手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

母親のこと 6

 私の話をしましょう。私は昭和29年12月1日に生まれました。深夜だったそうです。お産が夜にかかったために、親父も、祖父母も、狭い部屋にみんな集まって遅くまで起きていたそうです。祖父は、鯛焼きをたくさん買って来て、「祝いの尾頭付きだ」、と言ってみんなに配ったそうです。尾頭付きには違いありません。難産だったようで、難産の理由は、私の体重が4キロあったからだそうです。

 名前は直哉と名付けられました。母が志賀直哉の小説に傾倒していて、名付けたのです。生まれてすぐであるにもかかわらず顔がはっきりしていて、その後に少し大きくなると、誰にでも笑顔を見せたそうです。そのため近所の女の子が抱きたがって、順番待ちで、遊びにつれて行って、一度家を出るとなかなか帰って来なかったようです。

 親父は、自分の子供が生まれたことをとても喜んで、それまでなかなか家に帰って来なかったものが、夕方になると必ず帰ってきて、ずっとあやしていたそうです。

 それが生後3か月目に、親父が北海道の仕事から帰ってきて、その時、風邪をひいていたのが災いで、私は肺炎に罹ります。かなり危険な状態になり、医者が「明日までに熱が引かなければ危ないと思います」。と言って帰って行きました。当然祖父母からも家族からも親父は恨まれます。親父は部屋の隅でじっとしてしょげていて、三食全く何も食べなかったそうです。然し幸いにも一命をとりとめます。

 少し大きくなって、私が話をするようになると、母は私をおぶって買い物に連れて行くようになります。私は誰にでもにこにこしていたらしく、あちこちで声を掛けられます。肉屋の親父が、「坊や、どんな肉が食べたい」。と聞いたら、私が「お猿のお肉」。と答えたそうです。「うちはお猿はやってないんだ、他の肉はどう」。「じゃぁ猫の肉」。その時母は、「この子はお笑いの才能がある」。と感じたそうです。

 歩けるようになると、買い物も、歩いて出かけるようになります。ある日、買い物の途中で母とはぐれてしまいます。商店街の雑踏の中、どうしていいかわからず泣きながらうろうろしてました。こうしていてもどうにもなりません。自分なりにこんな時にどうしたらいいか考えました。そして、駅前の、いつも母がセーターを卸している洋品店に行きました。洋品店の主人は、私の顔を見て、いつも母がセーターを届けに来るときに、くっついてきている子供ですから、見覚えがあります。親切にも、自転車に乗せて送ってくれました。

 母親は家で夕飯の支度をしていました。全然私がいなくなったことを心配していません。私が、「迷子になって心配じゃなかったの」。と聞くと、「お前のことだから何とかうまく帰って来ると思ったよ」。と言いました。強い母親だと思いました。

 

 とにかく、母が毎日編んでいるセーターで家族は生活ができるようになりました。親父はテレビなどにたまに出ていました。NHKの演芸番組などを撮るときには、当時テレビ局は、黒塗りのハイヤーで迎えに来ます。ハイヤーが路地に入って来るだけで近所に人たちはびっくりです。どんな偉い人が来たのかと思い、みんな家から出て来ます。そこへ、親父が小さな体でギターを抱えて車に乗り込みます。窓から近所に人に挨拶をして車が走り去って行きます。近所の人は、「へーぇ、南さんも大したもんだねぇ」。と感心をします。この時だけ母も私も兄も誇らしげな気持ちになります。

 然しそれで仕事が順風かと言うと話は逆で、私が幼稚園に上がった頃になると、親父の仕事がだんだんに減ってきて、毎日ぶらぶらと遊び歩くようになります。今日でいう、イベント仕事がめっきり依頼が来なくなってゆきます。考えてみれば、若手でデビューした昭和20年から数えても親父はもう35です。若手と呼ぶには年を取り、名人と呼ぶには技量がありません。中途半端な年齢に来たのです。

 それでも何とか仕事にしがみつこうとして、テレビ局のプロデューサーと親密な付き合いをしようと考えます。金を使って接待もします。然し、大きな流れは変えられません。テレビ局が出来て7年。そろそろテレビに向いた芸人をテレビ局が選別するようになります。親父のように戦前の匂いのする芸人は敬遠され始めたのです。

 男三人が楽器を持って、ジャズや、歌謡曲を歌いながら替え歌を唄って人を笑わせるというパターンは悪くはないのですが、三人が楽器を持っているにもかかわらず、みんな楽器が自己流で、少しもまともな演奏ができません。素人臭さがばれてきたのです。基本に帰って修行しなおせば何とかなったのでしょうが、親父にそんな生真面目さはありません。そうこうするうちに、クレージーキャッツのように、本格的な演奏のできるお笑いタレントが出て来ます。そうなれば比べるべくもありません。

 親父は毎日外出して、パチンコ屋に行き、そのあと、博打の弱い近所の仲間を集めて麻雀や、ビリヤードをして、小銭稼ぎをしています。その稼いだ小銭は夜になって飲み代に消えます。母はそれを見て、どうにかしてくれと言いますが、親父にどうにかする才覚はありません。そのうち、逃避の世界に入り、朝からアルコールを飲み続けます。マンガ瓶と言う、小さな瓶に入ったウイスキーを買って、朝から母に隠れて飲むようになります。

 母はそれを見つけると、瓶を外に投げ捨てて大げんかが始まります。「あんたが売れるためならどんな苦労もするけれども、朝から酒を飲んでいても、何にもならないじゃぁないの」。ごもっともです。親父は何も返す言葉がありません。親父はすごすごと私を連れて散歩に出ます。一ノ蔵の町から旧道を通って、堤方橋に出ます。橋を越えたところに古本屋がありました。そこでしばらく古本を見ます。私は、そこで「ロボット三等兵」の漫画を見ます。今思い出してもくだらなくて、あのばかばかしさは忘れることが出来ません。のらくろや、冒険だん吉よりもずっと秀逸です。

 そのあと親父は実家に行きます。そして、私を置いて、パチンコ屋に行きます。夕方に帰ってきて、一緒に家に帰ります。その時にパチンコで当たれば、金になり、チョコレートなどの土産も出来ます。親父はパチンコは上手でした、台選びがうまく、また、池上の遊び仲間から情報が入りますので、よく当たっていました。と言っても当時のパチンコは、1000玉も出たら打ち止めでしたから、小銭稼ぎにしかなりません。

 それでも小銭を作らない限り遊ぶ金ができませんから熱心に玉を弾いていました。然し、内心は当人もそんな自分を恥じていたのでしょう。今この場から逃れたいがために、必ず、帰りにマンガ瓶を買っていました。私はそれが母との争いの種になることを知っていましたから、「お酒やめなよ」。と言いました。親父は下を向いて「うん」、と言いましたが、やめることはありませんでした。私は親父の毎日を眺めつつ、知らずのうちに人間の弱さを見つめることになりました。

続く