手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

コロナコロナと仰いますが

 ごめんなさい、昨日は一日ブログを休んでしまいました。

朝6時に起床して、7時15分に自宅を立ち、東京駅に8時過ぎに到着、8時26分の新幹線に乗り、新富士へ、富士ではいつもより3時間早い指導の開始です。予定の通り、10時からご指導が始まりました。

 富士は、来月に発表会を予定しているため、皆さん熱心にお稽古されます。参加者5名。このところコロナウイルスの影響で、参加者が減っています。

 2時過ぎに指導を終え、新富士へ、そこから新幹線で名古屋へ、名古屋から在来線で岐阜へ、5時50分に辻井さんと峯村さんと合流。いつものメンバーで、今日は鮎料理の専門店、泉屋さんへ、

 泉屋さんは去年もお伺いしましたが、その味が忘れられません。長良川近くの古い町並みの入り口近くにある新しい店ですが、この店は夜の7時半にはラストオーダーになってしまうために、6時までに入るしかなく、私が、東京を朝早く出たのも、富士のご指導を3時間早めたのも、全ては鮎料理のためです。大変勝手をして申し訳ありませんが、いい鮎を食べるためにはこうするほかはありません。

 

 実は一週間前に、岐阜の飛騨川は集中豪雨で増水し、連日ずっと川の水は濁ったままだったのです。川が濁ると、川底に泥が溜まり、鮎の餌になる藻が隠れてしまい、鮎は餌を失います。そうなると身が痩せて行き、せっかく大きくなりかけた鮎が身が痩せて脂気が失せてしまいます。それは一大事です。岐阜の集中豪雨の時にすぐに辻井さんに電話をしました。「辻井さん、川に被害は大丈夫ですか」。「かなり増水していますが、岐阜市内は全く被害はありません」。「鮎は無事ですか」。「あまり長雨が続くと身が痩せるかもしれませんが、たぶん生簀に飼っている分もあるでしょうから、大丈夫だと思います」。それを聞いて安心しました。

 そして今日、長良川の鮎に1年ぶりにご対面です。早々に肩幅広子さんがやってきて、これで4人のメンバーがそろいました。広子さんは最近柳ケ瀬の高級クラブに移っています。後でどんな店か出かけて見ることになっています。

 初めに、鮎のなれずしなどの珍味が出て、生ビールで乾杯です。すぐに、三千盛りの常温の酒に切り替え、酒で、なれずしや、鮎の内臓の塩辛をつまみます。この塩気と、日本酒の取り合わせは酒好きにはたまりません。私は、糖尿病の心配から、この日のために半月前から、夜はほとんどアルコールを飲まず、ずっと我慢していたのです。それだけに、珍味と三千盛りを口の中で玩味したときの喜びはひとしおです。

 その後、メインの塩焼きと、たれ焼きが、時間をおいて一匹ずつ出ましたが、何にしても、このお店は、鮎の焼き加減が絶品です。長い時間炭火で焼き続けながらも、焦げ目がほとんどなく、頭からしっぽまで全て食べられます。そうなのです。鮎は、一匹全て食べることで、内臓の苦みから、頭の骨の旨味から、背骨の脇に着いた身の甘みまで、それを骨ごと食べることによって鮎の全身の味わいが堪能できるのです。

 鮎を味の薄い魚だと言うのはとんでもない間違いで、味が淡いことは事実ですが、こうして前身の各所を味わいつつ食べて行くと、実に奥行きのある魚です。これをしっかり旨いと認識できるのは大人ですし、日本人のように、あらゆる魚を食べなれたものでないと、鮎の旨味は理解できないかもしれません。

 何にしても、夏場に鮎尽くしの料理が食べられることは実に幸せです。他にてんぷら、仕上げに雑炊が出ましたが、どれも見事でした。峯村さんも、三千盛りの常温に感心し、鮎のコースを堪能していました。このところ、UGMの店の転居などで随分疲れたことと思います。今日はじっくりといい食事をしながら気の置けない仲間とくだらない話をして、気分を休めてくれたなら幸いです。

 

 食後、肩幅広子さんの新しいお店、たまふさに行きました。肩幅広子の名前は私が勝手につけた名前ですが、初めに合った時に、肩パットの入った服を着ていたので、そう名付けたのです。その彼女の勤めるたまふさは、店のカウンターが黒漆で、金蒔絵が施してあり、カウンターの奥がこれもまた大きな板に漆が塗られていて、富士山と田子の浦が描かれており、ものすごい贅沢な作りをしています。コロナの影響で、お客様は3組ほどでしたが、早くもとに戻るといいと思います。更に、前回行った高級クラブ、グレイスへ行きました。ここまで全て。辻井さんの設定です。

 私や峯村さんと話をするためにここまで気を使ってくださる辻井さんは本当にいい人です。グレイスのチーママは黒の絽の着物で小紋の花柄でした。チーママは締まった色もよく似合います。ママさんはあとから洋装でやってきました。ロシア人の大垣弁を話す大柄な女性とばかばかしい話をして柳ケ瀬の夜は老けて行きました。

 明日は、名古屋で指導です。

 

コロナコロナと仰いますが

 コロナは緊急宣言を開放して以来、感染者を増やしていますが、緊急宣言を緩めれば感染者が増えるのは当然のことです。むしろ注目しなければならないことは、コロナウイスに罹った人で、重症患者が殆どいないことです。これは大きな流れで終息に向かっているのではありませんか。

昨日、東大の教授が、このまま放置していては、たちまち数百倍の感染者をだすと、国会で大騒ぎをしていましたが、感染者はが増えることはあっても、たちまちに重症患者が増えることは考えられないでしょう。

 以前に、「このままでは日本の感染者が40万人になる」、と言った、医者がいましたが、その医者はどこへ行ったのですか。風評被害で、どれだけの企業に迷惑をかけたか考えて頂きたい。元々コロナウイルスは感染力の弱いウイルスですし、罹っても寝ていれば治る病気です、つまり通常の風邪と同じものです。これをなぜこうまで日本中が騒ぐのか見当もつきません。巷に重症患者があふれているならその心配も必要ですが、どこに重症患者がいますか。

 数年前にインフルエンザで亡くなった人からすればはるかに少ない犠牲者なのに、何を騒いでいるのですか。アメリカや、イギリスがとんでもない数の重症患者を抱えているのは、保険が機能していないことと、人種差別が激しいからです。有色人種が病院にかかれないから、被害が蔓延しているのです。問題の根は、コロナウイルスにはなく、人種差別がウイルスを広げているのです。そこを指して、「日本もニューヨークのようになるぞ」。とは何を言っているのですか。

 逆にコロナを煽ることで、病院は来なくてもいい患者のために疲弊しています。感染者は入院する必要はないのです。検査も必要ないのです。寝ていれば治るのです。余ほど悪くなった人だけが病院に行けばいいのです。ここをきっちり話をしないと、この先病院が持たなくなります。

 

 また、せっかく演劇が再開されたにもかかわらずどこかの劇場が感染者を出すと、それとばかりに劇場や、役者の名前を挙げるのはおやめなさい。彼らも同様に被害者ではありませんか。

 握手をしたり、過剰な接触をしたことは役者も間違っていますが、これを針小棒大にマスコミが取り上げると、せっかくの演劇活動が委縮します。そもそも、100人程度の劇場の公演には衛生管理にも限界があります。そこへ出かけるなら、出かける人も、自らが気を付けなければいけません。更にそこで感染したとしても、風邪がうつったことと同じです。大騒ぎする話ではありません。寝ていれば治ります。

 最も危険なことは、演劇を見に行くことではなくて、首都圏の電車に乗ることです。毎回、コロナウイルスの感染者の発表で、百人くらい未確認の感染者が出ますが、どこで感染したかは、マスコミも、政治家も医者もみんなが知っています。答えは電車です。山手線、中央線、京浜東北線、私鉄の各線。これらのラッシュアワーにもまれれば、間違いなく感染者は増えます。

 つまり電車を止めれば、感染者は覿面に減らせます、然し、経済を動かすためにはそれができません。できないなら、出来ないと素直に仰い。小さな芝居小屋で何人感染したなどと言う些末な話で役者をいじめることはおやめなさい。弱い者いじめをして、問題の根源を隠すことはおやめなさい。

 実態は毎日の通勤電車でとんでもない数の感染者を増やしているのです。東京に感染者が集中するのは、東京都民が不摂生な生活をしているからではありません。万やむを得ず山手線に乗らなければならないからです。然し、結果として、その感染者がみんな保菌者となって、むしろコロナウイルスの蔓延を抑えているのです。抑えているから日本人はアメリカほどには感染者も死者も増えないのです。

 こんな手品師でもわかるような話をマスコミも、政治家も、医者も大学教授も平気で焦点をぼかして話をしていてどうしますか。もういい加減コロナウイルスで大騒ぎをすることはおやめなさい。このまま日本人を煽って、日本人を家に閉じ込めてばかりいては、日本の企業が半分以上倒産してしまいます。コロナは所詮風邪だと知って、騒がず見守ることが第一です。

続く

 

一蝶斎の風景 5

 今日は神田明神の地下一階の舞台で手妻のショウをいたします。全部客席を作れば150人位入るいい劇場です。但し今は、ウイルスによって席数を制限して、30人程度の入場にしています。こんな規制をされることは残念です。然し、ご興味の方はお越しください。お弁当はもう間に合いませが、ショウをご覧になるのでしたら3000円です。

 

二羽蝶の発想 

 蝶を二羽にしたと言う発想は、斬新なものでしたが、二羽蝶は一蝶斎のオリジナルかと言えば、そうではなかったと思います。私は、蝶の芸には初めから予備蝶があったのではないかと思います。蝶の演技は、何かの都合で風で蝶が遠くに飛んで行ってしまうことなどが結構あります。その時、咄嗟にもう一羽蝶がないと興がそがれます。

 大阪の帰天斎派の蝶が、二羽蝶を演じる際に、お椀を使って、蝶に水を飲ませるくだりがあります。水飲みの形です。帰天斎派では、そこから突然二羽目の蝶が生まれ、蝶の連れ舞になります。

 この二羽蝶にするお碗の段は、元々、谷川定吉の演じた古い型では、予備蝶を入れておいたのではないかと思います。恐らく一蝶斎は何度か予備蝶を使ううちに、予備を使うことで二羽にするアイディアを思いついたのでしょう。

 実際一羽から二羽になると、お客様の反応がパッと変わります。急に客席が明るくなるのです。二羽になったとたん男女の関係が生まれたことが誰にもわかるのでしょう。一蝶斎も、二羽蝶を演じて、観客の反応がはっきり変わったことを悟ったはずです。ここから、一蝶斎は、蝶の演じ方を変えていったのだと思います。すなわち、ただ、型できれいな飛び方を見せていた芸から、人の心の奥を語る蝶になって行ったのです。

 

 蝶が、型をなぞることで様々な情景を見せていたものから、人生を語ることになったと言うのは、演芸の世界から芸術を語り始めたと言うことなのです。時あたかも文政年間。1820年代のことです。先に進む前に、少しこの時代の人物を比較してみましょう。

 

化政時代の日本は芸術の先進国

 一蝶斎は、天明7(1877)年生れ。谷川定吉から蝶を習ったのは、文政2(1819)年。一蝶斎に改名したのは、文政3(1820)年。二羽蝶を飛ばしたのは、文政5?(1822)年頃。死去したのは、明治2(1869)年。

 一蝶斎は、音楽家で言うなら、べートーベン、ロッシーニとほぼ同時代の人で、

 ベートーベン、1770年生れ、1829年死去。

 ロッシーニは、1792年生まれ、1868死去。

 つまり一蝶斎を西洋音楽家と比較したなら、古典派から、ロマン派の最盛期の時代に活動したことになります。

 ベートーベンの晩年の大曲、第9交響曲の発表が1824年です。1824年と言うと日本史との結びつきはピンときませんが、一蝶斎の二羽蝶を発表した文政5年の2年後。すなわち文政7(1824)年と考えると面白いと思います。西洋音楽が初めて、音楽に哲学を取り入れた時代に日本では、一蝶斎は手妻に哲学を取り入れていたのです。

 文化文政期の日本の芸術の成熟度は、世界と比べても最先端にあったでしょう。ざっと当時の芸術家の活躍年代を並べても、

 北川歌麿は、宝暦3(1753)年生まれ。文化3(1806)年死去。

 葛飾北斎は、宝暦10(1760)年生れ、嘉永2(1849)年死去。享年88

 歌川(安藤)広重は、寛政9(1797)年生まれ、安政5(1858)年死去。

 

 北斎などは88まで長生きをしましたが、その名を不動のものにした「富岳三十六景」は文政6(1823)年、実に63歳の発表です。奇しくも、一蝶斎の二羽蝶と重なります。

 日本の浮世絵と比べると、西洋絵画はずっと遅れて発展をします。絵画の中に自己を見つめると言う、ただそれだけのことが簡単ではなかったのです。印象派のモネや、ルノアールセザンヌ、などが活動するのは1860年代です。しかも当時のフランス画壇は彼らに懐疑的で、1860年のパリサロンでは軒並み印象派の画家を落選させています。

 あまりに極端な差別をしために、同情したのは、当時の皇帝ナポレオン3世で、皇帝は、印象派の画家を気の毒がって、落選画家のための展覧会を開催します。これは好評で、多くの観衆を集めました。この催しにより印象派は大きく認められるようになります。1860年代のことです。因みにこの時、ゴッホはまだ7歳でした。

 つまり、日本ではすでに多くの芸術家が一生を終えていたころに、ようやく浮世絵に啓発された西洋画が、改革を始めたわけです。

 

水野忠邦の暗黒政治

 江戸文化が花開いた、化政時代と言うのは、文化元(1804)年から文政13(1830)年までを指しますが、その後の天保期も江戸文化はずっと花開いていました。水野忠邦が現れて天保の改革天保12年)が始まるまでは、大衆は江戸文化を享受していたのです。水野忠邦の改革は、江戸の文化をたちまちひっくり返し、暗黒政治が始まります。

 滑稽本などで、政治を批判した多くの文人が牢獄につながれ、歌舞伎の大改革を行った七代目団十郎は江戸を追われて江戸の芝居小屋に出られなくなります。その芝居小屋は、日本橋の境町、葺屋町を追われ、浅草猿若蝶にそっくり移転になります。浅草は今日では東京の中心ですが、天保時代は郊外です。

 軒並み有名な芸術家が捉えられ、罪とは言えないような罪を着せられて投獄されるのを見て、一蝶斎は身の危険を感じるようになります。そこで、江戸から離れる決意をし、名古屋、京、大坂、西国を回り、広島の宮島歌舞伎にまで興行して回り、3年間江戸を離れます。

 江戸時代になると早くから興行のルートが出来て、興行主も現れて、西、東の芸人、役者が往来するようになります。また、地方の祭礼などと結びついて、大小の興行が切れ目なく手に入るようになっていましたので、芸人たちは地方、中央を一回りするだけで大きな収益を上げていたようです。

 ちなみに地方興行のことをドサ回りと言いますが、これは佐渡ヶ島が江戸初期に金が豊富に取れたための、一時期相川の町は10万人の人が集まり繁栄していました。そこへ出かけて芝居をすると、給金が江戸の二倍、三倍稼げたと言うので、みんな佐渡佐渡へと草木もなびいたわけです。然し、佐渡まで行くと言うと都落ちをするようで聞こえが悪いため「ちょっとドサに行ってくる」。と、言ったのが始まりだそうです。

 当時の一蝶斎は、蝶だけではなく、怪談手品や、衣装変わり、水芸の原型とも思われる作品まで演じていましたので、一座の裏方表方を合わせると20人くらいはいたのではないかと思われます。道具立ては大きく、2トンや3トンはあったと思われます。それらを運んで興行することは簡単なことではなく、かなり早くからコースを決めて、興行先と交渉をして、移動手段まで工夫しなければならなかったでしょう。

 私はこの3年間に及ぶ西国興行にとても興味があります。然しわからないことだらけです。明日はその分かっている部分と私の推測を交えて、お話ししましょう。

続く

 

 

 

一蝶斎の風景 4

 明日はまた,神田明神の公演です。近くの料理屋から取り寄せた鯛めし弁当が好評です。弁当付き5600円。但しお弁当は事前申し込みが必要です。ショウを見るだけでしたら3000円です。12時開場です。

 明後日、18日から関西方面に指導に行きます。毎月の指導と、神田明神や、玉ひででの舞台。他にパーティーなどがあって、何とか私は、生きて行くことはできます。多くの実演家の苦労を思えば、私は恵まれていると思います。

 昨日夕方、前田知洋さんから電話がありました。急に私と話しがしたかったそうです。声を聞くのは数年ぶりです。今年の正月のブログに築地新喜楽の座敷の話が出て来ますが、当時デビューして間もない前田さんに、座敷の仕事を紹介した話が出て来ます。たまたま前田さんがそれを読んで懐かしくなって電話してきたそうです。全ては30年前のことです。いいですね、こうして同じ世界で30年生きて来て、成熟した仲間の付き合いができるようになって話ができるのは互いが幸せなことです。

 昨日の夕方に、澤田隆治先生から新刊の本が届きました。「永田キング」さんの物語。かなり分厚い本です。80歳を過ぎてここまでの創作活動をされることに敬服します。また私のようなものにまでご本を頂いて、そのご配慮に感謝です。明後日からの指導の旅に出ますので新幹線の中で読んでみようと思います。

 

柳川一蝶斎誕生

 一蝶斎は、近江屋庄次郎から柳川一蝶斎に改名して、心機一転、活動を始めます。この改名がいつなのかははっきりとはわかりませんが、蝶を習った翌年、文政3(1820)年くらいではないかと思います。物の資料によると、一蝶斎は、若いころは柳川蝶之助を名乗っていたと言う資料がありますが、それは間違いです。一蝶斎は初代です。我々の知る一蝶斎より以前に一蝶斎はいません。

 

 昨日お話ししたとおり、一羽の蝶を飛ばすことに人生を賭けようと決意したからこそ、一蝶斎と名乗ったのであって、これ以前に一蝶斎はいないのです。蝶之助と言う名前の「之助」と言うのは、之(これ)を助ける、と言う意味ですから。一蝶斎を補佐する立場の者が名乗る名前です。つまり、初めに一蝶斎がいなければ蝶之助は成り立ちません。近江屋庄次郎は、谷川定吉から蝶を習い、そしてこの芸一筋で生きて行こうと考えて、一蝶斎に改名したのです。

 この時、定吉から習った蝶も、鈴川の家に伝わる蝶も、一羽の蝶を飛ばすのみです。一蝶斎以前の蝶の芸は全て、一羽の蝶を飛ばしながら、情景を語って行くものだったわけです。扇を広げて平らに持って、須磨の渚を表現したり、扇を斜めに立てて、月に見立てて夕暮れに舞う蝶を表現したり、扇を畳んで立てて持って、船の帆柱に留まってしばし羽交(はがい)を休める蝶、などとそれぞれの情景を見せていたのです。然し、この後、一蝶斎の工夫改良によって蝶の芸は徐々に変化して行きます。

 ところで、谷川定吉はその後どうなったのでしょう。江戸で人気を博し、その後大坂に帰ったようですが、肝心の大坂には何一つ資料がありません。その後のことは全く消えています。芸の考案者と名を挙げる人は別の人なのでしょうか。

 ここで私は谷川定吉に対しては少し酷な言い方をしますと、定吉が作り上げたのは技法の工夫です。その後、一蝶斎が蝶の元祖のごとく崇められるようになったのは、彼が作り上げた世界観です。

 一蝶斎は谷川定吉から習った蝶で一躍江戸一番の手妻師になります。しかし本当に彼の真価が発揮されるのはこのあとです。一蝶斎は、定吉の型にとどまることをせず、やがて二羽蝶を考え出します。

 

情景描写から、哲学へ

 二羽蝶への発展はいつだったのか、これも詳しいことは分かりませんが、手掛かりは見つけました。一蝶斎のビラ絵に二羽蝶を飛ばしている一蝶斎の絵があります。これがいつのビラかははっきりしませんが、確実なことは、一蝶斎の頭にまだ髷(まげ)が乗っていることです。一蝶斎は、歩いているだけでも婦女子が集まってくるような、いい男だったのですが、唯一の悩みは、若くして毛が薄くなって来たたことでした。30代末にはもう殆ど髷が結えなくなり、その後はさっぱり頭を剃ってしまったようです。

 ビラに髷が描かれていて、二羽蝶を飛ばしている絵があるとするなら、30代半ばで既に二羽蝶を飛ばしていたのでしょう。そうなら、定吉の蝶から、自分の型を作るまで、案外短時間で仕上がったことになります。

 然し、読者諸氏は、一羽の蝶を飛ばせる手妻師なら、二羽を飛ばすことくらいさほど難しいことではないだろうと思われるかも知れません。実際技術的にはそう難しい技ではありません。然し、一羽の蝶から二羽に至る道のりは簡単ではなかったのです。一蝶斎以前の約200年間に、二羽の蝶を飛ばして見せた手妻師はいなかったのです。

 それはなぜか。一羽蝶なら情景描写の芸です。綺麗にそれらしく飛ばしていれば拍手喝采です。然し二羽は違います。二羽蝶が語る内容は人生であり、夫婦愛です。

 つまり蝶はなぜ飛ばなければならなかったのかの意味を考えたのです。蝶はまるで遊んでいるかのように、京の街中の公家の奏でる横笛に留まり、比叡山の山越えをし、下る道々石山寺の梵鐘を聞き、琵琶湖の途中、浮かぶ船の帆柱で羽交を休め、さて、今日中に急ぎ吉野まで飛ぼうかと考えていたのですが、なぜそんなに急いであちこちを飛んでいたのかと言えば、自らの限られた時間の中で最良の伴侶を探すためだったのです。もう残された時間はわずかです。そこでまだ見ぬ伴侶に巡り合えるか否か、蝶は小さな体を駆使して伴侶を探し求めていたのです。

 そしてめぐり逢い、二羽は結ばれます。然し、幸せは長くはなく、やがて寿命を迎えます。その短い逢瀬を喜び、精いっぱい生きる蝶に当時の江戸っ子は感動したのです。

 決してマジックの些末な技術を見て、人が感心して、話題になったわけではないのです。多くの人の心に染み入るストーリーを拵え上げたからこそ、二百年後にまでその名を残す手妻師になったのです。ここがわからないと一蝶斎の偉大さは見えません。

 さて、一蝶斎は二羽蝶を見つけてそののち、何を考えたのか、その答えは明日、私が神田明神の舞台で蝶を飛ばしますので、実際ご覧になってはいかがでしょうか。

 続く

一蝶斎の風景 3

  昨日は、大樹や前田やザッキーさんと写真撮りをしました。一般的に使う顔写真と舞台写真です。前田もいい着物で紙卵や煙管(きせる)を持って写真を撮りました。まだ前田は手提げ式の引出しを持っていませんが、煙管を咥えて構えた写真を撮りました。やってみたかったのだそうです。密かに私のやる演技にあこがれを持っていたようです。無論いずれは譲ります。

 撮影終了後、ザッキーさんが私と話したがっているようでしたので、高円寺まで戻り、アトリエで話をしました。元々、ザッキーさんはプロになりたい思いが強いようですが、この一年、私からマジックを習えば習うほど、自身の技量の未熟に気づき、これでプロとして生きていけるのかどうか不安を感じたようです。そこで、一度相談に乗ってあげようと、昨日、時間を取って話を聞きました。

 大樹や、晃太郎も、入門前にはこんな風にして相談をしに来ました。誰かが話し相手になって、今の当人の立場に立って心の奥を聞かない限り、彼らの思いは一歩も前に進みません。今が一番大切な時期なのです、しみじみ話を聞きました。こんな日が人生にあることは当人にとって重要です。たった一つの人生を芸能に掛けるか否かは大きな決断なのですから。

 

一蝶斎の独立、谷川定次との出会い

 江戸時代の手妻師の歴史などと言うものを、どれだけ現代の人が好んで読むのか、と思いつつ書いていますが、毎回300人近くの人が見に来てくださいます。100人を切ったらやめようと思っていたのですが、300人と居るなら、続けようと思います。

 

 文政元(1818)年、鈴川春五郎が急死します。この時一蝶斎は32歳。一門の中ではすでに幹部だったでしょう。三代目を継いだ春五郎は、年齢不詳、一蝶斎よりは少し年上かと思われます。その三代目春五郎と、跡目争いで揉めた春瀧は8歳。人気芸人ではあっても8歳では一門をまとめることは無理でしょう。三代目は怪談手品も継承し、鈴川を維持して行きますが、人気の点では、一蝶斎のほうがはるかに高かったでしょう。

 この時、恐らく一蝶斎は、鈴川の跡目争いに嫌気がさしていたのでしょう。以後、鈴川一門とは少しずつ距離を置くようになったようです。元々近江屋の跡取りになっていたわけですから、本家のことには口出しのできない立場だったのでしょう。

 このころの、一蝶斎は、小さな一座を持って、興行していたようです。怪談手品も演じていたようですが、一蝶斎は、鈴川の家の芸の中の「蝶の一曲」がことのほか気に入り、頻繁に演じていたようです。元々いい男の一蝶斎が、優雅に蝶を飛ばせば、雰囲気は十分で、人気も高かったようです。

 然し、春五郎が亡くなった翌年。文政2(1819)年に大坂から谷川定次と言う手妻師が江戸に下って来て蝶を演じます。これがあまりに見事で江戸中の話題をさらいます。

江戸の興行街の中心は、葺屋(ふきや)町、堺町の二町です(今の日本橋人形町の近く。中村座市村座など千人も入る大きな芝居小屋が軒並み並んでいました)。

 葺屋町に谷川定吉が妻、しげ野を連れて曲芸や手妻を演じます。その中の「浮かれの蝶」が話題となります。それまで蝶を演じていた一蝶斎は、自分を超えた蝶など存在するはずはない、と自負していたでしょう。早速葺屋町へ出かけました。

 浮かれの蝶は、それまで順風満帆で生きて来た一蝶斎が初めて味わった挫折だったと思います。そもそも、旧来の蝶は、ヒョコから独立して生まれた芸で、ヒョコとは、古代の式神が原型と考えられます。つまり、紙で作った人形が演者の号令とともに突然立ち上がり歩き出したり。羽織の紐が、蛇のように動き出したり。紙で作った相撲取りが相撲を取ったり、そうした演技の中で、紙で蝶を作って飛ばしていたのです。

 この方式では、自分の前に台箱(みかん箱サイズの小さな箱、昔のマジックテーブル)を置いて演じないとできません。ほとんどは台箱の上で演技が進行します。蝶だけは空中を舞いますが、それでも台箱から離れて演じることが出来ません。

 鈴川では、ヒョコの芸から蝶の部分だけを独立させて、「蝶の一曲」として一芸に仕立てました。歴史の上では、この型のほうが古く、長い間、蝶はヒョコの一芸として演じられていました。この方式の欠点は、芸が小さいことです。ほとんどは小さな台箱の上で演じます。ところが、谷川定吉の蝶は、舞台上で蝶をこしらえるとすぐに扇に止めたり、扇を広げて地紙の上に止めたり、型を見せながらも動いてあちこちを飛び回ります。終いには花道をぐるっと一回りして、お客様の頭に上を悠々と蝶が舞いながら舞台に戻ってきます。お終いは、蝶を手にもみ込んで「吉野の山は散り桜」と言って吹雪に変えて終わります。

 恐らく一蝶斎は声も出なかったでしょう。すぐに楽屋見舞いを持って挨拶に行ったと思われますが、気持ちは落ち込んでいたでしょう。

 然し、一蝶斎はすぐに定吉を座敷に招待するなどして、懇意になり、蝶の指導を求めます。ここは全く私の推測ですが、貞吉から蝶を習うことは困難を極めたはずです。何しろ当時の最新式の演技ですし、定吉自身の得意芸です。容易に襲えるはずはありません。あらゆる手段を使って、貞吉の心をほぐして行ったのでしょう。そして、ようやく定吉の了解を取ります。

 思えば、春五郎が前年に亡くなっていたことは幸いでした。家元が生きていては、他流の芸は容易には習えなかったでしょう。春五郎が亡くなって、鈴川の家が跡目争いで揉めているさ中であったがゆえに容易に習えたわけです。一蝶斎の人生には、こうした幸運が何度も訪れます。一蝶斎が谷川定吉から蝶を習ったことは当時としては公然の事実だったようで、いくつかの文献にも出て来ます。

 ここで一蝶斎は、蝶の芸を自身の演技の柱に据えて生きて行くことを決めます。時期は定かではありませんが、名前も改名して、柳川一蝶斎と改めます。完全に鈴川の流れから決別したのです。この柳川と言う名前が一蝶斎以前からあったのかどうかは分かりません。然し、柳川と言う流派を起こし、さらに一蝶斎と言う、蝶に専念する名前を名乗ったことは一蝶斎の大きな決意の表れと思われます。その名前の由来に関してはもう少し詳しく明日、お話ししましょう。

続く

 

 

一蝶斎の風景 2

 今日(14日)は、私と大樹と前田とザッキーとで舞台写真を撮りに行きます。私は、2年に一度くらい新しい写真を撮っていますが、今回は、玉ひでさんの座敷をお借りして、スタジオとして取ります。こうした日もまた楽しいものです。

 そのために、朝から出かけなければなりません。その間を縫って、ブログを書きます。忙しいのですが、必ず仕上げます。

 

春五郎との出会い

 一蝶斎が12歳くらいで三遊亭円生の弟子に入ったと書きましたが、師匠である春五郎も実は、子供のころに三遊亭円橋に弟子入りしている。実は、この円橋は円生の弟子です。春五郎は円生の弟子に弟子入りして、口慣らしを始めたことになります。

 私はここから想像して、一蝶斎は、落語をする以前から、かなり早くに春五郎に接触していたのではないかと思います。むしろ春五郎から、「舞台で生きるなら、洒落た話くらいできなけりゃあいけないから」。と言われて、大師匠である円生を紹介してもらったのではないかと思います。

 円生は三遊亭一門の大師匠ではありますが、円生と弟子の円橋、それに春五郎は共に、そう年は離れていなかったようです。今日でいう子弟の感覚とはずいぶん違うものだったようで、仲間同士が気軽に教えていたのではないかと思います。

 ともかく、一蝶斎は初めに春五郎とつながりがあって、そこから円生を紹介してもらい、円生に話を習う傍ら、春五郎から手妻を学んでいたのではないかと思います。ではなぜ春五郎は一蝶斎をそこまで面倒見たのかと言うことですが、実は、一蝶斎は子供のころから、スーパーアイドル並みのいい男だったのです。

 一蝶斎は生涯、最晩年に至るまでその容貌を人から褒められています。晩年に海外からの外交使節が日本に来て、一蝶斎の手妻を見たときに、「日本人の中で一番秀麗な顔立ち」、と評しています。一蝶斎は背が高く(170㎝くらいはあったらしいです)、顔だちは面長で、眉がまっすぐに伸びていて、目は切れ長で、大きく、鼻筋が通って、口は締まっていた。現代で言うなら市川海老蔵さんのような感じではないかと思います。

 海老蔵さんのような顔をした子供が町内を歩いていたならそれは目立ったでしょう。恐らく芝居からも引き合いが来たと思います。しかしなぜか一蝶斎は手妻に興味を持ちます。そこには春五郎の人柄が大きく作用したのだと思います。春五郎は自分の家に一蝶斎を連れて行き、年の近い弟子たちが踊りや、鳴り物を稽古している姿を見せたのでしょう。やがて一蝶斎が興味を持って弟子入り希望してきたのでしょう。

 この時点で、一蝶斎が易々と芸人の世界に入って来れたのは、既に、両親がいなかったからなのかも知れません。何らかの理由で、両親を亡くしたか、或いは、親の家を出なければならず、春五郎の世話になるしかなかったのでしょう。春五郎としても、そこにいるだけで話題になるような少年ならなんとしても欲しかったでしょう。

 と言うのも、この時代の芸人は、親類縁者の中から芸人を育てて行く場合が多く、技の巧い拙い、顔だちの良し悪しなどは二の次で、決して見た目の良い子ばかりがいたわけではなかったはずです。そうした中で、春五郎は、人の話題になるような子供が欲しかったのだと思います。まさに一蝶斎は、春五郎の望んだ子供だったと言えます。

 

 と、ここまで私の推測でどんどん書いてしまいましたが、実際の資料では、15歳の時に、近江屋庄次郎の弟子になっています。この近江屋庄次郎と言う人が謎の人です。

 私がこうして200年以上も前のことをあれこれ述べているのは、「落語系図」と言う本が元になっています。落語系図は落語家の代々を調べて書いたものですが、そこに、手妻師や、義太夫語りなどについても書かれています。但しこの本はあまり信憑性(しんぴょうせい)はありません。時系列などがずいぶん違っています。そうした中でも、信じられる部分だけ抜き出して考えています。その中で、一蝶斎に関しては、かなり多くのことが書かれています。

 先ず近江屋庄次郎の弟子になったこと、,庄次郎の娘の小蝶を嫁にしたこと、二代目近江屋庄次郎を襲名したこと。この三つは事実であろうと考えます。しかも、この三つのことは、当時としては誰もが知っていたことだったろうと思います。

 後年、蝶で名を挙げる一蝶斎の、妻の名が小蝶と言うのは、因縁を感じさせます。更に、一蝶斎に関する資料に妻小蝶と女房まで書かれているのは珍しいことで、他の芸人には妻の名前は出て来ません。それだけ一蝶斎は話題の人であり、一蝶斎のお陰で、師匠の近江屋や、女房までが光が当たったのでしょう。

 その近江屋庄次郎と言う人がどんな手妻をした人なのか、これがさっぱりわかりません。落語系図にも、手妻師であるとは書かれていますが、何をした手妻師かが書かれていません。しかし、人に代を譲りたいと言うくらいの家なら、何か残したいものがあったはずです。さてそれが何か、どこかに手掛かりがないかと落語系図を見ていると、一つ怪しい点が発見されました。

 近江屋庄次郎だけが、「手妻の業をする」。と書かれています。今は芸能も立派な職業ですが、江戸時代は芸能は遊びの世界とみなされていて、自他ともに、手妻の業とは言わなかったでしょう。他の手妻師や義太夫の大夫、新内等をすべて見ても、業をするとは書かれていません。どうも、近江屋庄次郎だけが特殊で、手妻は手妻でもプレイヤーではなかったのではないかと思います。

 プレイヤーでなければ何かということですが、それは手妻の種を作る、からくり細工師だったのではないかと思います。名前の近江屋と言う屋号そのものが第一、店を構えていそうな気配です。そして、春五郎は、怪談手品を得意にしています。怪談手品をするためには、様々なからくり細工が必要です。近江屋は春五郎の手妻のからくりを一手に引き受けていた細工師なのではないかと思います。そして、庄次郎が何らかの理由で、隠居をしなければならない状況に陥ったか、或いは余命幾ばくも無い状況に陥って、すぐに後継ぎが必要だったのでしょう。

 春五郎は、一蝶斎を近江屋の婿養子にして、近江屋を継がせたのだろうと思います。そしてからくり細工は弟子たちに任せて、当人は手妻の舞台に出ていたのでしょう。

 さすがに一蝶斎を職人の仕事場に押し込んで物作りに専念をさせるのは勿体なかったのでしょう。一蝶斎も舞台に出ることを望んでいたと思います。

 こうして、一蝶斎は、からくり細工師の家を継ぎ、その上で舞台に立って、人気の手妻師になって行ったのだと推測します。但し、これはあくまで私の推測です。然し、そうでないと、一蝶斎が鈴川春五郎の家の芸を継承しつつ、近江屋の名前を継いだ理由がわからなくなります。ここは、春五郎と近江屋が切っても切れない関係にあったこと。あくまで一蝶斎は春五郎から手妻を習っていたこと。その二つを統合した上で矛盾がないように考えると、近江屋のからくり細工師の話はまんざら空想でもないと思います。

続く

一蝶斎の風景 1

 昨日(12日)は一日ブログを休んでしまいました。一昨日(11日)7人の若い人たちを指導しました。その後もしばらく長い話をしまして、その晩は少々疲れました。それでも、若い人に指導することはとても自分自身にいい体験になります。

 指導をしながらも、自然自然に自分がマジックを習った10代20代のことが思い出されます。思い出しつつ教えていると、「あぁ、あの時はこうすればよかった」。「こう考えるべきだったんだ」。「教えてくれた先生にはこう接するべきだったんだ」。などと自分の過去の間違いに気づきます。

 今になって、40年も50年も前のことを思い出して、反省しても意味はないように思えますが、それでも、事の本質に気づいたときに、自分自身が一つ成長したような気持になります。間違いに気付くことに遅いも早いもありません。気付いたことは自分の宝物です。教えること、学ぶことは年齢に関係なく大切なことだと痛感します。

 

 一昨日に、アトリエのクーラーを新規に買い替えたのですが、私が100vと200vを間違えて大きなクーラーを注文してしまい、取り付け不可になってしまいました。結局、古いクーラーは取り外したのですが、新しいほうがいまだ届きません。新たな取り付けは16日になります。その間アトリエは暑いままです。

 このためアトリエに長時間籠(こも)ることが出来ず、昨日はブログを休んでしまいました。今日は朝は涼しいため、ブログを書いています。あと3日間涼しさが続けば、ブログは続きます。一蝶斎は書きたかった手妻師ですので、書いていて楽しくて仕方ありません。これは私の趣味であり、ライフワークです。

 

一蝶斎の風景 生い立ち

 江戸時代の手妻師を書き続けて来て、ようやく一蝶斎と出会います。そこで心からほっとします。と言うのは、手妻師の記録と言うのはほとんどありません。手妻の家元、春五郎ですら、全ての資料を集めても、原稿用紙半分くらいの資料しかないのです。

 しかしさすがに一蝶斎となると、資料の数はかなりあります。一蝶斎が生前如何に人に愛され、その手妻が人気であったかが多くの資料から偲ばれます。

 しかしそうは言ってもわからないことは山ほどあります。先ずいつ生まれたのかがわかりません。両親が誰で、親は何の仕事をしていたのかもわかりません。細かく見たならわからないことばかりなのです。

 彼の演じる手妻は、蝶を飛ばす芸で、一蝶斎は蝶に一生を捧げ、蝶の芸を今日の形に完成させました。然し、それだけではありません。大道具、小道具あらゆる手妻を手掛けています。この人のカテゴリーを手わざの芸人と捉えるのは間違いで、オールマイティなマジシャンだったわけです。まぁ、前置きはこれぐらいにして、少しづつお話ししてゆきましょう。

 

生まれは

 まず、いつ生まれたかわからないと申し上げましたが、彼の人生を考えると、おおよその年齢はわかります。先ず天保13(1842)年に一蝶斎を見た、文筆家の信夫恕軒は、「あの時、一蝶斎は50代半ば」、と言っています。そのすぐ後に、一蝶斎は天保の改革を恐れて、西国(名古屋、京、大坂など)の興行に数年間出ています。子供だった恕軒が見たとするなら、天保13年です。

 西国から帰って、弘化4(1847)年に浅草で、柳川一蝶斎から、柳川豊後大掾(ぶんごだいじょう)に改名披露をします。この改名披露と言うのは、ただ単に名前を変えたこととは違います。これは一蝶斎がずっと以前から考えていたことで、自らの還暦(60歳)の祝いに、養子に二代目一蝶斎を譲り、その後は、京の公家から買い取った官位、豊後大掾を名乗ったのです。このことは後で詳しくお話しします。

 と、するなら弘化4(1847)年は60歳か、もしくは59歳(昔は数えで年を数えますから)。更に、彼が亡くなった明治2(1869)年は、相当高齢であったと記録されています。亡くなる何年か前に一蝶斎を見た人が、70代の後半だったと書いていますので、無くなった時は80代だったと思います。50になると老衰で死んでいた当時の日本人からすれば、80まで生きたことは特筆すべきことです。

 ここから逆算して行って、仮に、天保13(1842)年が55歳だったとしたなら、弘化4(1847)年が60歳は正解です。そして亡くなった明治2(1869)年は82歳。これも正解となります。そうなら生まれた年は、天明7(1787)年と言うことになります。誰も一蝶斎の生まれ年を突き止めた人はいないので、これは根拠のある説として捉えていただきたいと思います。

 さて天明は、江戸の中期に当たります。興行に関しては、なかなか難しい時代で、元禄のようないい稼ぎはできなかった時代です。然し、いろいろな芸は出そろっていて、これから後に、文化文政時代を迎えると、江戸文化が花開いて行くことになります。

一蝶斎の資料では、落語家の初代三遊亭円生の弟子に入り、萬生を名乗る、とあります。いつ噺家の弟子になったかと考えると、12歳くらいではないかと思います。と言うのもその後程なくして享和2(1802)年、手妻師の近江屋庄次郎の弟子になっています。享和2年は、一蝶斎は15歳です。少なくともこの前に、噺家の弟子になっていなければ数が合いません。なぜそんな短期間、噺家の弟子になったのでしょう。実は、鈴川春五郎も子供のころにほんの数年、噺家の弟子になっています。

 私が想像するに、これは本当の徒弟に入ったわけではなかったのだと思います。この時代、芸能を目指す子供たちは、舞台で話をするための口慣らしのために、噺家に小話を習いに通っていたのでしょう。

 実はこの時代、本当の意味でプロの噺家と言うのはほとんど存在していません。みんな副業を持って、夜だけ寄席に出ているような状況で、なかなか噺で食べて行くことはできなかったのです。徒弟と言っても厳密なものではなかったでしょう。子供に小話を教えると言うのも、わずかばかりの小遣い稼ぎにしていたのだと思います。

 それでも、舞台で、咄嗟に面白いことが言えると言うのは大きな武器になりますから、舞台を目指す子供たちは、まず噺家に小話を教えてもらいに行ったのでしょう。恐らく授業料もわずかなものだったはずです。

 そうして口慣らしをして、手妻師と知りあい、手妻を習うううちに、師弟関係を結び、手妻師になって行ったのでしょう。但し、一蝶斎の師匠が、近江屋庄次郎であるか否かについては私は一つ異論があります。そのことについてはまた明日。

続く

一蝶斎以前 江戸中期の手妻 2

 私は柳川一蝶斎の人生に興味があって、10年ほど前に小説を書きました。然し、話は半ばで止まっています。なぜ止まったかと言うと、かなり膨大な内容ですので、こんな小説を誰が買って読んでくれるかと思うと、先が進まなくなってしまったのです。

 私は50歳で糖尿病になった時に、家で酒を飲むことをやめました。酒をやめると、血糖値は覿面に下がりました。下がったのは幸いですが、毎食後、することがありません。そこで小説や、書き物をすることを思い立ちます。毎晩数時間。調べ物をして、それをまとめます。「そもそもプロマジシャンと言うものは」「手妻のはなし」「天一一代」「種も仕掛けもございません」「たけちゃん金返せ」一連の作品は、たけちゃんを除けば、50代の10年間に書いたものです。一蝶斎もその流れです。

 調べて行くと、一蝶斎以前の手妻師のことも分かってきました。私は、自分が手妻に関わっている以上、何とか、手妻の世界で功績のあった人達をうずもれさせては申し訳ない。少しでも世に出してあげたい。と考えるようになり、一蝶斎の小説に、鈴川春五郎や、養老瀧五郎など、ごちゃごちゃと書き込んだのです。結果、小説が1000枚を超える内容になり、まとまりがつかなくなってしまいました。

 話は前後して、私の「手妻のはなし」を読まれた作家、蒔田光治先生が飛び加藤のストーリーをこしらえて、筧利夫さんがシアタークリエで演じました。これに手妻の指導をしたのが私です。しかも、劇中に手妻師役で、出演し、一か月間、役者をいたしました。その役名が鈴川春五郎でした。飛び加藤と鈴川春五郎では時代が合わないのですが、そこは小説です。これも何かのご縁と、春五郎を演じました。浅からぬ縁の春五郎さんをそのまま放って置くのも勿体ないと、このブログにも書くことにしました。

 

 鈴川春五郎、三代目春五郎、養老瀧五郎、

 春五郎が、大道具の手妻師で、鈴川と言う大きな流派の頭(かしら)であることは前回書きました。この人は、才能のある子どもたちを見つけるのがうまかったようで、その流れの中で一蝶斎や、後の三代目になる弟子や、天才子役の養老瀧五郎など、数多くの弟子を育てます。そして弟子はいずれも次の時代のスターに成長してゆきます。ということは、おのずと春五郎の技量も大きなものだったと推測できます。

 数ある弟子の中では三代目春五郎が古く、技量も優れていたのかと思われますが、何分瀧五郎と、一蝶斎の名前が大きすぎて、三代目は今では霞んでいます。春五郎の家は、たぶん、大きな稽古場を持ち、子供たちを常に5,6人は抱え、毎日鳴り物や、踊り、手妻や曲芸の稽古をさせ、そこに道具作りの職人が来たり、地方の興行師が訪ねて来たり、朝から晩まで来客が絶えず、賑やかな家だったと思います。

 一蝶斎と春五郎が師弟関係であったと言う証拠はありません。ただ、一蝶斎の演目に、「怪談手品」があることと、一蝶斎が得意とする蝶の芸の呼び名が、鈴川と同じ、「蝶の一曲」であると言うことから考えるなら、明らかに芸の継承があったと考えられます。一蝶斎はその後、大坂からやって来た谷川定吉から「浮かれの蝶」を習います。

 「蝶の一曲」と「浮かれの蝶」は仕掛け、演じ方がずいぶん違います。一蝶斎が世に出られるようになったのはひとえに谷川定吉から蝶を習ったお陰です。然し、一蝶斎は、晩年に至るまで自身の演じる蝶を「蝶の一曲」と言っています。谷川定吉は、一蝶斎の恩人ではありますが、それ以上に、春五郎に蝶の手ほどきをしてもらったことは一蝶斎にとっては大きな恩だったのでしょう。春五郎と一蝶斎は明らかに徒弟の関係だったと言えます。

 その春五郎の晩年に天才子役が弟子入りします。文化8(1811)年頃の生まれと思います。恐らく6歳くらいで弟子入りしたと思います。物覚えがよく、愛嬌もあったのでたちまち舞台に出して人気を集めます。まだいくつも芸を覚えていないにもかかわらず、人気が先行し、こののち、文政2(1819)年には江戸城に招かれて、将軍の前で技を披露しています。この子供を春五郎は格別に可愛がり、春瀧(はるたき)と言う名前を与えます。そして、行く行くは跡取りにすると宣言をします。ところがここに事件が勃発します。

 事故なのか病気なのかはっきりとした資料がないため分かりませんが、実は、春瀧が江戸城で芸を見せる前年、春五郎が突然倒れます。床に臥って春五郎は、この先の鈴川一座をどうするか決めなければいけません。ところが、肝心の春瀧は、旅興行に行っていて、しかも事故にあったと言う情報が流れ、生命の安否も分かりません。本来なら、春瀧に一座を譲るのが筋なのですが、その生命がわからないこと。しかも春瀧がまだ7歳で、無事に帰ったとしても一座をまとめるには無理があること、何より、春五郎自身の寿命がもうもたないこと。やむなく春瀧には、二代目春五郎をおくり名(死んだ者に、名誉で何代目○○を与えること)としてあたえ、番頭役をしている弟子に三代目春五郎を譲ります。そして春瀧が幸いにして戻ってきたときには、養老瀧五郎と言う別派を認め、養老の名を与えると決めました。

 春五郎にすればこうする以外なかったのでしょう。然し、おくり名と言うのは、問題が多く、春五郎に限らず、方々で跡目相続の争いの種になります。

 春五郎は文政元(1818)年に亡くなります。恐らく48くらいだったのでしょう。江戸時代なら決して早死にと言う年齢ではありません。それでも元気だった人が突然亡くなれば一門は大騒ぎです。しかも、問題はここから始まります。

 事故で死んだと思われていた春瀧が江戸に戻ってきたのです。春瀧を支えていた家族や何人かの取り巻きは、春瀧が二代目春五郎になって、更にその名前を春瀧の了解もなく三代目に譲って、当人の了解もなしに養老瀧五郎になったと言うことが承服できません。なぜ三代目の襲名を年内いっぱい待てなかったのかと苦情を言います。それは正論です。春瀧自身は人気があったため、この裁定に満足せず、養老瀧五郎を名乗った後も、相当に険悪な関係になって行きます。

 春瀧は、その後に養老瀧五郎となった後も、江戸の手妻の家元と称し、三代目を軽んじるようになります。実際人気と言い、技量と言い、瀧五郎には誰もかないません。しかも正当性を問われれば、瀧五郎は二代目の名前を持っていますから、瀧五郎の方に軍配が上がります。ここに江戸の家元が、三代目春五郎と、瀧五郎の二派に分かれてしまいます。

 その鈴川家の争う姿を我関せずで横目に見ながら、一蝶斎は浮かれの蝶を習い、人気を得て、やがて江戸一番の手妻師になってゆきます。そのお話はまた明日。

続く