手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

母親のこと 7

 昭和30年代と言うのは、まだ一般家庭に電話が引けていませんでした。勿論携帯電話などはありません。仕事の依頼はもっぱら手紙のやり取りでしていたのです。

 親父のチームは、一人、商店の息子がいたため、店には電話があったので、そこを窓口にして仕事を取っていました。然し、親にすれば、息子さんが芸人になったことを喜んではいませんから、電話の応対もぞんざいです。仕事がかかってきても、詳しい話など聞きもしないで、メモ紙に言われたことだけを書いて、息子さんが帰って来るまでほったらかしだったりします。何時にどこに行くかもわからない時があります。そんなことで行き違いが生じて、せっかくの仕事を失ったりしていました。

 その日の晩にパーティーがあるから出演してくれないか。等と言った急ぎの仕事の依頼が来ると、まず3人の了解が必要です。この3人を探すために大騒ぎになります。相方さんが走って私の家に仕事の連絡をしに来てくれて、さて母が親父に伝えようとするのですが、親父がどこにいるかわかりません。母は池上中のパチンコ屋や、ビリヤード場を訪ね歩いて親父を探します。それでも見つからないと結局仕事は流れてしまいます。当然母は腹を当てて、夜に帰ってきた親父と喧嘩になります。

 母は、親父の仕事のだらしない決め方に懲りて電話を引きました。当時の電話は契約料も、工事費も、今からは想像ができないくらい高額だったのです。なんせほとんどの家に電話がないのですから、電線を引っ張って来るだけでも長い電線が必要で、そのため、当時の電電公社は電話債権などと言う得体の知れないものを抱き合わせに買わせて、電話工事費を取っていたのです。母にすれば思い切った投資だったと思いますが、一本でも仕事が来れば生活が助かるという、かすかな願いで決断したのです。

 

 当時、私の家には、早くから、電話と冷蔵庫がありました。この二つは自慢でした。貧しい家庭からすれば意外ですが、電話は親父の仕事にため、冷蔵庫は、祖父が、古い家を解体したときに、古い冷蔵庫があったため、それを持って来て、中を直して、結婚の祝いにくれたそうです。

 当時の冷蔵庫は、電気式ではなく、中に氷を入れておいて冷やす式のもので、外見は木製の家具のような作りでした。そんな冷蔵庫でも、近所では珍しく、近所の人が肉や卵を入れさせてもらいに来たのです。

 私の家では、冷蔵庫はあっても殆ど入れるものがなかったので、夏場に水を冷やす程度しか使い道がなかったのです。たまに肉や野菜が入っていると、そこには包装紙に斎藤だの田中だの名前が書いてあって、預かりものだから食べてはいけないと言われました。一体誰のための冷蔵庫なのかわかりません。

 電話のある家は、当時、表札の脇に電話番号の札が張られていました。これは電電公社が、電話の引いてある家に優越感を与えるためにわざわざ札を作って貼ってくれたのです。ところがこの番号を、近所に人が自分の名刺に書かせてくれと言って来ます。これが呼び出し電話と呼ばれていました。自分の名刺に、(呼)と書いて、その次に私の家の電話番号を書いておきます。こうすると、私の家に知らない人から電話がかかって来たものを私が走って行って、その家に取次ます。呼ばれた人は、私の家の電話を使って話をします。まったくご近所へのサービスです。それが、私の家と話が付いてやっているならいいのですが、全然、私の家に断りもなく、無許可で呼び出し電話と書いてしまう人もいました。

 突然知らない人から電話がかかってきます。電話の向こうで呼び出し先の苗字を言われますが、心当たりがありません。母が、「きっと最近越してきた五軒先のアパートの学生さんのことじゃないの」。と言いますので、私が走って、アパートに行くと、果たしてその人で、学生がやってきて、長々話をして帰って行きます。当時は何時間話をしても電話の一通話は10円です。しかも相手からかかってきた電話ですから、費用はかかりません。そんな呼び出しが毎日のようにあります。

 私ら家族が晩飯を食べている脇で、さほど縁のない人が長々電話で話をして行きます。時に彼女とイチャイチャ一時間も話をして帰って行きます。それを私の家族は別段腹も立てず、毎回呼び出しをしてあげていたのです。呑気な時代です。

 電話まで引いて、万全な仕事の体制を作っても、親父は仕事の本数が少なくなってゆきます。私が小学校に入った時には、担任になった先生が、初日に私のそばに寄って来て、「君のお父さんは脱線ボーイズさんなの」。と聞かれました。この時までは私の親父の知名度はあったのです。然し小学校3年生くらいになるともう誰も親父の噂をする人はいなくなりました。お笑い芸人の寿命と言うのは短いものなのです。一旦落ちてしまうと取り付く島もないのです。親父は半ば自分の人生を諦めていました。

 後に親父に聞いた話では、「あの時危なくアルコール中毒になるところだった」。と言っていました。酒と博打に逃げるしかなかったのです。

 母親は毎日必死にセーターを編んでいますが、毎日親父が酒と博打に明け暮れている姿を見て悲しかったのでしょう。なんせ、一日中休まず働く母と、方や、今日は何して遊ぼうかと言う親父が狭い部屋に同居しているのですから。家の中はいつでも地獄極楽の生活です。

 母は編み物につかれると、私に「ダンスをしよう」。と言って、狭い部屋で私を相手にタンゴやジルバを踊ります。勿論私は何も知りません。母のすることに適当に付き合っているだけです。母は自分で「小さな喫茶店」などを歌いながら私とタンゴを踊ります。この時の母は快活でした。若いころを思い出して楽しげに踊ります。然し、しばらく踊ると、母は動かなくなります。私を抱きしめたままずっと涙を流しています。私はどうすることもできずただ黙って抱かれています。

 いくら働いても抜け出せない貧乏と、出口の見えない親父の生き方に暗然としていたのでしょう。子供だった私にも、母がどう生きて行っていいのかわからな苦しみを抱いていることは分かりました。然し私にはそれをどうしてあげたらいいのかがわかりません。私は小学校に入ったばかりだったのです。

続く