手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

母親のこと5

 親父の稼ぎがまったく当てにならないことを知った母は、何とか自分自身で身を立てなければならないと考えます。然し、子供が二人もいて、しかも私はまだ生まれたばかりですから、手がかかります。外に働きに出ることが出来ません。

 そこで昔覚えた編み物の機械を使って、セーターや、マフラーを編んで洋品店に収めることを思いつきます。これなら一日部屋にいて仕事ができます。まさに芸は身を助く、です。ちなみに芸は身を助くと言うのは間違って知られた慣用句で、これは元々、川柳の一句で、「芸が身を助くるほどの不幸者」と言うのが正解の句だそうです。

 若いころに遊びで覚えた芸事が、その後になって生活の種になるという人は、決して恵まれた人ではないと言う意味です。そんなことを言われるまでもなく、母は一縷の思いで編み物を始めます。生きるためです。

 当時、既製品もなかなか手に入らず、ましてや特別注文などと言うものが贅沢品だった時代に、セーターでも、チョッキでも、色柄、デザインが自由に選べて、花柄やポケット、イニシャルなども注文で自由に付けられるとあって、依頼は殺到します。しかし問題は値段です。注文品ですから、そこそこいい値で取引されますが、親子4人が母が編むセーターで暮らさなければなりません。手間のかかる分、何日もかけて作っていては生活ができないのです。そのため母は一日一枚セーターを編んでは駅前の洋品屋さんに届けたのです。これは人間業を超えた作業だったようです。

 朝早くから編み物をはじめ、お客様の注文にこたえて、斬新な柄のセーターをこしらえ、夕方には用品店に納めます。そして現金を貰い、その現金で、翌日に編むセーターの毛糸を買い、更におかずを買って帰るのです。その間私はずっと背中におぶられていたと思います。

 母はいつも編み物の機械をがーがーと動かしながら、小さな声で呟いていました。それは、網目の数を数えていたのです。途中で毛糸の色を変えるときなど、目の数を記憶していないと間違いが起きます。そのためいつも、口でカウントしながら編み機を動かしていました。

 私は、幼くて、脇で色々母に話しかけますが、母は一切話を聞こうとしません。そのうち、泣き出しますが、そうすると、母は編み物をやめ、口で唱えていた数字を紙に移してから、私を抱いてあやしてくれます。然し、5分もするとまた作業を始めます。母には辛い日々だったと思います。

 母のセーターは評判で、中には直接注文して来る人もありました。その時は洋品店の利益分が余分に手に入りますので、随分助かったと言っていました。

 池上に連月と言う、古い日本蕎麦屋さんがあります。そこのお婆さんが、時々セーターや膝掛けを注文してくれたそうです。品物が出来上がって、蕎麦屋さんに届けると、店の奥に離れがあって、日当たりのいい廊下に椅子を置いて、品のいいお婆さんが日向ぼっこをしていたそうです。自分の生活とあまりにかけ離れた生活をしているおばあさんを見て、「私の人生にこんな幸せな晩年が来るだろうか」。と思ったそうです。

 この言葉は幼い私の心に残りました。世話になった母親に何とかして、そうした生活をさせてやりたいと早くから考えていたのです。

 母の仕事は順調でした。注文は先々までも予約が付いていて、編み上げるとすぐに現金になりました。少しですが貯金も貯まって行きました。然しその金を狙う輩がいます。一人は親父です。親父は、このころテレビ局に出入りしていて、プロデューサーなどとしきりに呑みに行ったり、マージャンをしたりしていました。こうしたときの交際費が必要です。親父は母に、「プロデューサーと打ち合わせするのに金が要るんだ」。と言うと、母はすぐ必要な金を出したそうです。親父の出世のために必要な金は無条件だったそうです。親父はそれを持って、飲みに出かけます。母親のセーターの何枚かの利益が親父の飲み代で一瞬に消えます。

 さらには祖母でした。祖母の家は家族が多く、しかも、親父の下の兄は大学に行っていて何かと金がかかり、何時でも金が足らなかったようです。祖母は、頻繁にやって来ては金の無心をしました。これも、頼まれるとすぐに金を出しました。我が家に金を借りに来るということは、あちこち尋ねてどうにもならなくなったから来るのでしょうから、貸さないわけにはいかないのです。

 母は生活の仕方が固く、当時家で使っていた、炭や練炭なども、一か月分をまとめて買っていました。炭や練炭は置き場がないため、縁側に積んであります。米も袋ごと積んであります。はたから見たなら金持ちです。然し金持ちでも何でもないのです。まとめて買うと、炭でも米でも運んでくれる上に、小分けで買うよりも、一割くらい余計に呉れるのです。一割は、一年で言えば一か月分の炭が只になるわけす。そのため生活は苦しくてもまとめ買いしていたのです。

 ところが、それを祖母が目をつけて、金を借りに来た帰りに、「あらまぁ、ここにこんなにたくさん練炭が、少し貰っていっていいかしら」。と言言うと、母は黙って練炭をを3つ縄で縛って、祖母に渡します。祖母は練炭を手に下げて帰っていきます。これでおまけの3個は消えます。母の思惑は脆くも崩れたわけです。祖母が帰ると母はいつも泣いていました。幼い私にはなぜ母が泣いているのかよくわかりませんでした。

 

 親父はテレビ局のプロデューサーと、仕事の後に徹夜マージャンをし、その晩は仲間の家に泊まり、昼まで寝ています。それからまたビリヤードをして、さて夕方になって、プロデューサーが帰ろうとしたときに、徹夜マージャンで煙草の匂いが体についていますので、風呂屋で体を洗ってから帰りたいと言います。そこで親父とプロデューサーは近所の風呂屋に行きます。

 体を洗っているうちに、たまたま祖父が仕事を終えて風呂に入ってきます。祖父は職人で、体中に千本桜の刺青が入っています。こんな祖父をプロデューサーに見られたら、やくざ者と思われるので拙いと思い、親父は知らん顔をして体を洗っていると、祖父が近づいてきて、「なんだ、どうしたんだ、顔を隠して、俺だよ、お前の親父だ、なんだこの野郎、他人行儀に、とぼけやがって」。としきりに話しかけて来ます。この時くらい親父は恥ずかしと思ったことはなかったようです。後でプロデューサーに、「君のお父さんは随分カラフルな体をしていますねぇ」。と褒められたそうです。

続く

母親のこと 4

 昨日は、イベントの依頼が来て、企画書を頼まれました。来年1月の話ですが、まとまれば大きな仕事になります。急ぎ企画書を送りましたが、まとまるかどうかは先の話です。然し、大きな企画を持ち込まれることは、まだ世間が私を求めてくれている証拠で、何となく話が来るだけで気持ちが落ち着きます。

 

 そして朝から前田の稽古です。このところテーブルクロス引きをしています。以前、弟子の晃太郎とやっていた演技です。別段手妻でもなければ、マジックですらないのですが、長いショウの中に入れると気分が変わってとてもよく受けます。

 弟子が、テーブルクロスを引いて見せるのを、脇で私が余計なことを喋って邪魔するという筋なのですが、単純ですが、お客様が喜びます。私独特の説教臭いセリフが笑いになります。演じると5分あります。これをやらないのは勿体ないので、前田に仕込んでみようと思います。恐らく来年初めにはお見せできるでしょう。

 

母のこと 4

 昭和29年に親父と母は改めて所帯を持ちます。競輪の大当たりのお陰です。しかし母が結婚して気付いたことは、その生活のめちゃくちゃなことです。当時の親父はお笑い芸人としてはかなり売れていた人だったのですが、その収入には波があり、いいときは良くても悪いときは全く何もない状態だったのです。

 当時の芸人は、ギャラと言う考え方がなかったのです。舞台を依頼されて、演じると、後で、祝儀袋に入った金を貰います。これが全くの見計らいで、相手の思し召しだったのです。それは親父に限らず、当時の芸人全てがそんな金の貰い方をしていたのです。さすがにNHKに出演するときは、きっちり明細をくれますが、仲間内から頼まれる仕事は全くもらってみなければわからないような金でした。つまり昭和30年代は芸能は仕事ではなかったのです。遊びの延長で、道楽の範疇だったのです。

 当時、父親は男3人で音楽ショウをしていましたので、貰った金は3等分です。1000円貰っても330円ずつ分けることになります。その330円を稼ぐために、クリーニング屋さんに糊の効いたワイシャツを頼んで、行き来にタクシーを使ったりすれば、もうギャラは残りません。帰りに一杯飲んだりすればその分赤字です。

 しかし親父はそれで満足なのです。金のことなど関係ないのです。招かれて、お客様に喜んでもらえれば、それだけでうれしいのです。私の親父は、晩年に至るまで、仕事を引き受けるときに、先方とギャラの相談をしたのを見たことがありませんでした。

 親父は舞台に立てて、人が喜んでくれたのだから満足です。然し、家で赤ん坊を抱えて、親父の収入を待ち焦がれている母にすれば、仕事から帰ってきて金が足らないは困ります。足らないならまだしも、時には使い果たして帰って来るときもあります。

 北海道の巡業などは、半月、1か月と長い日数をかけて、北海道の町を回ります。そうしたときは、興行師と月ぎめのギャラを打合せして出かけますので、当然ギャラもかなりいい仕事です。

 冬の北海道は農作業ができませんから、大概の人は冬場は暇を持て余しています。そこへ演芸と歌謡ショウで、学校の講堂を借りて公演すると、面白いように人が集まります。半月1か月と回れば相当にいい収入になります。帰りは青函連絡船に乗り、夜行列車で東北本線を上って帰ってきます。その途中福島に着くと、福島競馬に知り合いの騎手が出場しています。資金はたっぷりあります。少し遊んで帰ってもいいだろうと、親父だけ途中下車します。

 しかしこんな時はなかなか当たりません。少し金を減らして、また東北本線に乗ります。上野駅に着くと、そこにたまたま知り合いの噺家がいます。これから麻雀をするからどうだと誘いをうけます。親父は博打の誘いは断りません。それから徹夜マージャンをしますが、これもつきがきません。ギャラはどんどん減って行きます。減った稼ぎを補おうと、またもや仲間を集めて博打をするうちに、1か月の北海道のギャラはきれいに消えてしまいます。

 数日遅れて家に帰ると、家では親父が久々に買ってきたために歓待を受けます。そしてギャラはどうしたと聞かれます。親父は「なんだかねぇ、後で送金するって言っていたよ」。ととぼけます。それが1か月して2か月しても金が届かないとなると母も機嫌が悪くなります。やがて大げんかが始まります。子供が二人いるにもかかわらず、親父と母はいつも金のことで喧嘩でした。

 母は親父のことを心から愛していました。何にしても優しいのです。そして、とびっきり面白い人なのです。家に帰って来ると、その日にあったことを色々話をしますが、その話が、何でもないことばかりなのですが、親父が話すと腰が砕けるほどおかしいのです。親父は笑いを作る天才でした。

 親父は、帰って来るときに、大きな声で道で歌を歌いながら帰ってきます。夜だと数百m離れていても親父が返ってくるのがわかります。すると母は「あっ、パパだ」。と言って食事の支度を始めます。なんとなく母親は楽しげです。帰って来ると父親はいつでも陽気です。幼い子供から母親まで満遍なく笑わせます。

 ここまでは最高の父親なのです。然し、その日のギャラがないとわかると、母親は鬼の形相に変わります。子供たちは、「それ、また始まるぞ」。と部屋の隅に隠れます。

親父は母に一切手を挙げません。逆らいもしません。母が一方的にまくし立てて怒りをぶつけます。時に茶碗や、やかんが飛びます。しかし親父はじっと黙っています。

 母親は、「お金がないと言っていてもどうしようもないでしょ。どうしたらお金ができるか考えなさいよ」。と怒ります。すると親父はちゃぶ台の前で、しおらしく下を向いて考えているふりをします。いくら考えても答えは出ませんから、そのうちに、鼻歌が出ます。鼻歌が終いには気持ちが入って来ていい声で歌い出します。「夕焼け空がまかっか、トンビがくるりと輪を描いたー」。するといきなり台所から茶碗が飛んできます。「少しも本気で考えていないじゃないの」。すると親父は、「あのなぁ、俺がこうして、静かに、どうやって金を作ろうかと悩んでいたら、それでこのちゃぶ台の上に1,000円札が二、三枚出て来るかい。出てこないだろ、俺は手品師じゃないんだから。だったら歌でも歌わなきゃしょうがないだろう」。これで2つ目の茶碗が飛んできます。

 毎日面白い話を聞かせてくれる親父は大好きでした、然し、この家にいる限り、楽しいだんらんの結末は常に地獄でした。

続く

 

母親のこと 3

 昭和29年母親は親父と同棲するようになりました。兄も一緒です。兄は前の年、小学校に上がりました。親父が独身だと言って借りていた部屋に同居していましたが、家主が子供がいることを知って、出て行ってくれと言って来ました。当然です。

 この時代は、戦後間もないため、家の数が足らなかったのです。そこで、家持の家族でも、生活が苦しくて、部屋を一間、他人に貸している家が多かったのです。台所便所は家主と共同です。そんな家を親父は間借りしていたのですが、毎朝、母親と兄が家主と顔を合わせます。

 家主にすれば、独身だと言うから貸したのに、嫁や子供がいます。そこで出て行ってくれと言う話になります。ふすま一枚で隔たっている部屋を貸すのですから、子供が騒いだり鳴いたりすれば、家主も困ります。そのため子供のいる家族はなかなか部屋も借りられなかったのです。

 母親にすれば、これからもう一人子供が生まれます。きっちり子供がいてもいいという家を探さなければどうにもなりません。然し、引っ越し費用に、大きな金が必要です。それを何とかしてくれと父親に頼みます。頼まれた父親は、解決の見つからないままに悩んでいます。

 

 ある日、新聞を見ていると、長いこと追いかけていた競輪の選手が、鶴見の花月園に出場することを知ります。この選手の実力を知っている親父は、これぞ起死回生のチャンスとばかり、朝から鶴見に行くことにしました、然し手元の金が心もとなく困っていると、駅に行く道の屋根の上から祖父の声が聞こえます。祖父はこの時、寺の屋根を銅板に葺き替える仕事をしています。ブリキ屋にとって銅葺きは最高の仕事です。「おい、どうしたよ、どこへ行くんだ」。「ああ、親父かぁ、これから花月園に行ってみようかと思うんだ。狙っている選手が出るんだよ」。「ふぅん、金はあるのか、なんなら半分乗ろうか」。と祖父は金を出してくれました。

 さて、花月園について早速車券を買うと、狙っていた選手は勿論のこと、買う車券、買う車券どれも大当たり、当たった金で次の券を買い、どんどん儲けが膨らんで、最終には50万円もの金になりました、昭和29年に1万円の月給はなかなか取れません。つまり高給取りの50か月分の給料が手に入ったのです。

 当時は1万円札などありません。千円札五千円札すらもめったに見ない時代です。百円札50円札と言う札で50万円が支払われたのですから、札束をポケットに入れようとしても、ポケットの数が足りなくて、入りきれません。シャツのボタンをあけて、体の中にじかに札束を詰め込むと、元々太っていた体がパンパンに膨らみました。換金所のおばさんが、「そんな恰好で帰ったら暴漢に襲われますよ、気をつけたほうがいいですよ」。と、心配されました。そこでタクシーを奮発して、池上まで凱旋します。

 

 夕暮れ時に池上に帰ると、まだ祖父がお寺の屋根の上で銅板を叩いています。「親父よぅ、花月園に行ったら、当たって、当たって、大儲けだよ」。「何言ってやがる。嘘つくんじゃねぇよ、取られちまったんだろ」。「いや本当だよ、50万円取ったんだ」。「馬鹿野郎、そんなうまい話があるか。それじゃぁその金見せて見ろよ」。言われて親父は、地面に百円札の札束を鷲掴みにして、「これが5万円。それで、これが5万円」。と次々に札束を取り出すと、祖父は驚いてお寺の屋根から落っこちたそうです。

 「おい、親父大丈夫か」。「大丈夫だ、いや、お前は大したもんだ。そうと聞いちゃぁもう仕事なんかしてられねぇ。馬鹿らしい。もう仕事はやめだ。帰って酒と魚を用意しろ。今日は酒盛りだ」。それから3日3晩、親子で酒を飲み続けたそうです。

 と言うわけで、部屋は少し広い部屋を借りられて、親父と母とは結婚式をして、兄は籍を入れて、私のお産の資金もできて、12月1日にめでたく私は生まれたわけです。

 私はこの話を親父から何度も得意がって聞かされましたが、競輪に当たったお陰で生まれたというのは、当たったからいいようなものの、もし外れていたら私はこの世にいなかったことになります。なんとも儚(はかな)い人生です。世の無常を感じます。

 

 親父は、母と結婚するときに、祖父母や兄弟に重ねて言ったことは、私の兄のことです。「女房の子供は自分の子供として育てる。これから生まれてくる子供と決して分け隔てなく見てほしい。それでないと女房が肩身の狭い思いをする。これだけは理解してくれ」。と言ったそうです。無論家族一同異論はありません。

 兄は生まれながらに複雑な事情で育っています。母が望まない結婚をしてできた子供です。そして離婚です。横浜の実家で暮らしている時も、寡黙で、ほとんど毎日一人遊びをしていたようです。周りからは手が罹らない子だと褒められたそうですが、早くから世間に遠慮をして生きていたようです。親父の子供になってからも、別段逆らいもしなければ無理に寄り付きもせず、静かな性格だったそうです。早くから何となく自分の立場をわきまえているいるような人でした。

 演芸や芸能には全く興味がなく、親父が誘っても決して楽屋や、劇場には行きませんでした。私が楽屋に入り浸っていたのとは大違いです。私はこれまで、兄のこと、兄の父親のことは一切、兄にも、母にも訪ねたことはありませんでした。私は早くから兄との関係は知っていましたが、一切誰にも話しませんでした。今回ブログに書くことで公にしましたが、それまでは語ることはなかったのです。人に話していいことは一つもないだろうと思っていたからです。

 然し、一つ不思議に思うことは、別れた父親の方の家は、跡取りである兄を欲しがらなかったのかと言うことです。跡取りならなんとしても家に置いておきたかったのではないかと思います。母も兄を置いて別れたほうが、その後は苦労せずに生きて行けたのではないかと思います。ここは全く謎です。相手方の亭主が、子供が出来た後も家に寄り付かなかったと言いますから、母にすれば、子供を残しても邪険にされたら気の毒だと思って、連れて帰ったのでしょうか。ここは母の判断ですからわかりませんが、人の幸せはどういう風に生きたなら手に入るのかは結果でしかわかりません。

続く

母親のこと 2

 話は昭和19年に戻ります。それまで親父は、川崎の旭町にある裏長屋に、両親と6人の兄弟と一緒に暮らしていました。祖父はブリキ職人で、腕が良かったらしく、若いものを何人か使って大きな仕事をしていたようです。然し長屋住まいです。

 当時、大都市では、だんだん空襲が激しくなってきて、東京の町で大きな家に住んでいる人がどんどん疎開してゆく状況にありました。家屋敷は人がいないと物騒です。空襲の際も消火をしてくれる人がいません。そこで大きな屋敷をタダ同然に貸していたのです。親父の一家はこれ幸いと大田区の池上に家を借りました。二階家で部屋数も多く、玄関の右側には洋間の応接室まであります。職人の頭とはいえ、洋間の応接間まで持っている人はまずいません。戦争のお陰で家族は一躍金持ち生活になりました。

 祖父はそこの一間を仕事場に使い、若い職人を集めて作業をしています。親父は、応接間を事務所にして、お笑いの一座を組んで、慰問に出歩いています。慰問は朝早くギターを持って出て行き、夜遅くに抱えきれないほどの土産を持って帰ってきます。当然、警察や、憲兵や、国防婦人会に目を付けられ、見とがめられます。

 憲兵も、警察も、親父は慰問の許可状を持っていますから、それを見せれば、それ以上咎められることはありません。問題は国防婦人会です。勝手に町内を見回って、「この非常事態に何をしているのか」。と、食ってかかってきます。これは苦労したそうです。こんな時代だからこそ人は笑いを求めているのです。そうした人に笑いを提供して何が悪いのか。彼女たちは、米や卵を渡すと、闇物資だと言って受け取ろうとしません。闇ではありません。農村の人たちが善意でくれたのです。然しそれを実証するものがありません。土産に領収書を求める芸人はいませんから。

 皆さんはこの話をどう思いますか。私は、昭和19年が、今のコロナウイルスの状況に酷似していると思います。私がショウを演じようとすると、「こんな時に何をしているのか」。と人が騒ぎ立てます。ショウを見に行こうとする人を周囲の人が「出かけるな」。とやめさせます。何をしようと大きなお世話です。芸人は芸能を演じなければ生きては行けないのです。それをショウを見たいと言う人に見せて何がいけないのですか。私は政府に金を求めているのではありません。ショウを見たい人にショウを見せようとしているだけなのです。コロナは危険だと言いますが、現実には、コロナに罹って死んだ人は1100人です。日射病で亡くなった人よりも少ないのです。東京が危ないと言いますが、私の周囲で感染者など一人もいません。感染しても殆どの人は症状もなく抜けて行きます。罹っても寝ていれば治るのです。

 それが恐るべきウイルスだと言って騒ぎ立てて、学校を休ませ、会社を休ませ、劇場を休ませ、レストランの出入りを制限しているいるうちに日本人はどんどん衰退してゆくのです。江戸時代にコレラが蔓延した時ですら、江戸では普通に芝居が行われ、通りには普通に物売りが出ていたのです。こんなことをいつまで続けるのですか。

 

 と、親父も世間を相手に叫んでいたのでしょう。何も、朝から晩まで国を思っていたところで、アメリカに勝てるわけではないのです。戦争は軍隊と軍隊のしていることです。周囲の人が何をしても役には立ちません。そうなら、軍人を慰問して喜んでもらえるという行為は、少しは国の役にも立っているはずです。と言っても、国粋主義者には、ギターを持ってばかばかしいことをしている人は非国民に見えるのです。

 祖父は、空襲であちこちの町が焼かれましたので、修繕に大忙しです。親父は慰問で大忙しです。そんな中に母親が歌手として入っててきました。やがて昭和20年に戦争が終わり、親父は吉本花月に出演するようになります。プロデビューです。ライバルが戦地に行っていますので、スイングボーイズは売れに売れます。

 戦争が終わってしまったので国防婦人会はいません。戦争中に、慰問の金がたくさんたまったので、その金で、今の一座を経理から、役員まで決めて組織にしようと考えます。実際自分が舞台が忙しくて、慰問が出来なくなってきていたのです。そこて新聞に座員募集の広告を出すと、何百人も人が集まったと言います。母親はそこの経理を担当して、組織を手伝います。この時、他の一座のように、研修生制度を作って、授業料を取って指導すれば今頃一財産を築いていたのですが、親父はそんなことは考えません。みんな仲間にして、酒を飲み、餅菓子を配っていたのです。

 

 一時一座を離れていた母親は、昭和25,6年頃また戻ってきます。ところがこのころになると、色々な問題が起きます。先ず、寄せ集めに慰問団の仕事が激減しています。もう、プロの芸人が活躍し始めていますので、仕事場が減ってきていたのです。

 親父の一家は住んでいた家を体よく追い出されます。職人の家族にただ同然で貸し続けていては、大家もやって行けないのです。やむなく近くの小さな借家を借りて住んでいました。スイングボーイズも、親父と、三枚目役をしている人見あきらさんがうまく行かなくなり、解散になります。親父は、他の仲間と脱線ボーイズをこしらえます。これもかなり売れて、忙しく活動していました。

 やがてテレビ局が開局し、親父はテレビ出演をするようになります。母親と一緒に暮らすために、池上に借家を借ります。もうこの先は結婚をするほかはありません。然し、母親は父親の稼ぎを見て驚きます。貯金がほとんどなかったのです。稼いだ分だけみんなに撒いていたのです。そうこうするうちに子供ができます。それが私です。

 母親は、結婚は了解です。然し、きっちり式を挙げたい。家も引っ越したい。お産に費用もかかる。兄が小学校に上がらなければいけない、そのためにも子供が生まれるまでに30万円がないと結婚はできない。と言います。至極もっともな話です。昭和29年のことです。勤め人の月給が1万円取れなかった時代の30万円です。

 すべてまっとうな話ですが、親父にすれば無理難題です。親父に金はありません。親父は、子供をおろして、母親との関係を解消するほかはないかと諦めかけます。そんな時に奇跡が起きます。

続く

母親のこと

 私の母親は栄子と言い、3年前に89歳で亡くなりました。生まれつき病気が多く、常々自分は長生きできないと言っていましたが、どうしてどうして、三姉妹の末娘で、三人とも長寿を全うし、その中でも母親が一番長生きをしました。

 母親は戦前は日本鋼管と言う大きな会社で経理をしていたと聞いています。横浜の上大岡に住んでいて、そこから銀座にある会社に毎日通っていました。昭和17年くらいのことと思いますが、時代はアメリカとの戦争の最中で最悪の状況でしたが、当人は18歳ですから、毎日が楽しかったのでしょう。銀座で食事をした思い出や、横浜のグランドホテルで、海軍将校のダンスパーティーに招かれた話など、随分と聞かされました。

 日本鋼管は武器を製造している会社でしたから、当時はフル操業で、景気が良かったそうです。給料日には、大勢の従業員が給料を受け取りに来ます。従業員一人一人に月給袋を渡すのが母の仕事ですが、後で苦情が来ないように、母親の勝手な裁量で、いつも、2,3日余計に残業代をつけてやっていたそうです。そのため母親の経理で社員から苦情が来ることは一件もなかったと自慢していました。そりゃぁそうでしょう。

 真ん中の姉は横浜松屋デパートのナンバーワンと呼ばれていた美人でしたから、デートのお誘いが多かったのですが、母親は美人ではなく、どこと言って目立つ人ではなかったようです。然し、声が良かったため、歌を勉強すればきっと歌で食べて行かれる。と持ち上げてくれる人がいて、歌のレッスンに通うようになります。そのうち、この歌をどこかで披露する場所はないかと考えていると、私の父親に出会います。

 

 父親は当時東京計器と言う、メーターを作っていた会社で働いていて、ここも軍事物資を作っていましたので景気が良かったようです。然し、仕事のほうにはあまり気が入らず、もっぱら、一座をこしらえて、コントや、漫談、楽器を使っての歌謡ショウなどの番組を作っては関東近県の農村や、軍隊を回って演芸を披露していました。芸名は南健児と名付けました。当時は、日本軍は南方に進駐していましたので、南に向かう健康な男で健児です。

 但し親父は身長が足らなくて、徴兵では甲種合格はできませんでした。もっともそのお陰で戦後も生き延びたことになります。親父は小柄で太っていて、顔つきはどうと言うものではありませんでしたが、愛嬌があって、人に好かれる人でした。

 本来は、日曜ごとに慰問に出かけていたのですが、地方でも不便なところですと、出かけて行って、ショウをして、帰ってくるまでに、2日も3日もかかることがあります。そんな時には、会社に戻った際に周りの人に、卵や、小豆、コメや酒などを持ってゆくと、上役は何も言わずに欠勤をごまかしてくれたそうです。

 日米の大戦が始まると、急に生活物資が不足し始めて、米や小豆や卵は貴重品になったのです。父親は毎週慰問に行って抱えきれないほど、食料をもらって帰ってきますので、そのお陰で、父親の周囲の人たちには大変感謝されたようです。

 ある農村では、「村の外れに若い娘が集まるところがある」。と聞かされて、出かけて見ると確かに若い娘が5,6人いて、酒を飲んで歌っています。そこで一晩遊んで、翌朝、無蓋のトラックに乗って座員は駅まで送ってもらう途中、田んぼで田植えをしている農家のおばさんたちがいて、必死に手を振っていますので、車を止めると、みんな寄って来て、「また、村においでよ。一緒に遊ぼうよ」。と言います。後で仲間と、「この村にあんなおばさんの知り合いがいたっけ」。と話していると、昨晩の若い娘だと思っていた連中が、田植えのおばさんが化粧をした人だったと分かります。「えらいおばさん相手にしちゃったなぁ」。と後悔したと言っていました。

 当時の農村は、闇で食料を買い付けに来る人達がいて、農家はどこも潤っていたのです。米のほかに鶏を飼って、鶏肉や、卵を売ると、面白いように金になり、米も、麦も高値で売れたそうです。そのための農家はどこも金を持って居ましたが、農村では金の使い場所がありません。そんな時に、演芸大会などすると、学校の講堂が入りきれなくなるほどお客さんが集まって来たそうです。

 そして、泊りは近所の農家に分宿するのですが、どこも芸人を泊めさせたくて、芸人の奪い合いだったそうです。但し、コントで、金貸しの役をやって、村の娘を借金の型に連れて行こうとする役をやった座員は、「あんなひどいことをする奴は泊めてはやれねえ」。と言われて誰も引き取り手がなく、親父が「いやあれは芝居だから」。と言っても「いや、そもそも元が悪くなければ、ああまで性格が悪い役は出来ねえはずだ」。と言って引き取り手がなかったそうです。やむなく親父と抱き合わせで泊めてもらったそうです。

 夜は芸人の宿泊する家に近所の人が集まって宴会です。ギターを弾ける父親は、みんなの歌を伴奏してやると、当時の農家の人は涙を流さんばかりに喜んでくれたそうです。帰りには持ちきれない程の土産を持たせてくれます。まさに芸人天国の時代です。

 言ってみればアマチュアの演芸一座にだったのですが、人気があって、慰問の依頼はひっきりなしだったそうです。そんな一座に母親が入ってきます。母親は歌手として歌謡曲を何曲か歌うのですが、一座の中では大人気だったそうです。

 

 慰問は戦後も続いたのですが、父親が、仲間を集めて、スイングボーイズを結成し、東京吉本に出演するようになります。戦後、殆どの芸人は戦争に行っていて、まだ帰って来ていない時で、寄席や演芸場はタレントがいなくて困っていたのです。アマチュアのお笑い一座ではあっても、結構評判の良かった親父には、引き抜きが来たのです。

 そこで三人が楽器を持って、ジャズや、歌謡曲を演奏しながらお笑いネタをすると、たちまち売れ出します。昭和20年、終戦すぐ後のことです。そうなると、親父は一座を休みがちになります。

 そんな時に母親に縁談の話がきます。どうもこの話は半ば強制であったらしく、母親の意思などはあまり考えてはもらえなかったようです。相手先はその一帯では豪農と言うような裕福な農家で、そこの長男と結婚します。そして程なく男子を生みます。私の兄です。

 ところがこの跡取りは、全く仕事をしなくても生きて行ける身分のために、毎日遊び呆けていたそうです。子供が生まれてからは家に帰りもしなかったようです。相手方の両親が再三意見をしますが、根っからの遊び好きで、しかも金に不自由のない家ですから遊びは改まりません。両親は申し分けながって、数年後に結局離婚をします。

 母親にすれば望まない結婚をして、相手の都合で離婚をされたわけですから、世間の都合に翻弄されて傷心の思いだったでしょう。慰謝料を貰って、子供を連れて上大岡の実家に帰ります。上大岡としても、とんでもない婿を紹介した手前、母親には何も言えません。しばらく母親は子育てに専念して、仕事をせずに家にいたようです。

 この間も、恐らく父親と母親は手紙などで近況を知らせ合っていたのでしょう。父親は母親が、農家の婿と別れたのなら、戻ってきて、一座に入らないか、と持ち掛けてきたようです。母親は子供がいるために、あまり乗り気ではなかったようですが、実家で生活していても、いい思いはなかったようですし、出来ることなら実家から離れたかったのでしょう。しかも舞台に上がれば嫌なことも忘れられると思ったのでしょう。様子を見がてら、東京に行って見ることにしました。

続く

 

四戒とコロナウイルス

 剣道をした人ならご存じと思いますが、四戒(しかい)すなわち、四つの戒めと言うものがあります。驚く、恐れる、疑う、惑う、の四つで、この四つに心が縛られぬようにと教えます。刀を持って、互いが戦う段に至って、上記の四つに捕われていると、判断が鈍り、体が硬直し、素早い対応ができなくなり、結果として相手に敗けることになります。

 驚くとは、例えば、突然予期しないことが起こると、人は一瞬、何が起こったのか、どう対処したらいいのかと、その解決のために、思考が、今現実に向き合っていることから、別のことに切り替わってしまいます。この思考時間が、実は一瞬ではなく、かなり時間を要するために、目の前の問題に空白ができて、その隙を相手に見透かされて、相手の太刀に切り込まれて敗けてしまいます。

 恐れるとは、相手の動作に無駄がないとか、相手が自信を持っているなど、勝手に判断を立てて、相手を過大に考えてしまいます。戦う前から既に気後れしています。これでは手も足も出ず、初めから敗けです。

 疑うとは、例えば、相手の仕掛けてきた動作が、誘いなのか、本気なのか、誘いだとしたら本当に出て来る技が何なのか、などと先々を考え込んでしまいます。いくら先読みをしても、実践では、将棋のように定石通りには行きません。その場の適応力でいくらも変わります。するとまた、考えた挙句、自らがとった技が正しかったのか、誤りか、そんなことを頭の中で考えていると、これも相手に隙を与えることになり、結果として敗けです。

 惑うとは、戦っているさなかに、女房のこと、子供のこと、自身の身分のこと、わが身と比べて、相手が卑しき身分なら、こんな軽輩と戦うことに何の意味があるのか、仮に負けたならこんな恥ずかしいことはない。等々と、生きる未練にこだわっていると、結局敗けてしまいます。

 

 時代劇では、二十人くらいの侍に囲まれて。主人公はバッタバッタと次々の侍を倒しますが、実際には戦国時代でも、江戸時代でも、そうした争いは皆無で、たった一人と戦う場合でも、互いが上記のような思いを持って太刀を合わせるわけですから。人一人倒すことは簡単ではなかったのです。そうしたときに、より雑念に取りつかれているほうが気持ちに隙がありますから、敗けやすいわけです。

 この四戒を見事に制して戦いのための剣法を作ったのが薩摩の示現流です。この流派の剣道は、剣の道の修行どころか、喧嘩剣法です。初めにとんでもない奇声を上げて、無念無我の境地で太刀を抜いて相手に突っ込みます。防御も技もありません。先を制して、奇声で驚かせて、相手が戸惑っている間に相手の脳天に太刀を浴びせます。相手が達人で、胴を払ってくるかもしれません。その時は斬られるだけです。切られて死んでも、同時であれば、初太刀は相手の脳天を叩きますから、怪我は相手のほうが深いはずです。つまり示現流は初めから自らの命を捨てた剣法なのです。

 彼らは太刀を抜いた瞬間から死を覚悟して戦います。相手が女房のこと、身分こと、何とか戦わずして生きていたいなどと、わずかでも生きることに執着しているなら既に薩摩に敗けています。

 

四戒とコロナウイルス 

 さて、話はコロナウイルスです。小池都知事は依然として不要不急を控えるように訴えていますが、肝心の国の政策は、感染危険度を5段階あるレベルの2であったものを、最低レベルの5に改めています。つまり、コロナウイルスは流行り風邪と同じレベルになっています。どういうことですか。初めからはやり風邪なら、学校閉鎖も、レストランのお客様の制限も、劇場の観客制限も何も必要なかったはずです。

 問題が起こった時に、誰もがウイルスを恐れて、過剰反応をしたのです。剣道で言う、四戒を超えて、過剰防衛をし過ぎ、必要以上に国民を煽ったのです。その結果が今の経済です。安倍首相の辞任の衝撃が大きすぎて、感染レベルのダウンはほとんど語られませんが、実際の経済活動から見たなら大問題です。今になってそそくさと危険度レベルを下げて、この大騒ぎの責任は誰にあるのですか。

 私がこのブログで何度も述べた通り、コロナウイルスは感染しにくいウイルスです。罹っても治る病気です。風邪と同じです。マスコミや都知事が大騒ぎをして、結局国内の経済がガタガタです。

 こうなった以上は、早く鎮静を考えることです。先ずマスコミにこれ以上コロナを煽ることをやめさせるべきです。もう番組そのものが疲れて生きているのでいい機会です。いい加減コロナを煽ることをやめさせて、無駄に煽った番組は名前を出して批判すべきです。感染者の数を羅列することはやめるべきです。はやり風邪を毎日報道する理由などないのです。

 次に、感染者に対して、パートの仕事を辞めさせたり、会社を首にしたりするような組織は、ニュースで伝えて、社名や名前を公表すべきです。悪質な場合は罰金を取るなり、刑事訴訟をすべきです。また、ご近所で、感染者の家族が運動会や、遠足に行くことをやめさせるような学校や、地域の集会は、テレビで名前を挙げて糾弾すべきです。

 感染者は被害者であって、鬼や悪魔ではないのです。感染者を疎外したり、その家族を差別するような、人の痛みのわからない人は、はっきり名前を出して、社会的な制裁を加えるべきです。こんな村社会がまかり通っているから、経済は停滞し、まともに働こうとする人たちの妨害になるのです。

 早く経済を元に戻さなければいけません。そうでないと、この先とんでもない増税や、失業が生まれます。それはコロナウイルスよりも恐ろしい結果になるのです。

 続く

 

安倍首相の辞任

 今日は朝から一人指導があり、午後から三人学生さんが習いに来ます。結局、一日指導をします。この数年、指導に掛ける時間が舞台の半分ほどになりました。年齢的にやむを得ないのかと思っていました。ところが今年になって、舞台が激減し、今では指導が80%になってしまいました。これも、コロナウイルスの影響を思えば、やむを得ないのかと思います。

 教えるということは自身が過去を振り返ることです。人にマジックを教えながらも、自分が習った時にことを思い出します。物によっては50年も前のことを思い出します。その思い出はほとんどは楽しかったことの思い出です。

 結局のところ、私は優れた指導家に恵まれ、好きなだけ稽古をし、舞台に立ち、他の仕事をしないで今日まで生きてきました。全くアルバイトなしで生活できたのです。旨く生き抜いてきたと思います。幸い私には50年以上の蓄積された知識が残されました。これを後輩に伝えて行こうと考えています。それが私の残された人生の活動の一つと考えています。

 

安倍首相の辞任

 安倍晋三首相が昨日首相を辞任されました。この人は政界のエリート中のエリートで、祖父が岸信介元首相、叔父が佐藤栄作元首相です。父君は、安倍晋太郎故人で、総裁候補と呼ばれていながら、病で亡くなった政治家です。安倍晋三さんは、この父君の政治秘書となり、政治家の勉強をしていたのですが、父君が病気で亡くなると、その地盤を受け継いで政治家となります。1993年のことです。この時点で、晋三さんは、首相になるべき政治家として、父君の遺志を継いで活動を始めます。

 この人と私は同じ年です。1954年生です。同い年で、同じ年月生きては来ても、安倍氏が経験した世界と、私が見てきた世界とでは全く違う世界だったと思います。

 父君の遺志を継いで衆議院議員になった頃、政治家のパーティーで、氏を拝見しました。私は氏を見て、「あぁ、こういう人が日本の首相になって行くのだろうなぁ」、と思っていました。岸、佐藤、安倍晋太郎と続く、日本の保守本道の中で育った人ですから、若いころからタカ派の人で、自衛隊の容認、憲法改正靖国参拝など、かなり右寄りの活動を続けていました。

 それまでの多くの政治家が、何となく周囲に遠慮して、正々堂々と物が言えなかったのに対して、戦後生まれの晋三さんは、かなりストレートな物言いをして、世間を驚かせました。それかあらぬか、氏の右寄りの発言を嫌う人もいて、今一つ安定した支持が得られなかったようにおもいます。ところが、ある時期から、首相になることを目指してからか、右寄りな発言を控えるようになりました。以来、氏の支持層は広がり、自民党の顔として広く認知されるようになって行きます。

 その後晋三さんは2006年に、小泉純一郎首相の後を受けて首相に就任。首相にはなりましたが、氏の強気な発言の裏で、氏はかなりデリケートな性格のようで、第一次安倍内閣の末期に大腸の病気に罹り、2007年に首相の座を降りることになります。当人としては痛恨だったと思います。実際これで首相の目は亡くなったかと思われました。

 その後2012年に再度首相に選ばれ、今日に至ります。そして昨日、全く前回と同じケースで、氏は思い半ばで首相の座を降りたわけです。歴代首相の任期としては最長記録を作ったのですが、その実思いは複雑だったでしょう。

 氏は、在任中に。憲法改正を果たし、自衛隊国防軍に昇格させたかったでしょう。実際それぐらいの勢いが2年前にはあったように思います。然し、森友問題や加計問題に押しまくられて、評判が下がり、憲法改正はトーンを失います。

 また、拉致問題に熱意を見せていたにもかかわらず、大きな実りは得られませんでした。ロシアのプーチン氏とは粘り強く北方領土問題を交渉したにもかかわらず、体よくあしらわれて、北方四島は結局帰らずに終わっています。

 祖父の岸氏が日米安保を維持し、叔父の佐藤栄作氏が沖縄返還を果たしたのに対し、安倍氏はなかなか大きな成果が果たせなかったことは、痛恨だったろうと思います。

 それでも、8年の長きにわたって日本の経済を安定成長にもっていったのは大きな成果であり、更に、ご当人のルックスの良さは、歴代総理大臣の中でも、佐藤栄作氏、中曽根康弘氏と並んで、堂々トップのインスタ映えを見せたと思います。海外の首脳と渡り合っても引けを取らないばかりか、日本の重要性を強く印象付けたことは大きな成果だったと思います。

 

 また、このことはあまり多くの人が語らないことですが、今首相を辞めるということは、長い日本の歴史の中で、安倍氏はとても恵まれた選択をしたと考えられます。

 なぜなら、この先、コロナウイルスは1年では解決しないでしょうし、オリンピックも中止になるでしょう。経済は最悪な状態で、回復までには3年や4年はかかるでしょう。そうなら、次の首相は初めから貧乏くじを引くことになります。安倍氏が今やめたことは、安倍氏にとっては天の采配ともいうべきもので、大変な幸運だったと思います。逆に次の首相はとても困難な立場に立つことになるでしょう。

 いずれにしても、氏はまだ66歳です。本来ならそれくらいから首相の地位を狙う頃なのだと思います。それが8年もの長きにわたり、首相を務めての66歳ですから、人並み優れた人であったことは間違いないと思います。同い年でありながら目いっぱい大きな活動をした安倍氏に敬意を感じます。お疲れさまでした。

続く