競馬場や、競輪場にまで連れて行きます。母親が晩に、「今日はパパとどこに行っていたの」。と私に尋ねると、幼い私は、「お馬の運動会に行ったよ」。と答えたそうです。

 それでも私はよく親父に連れられて、寄席や、演芸場や、余興のイベントの楽屋に連れて行ってもらいました。お陰で、幼い時から古今亭志ん生師匠や、柳亭痴楽師匠、コロムビアトップ・ライト師匠等の芸を見ることが出来ました。

 親父が楽屋で博打をしている間も、私を客席に座らせておくと、何時間でも芸を見ていたそうです。そんな様子を見て親父は、私が芸能が好きなことを知り、楽屋に連れて行くようになります。兄が、一切楽屋に入りたがらなかったのとは全く対照でした。

 私は大変ないたずら小僧で、何か人が驚くようなことをいつもしていました。然し、演芸を見るときと、本を読むときには熱心に時間を忘れて楽しんでいました。まだ幼稚園の頃でしたが、私の兄が買ってきた年鑑と言う厚い本がありました。これは世界中の国と言う国の経済力や、軍事力、生活風土などが事細かに書いてある百科事典です。幸いなことに子供用でしたので、解説の要所要所にマンガも書かれているし、全てにフリガナが振ってありました。

 私は母親や兄に平仮名を尋ねました。初めは只知っているひらがなを探すのが面白く、「し」の字や「つ」の字を探して喜んでいるようなレベルだったのですが、「し」の次に「ます」。が来ると、しますと読めるのが面白く、徐々に文章が読めるようになります。夢中になって眺めていると、その本がとんでもない知識の集大成であることに気付きます。幼稚園の間に、暗記ができるほど年鑑を読みふけりました。

 幼稚園児であるのに、首相が岸信介であることを知り、その人が出っ歯であることを漫画で知りました。韓国が李承晩ラインを敷き、日本の漁民が苦しんでいることを知ります。ソ連アメリカが世界の二大大国で、互いに政治体制が違うことを知りました。何一つ理解はできませんでしたが、とにかく丸暗記をしたのです。

 祖父母の家で、その知識を披露したところ、父の妹たちは驚き、「この子は兄さんに似たね」。と言いました、兄さんとは、親父の弟で、その当時、大学の助教授になっていた人です。ここで私の才能を上手く生かしてくれれば、私も大学教授になれたかもしれません。しかし親父は芸人の仲間を作りたくて、私をおかしな場所にばかり連れて行きます。結局私は芸能に行くことになります。

 

 親父は、仕事が少なくなると、人の台本を書くようになります。漫才や、落語家の台本を書き始めます。特に柳亭痴楽師匠が当時、ラジオやテレビの司会を何本も引き受けていて、毎週番組の冒頭に、2,3分週刊ニュースのような解説を笑いにして語っていました。親父はラジオ番組一か月分4本の冒頭ネタを痴楽師匠の家に行って、一日で書き上げていました。そこには私も一緒に出かけました。鶯谷の駅前の路地を一本入った静かな住宅街の日本建築の家で、門から飛び石を伝って玄関に入ると、でっぷり太ったな痴楽師匠が和服で待ち構えています。

 恐らく昭和35,6年のことだったと思いますが、その家には何でもありました。テレビも、ステレオも、冷蔵庫も、暮らしの仕方が私の家とは明らかに違うことは子供が見てもわかりました。

 親父は、座敷に着くと、原稿用紙を畳に広げ、寝転がって原稿を書き始めます。痴楽師匠の前で寝転がれるのは親父だけです。痴楽師匠は、親父に気を使い、水割の入ったグラスを親父の脇に置きます。そして私に、「あなたは、オレンジジュースがいいかな」。と言って、ジュースを持って来てくれます。痴楽師匠は正座をして、じっと親父の原稿のできるのを見ています。その時私は、「親父も早くこういう生活をしてくれないだろうか」。と思いました。

 

 親父は、半ば芸能を諦めかけていたのですが、救いの人が現れます。条あきらさんです。お笑い芸人で、親父の才能に目をつけコンビを組みたいと言って来ます。親父も、仕事の少ないボーイズに未練はありません。話に乘り気になります。

 この条さんと言う人は、まじめで、人柄のいい人でしたが、自分自身が芯に立ってお笑いをしてゆく人ではありません。親父のような飛び離れた才能を持った人を支えることで生きて行くタイプの人です。ようやく親父は良き理解者を見つけたのです。

続く

母親のこと 7

 昭和30年代と言うのは、まだ一般家庭に電話が引けていませんでした。勿論携帯電話などはありません。仕事の依頼はもっぱら手紙のやり取りでしていたのです。

 親父のチームは、一人、商店の息子がいたため、店には電話があったので、そこを窓口にして仕事を取っていました。然し、親にすれば、息子さんが芸人になったことを喜んではいませんから、電話の応対もぞんざいです。仕事がかかってきても、詳しい話など聞きもしないで、メモ紙に言われたことだけを書いて、息子さんが帰って来るまでほったらかしだったりします。何時にどこに行くかもわからない時があります。そんなことで行き違いが生じて、せっかくの仕事を失ったりしていました。

 その日の晩にパーティーがあるから出演してくれないか。等と言った急ぎの仕事の依頼が来ると、まず3人の了解が必要です。この3人を探すために大騒ぎになります。相方さんが走って私の家に仕事の連絡をしに来てくれて、さて母が親父に伝えようとするのですが、親父がどこにいるかわかりません。母は池上中のパチンコ屋や、ビリヤード場を訪ね歩いて親父を探します。それでも見つからないと結局仕事は流れてしまいます。当然母は腹を当てて、夜に帰ってきた親父と喧嘩になります。

 母は、親父の仕事のだらしない決め方に懲りて電話を引きました。当時の電話は契約料も、工事費も、今からは想像ができないくらい高額だったのです。なんせほとんどの家に電話がないのですから、電線を引っ張って来るだけでも長い電線が必要で、そのため、当時の電電公社は電話債権などと言う得体の知れないものを抱き合わせに買わせて、電話工事費を取っていたのです。母にすれば思い切った投資だったと思いますが、一本でも仕事が来れば生活が助かるという、かすかな願いで決断したのです。

 

 当時、私の家には、早くから、電話と冷蔵庫がありました。この二つは自慢でした。貧しい家庭からすれば意外ですが、電話は親父の仕事にため、冷蔵庫は、祖父が、古い家を解体したときに、古い冷蔵庫があったため、それを持って来て、中を直して、結婚の祝いにくれたそうです。

 当時の冷蔵庫は、電気式ではなく、中に氷を入れておいて冷やす式のもので、外見は木製の家具のような作りでした。そんな冷蔵庫でも、近所では珍しく、近所の人が肉や卵を入れさせてもらいに来たのです。

 私の家では、冷蔵庫はあっても殆ど入れるものがなかったので、夏場に水を冷やす程度しか使い道がなかったのです。たまに肉や野菜が入っていると、そこには包装紙に斎藤だの田中だの名前が書いてあって、預かりものだから食べてはいけないと言われました。一体誰のための冷蔵庫なのかわかりません。

 電話のある家は、当時、表札の脇に電話番号の札が張られていました。これは電電公社が、電話の引いてある家に優越感を与えるためにわざわざ札を作って貼ってくれたのです。ところがこの番号を、近所に人が自分の名刺に書かせてくれと言って来ます。これが呼び出し電話と呼ばれていました。自分の名刺に、(呼)と書いて、その次に私の家の電話番号を書いておきます。こうすると、私の家に知らない人から電話がかかって来たものを私が走って行って、その家に取次ます。呼ばれた人は、私の家の電話を使って話をします。まったくご近所へのサービスです。それが、私の家と話が付いてやっているならいいのですが、全然、私の家に断りもなく、無許可で呼び出し電話と書いてしまう人もいました。

 突然知らない人から電話がかかってきます。電話の向こうで呼び出し先の苗字を言われますが、心当たりがありません。母が、「きっと最近越してきた五軒先のアパートの学生さんのことじゃないの」。と言いますので、私が走って、アパートに行くと、果たしてその人で、学生がやってきて、長々話をして帰って行きます。当時は何時間話をしても電話の一通話は10円です。しかも相手からかかってきた電話ですから、費用はかかりません。そんな呼び出しが毎日のようにあります。

 私ら家族が晩飯を食べている脇で、さほど縁のない人が長々電話で話をして行きます。時に彼女とイチャイチャ一時間も話をして帰って行きます。それを私の家族は別段腹も立てず、毎回呼び出しをしてあげていたのです。呑気な時代です。

 電話まで引いて、万全な仕事の体制を作っても、親父は仕事の本数が少なくなってゆきます。私が小学校に入った時には、担任になった先生が、初日に私のそばに寄って来て、「君のお父さんは脱線ボーイズさんなの」。と聞かれました。この時までは私の親父の知名度はあったのです。然し小学校3年生くらいになるともう誰も親父の噂をする人はいなくなりました。お笑い芸人の寿命と言うのは短いものなのです。一旦落ちてしまうと取り付く島もないのです。親父は半ば自分の人生を諦めていました。

 後に親父に聞いた話では、「あの時危なくアルコール中毒になるところだった」。と言っていました。酒と博打に逃げるしかなかったのです。

 母親は毎日必死にセーターを編んでいますが、毎日親父が酒と博打に明け暮れている姿を見て悲しかったのでしょう。なんせ、一日中休まず働く母と、方や、今日は何して遊ぼうかと言う親父が狭い部屋に同居しているのですから。家の中はいつでも地獄極楽の生活です。

 母は編み物につかれると、私に「ダンスをしよう」。と言って、狭い部屋で私を相手にタンゴやジルバを踊ります。勿論私は何も知りません。母のすることに適当に付き合っているだけです。母は自分で「小さな喫茶店」などを歌いながら私とタンゴを踊ります。この時の母は快活でした。若いころを思い出して楽しげに踊ります。然し、しばらく踊ると、母は動かなくなります。私を抱きしめたままずっと涙を流しています。私はどうすることもできずただ黙って抱かれています。

 いくら働いても抜け出せない貧乏と、出口の見えない親父の生き方に暗然としていたのでしょう。子供だった私にも、母がどう生きて行っていいのかわからな苦しみを抱いていることは分かりました。然し私にはそれをどうしてあげたらいいのかがわかりません。私は小学校に入ったばかりだったのです。

続く

 

母親のこと 6

 私の話をしましょう。私は昭和29年12月1日に生まれました。深夜だったそうです。お産が夜にかかったために、親父も、祖父母も、狭い部屋にみんな集まって遅くまで起きていたそうです。祖父は、鯛焼きをたくさん買って来て、「祝いの尾頭付きだ」、と言ってみんなに配ったそうです。尾頭付きには違いありません。難産だったようで、難産の理由は、私の体重が4キロあったからだそうです。

 名前は直哉と名付けられました。母が志賀直哉の小説に傾倒していて、名付けたのです。生まれてすぐであるにもかかわらず顔がはっきりしていて、その後に少し大きくなると、誰にでも笑顔を見せたそうです。そのため近所の女の子が抱きたがって、順番待ちで、遊びにつれて行って、一度家を出るとなかなか帰って来なかったようです。

 親父は、自分の子供が生まれたことをとても喜んで、それまでなかなか家に帰って来なかったものが、夕方になると必ず帰ってきて、ずっとあやしていたそうです。

 それが生後3か月目に、親父が北海道の仕事から帰ってきて、その時、風邪をひいていたのが災いで、私は肺炎に罹ります。かなり危険な状態になり、医者が「明日までに熱が引かなければ危ないと思います」。と言って帰って行きました。当然祖父母からも家族からも親父は恨まれます。親父は部屋の隅でじっとしてしょげていて、三食全く何も食べなかったそうです。然し幸いにも一命をとりとめます。

 少し大きくなって、私が話をするようになると、母は私をおぶって買い物に連れて行くようになります。私は誰にでもにこにこしていたらしく、あちこちで声を掛けられます。肉屋の親父が、「坊や、どんな肉が食べたい」。と聞いたら、私が「お猿のお肉」。と答えたそうです。「うちはお猿はやってないんだ、他の肉はどう」。「じゃぁ猫の肉」。その時母は、「この子はお笑いの才能がある」。と感じたそうです。

 歩けるようになると、買い物も、歩いて出かけるようになります。ある日、買い物の途中で母とはぐれてしまいます。商店街の雑踏の中、どうしていいかわからず泣きながらうろうろしてました。こうしていてもどうにもなりません。自分なりにこんな時にどうしたらいいか考えました。そして、駅前の、いつも母がセーターを卸している洋品店に行きました。洋品店の主人は、私の顔を見て、いつも母がセーターを届けに来るときに、くっついてきている子供ですから、見覚えがあります。親切にも、自転車に乗せて送ってくれました。

 母親は家で夕飯の支度をしていました。全然私がいなくなったことを心配していません。私が、「迷子になって心配じゃなかったの」。と聞くと、「お前のことだから何とかうまく帰って来ると思ったよ」。と言いました。強い母親だと思いました。

 

 とにかく、母が毎日編んでいるセーターで家族は生活ができるようになりました。親父はテレビなどにたまに出ていました。NHKの演芸番組などを撮るときには、当時テレビ局は、黒塗りのハイヤーで迎えに来ます。ハイヤーが路地に入って来るだけで近所に人たちはびっくりです。どんな偉い人が来たのかと思い、みんな家から出て来ます。そこへ、親父が小さな体でギターを抱えて車に乗り込みます。窓から近所に人に挨拶をして車が走り去って行きます。近所の人は、「へーぇ、南さんも大したもんだねぇ」。と感心をします。この時だけ母も私も兄も誇らしげな気持ちになります。

 然しそれで仕事が順風かと言うと話は逆で、私が幼稚園に上がった頃になると、親父の仕事がだんだんに減ってきて、毎日ぶらぶらと遊び歩くようになります。今日でいう、イベント仕事がめっきり依頼が来なくなってゆきます。考えてみれば、若手でデビューした昭和20年から数えても親父はもう35です。若手と呼ぶには年を取り、名人と呼ぶには技量がありません。中途半端な年齢に来たのです。

 それでも何とか仕事にしがみつこうとして、テレビ局のプロデューサーと親密な付き合いをしようと考えます。金を使って接待もします。然し、大きな流れは変えられません。テレビ局が出来て7年。そろそろテレビに向いた芸人をテレビ局が選別するようになります。親父のように戦前の匂いのする芸人は敬遠され始めたのです。

 男三人が楽器を持って、ジャズや、歌謡曲を歌いながら替え歌を唄って人を笑わせるというパターンは悪くはないのですが、三人が楽器を持っているにもかかわらず、みんな楽器が自己流で、少しもまともな演奏ができません。素人臭さがばれてきたのです。基本に帰って修行しなおせば何とかなったのでしょうが、親父にそんな生真面目さはありません。そうこうするうちに、クレージーキャッツのように、本格的な演奏のできるお笑いタレントが出て来ます。そうなれば比べるべくもありません。

 親父は毎日外出して、パチンコ屋に行き、そのあと、博打の弱い近所の仲間を集めて麻雀や、ビリヤードをして、小銭稼ぎをしています。その稼いだ小銭は夜になって飲み代に消えます。母はそれを見て、どうにかしてくれと言いますが、親父にどうにかする才覚はありません。そのうち、逃避の世界に入り、朝からアルコールを飲み続けます。マンガ瓶と言う、小さな瓶に入ったウイスキーを買って、朝から母に隠れて飲むようになります。

 母はそれを見つけると、瓶を外に投げ捨てて大げんかが始まります。「あんたが売れるためならどんな苦労もするけれども、朝から酒を飲んでいても、何にもならないじゃぁないの」。ごもっともです。親父は何も返す言葉がありません。親父はすごすごと私を連れて散歩に出ます。一ノ蔵の町から旧道を通って、堤方橋に出ます。橋を越えたところに古本屋がありました。そこでしばらく古本を見ます。私は、そこで「ロボット三等兵」の漫画を見ます。今思い出してもくだらなくて、あのばかばかしさは忘れることが出来ません。のらくろや、冒険だん吉よりもずっと秀逸です。

 そのあと親父は実家に行きます。そして、私を置いて、パチンコ屋に行きます。夕方に帰ってきて、一緒に家に帰ります。その時にパチンコで当たれば、金になり、チョコレートなどの土産も出来ます。親父はパチンコは上手でした、台選びがうまく、また、池上の遊び仲間から情報が入りますので、よく当たっていました。と言っても当時のパチンコは、1000玉も出たら打ち止めでしたから、小銭稼ぎにしかなりません。

 それでも小銭を作らない限り遊ぶ金ができませんから熱心に玉を弾いていました。然し、内心は当人もそんな自分を恥じていたのでしょう。今この場から逃れたいがために、必ず、帰りにマンガ瓶を買っていました。私はそれが母との争いの種になることを知っていましたから、「お酒やめなよ」。と言いました。親父は下を向いて「うん」、と言いましたが、やめることはありませんでした。私は親父の毎日を眺めつつ、知らずのうちに人間の弱さを見つめることになりました。

続く