手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

一蝶斎の風景 2

 今日(14日)は、私と大樹と前田とザッキーとで舞台写真を撮りに行きます。私は、2年に一度くらい新しい写真を撮っていますが、今回は、玉ひでさんの座敷をお借りして、スタジオとして取ります。こうした日もまた楽しいものです。

 そのために、朝から出かけなければなりません。その間を縫って、ブログを書きます。忙しいのですが、必ず仕上げます。

 

春五郎との出会い

 一蝶斎が12歳くらいで三遊亭円生の弟子に入ったと書きましたが、師匠である春五郎も実は、子供のころに三遊亭円橋に弟子入りしている。実は、この円橋は円生の弟子です。春五郎は円生の弟子に弟子入りして、口慣らしを始めたことになります。

 私はここから想像して、一蝶斎は、落語をする以前から、かなり早くに春五郎に接触していたのではないかと思います。むしろ春五郎から、「舞台で生きるなら、洒落た話くらいできなけりゃあいけないから」。と言われて、大師匠である円生を紹介してもらったのではないかと思います。

 円生は三遊亭一門の大師匠ではありますが、円生と弟子の円橋、それに春五郎は共に、そう年は離れていなかったようです。今日でいう子弟の感覚とはずいぶん違うものだったようで、仲間同士が気軽に教えていたのではないかと思います。

 ともかく、一蝶斎は初めに春五郎とつながりがあって、そこから円生を紹介してもらい、円生に話を習う傍ら、春五郎から手妻を学んでいたのではないかと思います。ではなぜ春五郎は一蝶斎をそこまで面倒見たのかと言うことですが、実は、一蝶斎は子供のころから、スーパーアイドル並みのいい男だったのです。

 一蝶斎は生涯、最晩年に至るまでその容貌を人から褒められています。晩年に海外からの外交使節が日本に来て、一蝶斎の手妻を見たときに、「日本人の中で一番秀麗な顔立ち」、と評しています。一蝶斎は背が高く(170㎝くらいはあったらしいです)、顔だちは面長で、眉がまっすぐに伸びていて、目は切れ長で、大きく、鼻筋が通って、口は締まっていた。現代で言うなら市川海老蔵さんのような感じではないかと思います。

 海老蔵さんのような顔をした子供が町内を歩いていたならそれは目立ったでしょう。恐らく芝居からも引き合いが来たと思います。しかしなぜか一蝶斎は手妻に興味を持ちます。そこには春五郎の人柄が大きく作用したのだと思います。春五郎は自分の家に一蝶斎を連れて行き、年の近い弟子たちが踊りや、鳴り物を稽古している姿を見せたのでしょう。やがて一蝶斎が興味を持って弟子入り希望してきたのでしょう。

 この時点で、一蝶斎が易々と芸人の世界に入って来れたのは、既に、両親がいなかったからなのかも知れません。何らかの理由で、両親を亡くしたか、或いは、親の家を出なければならず、春五郎の世話になるしかなかったのでしょう。春五郎としても、そこにいるだけで話題になるような少年ならなんとしても欲しかったでしょう。

 と言うのも、この時代の芸人は、親類縁者の中から芸人を育てて行く場合が多く、技の巧い拙い、顔だちの良し悪しなどは二の次で、決して見た目の良い子ばかりがいたわけではなかったはずです。そうした中で、春五郎は、人の話題になるような子供が欲しかったのだと思います。まさに一蝶斎は、春五郎の望んだ子供だったと言えます。

 

 と、ここまで私の推測でどんどん書いてしまいましたが、実際の資料では、15歳の時に、近江屋庄次郎の弟子になっています。この近江屋庄次郎と言う人が謎の人です。

 私がこうして200年以上も前のことをあれこれ述べているのは、「落語系図」と言う本が元になっています。落語系図は落語家の代々を調べて書いたものですが、そこに、手妻師や、義太夫語りなどについても書かれています。但しこの本はあまり信憑性(しんぴょうせい)はありません。時系列などがずいぶん違っています。そうした中でも、信じられる部分だけ抜き出して考えています。その中で、一蝶斎に関しては、かなり多くのことが書かれています。

 先ず近江屋庄次郎の弟子になったこと、,庄次郎の娘の小蝶を嫁にしたこと、二代目近江屋庄次郎を襲名したこと。この三つは事実であろうと考えます。しかも、この三つのことは、当時としては誰もが知っていたことだったろうと思います。

 後年、蝶で名を挙げる一蝶斎の、妻の名が小蝶と言うのは、因縁を感じさせます。更に、一蝶斎に関する資料に妻小蝶と女房まで書かれているのは珍しいことで、他の芸人には妻の名前は出て来ません。それだけ一蝶斎は話題の人であり、一蝶斎のお陰で、師匠の近江屋や、女房までが光が当たったのでしょう。

 その近江屋庄次郎と言う人がどんな手妻をした人なのか、これがさっぱりわかりません。落語系図にも、手妻師であるとは書かれていますが、何をした手妻師かが書かれていません。しかし、人に代を譲りたいと言うくらいの家なら、何か残したいものがあったはずです。さてそれが何か、どこかに手掛かりがないかと落語系図を見ていると、一つ怪しい点が発見されました。

 近江屋庄次郎だけが、「手妻の業をする」。と書かれています。今は芸能も立派な職業ですが、江戸時代は芸能は遊びの世界とみなされていて、自他ともに、手妻の業とは言わなかったでしょう。他の手妻師や義太夫の大夫、新内等をすべて見ても、業をするとは書かれていません。どうも、近江屋庄次郎だけが特殊で、手妻は手妻でもプレイヤーではなかったのではないかと思います。

 プレイヤーでなければ何かということですが、それは手妻の種を作る、からくり細工師だったのではないかと思います。名前の近江屋と言う屋号そのものが第一、店を構えていそうな気配です。そして、春五郎は、怪談手品を得意にしています。怪談手品をするためには、様々なからくり細工が必要です。近江屋は春五郎の手妻のからくりを一手に引き受けていた細工師なのではないかと思います。そして、庄次郎が何らかの理由で、隠居をしなければならない状況に陥ったか、或いは余命幾ばくも無い状況に陥って、すぐに後継ぎが必要だったのでしょう。

 春五郎は、一蝶斎を近江屋の婿養子にして、近江屋を継がせたのだろうと思います。そしてからくり細工は弟子たちに任せて、当人は手妻の舞台に出ていたのでしょう。

 さすがに一蝶斎を職人の仕事場に押し込んで物作りに専念をさせるのは勿体なかったのでしょう。一蝶斎も舞台に出ることを望んでいたと思います。

 こうして、一蝶斎は、からくり細工師の家を継ぎ、その上で舞台に立って、人気の手妻師になって行ったのだと推測します。但し、これはあくまで私の推測です。然し、そうでないと、一蝶斎が鈴川春五郎の家の芸を継承しつつ、近江屋の名前を継いだ理由がわからなくなります。ここは、春五郎と近江屋が切っても切れない関係にあったこと。あくまで一蝶斎は春五郎から手妻を習っていたこと。その二つを統合した上で矛盾がないように考えると、近江屋のからくり細工師の話はまんざら空想でもないと思います。

続く