手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

リングの思い出

 今日は朝からアトリエの倉庫のかたずけをしています。長くこの仕事を続けていると、引き出しの中に、今では、もう使うことのない道具が、堂々既得権を持って居座って、収まっています。

 リングの引き出しを整理していると、私が12歳の時に買った直径21㎝の6本リングが出て来ました。今はなき天地(天地奇術研究所)製です。このリングは20歳になるまで舞台で使いました。その後12本リングを演じるようになってから25㎝のパイプリングを使うようになり、天地の丸棒リングは引出しにしまい込まれました。21㎝のリングは、手で荷物を持って移動していたころは、軽くて持ち運びに便利でした。その昔の奇術師が使うリングはみんなこんなサイズでした。今見たなら迫力のないちゃちな道具です。でも、思い出深いリングです。

 久々取り出して見ましたが、今見ても全く錆がありません。叩いた傷はあっても、今も現役で使えます。処分するには忍びないので、また引出しに収めておきます。

 

 このところ12本リングを習いたがる人が急に増えました。それはいいことだと思います。私が習い覚えた当時は3本リングが主流で、あのスローな演技を芸術的だとか言うアマチュアが多く、本数の多いリングは敬遠されていました。

 しかし、私は、「お客様に改めさせないリングは不思議ではない」。と思っていました。マジシャンが自分の都合で持ってきた3本のリングをどんなに上手く扱って、つなげはずしをしたとしても、多くのお客様は、「あれは、一瞬どこかが開くのだろう」。と推測をします。

 無論そんな都合のいいリングなどありません。然し素人は、「どこかが開くんだ」。と勝手に納得をし、それ以上の興味を持とうとしなくなります。結局演技は、ただ漠然と眺めるだけです。そのため、イベントの主催者は、

 「藤山さん、あの3本のリングだけはやらないでください。お客さんがダレますから」。とくぎを刺されます。無論私は3本リングはしません。他のマジシャンが、自己陶酔をしながら悦に入って3本リングを見せたのでしょう。然し、マジシャンの思いとは裏腹に観客をしらけさせたのです。

 それゆえ私は、改めのないリングは意味がないと考えていました。これは私の考えではなく、ダイ・バーノンの考えです。バーノンはシンフォニーオブザリングの解説の中で、リングは観客に渡さなければ不思議さは伝わらないと述べています。あの口下手なバーノンですら、リングを観客と喋って、やり取りをしつつ渡しています。

 私が12本リングに着眼したのは、初めにリングを全てお客様に渡して、改めて見せるところです。このインパクトは他の手順に代えがたいものです。これはすごい手順だ。これを生かさない手はないと思ったのです。

 

 ところが当時の、殆んどの日本のアマチュアは12本リングを馬鹿にしました。「今時、リングで造形なんてやっても意味ないよ」。と言われたのです。確かに、12本リングはいくつもの矛盾のある手順でした。つなぎ外しの技法はごくわずかで、殆どが造形作りに費やされましたし。全部バラバラにして見せる技もありませんでした。演技中に造形の説明を入れるため、演技は間延びして、冗長に見えました。

 然し、そのいくつかの問題をクリアすれば、この手順はきっと面白いものになる、と私は判断しました。実際、松旭斎千恵師匠から習いながらも、頭の中ではすでに改案がすらすらと浮かんでいました。「ここさえ直せばこの芸はきっと受ける」。と、確信していました。その後舞台で12本を演じてみると、観客の反応の良さに自分で驚きました。自分の判断に自信を深めました。以来、20年。私のショウの中で、12本リングはドル箱を稼ぎあげる手順になりました。

 私にとって、手妻で水芸や蝶が定着するまでの35歳までの稼ぎは、イリュージョンと12本リングとサムタイだったのです。実際それでビルが一棟建ったのですから間違いはありません。

リングもサムタイも、わざと喋りの技術を要するもので、まさに私の手順でした。

 20代でここに特化したことが仕事を安定させました。しかし、如何に私の仕事が順調でも、多くの奇術家は12本リングを高く評価しなかったのです。リチャード・ロスを代表者とする3本リングの影響がずっと後まで続いたのです。

 ところが、ここへきて、リングの評価が変わってきました。3本リングも6本リングも、演じる人が減ってきたのです。そうした中で、12本を見ると、派手で、不思議で、よく受けるということで、ようやく面白みが関係者の間に伝わったようです。12本リングを愛するものとしては、良い流れになったと思います。

 

 私の演じる12本リングは、かつての12本の手順とはかなり違います。今残されている手順は、あくまで私の解釈による12本です。しかし今ではこれを古典の12本リングだと思い込んでいる人がかなりいます。と言うよりも、これ以前の手順がどんなものだったのかを知っている人が殆どいません。そのため皆さん勝手に私の手順を演じています。

 アマチュアがビデオを見て、勝手に演じるのは致し方ありません。然し、プロで演じるなら私に許可が必要です。それは道義上の問題です。無論、実際に許可を求めて来る人もいます。それに対して私は、許可をしています。許可料も取ってはいません。あくまで黙認です。書付が必要なら紙にも書きます。

 但し、「一回でもいいから私に直接習ったほうがいいですよ」。と申し上げています。ビデオで覚えて真似するレベルはアマチュアのすることなのです。プロが得意芸にするなら、直接習って、その奥書を聞き出さなければだめです。やはり芸能は、直接習わなければ伝わらないことが多々あるのです。

 私が遠くの国に住んでいる人であったり、既に亡くなっている人なら、もう習うことは不可能ですが、まだ現役でいるなら、一度縁を持って習うことはプロとしては絶対に必要です。そこがわかるかわからないかがプロの真価を問われるところなのです。習っていなければその人の存在は、偽物なのです。偽物のままビデオをなぞって演じていてもどこまで行ってもアマチュアなのです。

 

 と、古いリングを眺めながら、様々なことを夢想しました。12歳の頃のリングに触れながら、あれから53年が経ったことが現実なのか夢なのか、判然としません。確実なことは、指の感触がかろうじて昔を思い出します。それも私の記憶のかなたのことです。

続く

 

 

芸は人 その2

 昨日、小野学さんの農場のメロンを書かせていただきましたが、メロンは即完売したそうです。あまりの人気で、あっという間の完売です。もし来年頼まれるのでしたらお問い合わせ下さい。それから、私はメールの連絡先を間違えました。ono.famを、ono,farmと書いてしまいました。famが正解です。ono.fam@ogata.or.jp

恐れ入りますが訂正ください。 

 

芸は人 その2

 テレビでマジックの番組があると、必ずマジックを見て驚くひな壇タレントが数名います。彼ら彼女らは、マジックを見て驚くことが仕事なのでしょう。適度にいいリアクションをしたり、ちょっと洒落た発言をします。面白いギャグを言って場を盛り上げたりもします。ただ見ているだけでなくさりげなく番組を盛り上げているのです。

 私はこの人たちがどういう人選でここに出てきたのかに興味があります。一見、マジックを見て驚くだけの人ですから、誰でもよさそうなものですが、その役割にはいくつかパターンがあるように思います。私の見るところ、4つのパターンに分けられます。

 1つは、おバカキャラ、ただ何も知らないで素直に驚くタレント。2つ目は、知識キャラ、適度の頭が良くて、一過言持っていて、時にタネに肉薄するようなことまで言う、辛めのタレント。3、お笑いキャラ、何事も笑いでくるんでしまうような調整役のタレント。4つ目は、美人、トレンドキャラ。番組が話題になるように、美人であるとか、今話題の人を入れます。この人が出ていることで視聴率が確実に上がるタレント。

 見ていると、この4人のパターンのタレントが実にうまく連携して、番組を盛り上げています。私などが見ていると、「あぁ、うまいことタレントを配置しているなぁ」。と感心します。然し、肝心のマジックを演じているマジシャンが、彼らの存在を理解していない場合を多々見ます。カードを引かせるのでも頓珍漢な人にカードを引かせてしまったりします。

 知識キャラの人に引かせるならもっと知性的な話をすればよいのに、ただ弾かせるためだけに使ったり、その際に何か突っ込まれてしどろもどろになったり。おバカキャラにカードを引かせて、サインをさせるなどしちめんどくさいことをさせているうちに、カードの表が見えてしまったり、使う相手を間違えてしまうのです。番組の意図を理解しないで、そこにいるのがただのタレントだと思い込んで、自分のマジックを演じる際に道具のような気持でしかタレントを見ていないのです。

 そんなマジシャンを見ると、マジックができる以前に、人としての才能に限界を見てしまいます。マジシャンよりもおそらく回りで驚く役をするタレントのほうが、いいギャラを取っているはずです。考えてみればおかしなことで、マジック番組であるのに、マジシャンよりもお客様で来ているタレントのほうがギャラが高いというのは不自然です。しかしこれは不自然でも何でもないのです。

 

 周りで驚いてマジックを見ているタレントは、確実に自分の役を演じ切っていますし、自分の個性をしっかり出しているのです。翻って、マジシャンは、与えられた時間内に不思議な現象、不思議なマジックを見せることは熱心でも、その人の個性、人間性、キャラクターが一向に見えてこない人が多いように思えます。視聴者が、この人となら、一時間でも話を聞いていたい、と思いうようなマジシャンがなかなか出てこないのです。

 実はここに、マジシャンがマジシャンとして呼ばれても、なかなかひな壇のタレントになれない現実を感じます。本来はマジシャンでも十分ひな壇に座って、人の芸を楽しむ役を貰えるはずなのです。しかしマジシャンがなかなかそうしたタレントになれないのは、自分の個性を強く打ち出していないからでしょう。マジックの現象に埋没して、その人本来の面白さが伝わってこないのです。

 そんな番組を見ていると、マジシャンは、マジックのトレーニングを30%くらい休んででも、自分の個性を磨くことや、喋りの勉強をすること、大きな流れを読み取ることの訓練をしたほうが、出世の近道なのではないかと思います。

 テレビと言うのは、言ってみれば鵺(ぬえ=妖怪)のような存在で、形があって形がなく、核心があるようで核のない、ぬらりくらりとした、得体の知れない存在です。お笑いタレントや、役者や、歌手は、そうした得体の知れない妖怪を相手に、七転八倒の苦労をして、自分の居場所を維持しているのです。

 少しでも視聴者に嫌われればあっという間に放り出されます。ちょっと時流に遅れているとみなされれば、さっさと番組から降ろされます。不倫をすれば問答無用で抹殺されます。いつタレント生命が終わってしまうのか全く予想できない状況の中で、彼ら彼女らは必死に生き残りをかけて戦っているのです。

 ひな壇に座って、マジックを見ているだけのタレントも、マジシャン側から見たなら、「何もせずに楽でいいなぁ」。と思いますが、実はその立場をつかむだけでも大変な苦労なのです。そしてその立場が、来年も維持される保証はどこにもないのです。ひな壇に座って物を言う権利などと言うのは、誰も保証をしてくれるものではありませんし、冷静に見てひな壇は「地位」ですらないのです。

 そんな中で、もしマジシャンが行く行くひな壇に招かれるようなタレントに立ちたいなら、先ずタレントの気持ちがわからなければいけません。タレントは短い時間内の多くのコメントを投げています。しかしほとんどのマジシャンはその答えを拾わないばかりか、頓珍漢な受け答えばかりします。

 タレントはもしマジシャンがこう答えてくれたなら、こう切り返そう、と三手先まで考えて筋を振っているのです。もしマジシャンがタレントのセリフを掬い取って、面白い話につなげてあげたなら、タレントは感謝するでしょうし、「あのマジシャンは使えるよ」。と噂をして、バラエティのコメンテーターに昇格するチャンスを得るでしょう。キャラクターを磨いて、キャラクターで番組を盛り上げてあげることが出来れば、今以上に大きなポジションに立てるのに、マジシャンはひたすらイフェクトの中に埋没しています。人生のチャンスは、マジックの沿革を眺めて、そこに自分の個性を生かしたときに成功がにあるのに、

続く 

芸は人

 一週間ほど前に、秋田のアマチュアマジシャンの小野学さんからメロンが届きました。小野さんは八郎潟で農業を経営されていて、米やフルーツを作っています。

 いつもお米を頂くのですが、今回はメロンを頂きました。一週間置いておき、昨日食べてみたのですが、メロンを切って皿に盛って部屋に持ってきた時に既に強い香りが部屋中に漂いました。「これは、すごい」、と食べる前から期待が弾みました。

 実は少し硬めでしたが、甘みがたっぷりで、しかもジューシーです。昼に食べるデザートにはまことにぜいたくでした。もしご興味がございましたら、ono.fam@ogata.or.jpに、お問い合わせなさってみてください。価値あるひと時を楽しめます。

 

 昨日は神田明神の舞台でした。30名以上のお客様が集まり、実に熱心に見てくださいました。演じていても張り合いがありました。ここの舞台はスペースもかなりありますので、手妻だけでなく、マジックショウが出来たらいいと思います。若い人に毎月10組くらい出てもらって、演技を競ってもらったらいいと思います。出る場があれば若いマジシャンもうまくなります。何とかそれができるように交渉してみようと思います。

 

芸は人

 ある若いマジシャンを見ていて感じたことですが、この人は、マジックはできています。10分間演技を見ていて、普通に不思議が成立しています。然し観客の拍手はわずかです。そして、これ以上観客が演技を見たがっているかと言うと、観客はマジシャンにもう興味を失っているように見えます。何が問題なのでしょうか。

 しばしばアマチュアさんのマジックを見ていると、不思議な現象を演じて、不思議が成立した時点でポーズをとり、いい顔をして、そこでマジックが終わります。そして次のマジックに移行するのですが、その過程でマジシャンの思いであるとか、魅力であるとか、そんなものは語られません。ましてや観客がどう考えているのかとか、観客の気持ちをどうとらえているのかをマジシャンは知りません。アマチュアは自分が覚えたマジックをただひたすらに演じているだけです。アマチュアの演技なのですから当然と言えば当然です。

 然し、観客の側から考えた時に、不思議を演じたマジシャンが、ポーズをとって、得意顔をして終わるというだけの演技では、確実に観客とマジシャンの間に溝を作ってしまいます。

 アマチュアさんがマジックをして、成功して得意顔をする。これは悪いことではありません。実に気持ちのいいものです。そもそもアマチュアさんがマジックを趣味とするのは、そう難しくない技を、舞台で演じると、素人さんが不思議がって喜ぶから、それが面白くて病みつきになるのでしょう。

 然し、それをプロになった時に得意満面で演じていると、仕事として成り立たなくなります。なぜなら、お客様にすれば、マジシャンの優越を見せられるばかりで、お客様が得るものが何一つないからです。つまり、現象を見せただけで、お客様とマジシャンが何一つつながっていないのです。

 

 例えば、音楽について考えてみると、人が音楽を聞くのは、そこに共鳴できるからです。愛への賛歌であるとか、失恋の痛みであるとか、家族に対する愛情であるとか、人の喜怒哀楽を音楽から感じることで聴いている人は共鳴します。

 しかしマジックは残念ながらそう簡単に観客から共鳴は得られません。カードが当たる、コインが次々に出て来る、ということでは観客の共感は得られないのです。マジックの現象は、所詮マジシャンが仕込んだマジシャンの都合の世界であって、いくら見せられても観客は感情をゆすぶられることはありません。ましてや、一芸が終わるたびにマジシャンがポーズを取って、得意がられては、マジシャンの優越を満たしているばかりで、一つも観客の満足は満たされません。

 ではマジックでは観客は共鳴しないのかと言うと、そうではありません。上手いマジシャンは、必ず現象を演じる際に、いい表情をします。マジシャンは作り上げたストーリーに忠実に、喜怒哀楽を表現します。このマジシャンの表情に観客は共鳴するのです。そうであるなら、マジックは、現象の結末をポーズで強調することではなく、観客の共鳴をいかに引き出すかの、表情付けが最も大切なことになります。

 

 手妻で言うなら、絹帯の中から傘が出るときに、傘を出して礼をして終わるのでは、ただ不思議を見せただけで、なにも観客に伝えていまません。出した傘で侍の格好をして見得を切ったり、娘の格好をして見得を切ったりしながら、市井の風俗を表現して、当時の男がどんなことを考えて歩いていたか、娘が何を考えて構えていたか、その楽しさ、悲しみ、憂い、寂しさをごく一瞬に捉えて表現したときに、観客は、傘を出したトリックのことを忘れて、マジシャンが作り上げた世界に浸りだすのです。その世界が、およそ今では、見ることのできない世界で、風情があって面白いと気付いてくれることで、観客との共通点が生まれて行くのです。

 そうした世界を作り上げることで、観客は手妻(あるいはマジック)を面白い、と初めて感じます。つまり、現象を見せてポーズをとるだけでは芸としては成り立っていないのです。その後に何を観客に与えるか、そこに芸能があるのです。

 プロであるなら、観客に現象を見せる、ということだけではなすべきことの半分もできてはいません。どのように観客を共鳴させるか、そもそも、マジシャンがその共鳴する世界を作り上げているのかどうか、そして、その世界に観客を確実に引き込んでいるかどうか。そこが重要なのです。世界もなく、なすすべも分からないというのは、プロではないのです。

続く

 

 

コロナは流行り風邪

 今日は神田明神の舞台です。幸いに生の舞台を喜んでみてくださる方がいらっしゃるお陰で、お客様もよく集まり、会場も盛り上がっています。弟子も、事務所の中でデスクワークばかりしているよりも、お客様を相手にしたほうが開放感があるらしく、舞台を喜んでいます。この活動を少しでも多くの場所で定着させて、活動の輪を広げて行きたいと思います。

 

コロナは流行り風邪

 どうやらそろそろ、コロナが単なる流行り風邪であることを多くの人が感づいて来たようです。この7か月、世間が大騒ぎして、学校まで休みにした騒動が、実はただの風邪だったということがばれています。それは数値を見れば明らかで、7か月大騒ぎをして、死者が1100人と言うのは、あまりに少ない数です。この二か月の日射病で亡くなった人の数が1500人であることを思えば、日射病よりも軽い病気と言えます。

 連日テレビではコロナウイルスの感染者の数を伝えていますが、通常の流行り風邪の感染者から考えても、その数は微々たるものです。それよりも肺炎患者や、インフルエンザ患者のほうがはるかに多くの感染者を出していますし、死者の数も多いのです。それを特段コロナウイルスだけとらえて毎日コロナの感染者の数を報道するのは何か別の目的があるのではないかと勘繰りたくなります。

 

 私には数人、医者の友人がいます。その医者が共通して言うことは、コロナウイルスは単なる風邪だということです。罹っても寝ていれば治るものをことさら大騒ぎする理由はないというのです。むしろ大騒ぎをすることで、通常の医療が出来なくなってしまい、多くの病院では維持することすら危うくなっています。

 確かに、衰弱した老人や、持病を抱えている人はコロナウイルスに感染すれば死病につながる場合がありますが、それは肺炎でもインフルエンザでも、流行り風邪でも同じことなのです。流行り風邪では通常、人は死なないのですが、それが肺炎を併発すると危険な状態になります。ことさらコロナだから危険なわけではありません。

 そうなら、衰弱した老人や、合併症を持つ人のみ、気を付けていればコロナは危険なウイルスではないのです。無論、子供でもコロナに罹ることはあります。それは子供でも糖尿病患者や、心筋梗塞になる子供もいます。そうした合併症をもたらす人のみ、要注意をして、罹ったらすぐに病院に行けば大きな問題は起こりません。

 ましてや通常に健康な生活をしている人が感染しても、殆どは自覚症状のないまま抜けて行きます。つまり流行り風邪と同じだからです。それを感染者の数をことさら数えて、「さぁ、大変だ」。と騒ぐ理由がどこにあるのでしょう。寝ていれば治る病気をなぜ大騒ぎしなければいけないのですか。

 世間ではマスクをしていない人を白い目で見たり、悪く言ったりしますが、既に免疫を持っている人ならマスクはいらないでしょう。感染もしないし、人にウイルスを移すこともないはずです。免疫のある人を、何らかの方法ではっきり免疫者と未感染者を分けるような配慮を考えたらいかがでしょう。

 免疫を持つ人なら、込み入った飲食店で酒を飲んでも平気ですし、劇場やライブに行っても何ら問題ありません。免疫者専門の飲食店を作っていいでしょう。

 ここらで日本人は大人になるべきです。政府も、国民が健全な生活をできるように、過剰なコロナウイルスの対策を考えるべきです。

 

 一つは、マスコミがこれ以上コロナウイルスを煽るのをやめさせることです。先ず感染者の数を毎日報道するのは全く意味がありません。医療に知識のない、芸人や政治評論家にコロナを語らせることは百害あって一利なしです。面白半分のニュースショウは規制したほうが良いでしょう。

 こうした番組で、朝から晩まで、自粛だの規制だのと言って世間を煽っているから、視聴者にコロナは危険だと擦り込まれて、外出をしなくなり、経済は下降するのです。大企業の経営者も決断をして、低俗なニュース番組からスポンサーを降りるべきでしょう。そうしないと自らの企業にも遠からず倒産の憂き目にあいます。

 そのことはテレビ局も同じです。これまで、コロナウイルスはテレビのお得意様だったのです。コロナの情報さえ流していれば、視聴者は外出できず、テレビばかり見ていましたから、高視聴率を維持していたのです。ところが、少々うまく行きすぎました。あまりに煽りすぎて、国の経済が破壊されています。これでは日本の景気が悪くなるばかりです。やがてこの不景気はテレビのスポンサーにも影響を及ぼします。

 最近のテレビ局は、そのことを察知して、景気の悪さを憂いています。本来テレビが憂うる立場ではありません。テレビ局が毎日プロパガンダの役割をして、経済を停滞させたのですから。自業自得です。然し、そのまずさに気づいたようです。きっとテレビ局はどこかで軌道修正をするでしょう。そうしないとこの先生き残れなくなってきています。そのうち、コロナはそんなに危険ではないと言い出すでしょう。

 

 小池都知事は、「三密」を撤回すべきです。このブログで私は何度も伝えていますが、劇場や、飲食店の三密を取り締まるなら、中央線や山手線の三密をまず先に取り締まるべきです。それが出来ずに7か月も放置しているから感染者を増やすのです。感染者を増やすことがいけないと言うなら、まず電車の三密をなんとかすべきです。それが無理だというなら、劇場や、飲食店の席数など規制するのは意味のないことです。即座に撤廃することです。

 かつて、流行り風邪が流行ったからと言って、劇場の席数を規制したことはなかったはずです。なぜ今そんなことをするのですか。

 小池都知事は昔から、人が騒ぎ出すと、頃合いを見て、必ず騒ぎに乗っかって来て、騒ぎを大きくします。大きくした結果、良き方向に進むならいいのですが、騒ぎが静まると、いつの間にか自分はどこかに行ってしまい、知らん顔をしています。

 豊洲の時もそうでした。今回のコロナもそうなりそうですね。あの人が、コロナを語らなくなったときが、コロナ騒動の転換期でしょう。ある意味、機を見て敏なる人です。私が見たところ、それがそう遠くない時期に来ているように思えます。

 

 長い歴史から見たなら、この半年間は世界中の人が、何とバカなことをしてきたのか。と、後世、物笑いの種になるでしょう。ただの流行り風邪で、世界経済を半分にまで下げてしまったのですから、世界中には優れた政治かや、学者も大勢いるでしょうに、なぜこの程度のことに大騒ぎするのでしょう。手妻師がとうの昔に気づいていることなのに。

続く

アバンギャルドな邦楽 3

 今日は夕方から舞踊の稽古に出かけます。来月舞踊の小さな発表会があります。私は穂積みゆきさんと末広狩を踊ります。二人で組で踊るわけです。短いものですが、陽気な面白い踊りです。9月26日(土)、場所は、文京区の、不忍通りふれあい館です。14時30分開演です。文京区根津2-20-7

 どなたでも無料でご覧になれますが、コロナウイルスの影響で、劇場内は50名様までの入館になります。事前に東京イリュージョンまでご予約ください。03-5378-2882

 芸能に生きると言うことは、仕事がないからと言って嘆いていてばかりいてはいけないのです。こんな時こそ新しい芸能を学んで、それを披露して生きて行かなければいけません。どんな時でも、呆気羅漢と生きていなければいい芸はできません。

 

アバンギャルドな邦楽 3

 歌舞伎音楽が、ただ能からそのまま古い手法を盗み取ってきたわけではありません。実は様々なところから新しい音楽を取り入れているのです。

 歌舞伎の勧進帳などは江戸の音楽文化の集大生のような作品です。江戸の末期、七代目市川團十郎が、高尚癖と言われるほど能に傾倒して、歌舞伎に能を取り入れていました。そして、一世一代の大作を作り上げたのが勧進帳です。

 能に安宅と言う作品があります。義経主従が都を追われ、奥州仙台まで逃げ延びる途中、加賀(石川県)の安宅の関で、関守の富樫の左衛門に呼び止められ、嫌疑をかけられますが、弁慶の機転でうまく逃げ果(おお)せるというストーリーです。勧進帳も流れは一緒です。然し勧進帳はその内容が実にアバンギャルドなのです。

 まず初めはオーソドックスに能がかりで始まります。「旅の衣はすずかけの―、露けき袖や萎(しお)るらん」と、謡の語りが厳かに始まります。続いて、能の囃子がゆっくり鼓、大鼓で鳴り響きます。前にも申しあげた通り、ここは本来はもっといろいろな楽器がメロディーなど奏でていたところかと思いますが、歌舞伎は能のままそっくり、渋いリズムを取り入れています。

 このあとやおら三味線が鳴り、大薩摩(おおざつま)と言う、当時、巷(ちまた)で流行していた武将物を語る勇壮な節が出て来ます。まさにロックの音楽です。「ときしも頃は如月(きさらぎ)のー」と激しく唄い出します。しかし、状況説明は既に初めの能がかりで終わっているわけですから、本来は大薩摩は不要なはずです。それをあえて加えて語らせるのは、既に江戸のこの時代でも、能のセリフが理解しづらくなっていたのかもしれません。つまり、能の現代語訳を始めるのです。

 そこでいよいよ義経主従の登場になります。それを待ち受ける富樫の左衛門と緊迫したやり取りをしますが、ここで、当時江戸の大道で流行していた山伏問答を取り入れます。「なぜ、山伏は杖を持っているのか、なぜ刀を持っているのか」、細かく問いただしますが、弁慶はすらすらと全ての質問に答えて行きます。こんなところは能にはありません。更には、勧進帳があるなら勧進帳を読んで見ろと言われ、窮した弁慶が何も書いていない巻物を引っ張り出して、すらすら読み上げて急場をしのぎます。

 うまく逃げ果せた義経は森の中で、弁慶の機転をねぎらいます。ここでやはり当時大道芸で評判だった説教節を取り入れています。弁慶は主の義経に褒められ、勿体なさのあまり、「ついに泣かぬ弁慶も、一期の涙、殊勝なり」。と説教節がしみじみ語る中、弁慶ははらはらと涙を流します。富樫の前ではあれほどの才能を見せ、何を言われてもびくともしなかった弁慶が、義経にねぎらいの言葉を掛けられるとたちまち、大きな体が脆くも地面に崩れ落ちるのです。この説教節をよくぞ七代目は勧進帳に取り入れたと感心します。まさに勧進帳のテーマはここに集約されます。

 つまり、血を分けた兄の頼朝から権力争いで疎まれ、都を追われた義経ではあっても、その姿は都落ちとなり、何一つ持つべきものもなくなった主に、ただ一つ、誠を尽くしてここまで忠義を貫く家来がいる。これが勧進帳のテーマなのでしょう。

 お終いは、富樫にふるまわれた酒を飲んで弁慶が上機嫌で延年の舞を舞って逃げて行きますが、この延年の舞で能のリズムに戻り、そこに三味線を加えて賑やかなフィナーレを作ります。お終いには、幕外で出弁慶が飛び六法まで踏んで引っ込んでゆきます。

 六方と言うのは江戸の初期、ヤンキーが周りを驚かせるために、とんでもない恰好をして、大袈裟なふりをして街を歩いたときの歩き方で、本来まともな人のやることではありません。それを弁慶にさせて、舞を舞ったがために主に遅れてしまい、慌てて主を追いかける最後の場で飛び六法をさせたのですから、とんでもない演出です。本来六法を踏んでいる場合ではないのです。然し、今これを見ると、弁慶の思いがよく伝わります。これだけの大作には、これぐらいの派手な終わり方が必要なのでしょう。

 七代目に能を教えた能役者が、初演の勧進帳を見た時に、初めからお終いまで笑い転げたと言います。それはそうなのでしょう。形こそ能を取り入れはしても、その手法は江戸時代の現代演劇なのですから、能役者から見たならへんてこな芝居だったのでしょう。然し今勧進帳を見るとよく出来た芝居だと思います。

 しかも、大薩摩や、山伏問答、説教節など、江戸の現代曲を積極的に取り入れて、それを三味線音楽(言ってみれば今日の歌謡曲)で、歴史劇をまとめたというのはものすごい才能だと思います。勧進帳を見てしまうと、能の安宅は物足らなく思います。

 煎じ詰めれば芸術は、些末な矛盾はどうでもよく、伝えたいテーマがしっかり語られていれば、名作になり得るのでしょう。

続く

アバンギャルドな邦楽 2

 昨日は、玉ひでさんでの公演。20名が集まり、満席でした。このところお客様からの引き合いが多く、予約が先まで続いている状態です。有難いことです。

 昨日はケン正木さんがきました。ケンさんと私は48年に渡る付き合いで、ずっと共にマジック活動をしてきた仲間です。彼は今、奇術協会会長になって、相当に苦しんでいるようです。そもそもコロナウイルスの影響で、プロ奇術家の活動が成り立たないような状況で、どんどん協会員が減少しているようです。

 彼が会長になるときに私は、「今、会長になることは、火中の栗を拾わせられるようなものだから、やめたほうがいい」。と言ったのですが、彼は引き受けてしまいました。彼には脳梗塞の持病があり、その体で今回の困難に立ち向かうのは危険です。

 終演後色々話を聞いていると、だいぶストレスが溜まってきているようです。早々に協会をやめている私とすれば、何とか助けてあげたいとは思いますが、立場上、いかんともしがたい状況です。私や、ナポレオンや、前田知洋、カズカタヤマなど、ある時期、ごっそり協会をやめていますが、協会の問題は体質と運営にあります。なぜ、能力あるプロが抜けてしまったのか、そこに気が付かなければ、協会は人が減るばかりです。

 冷たいようですが、行き着くところまで行かなければ、協会の再生はあり得ないと思います。何とか努力をして再生させようとするケンさんの意気込みは素晴らしいとは思いますが、晩年の残された人生を、徒労に終わらぬように、祈るばかりです。

 

 今回の若手は、ザッキーさん、早稲田さん、日向さん、前田で、早稲田康平さんが新規に入ってきました。オーソドックスなスライハンド手順で、カード、リング、ゾンビを演じました。これから自分の個性を作って行かなければいけません。ここが正念場です。そのためにもここで自分を磨いてほしいと思います。来月も同じメンバーです。皆様よろしくご支援ください。

 

アバンギャルドな邦楽 2

 太古から続く日本のリズムを継承し、そこにストーリーをつけて舞踊化したものが能です。紆余曲折の末に、楽団員は少なくなり、間(ま)に抜けまでできて(私の推測ですが)、楽器も残されたのは四拍子のみの、リズムをベースとして、語り、(謡、うたいといいます。実際に聞くと、歌と言うよりも語りにしか聞こえません)。になって行きます。

 内容が、昔の武将や、権力者をテーマとしたものが多かったためか、能は、歴代の権力者が愛し、素人ながら大名が演じることが流行りました。能役者(当時は猿楽役者)、は、各大名に保護され、同時に独特のリズムも温存されました。こうして、能は明治に至るまで保護され、芸能の上位に位置して残されたのです。

 能はひとまず、ここで置いておいて、日本の音楽が劇的な変化を迎えるのは戦国時代です。三味線が南方から入ってきます。それまで、メロディ楽器としてよく使われていたのは琵琶でした。大きな瓜を半球状に割いたような楽器で、それを背中に抱えて、琵琶法師が村々を歩いて回って、平家物語を語る、などと言う絵は、鎌倉時代からあちこちの絵巻物によく描かれています。

 鎌倉、室町の時代は、農村においては、芸能に接することも、娯楽と呼べる楽しみも少なかったらしく、年に一度来る琵琶法師が楽しみだったようです。村に来れば、法師は、理解ある金持ちや、庄屋の家に泊まり、数日、或いは半月も滞在して、連日村人を集めて、続き物の平家物語などを聞かせていたのです。

 琵琶は4絃です。大きな撥(ばち)を駆使して優しく、時に豪快に演奏します。然し、三味線の軽便さにはかないません。南方から伝わった三味線は、初期の頃は、今日のギターのピックのような小さな爪を使って演奏していたのですが、日本に入ると、三味線の奏者と言うものがいませんでしたから、とりあえずは琵琶法師が弾いて見せたのです。そのため撥を使って演奏するようになり、琵琶の奏法が三味線に混ざりあうようになります。

 三味線は楽器のみが日本に入って来ただけではなく、都音階と言う、独自の音階を日本に伝えます。今日邦楽が使っている5音音階です。これによって飛躍的に日本の音楽がメロディックになります。今日、我々が謡を聞くと、お経を聞いているように聞こえます。単純な音の高低はあっても、メロディーが聞こえて来ません。ある意味、ヨーロッパの中世のグレゴリア聖歌にも共通しているように思えます。音楽と言うものが、神聖なもので、快楽とは別の所にあった時代のものに聞こえます。

 それが三味線が入って来ると一変します。音色は妙に快楽的で、遊びの要素がたっぷり入ってきます。左手の絃を弾(はじ)く音ですとか、右手の撥を強く打ち叩く音などが一緒になって、激しく、ダイナミックな音楽が生まれます。

 琵琶の音に慣れていた当時の人が三味線を聞いたときには、今日のヘビメタを聞くような衝撃があったのではないかと思います。奏法も、琵琶よりも遥かに手が軽く動き、速弾きが可能です。こうなると流行らないはずがなく、三味線はたちまち日本中を席巻します。

 これにいち早く飛びついたのが、女歌舞伎や、その後の歌舞伎舞踊の集団です。江戸の初めころにはすでに、三味線はメロディ楽器として首座に収まります。

 歌舞伎は舞踊として演じていたころは、三味線を使って派手な曲を作って曲に合わせて踊ってていたのでしょうが、やがて、芝居小屋を構えて長時間興行するようになると、ストーリーがなければ時間を維持することが難しくなります。そこで、能から作品を拝借して、ストーリーのある芝居を作り始めますが、この時、能で演じていたリズムが一緒に入ってきます。入ったと言っても一方的に歌舞伎が能を盗んだわけです。

 能のリズム感は独特ですから、リズムを取り入れただけでその時代をイメージさせることが出来たのでしょう。早速能を取り入れると、それまで怠惰に流されていた歌舞伎が妙に高尚なイメージになって行きます。一格上がった感触を得ます。これから歌舞伎は頻繁に能を盗み取って独自の時代劇を作り始めます。

 そこで能のリズムを取り入れるのは良かったのですが、そこに三味線を無理無理はめ込んで行きますから、本来能が語ろうとしていたストーリーと、その後に加味された三味線音楽には食い違いが生まれます。曲の解釈だけでなく、拍子も、メロディーの嵌め方にも無理が発生します。しかしそんなことはお構いなしに三味線が入り込んで、能のリズムに無理に曲を乗せて行きます。

 それがどういうことかと言えば、例えば、今日、ベートーベンの音楽をロックバンドが演奏したり、ホルストの惑星(ジュピター)をボーカルが歌ったりすることが日常行われていますが、あれが、本当に、ベートーベンやホルストの望む音楽かと言えば、恐らく違うはずです。美しいメロディーの裏側で、ベースたドラムがかなりアクセントを強くしてリズムを刻んだりします。あんなリズムは決してホルストは望まないでしょう。然し現代人はそこを違和感なく受け入れてしまいます。本来の意味とは別の需要が生まれているわけです。今日我々が聞く歌舞伎音楽はそれとほぼ同じことで、原作とは関係ない所に生まれた音楽なのです。この話はまた次回。

続く

 

アバンギャルドな邦楽

 今日(8月22日)は月に一回の、人形町玉ひででの公演です。お座敷ですが、椅子席に作り替えて、びっしり詰めると40名入ります。然し、コロナの影響がありますので、20名限定にしています。舞台のスペースもしっかりとれていますので、手妻も、スライハンドマジックも、問題なく出来ます。今回はほぼ完売状態です。

 お客様も、どこに座ってもゆっくりご覧いただけます。食事は有名な親子丼ですから、申し分ありません。お食事付き、5500円です。但し食事は前日までにお申し込みの方のみです。当日は食事なしの、ショウの入場料のみになります。その場合は2500円です。但し、予約なしでお越しになると入場できない場合もあります。

 ここを定着させて、出来れば毎週土曜日はマジックショウにしたいと思います。弟子の大樹も、月に一回、玉ひでで公演を始めました。あと二人、ここで自主公演をするマジシャンがいたなら、週に一回のマジックショウは達成できます。マジシャンはほんの少しやる気を出して、ショウを企画すれば自主公演はできるのです。出る場所がないと言って嘆いていないで、まずは自分の力で人を集めることです。

 そしてこんな時こそ、新しい作品をこうした場でどんどん出してゆくことです。作品を作り溜めて、次の時代に備えるのです。何もしなければそのまま時代に取り残されるだけなのです。仕事の少ない、今こそ次の時代に備えるべきなのです。

 

アバンギャルドな邦楽

 能を見ても、歌舞伎を見ても、邦楽はよくわからない、ただ古いことを言っているだけに聞こえる。と言う方が多いようですが、確かに古いことは随分古い作品が多いのですが、邦楽も、幾多の危機を乗り越えて、その都度、優れた芸術家が現れて、その時代その時代のお客様に喜ばれる芸能とは何かと模索をして、時代を先取りしたアバンギャルドな作品をたくさん作ってきました。そのお陰で今日の芸能に至っています。

 前に、奈良の政府に丸抱えしてもらっていた散楽一座が、奈良政府が瓦解したときに、外に放り出されたとお話ししました。軽業や手妻の一座、当時コントをしていた、今日の、能、狂言の原型と言える一座などは、野に出て、田楽(でんがく)や、猿楽(さるがく)の一座をこしらえて、農村慰問を始めたり、ある者は、寺や神社の庇護を受けて、日常は寺社で祈祷をしたり、お札を販売する仕事を手伝ったりして生活をしつつ、秋の祭りの時期になると、日本中の寺社の末社、末寺を、一座で巡り歩いて、お札を売りつつ、芸能を見せて収入を得るようになります。

 彼らは、田楽や猿楽などであちこちを回っているうちに、三番叟に見るような、神事の舞を披露します。三番叟は、雅楽では三番目に演じる舞であるために三番叟と呼ばれます。主にまだ若いものが舞台の慣らしに演じる舞なのですが、烏帽子をかぶって、鈴を持って鈴を振りながら舞を舞います。この鈴の振り方が、畑に種を撒く姿そのもので、一粒万倍(いちりゅうまんばい)、五穀豊穣(ごこくほうじょう)を願って踊る、めでたい踊りなのです。

 この三番叟は、江戸時代になっても、歌舞伎の一番初めに踊られました、寄席、演芸の世界でも、毎日ではなかったようですが、めでたい時とか正月になると、初めに三番叟を踊って、それから落語や、漫才をすることがあったそうです。

 その三番叟のリズムと言うのが、タ、ポン、(ホウ)、ポン、スポポン、(イヤー)タ、ポン、(ホウ)、ポン、スポポン、という単純なリズムを繰り返します。これは奈良時代以前から続く古いリズムだと思いますが、個性的で、三番叟のみに使われます。これを三番地と呼びます。我々が鼓や太鼓を習う時に初めに勉強するのがこれで、まず三番叟がしっかりできることは太鼓、鼓の稽古の初歩なのです。

 私の所の弟子は、大樹も、前田も毎週一回太鼓と鼓の稽古をします。三番叟が出来たからと言って、人前で演奏したり、踊ったりすることはありません。然し、千数百年前のリズムを学んで、それを会得していると言うことが、手妻を演じる時にふと見せる芸の厚みになって行くのです。種仕掛けを知っている、などと言うこととは次元の違う話なのです。

 

 能も、散楽を追われて、田楽に行ったり、猿楽に行ったりしているうちに、その時代その時代のリズムを取り入れて、また新しいストーリーを取り入れていくうちに今日の能になって行きます。そもそも能が能と呼ばれるようになったのは明治時代です。それまでは猿楽と呼ばれていたのです。平安時代から続いて来た芸能集団の呼び名が、いつしか、演劇集団の呼び名に変わっていったようです。

 能も平安時代はコントのような滑稽な作品もたくさんあったようです。実際、宮中の催しで、卑猥なコントをしたために出入り禁止になったと言う記録があります。その後長いことコントの一座は宮中に入れなかったようです。そこまで顰蹙(ひんしゅく)をかったコントのネタがどんなものなのか、残っていたならぜひ見てみたいものです。それが、室町期になって、観阿弥世阿弥が現れるに及んで、歴史をモチーフにした重厚な作品が生まれて来ます。そして、今日の能の形式が作られてゆきます。

 能は、基本的には、前と後の二段の形式で演劇が完結します。前は、生きているものが過去を語り、後は、霊が現れて過去を語ります。この流れがわからないと、いたずらに同じことを繰り返しているように見えますが、ここが日本の芸能の巧妙なところで、同じ事件を現代人(室町時代の現代人)と、かつて現場にいた霊(平安、鎌倉時代の武将など)に語らせることで、弁証法的に、立体的に話が解き明かされてゆくのです。

 この独特な世界を能では幽玄と呼びますが、能の世界で霊は人を驚かしたり、たぶらかすものばかりではなく、自然に現れては現代人と過去の真実を語って行くものなのです。時に霊の語りは、その時の恨みや悲しみであったりするのですが、それが語っているうちに納まって行きます。いわば能のテーマは鎮魂なのでしょう。

 歴史は変わり得ないものですし、恨んでも数百年前のことはもうどうにもなりません。然し現代人がその悲しみを聞いてやることによって、魂の怒りを鎮めてやるのです。実に日本的な解決方法です。言ってみればこの演劇は、何も起こらず、何も変わらないことを語り合って、話は終わって行きます。

 ただ、怒りや悲しみを聞いて同情することが目的なのです。このあたりのことがわかって来ると、能の奥深さに気づいて、面白く感じます。次回は、その演劇から歌舞伎に移行してゆくお話しをしましょう。

続く