手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

母親のこと 3

 昭和29年母親は親父と同棲するようになりました。兄も一緒です。兄は前の年、小学校に上がりました。親父が独身だと言って借りていた部屋に同居していましたが、家主が子供がいることを知って、出て行ってくれと言って来ました。当然です。

 この時代は、戦後間もないため、家の数が足らなかったのです。そこで、家持の家族でも、生活が苦しくて、部屋を一間、他人に貸している家が多かったのです。台所便所は家主と共同です。そんな家を親父は間借りしていたのですが、毎朝、母親と兄が家主と顔を合わせます。

 家主にすれば、独身だと言うから貸したのに、嫁や子供がいます。そこで出て行ってくれと言う話になります。ふすま一枚で隔たっている部屋を貸すのですから、子供が騒いだり鳴いたりすれば、家主も困ります。そのため子供のいる家族はなかなか部屋も借りられなかったのです。

 母親にすれば、これからもう一人子供が生まれます。きっちり子供がいてもいいという家を探さなければどうにもなりません。然し、引っ越し費用に、大きな金が必要です。それを何とかしてくれと父親に頼みます。頼まれた父親は、解決の見つからないままに悩んでいます。

 

 ある日、新聞を見ていると、長いこと追いかけていた競輪の選手が、鶴見の花月園に出場することを知ります。この選手の実力を知っている親父は、これぞ起死回生のチャンスとばかり、朝から鶴見に行くことにしました、然し手元の金が心もとなく困っていると、駅に行く道の屋根の上から祖父の声が聞こえます。祖父はこの時、寺の屋根を銅板に葺き替える仕事をしています。ブリキ屋にとって銅葺きは最高の仕事です。「おい、どうしたよ、どこへ行くんだ」。「ああ、親父かぁ、これから花月園に行ってみようかと思うんだ。狙っている選手が出るんだよ」。「ふぅん、金はあるのか、なんなら半分乗ろうか」。と祖父は金を出してくれました。

 さて、花月園について早速車券を買うと、狙っていた選手は勿論のこと、買う車券、買う車券どれも大当たり、当たった金で次の券を買い、どんどん儲けが膨らんで、最終には50万円もの金になりました、昭和29年に1万円の月給はなかなか取れません。つまり高給取りの50か月分の給料が手に入ったのです。

 当時は1万円札などありません。千円札五千円札すらもめったに見ない時代です。百円札50円札と言う札で50万円が支払われたのですから、札束をポケットに入れようとしても、ポケットの数が足りなくて、入りきれません。シャツのボタンをあけて、体の中にじかに札束を詰め込むと、元々太っていた体がパンパンに膨らみました。換金所のおばさんが、「そんな恰好で帰ったら暴漢に襲われますよ、気をつけたほうがいいですよ」。と、心配されました。そこでタクシーを奮発して、池上まで凱旋します。

 

 夕暮れ時に池上に帰ると、まだ祖父がお寺の屋根の上で銅板を叩いています。「親父よぅ、花月園に行ったら、当たって、当たって、大儲けだよ」。「何言ってやがる。嘘つくんじゃねぇよ、取られちまったんだろ」。「いや本当だよ、50万円取ったんだ」。「馬鹿野郎、そんなうまい話があるか。それじゃぁその金見せて見ろよ」。言われて親父は、地面に百円札の札束を鷲掴みにして、「これが5万円。それで、これが5万円」。と次々に札束を取り出すと、祖父は驚いてお寺の屋根から落っこちたそうです。

 「おい、親父大丈夫か」。「大丈夫だ、いや、お前は大したもんだ。そうと聞いちゃぁもう仕事なんかしてられねぇ。馬鹿らしい。もう仕事はやめだ。帰って酒と魚を用意しろ。今日は酒盛りだ」。それから3日3晩、親子で酒を飲み続けたそうです。

 と言うわけで、部屋は少し広い部屋を借りられて、親父と母とは結婚式をして、兄は籍を入れて、私のお産の資金もできて、12月1日にめでたく私は生まれたわけです。

 私はこの話を親父から何度も得意がって聞かされましたが、競輪に当たったお陰で生まれたというのは、当たったからいいようなものの、もし外れていたら私はこの世にいなかったことになります。なんとも儚(はかな)い人生です。世の無常を感じます。

 

 親父は、母と結婚するときに、祖父母や兄弟に重ねて言ったことは、私の兄のことです。「女房の子供は自分の子供として育てる。これから生まれてくる子供と決して分け隔てなく見てほしい。それでないと女房が肩身の狭い思いをする。これだけは理解してくれ」。と言ったそうです。無論家族一同異論はありません。

 兄は生まれながらに複雑な事情で育っています。母が望まない結婚をしてできた子供です。そして離婚です。横浜の実家で暮らしている時も、寡黙で、ほとんど毎日一人遊びをしていたようです。周りからは手が罹らない子だと褒められたそうですが、早くから世間に遠慮をして生きていたようです。親父の子供になってからも、別段逆らいもしなければ無理に寄り付きもせず、静かな性格だったそうです。早くから何となく自分の立場をわきまえているいるような人でした。

 演芸や芸能には全く興味がなく、親父が誘っても決して楽屋や、劇場には行きませんでした。私が楽屋に入り浸っていたのとは大違いです。私はこれまで、兄のこと、兄の父親のことは一切、兄にも、母にも訪ねたことはありませんでした。私は早くから兄との関係は知っていましたが、一切誰にも話しませんでした。今回ブログに書くことで公にしましたが、それまでは語ることはなかったのです。人に話していいことは一つもないだろうと思っていたからです。

 然し、一つ不思議に思うことは、別れた父親の方の家は、跡取りである兄を欲しがらなかったのかと言うことです。跡取りならなんとしても家に置いておきたかったのではないかと思います。母も兄を置いて別れたほうが、その後は苦労せずに生きて行けたのではないかと思います。ここは全く謎です。相手方の亭主が、子供が出来た後も家に寄り付かなかったと言いますから、母にすれば、子供を残しても邪険にされたら気の毒だと思って、連れて帰ったのでしょうか。ここは母の判断ですからわかりませんが、人の幸せはどういう風に生きたなら手に入るのかは結果でしかわかりません。

続く