手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

母親のこと 4

 昨日は、イベントの依頼が来て、企画書を頼まれました。来年1月の話ですが、まとまれば大きな仕事になります。急ぎ企画書を送りましたが、まとまるかどうかは先の話です。然し、大きな企画を持ち込まれることは、まだ世間が私を求めてくれている証拠で、何となく話が来るだけで気持ちが落ち着きます。

 

 そして朝から前田の稽古です。このところテーブルクロス引きをしています。以前、弟子の晃太郎とやっていた演技です。別段手妻でもなければ、マジックですらないのですが、長いショウの中に入れると気分が変わってとてもよく受けます。

 弟子が、テーブルクロスを引いて見せるのを、脇で私が余計なことを喋って邪魔するという筋なのですが、単純ですが、お客様が喜びます。私独特の説教臭いセリフが笑いになります。演じると5分あります。これをやらないのは勿体ないので、前田に仕込んでみようと思います。恐らく来年初めにはお見せできるでしょう。

 

母のこと 4

 昭和29年に親父と母は改めて所帯を持ちます。競輪の大当たりのお陰です。しかし母が結婚して気付いたことは、その生活のめちゃくちゃなことです。当時の親父はお笑い芸人としてはかなり売れていた人だったのですが、その収入には波があり、いいときは良くても悪いときは全く何もない状態だったのです。

 当時の芸人は、ギャラと言う考え方がなかったのです。舞台を依頼されて、演じると、後で、祝儀袋に入った金を貰います。これが全くの見計らいで、相手の思し召しだったのです。それは親父に限らず、当時の芸人全てがそんな金の貰い方をしていたのです。さすがにNHKに出演するときは、きっちり明細をくれますが、仲間内から頼まれる仕事は全くもらってみなければわからないような金でした。つまり昭和30年代は芸能は仕事ではなかったのです。遊びの延長で、道楽の範疇だったのです。

 当時、父親は男3人で音楽ショウをしていましたので、貰った金は3等分です。1000円貰っても330円ずつ分けることになります。その330円を稼ぐために、クリーニング屋さんに糊の効いたワイシャツを頼んで、行き来にタクシーを使ったりすれば、もうギャラは残りません。帰りに一杯飲んだりすればその分赤字です。

 しかし親父はそれで満足なのです。金のことなど関係ないのです。招かれて、お客様に喜んでもらえれば、それだけでうれしいのです。私の親父は、晩年に至るまで、仕事を引き受けるときに、先方とギャラの相談をしたのを見たことがありませんでした。

 親父は舞台に立てて、人が喜んでくれたのだから満足です。然し、家で赤ん坊を抱えて、親父の収入を待ち焦がれている母にすれば、仕事から帰ってきて金が足らないは困ります。足らないならまだしも、時には使い果たして帰って来るときもあります。

 北海道の巡業などは、半月、1か月と長い日数をかけて、北海道の町を回ります。そうしたときは、興行師と月ぎめのギャラを打合せして出かけますので、当然ギャラもかなりいい仕事です。

 冬の北海道は農作業ができませんから、大概の人は冬場は暇を持て余しています。そこへ演芸と歌謡ショウで、学校の講堂を借りて公演すると、面白いように人が集まります。半月1か月と回れば相当にいい収入になります。帰りは青函連絡船に乗り、夜行列車で東北本線を上って帰ってきます。その途中福島に着くと、福島競馬に知り合いの騎手が出場しています。資金はたっぷりあります。少し遊んで帰ってもいいだろうと、親父だけ途中下車します。

 しかしこんな時はなかなか当たりません。少し金を減らして、また東北本線に乗ります。上野駅に着くと、そこにたまたま知り合いの噺家がいます。これから麻雀をするからどうだと誘いをうけます。親父は博打の誘いは断りません。それから徹夜マージャンをしますが、これもつきがきません。ギャラはどんどん減って行きます。減った稼ぎを補おうと、またもや仲間を集めて博打をするうちに、1か月の北海道のギャラはきれいに消えてしまいます。

 数日遅れて家に帰ると、家では親父が久々に買ってきたために歓待を受けます。そしてギャラはどうしたと聞かれます。親父は「なんだかねぇ、後で送金するって言っていたよ」。ととぼけます。それが1か月して2か月しても金が届かないとなると母も機嫌が悪くなります。やがて大げんかが始まります。子供が二人いるにもかかわらず、親父と母はいつも金のことで喧嘩でした。

 母は親父のことを心から愛していました。何にしても優しいのです。そして、とびっきり面白い人なのです。家に帰って来ると、その日にあったことを色々話をしますが、その話が、何でもないことばかりなのですが、親父が話すと腰が砕けるほどおかしいのです。親父は笑いを作る天才でした。

 親父は、帰って来るときに、大きな声で道で歌を歌いながら帰ってきます。夜だと数百m離れていても親父が返ってくるのがわかります。すると母は「あっ、パパだ」。と言って食事の支度を始めます。なんとなく母親は楽しげです。帰って来ると父親はいつでも陽気です。幼い子供から母親まで満遍なく笑わせます。

 ここまでは最高の父親なのです。然し、その日のギャラがないとわかると、母親は鬼の形相に変わります。子供たちは、「それ、また始まるぞ」。と部屋の隅に隠れます。

親父は母に一切手を挙げません。逆らいもしません。母が一方的にまくし立てて怒りをぶつけます。時に茶碗や、やかんが飛びます。しかし親父はじっと黙っています。

 母親は、「お金がないと言っていてもどうしようもないでしょ。どうしたらお金ができるか考えなさいよ」。と怒ります。すると親父はちゃぶ台の前で、しおらしく下を向いて考えているふりをします。いくら考えても答えは出ませんから、そのうちに、鼻歌が出ます。鼻歌が終いには気持ちが入って来ていい声で歌い出します。「夕焼け空がまかっか、トンビがくるりと輪を描いたー」。するといきなり台所から茶碗が飛んできます。「少しも本気で考えていないじゃないの」。すると親父は、「あのなぁ、俺がこうして、静かに、どうやって金を作ろうかと悩んでいたら、それでこのちゃぶ台の上に1,000円札が二、三枚出て来るかい。出てこないだろ、俺は手品師じゃないんだから。だったら歌でも歌わなきゃしょうがないだろう」。これで2つ目の茶碗が飛んできます。

 毎日面白い話を聞かせてくれる親父は大好きでした、然し、この家にいる限り、楽しいだんらんの結末は常に地獄でした。

続く