手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

一蝶斎以前 江戸中期の手妻

 江戸初期に活躍した三人の手妻使いの中でも、塩屋長次郎は馬を呑むと言う芸で人気を独占します。日本のマジックの歴史の中で、呑馬術(どんばじゅつ)の長次郎と、江戸の末期に現れた紙の蝶を飛ばす一蝶斎はずば抜けて有名で、その演技は世界のどのマジシャンも演じることのなかった独創的な作品です。

 長次郎は、若いころは、塩屋九郎右衛門に弟子入りして手妻、曲芸を学び、その後、若衆歌舞伎に加わり中座で舞台を踏んだようです。若衆歌舞伎が廃止されると、大道で塩を売りつつ芸を見せていたらしく、やがて、曲芸と、呑馬によって大阪で名を挙げ、難波の小屋掛けで何年も興行し、その後名古屋に下り、元禄期には江戸に下って、江戸中の評判になります。かなり長生きしたらしく、亡くなったのは70近かったようです。

 呑馬は今でいうブラックアートが種とされています。黒い舞台背景の前に、黒衣(くろご)を着た人が立っていても観客には見えません。これを利用して、白い馬を舞台に上げて、少しずつ馬の背後から黒い布を馬にかぶせて行くと、馬はだんだん痩せて行きます。横から大夫が馬を食べて行く動作をして、黒布で首を覆うと、首がなくなり、胴を覆いながら胴を食べます。足の腿を覆い、腿を食べる真似をして行くことで馬一頭を丸々食べてしまうと言う術です。

 この術の歴史は古く、奈良、平安時代の文献にも見られます。しかし実際演じるのは簡単ではないようです。と言うのも、暗い背景の前に、白い馬を置くのは良く見えるのですが、肝心の人のほうが、背景が暗いと全く目立たなくなってしまいます。色白な人と言っても、薄暗い所ではほとんど見えません。恐らく大昔は、人がはっきり見えないために、あまりはっきりとしない術として、さほどに話題にならなかったのでしょう。

 そうならなぜ、長次郎の呑馬術はなぜ話題になったのかと言うなら、実はこの時代の舞台は白粉(おしろい)が工夫され、より白くはっきり、暗い所でもよく見えるような、鉛を使った白粉が、安価に出回るようになったのです。白粉に鉛を混ぜると白さが際立つことは古くから知られていたのですが、何しろ鉛を粉にして白粉に混ぜる手間がものすごく大変で、白粉自体がよほどの金持ちでなければ買えなかったのです。それが鉛を粉にする技術が開発されてとても安価になったのです。それが江戸初期に考案されて、舞台人は一気に白粉を使うようになったのです。

 室町時代にはやった能は、白粉が高価だったために、面をかぶりました。江戸初期に始まった歌舞伎は、安価な白粉を肌に塗って、真っ白なメークをし、そこに派手な隈取などを描きました。この差は白粉の値段の差でした。長次郎は若衆歌舞伎にいて、恐らくこの安価な白粉に着目したのでしょう。顔、手足に白粉を塗り、体全体を発光させることで、馬と大夫の両方が光り輝く舞台を作ったのです。それまでの手妻師は白粉など使わなかったのです。これにより呑馬は現象のわかりやすい術になったのです。

 江戸時代の歌舞伎にしろ、花魁や芸子がなぜああまで体を白くするのかと言えば、当時の蝋燭(ろうそく)灯りでは夜、座敷や、舞台の中央にいると、ほとんど見えなかったのです。発色のいい白粉を塗ることで顔が輝くようになったのです。

 因みに、金屏風も、暗い部屋を明るくするのに役立っていたのです。ヨーロッパのお城などでは、キャンドルスタンドの背景に鏡を置きます。昔のお城の壁面はほとんど鏡を使っています。鏡はキャンドルを反射させて、二倍、三杯照明を明るくします。

 日本では鏡は高価だったため、背景に金屏風を配したのです。金屏風の反射は蝋燭灯りを50%くらい反射します。一面は50%ですが、屏風が幾重にも折り重なっていますので、うまく乱反射させると、200%くらいの明かりを作り出すことが出来ます。座敷に金屏風を回し、その前で白粉を塗った芸妓が踊りを踊ったなら、あでやかさは一層引き立ったわけです。

 

 実は、この呑馬術を、私は12年前に復活上演しています。なかなか大変な仕事でしたが、幸いに好評でした。再演、再再演をしたいとは思うのですが、その都度、馬一頭を用意しなければならず、楽屋にも厩をこしらえなければならず、大変な労力を求められるため、なかなか演じられません。然し面白い作品ですので、ぜひまた演じたいと思います。

 長次郎は、江戸で呑馬の術で大当たりをし、晩年は多くの弟子に囲まれて恵まれた一生を終えたようです。然し、長次郎の死後、呑馬術は消えてしまいます。なぜ亡くなったかは謎です。但し、ブラックアートはその後形を変えて残ります。その継承者は、鈴川春五郎です。

 

 長次郎が、元禄末期まで生きていたとすると、それから70年後の、明和8(1771)年頃に、鈴川春五郎は生まれています。大道具の手妻を得意とした。江戸の手妻師の家元です。蝶などもレパートリーとしては持っていたようですが、春五郎の名を挙げたものは怪談手品でした。大きな蒸籠(せいろう)を舞台の中央に据え、蒸籠の中から、幽霊をすぅーと出して見せたり、その幽霊が空中を漂ったり、骸骨を出して踊りを躍らせたり。数々の不思議を見せています。

 この怪談手品の仕掛けがブラックアートで、長次郎の術は形を変えて、100年後に、怪談手品となって行かされたことになります。

 折から、草紙本等で怪談物がいろいろ出るようになりますが、それを実際舞台上でお化けを出して見せたのが春五郎です。まだお化け屋敷などなかった時代ですから、目の前でお化けを出して、それを自在に動かして見せたことはセンセーショナルだったと思います。春五郎は、怪談手品によって、一座を持ち、多くの弟子を育てています。

 その門弟の中に、養老瀧五郎、柳川一蝶斎がいるのですが、そのお話はまた明日いたしましょう。

続く

一蝶斎以前 江戸初期の手妻

古の伝内、都右近、塩屋長次郎

 江戸時代は約260年間あります。大変に長い時代の中で、1600年代中期から3人のマジシャンが活躍するようになります。一人は、古の伝内(いにしえのでんない)、品玉(しなだま)と緒小桶(をごけ)を得意芸としました。緒小桶は、三つの筒を改めて、中から人形や、飾り物をこまごま出し、お終いには大きな幕を出して、幕の後ろから牛を一頭出しました。伝内は牛の背中に乗って、舞台を一回りしたと言います。京から江戸に出てきて人気を博します。

 伝内に少し遅れて、都右近と言う手妻師が京からやってきます。ところが、おかしなことに、はじめ古の伝内は都伝内と名乗っていました。そしてあとに来た、都右近も、都伝内と称して江戸にやってきます。都伝内が二人出て来て江戸で芸を競います。なぜこんなことになったかは不明ですが、二人は話し合って、初めの伝内は、古の伝内(いにしえ、古くから名乗っていたと言う意味)。と名乗り、後から来たほうは、都右近と改名します。

 都右近も、伝内に敗けないほどの人気で、四代将軍に招かれ江戸城内で手妻を披露しています。この時は、紙を丸めて卵にする術や、変化獣化魚術をアレンジして、山芋が鰻に変わる術を演じています。そして緒小桶を演じています。

 この時の将軍は、四代家綱で、延宝8(1,680)年、江戸城二の丸で披露しています。但し、家綱はこの時既に体調が悪く、無理を押して見ていたようです。その年に亡くなっていますが、これは決して手妻を見たから亡くなったわけではないでしょう。

 

 三人目の塩屋長次郎は生きた馬を舞台に上げ、観客が見ている目の前で馬を呑んで行く術を見せて一躍名前を挙げました。呑馬と言う術は、長次郎以前にもあったのですが、長次郎の工夫によって世に出て、手妻の代名詞のごとく有名になります。

 初めに挙げた、古の伝内、都右近、塩売り長次郎は、三人とも、恐らく若衆歌舞伎の出身者でしょう。若衆歌舞伎とは女歌舞伎、と野郎歌舞伎(男の演じる歌舞伎、つまり今日の歌舞伎)の間に存在した歌舞伎で、今日の歌舞伎の原型のようなものです。

 日本で公式に劇場を建てる許可が下りたのは、元和元(1615)年、豊臣家が滅亡した年です。徳川家康にすれば、目の上の瘤である豊臣家を滅ぼして、その喜びから大坂、京、江戸の三府でそれぞれ数件の芝居小屋の許可を出します。それまでは、京の河原の仮設舞台で演じていた、阿国歌舞伎などが、芝居小屋に進出して、女をたくさん並べて踊りを披露して、大人気になります。これに負けじと、女郎歌舞伎や、娘歌舞伎など、様々な歌舞伎舞踊が出て来ます。ところが、これがヒートアップして、歌舞伎舞踊を表で見せながら、裏で売春を斡旋するのが日常化します。女郎歌舞伎などは、舞台の上で踊りをしているさなかに、番頭が客席を回って、売春の注文を取るようになります。

 すると女同士で人気を競うようになり、女も負けじと、舞台の上で、着物を脱いでヌードを見せたりするようになります。

 これが目に余るために女歌舞伎は一切禁止になります。困ったのは座主です。やむなく、手妻や曲芸、軽業などいろいろと番組を作って興行しますが、女歌舞伎に匹敵するような人気番組ができません。その中で、大坂中座に座主、塩屋九郎右衛門は若衆歌舞伎の許可を願い出ます。女が歌舞伎をするからいけないので、子供たちが歌舞伎を見せつつ、曲芸や手妻を演じるならいいのではと、許可を申請し、幸い許可が下ります。

 この塩屋九郎右衛門が、呑馬の塩屋長次郎の親方と言われています。九郎右衛門は元々、京都の塩商いの元締めです。子供たちに塩を持たせて日本中を回らせて売っていた塩の元締めで、元締めは、子供がただ塩を背負って売り歩いていても大した売り上げにはなりませんので、子供たちに手妻や曲芸を仕込み、人寄せに芸事を演じて見せて、お客様の機嫌を良くしてから塩を売ることを考えました。

 これは評判がよく、塩屋家は、塩商いをしつつ、曲芸手妻の元締めとなり、たくさんの子供を雇い入れ、芸人を養成するようになります。

 その後、塩商いで作り上げた財産で芝居小屋の株を買い、中座の座主に収まります。

 九郎右衛門は、自分が養っている多くの子飼いの子供たちを使い、手妻と曲芸と舞踊のショウを工夫して、今日のアイドル少年のレビューショウを作ります。これが大ヒットします。今日のアイドルの公演を見ればわかるように、着飾った綺麗綺麗な少年をずらり並べて、踊りや、手妻曲芸を見せたなら、若い娘や、未亡人などが入れあげて、客席は悲鳴を上げて大騒ぎ、楽屋の出入り口は婦女子で溢れ返ります。

 ところがここにも問題が起こります。若衆に人気が出過ぎて、金持ちの奥さまや、寺の坊さんからホストとして色を求めて来るようになり、これもまた陰で売春が日常化します。更にはヒートアップして、アイドルの取り合いとなり、武士同士が刀を抜いて切り合いをするような事態になり。結局女歌舞伎同様、若衆歌舞伎が禁止になります。

その後は野郎歌舞伎となって、売春は収まります。

 ただここでご記憶願いたいことは、寛永7(1630)年から承応元(1652)年までの22年間。若衆歌舞伎として、手妻や曲芸が日本の劇場を席巻して芸能の中心にいた時代があったと言うことです。

 そして、そこに出演していた少年たちは、それまでの旅回りの放下芸と違い、洗練された衣装を着て、レベルの高い手妻を披露して、連日京、大坂の大きな舞台で得意芸を披露していたわけです。

 古の伝内や、都右近、塩屋長次郎はそうした若衆歌舞伎を経験していて、その後手妻師として、それぞれ活躍していったであろうと思われます。その証拠は、長次郎は九郎右衛門の弟子であり、伝内はその着ている衣装が派手で、見るからに若衆歌舞伎の出身者です。都右近に至っては衣装も派手なら、その後は、稼いだ金で芝居小屋を買い取り座主に収まっています。我々は馬を呑む芸を見せる人などは、危険術を演じる、妖しげな人を連想しますが、少なくとも三人に関して言うなら、二枚目のすっきりとした手妻師だったと思います。長二郎の晩年の絵には、薄禿の小太りのおやじが描かれていますが、たぶん若いころはいい男だったのでしょう。

 彼らは。若衆歌舞伎が禁止になると、続々江戸に下り、手妻師、曲芸師となって、江戸で活躍するようになります。

次回は江戸中期から末期の手妻師のお話をいたしましょう。

続く

 

文字にしない価値

 日本の伝統芸能には、一子相伝(いっしそうでん)とか口伝(くでん)と言う考え方がよく出て来ます。今日はここののところをお話ししましょう。手妻にも、口伝や一子相伝の秘密があります。昭和40年代の手妻は今にも消えそうな状況でした。

 そんな時に、10代の私は古い手妻師の家に行き、いろいろ手妻を習ううちに、「これは本当は簡単に教えられないことなんだけど」、と前置きをして、とても重要な話を聞かせてもらいました。後で考えてみると、それが口伝でした。もう消え去る間際の手妻の世界では、伝えるべき人もいなかったのでしょう。殆ど行き摺りの若者に過ぎない私に、一縷の望みで、手妻の奥義を託さなければならないほど、当時の手妻はひっ迫していたのです。そこで聞いた数々の口伝は私にとって、今では宝物になっています。

 今、私はこうして習った口伝を弟子に一つ一つ教えていますが、例えば、ビデオにして残すとか、文字にして残そうとは考えません。それはこれまでのマジックの発展を思えば、映像や、文字にして残すことは、多くのマジックの工夫がいかに無価値になって行ったかがわかるからです。疑う前に、リングでも、3本ロープでも、今や100円ショップで売られています。それがなぜそうなったかは、明らかで、マジックを物として取引したからです。一度マジックを商品にして、価格が付けば、そこから先はダンピング合戦になります。初めに一つ1万円で売られていたマジックが30年経てば100円になり、もっと時間が過ぎれば、ネットでただで解説されてしまいます。

 先人が苦労して気付いた工夫も、一度人に教えれば、道具のおまけのような扱いで、解説書の片隅に公開されて、その価値が顧みられることなく、アマチュアのおもちゃとして公開されてしまいます。それがいい伝え方でないのは明らかで、やはり口伝は口伝として、価値のわかる人に残すべきなのです。

 アメリカでもヨーロッパでも、本当の秘密は、公開されません。やはりその分野で能力のある人にのみ伝えられています。それは当然なことなのです。日本の口伝、一子相伝の類は、種仕掛けだけではなく、稽古の仕方とか、演じる場所の注意なども含まれていて、本来はかなり細かな内容が残されています。残念なことは、その口伝が水芸や、蝶など、特定の作品に偏っていて、他の手妻の口伝がほとんど残っていないことです。私があと10年早く生まれていれば、もっともっと多くの口伝が残されたであろうことを思うと残念でなりません。

 然し、芸能を残そうとするなら、文章にして残してもよかったはずです。なぜ芸能が口伝と言う形で残されていったかと考えると、それは多分に仏教思想が影響していると思います。

 

 仏教では、お釈迦様の生存中から既に、いろいろなことを、さも、お釈迦様が言ったかのように伝える人がいて、仏教界は随分乱れていたそうです。お釈迦様の晩年に、弟子たちは、お釈迦様が何を悟ったのか、悟りの本質が聞きたくて、言葉で教えてくれるように頼みます。然しお釈迦様は、「悟りと言うものは言葉にはできない。仮に教えても、それは間違った意味になる」。と言って話してくれません。

 然し、悟りの本質がわからなければ、仏教を伝えようがありませんから、「間違いであるとしても、本質に近い言葉で教えてください」。と懇願します。やむなくお釈迦様は、「将来のことを思うと、何人にも話すと、悟りの内容が変わってしまう可能性があるから、一人にだけ伝えよう」。と言います。そこで信頼のできる弟子一人に、他の人に話をしない約束で悟りを伝えます。弟子は悟りを聞きます。これが真実を一人にだけ話すために、「真、言(しんごん、正しきことを伝える)」となるのです。しかもそれを人に話さずに。代々信頼できる次の人にだけ伝えて行くために「密、教(みっきょう、秘密を教えて行く)」ことなのです。真言密教とは、いわば一子相伝を意味します。

 仏教のお釈迦様の言葉がどういうものなのか、私は知りません。然し、今も、高野山では、代々お釈迦様の言葉は口伝えで継がれているのでしょう。文献や記録を第一とする西洋の考えと比べると、あまりに違った発想で継承がなされています。

 このやり方で行くと、手妻と同様に、口伝が途絶えてしまう場合も多々あると思います。然し、こうして残った仏教や、芸能には、種仕掛けだけでない不思議な伝承があります。手妻に関して言うなら、中には全く意味の分からないものもあります。本当なら、ある時期に、口伝や一子相伝を全部書き出して、客観的に整理をする必要があります。その上で、また次の伝承の世界に戻してゆくべきなのです。

 但し、残念ながら、今。手妻をする人たちの中で、口伝を求めようとする人はほとんどいません。見たさまの手妻にしか興味がありません。それはある意味いたし方のないことです。それでも誰かがしっかり残しておかないと、手妻の何が今も伝わっているのかという、手妻の本質が失われてしまいます。

 西洋のマジックにないもの考え方があるから手妻には価値があるのですから、西洋にない部分をしっかり理解しない限り、手妻の価値は残せません。特に、昔と違い、親子の継承と言うものがほとんど途絶えてしまった今となっては、口伝を血縁でないものに伝えることは、教える側にとっては大きな決断になります。よほど信頼できるものでない限り教えられません。いつもいつも指導をしながら、ここの本質はだれに教えよう。と思い悩むことになります。

ヒカキンさんが心配

 YOUTUBEで話題のヒカキンさんはまだ画像で見ただけで、お会いしたことはありません。話題の人であり、大変な努力家であることはわかります。ヒカキンさんのような人が出るとたくさんのYOUTUBEERが現れて、世間に話題を提供するようになります。

 ただ、外見だけで見ていて、その人をあれこれ言うことは正しいとは思えないのですが、私が見るに、どうもヒカキンさんの健康が心配です。画面では結構陽気にふるまわれていて、大胆な行動を次々に見せてくれますが、私の見るところヒカキンさんは決して陽気な人ではなく、周囲を楽しくさせるために、あるいは自分自身を奮い立たせるためにいろいろなパフォーマンスをしているのではないかと思います。

 

 つまり、本当の自分自身の姿とは違った形で、仮面をかぶったまま、かなり精神的には自分の望まないことを無理してやっているように思います。世間ではヒカキンさんの収入にばかり興味が集中して、ヒカキンさんのすることには細かく注意を払っていないように見えます。私から見ると、まるで命を削って仕事をしているように見えます。初めは自分自身が面白そうという、単なる興味で始めたことでしょうが、今となっては趣味ではなく、十分企業活動をしているのと同じです。

 企業であるなら、自分が望むと望まなに関わらずやらなければならないことが毎日続きます。当初は好きで始めたことも、今となっては好きを通り越して完全に仕事化してしまっているのでしょう。こんな生活を送っていると、やがて自分自身が見えなくなってしまうのではないかと思います。

 こんな時、ぱっと気分を変えられる性格なら、うまく続けて行ける可能性もありますが、ヒカキンさんを見ていると、このタイプの人は日々の些末なことを引きずって生きて行きそうですし、精神的にも相当にデリケートな人に見えます。

 こうしたタイプは芸能人に結構多いのですが、芸能人は、元々欲があって芸能活動に入る人が多いために、欲の部分と遊びの部分、そしてプライベートの部分を早いうちから使い分けができている人が多いように思います。ヒカキンさんのように、遊んでいる内に話題になって、それが仕事化してしまった人は、何が何だかわからない内に自分の周囲に雑用が集まってきて、やがて人と交わっているうちに自分を見失ってしまう人が多いのではないかと思います。

 こんな状況で、ヒカキンさんは、案外自分は今やっている活動が自分に向いていないと気付いているのかもしれません。「えらい世界に入り込んじゃった」。等と後悔しているかもしれません。

 

 有名になれば何でも手に入って幸せだ。と思うのは素人の考えで、その渦中にあって活動している人にすれば毎日毎日が修羅場です。とても記憶しきれないようなスケジュールを毎日こなさなければならず、合った事もないような人と毎日話をしなければならず、知らない人に会って話をすると言うのは、精神的な負担が大きく、とんでもないエネルギーを使います。

  テレビに出演する姿を見ていると、あまりテレビは乗り気でないように見えます。かなり無理しているのではないかと思います。小池百合子さんとの対談も、決して望んでしているようには見えませんでした。当人にとってテレビは一番苦手な仕事なのではないかと思います。そもそも人と会話をすることもあまり得意な人ではないのかもしれません。対談の後は、きっとストレスが溜まっていたはずです。

 

 忙しければ、金を使う暇がありませんから、金はどんどん溜まります。溜まるのはいいのですが、それを目当てに人が集まります。そうした人たちから資産運用の話があったり、投資を持ち掛けられたり、思いもよらない依頼を受けて毎日決断を迫られます。そんな用事はきっとやりたくないはずです。

 まったく毎日毎日が何をして生きているのかもよくわからないまま、ただ忙しく生きなければなりません。

 

 私がかつて、北野武さんなどとお付き合いのあった時には、彼らはひたすら忙しく働いていました。いつ会っても顔色が悪く、起きているのか、寝ているのかもはっきりしないような顔をしていました。全く休みが取れないのです。

 そんな姿を見ていて、私はうらやましいとは思えませんでした。売れているのは結構なことですが、人一人生きて行くのに、そんなに金は必要ないのです。いくら金になると言っても、次から次と仕事が詰め込まれてゆくことは責め苦です。

 どうもヒカキンさんを見ているとそうした人生に入り込んでしまって、体を消耗しているのではないかと思います。自分の望まない生活を繰り返していると、ある日、頭も体も動かなくなってしまいます。最近のヒカキンさんを画面で見ていると、太く短い生き方をそのまま突っ走っているように見えます。寿命が心配です。

 長生きするためには、ここらで本当に自分のしたいこと、ストレスの解消法、など自分で自分をコントロールしてゆくことが大事です。お会いしたこともない人にこんなことを書くのはおかしなことですが、好きで始めた仕事で押しつぶされてゆく人を何人か見ていますので、気になったので書きました。

都知事選挙に仲間との食事

都知事選挙 

 昨日は朝に都知事選挙に出かけ、投票を済ませました。今回の都知事選挙は初めから期待の持てない選挙でした。顔ぶれを見ても、どなたも期待できません。そもそも政策が見えません。東京都をどうにかしてくれる人ではなく、自分がどうにかなりたい人ばかりが出ています。この中から都知事を選べと言われても、学級委員選挙ではないのですから、ちょっと顔の知られた人なんかを選べませんし、得体の知れない政党の党首などは危なくて選べません。

 じゃあだれを選べばいいかと言われて眺めても、残念ながら誰も該当者がいません。もっと、まじめで、真摯な人に出て来てほしいのです。二宮金次郎さんのような、堅実で、地味な活動を続けて来て、人の信頼を着実に集めてきたような、そんな人に都知事になってもらいたいのです。

、悩んだ末、結局、白票で投票するほかはありませんでした。私は白票を出すのは反対です。少しでも立候補者に気持ちを汲んで、より私の考えに近い人を投票したいと思っていました。しかし今回はだめです。ひどすぎます。

 世界に冠たる東京都の首長を選ぶのに、この選挙では先が知れています。あぁ、この先の4年間は悲嘆にくれる毎日でしょう。

 

手妻指導をみっちり

 午後から指導をいたしました。この数年セミプロ活動をしているK君です。会社勤めをしながら、舞台活動をしていますが、このところのコロナウイルスの影響で、その舞台も途切れがちです。しかしここで心機一転、基礎から習いなおせば、活路も開けるのではないかと考え尋ねてきたのです。

 K君のことは良く知っていましたが、私が別の人と勘違いをしていて、顔と名前が一致していなくてしばらく戸惑いました。実際にプロ活動をしてみて、なかなかうまく行かない点が出てきたのでしょう。コロナウイルスは、自分自身の気持ちを新たに、考えを改めるには大変に重要な転機だと思います。常日頃は彼らのような人たちは、私のようなカビの生えた芸人からマジックを習おうなどとは考えもしなかったでしょう。

 然し、よくよく見れば、コロナ騒ぎの中でも、私には舞台の依頼がありますし、支援者もいます。それもこれも私には芸能としての手妻の基礎があるから、簡単には沈まないのです。そのことが外から見ていて、だんだんわかって来て、私から習いたいと言う人が増えてきたのでしょう。このところそんな人が何人も尋ねて来るようになりました。

 そこで、昨日は、少しサービスをしました。通常、1時間のレッスンを3時間分しました。そして、基礎とは何か、マジックとは何がマジックなのか、みっちり話をしながら、手妻の手順を指導しました。これは基礎レッスンと言うよりも、プロ指導です。

 プロを育てるためにする教え方はかなり通常の指導とは違います。このレッスンを受けて、K君は、直接学ぶことの大切さがようやくわかったようです。

 

 さて、午後の指導を終えて、お茶を飲みながら話をしていると、夜から田代茂さんが尋ねて来る時間と重なってしまいました。田代さんは毎年この時期に私の家を訪ねて来て、届け物をしてくれます。そしてそのあと食事に行きます。晩は、中野の日本料理屋を予約しておきましたが、田代さんの好意でK君も一緒に行くことになりました。K君にとってはラッキーです。カンボジアからの留学生のワンさん、と田代さん、K君と私の4人で、タクシーで中野に向かいました。

 中野の味わい屋を予約しましたが、ここは10年以上前から贔屓にしていて、魚の旨い店です。この晩は、勘八、しめさば、カツオのたたき、クジラの刺身の4品を頼みました。勘八も、カツオも文句のない味でしたが、圧巻はクジラの刺身でしょう。身が柔らかく、牛肉のようです。すりおろしニンニクが添えられているのも気が利いています。

 図らずも先週、岐阜でクジラを食べて以来、度々クジラに遭遇しますが、今のところどれもあたりです。

 そのあとアユの塩焼きを頂きました。これも身が厚く、いい鮎でした。途中からKK君が合流しました。彼は十数年前、大学を出てプロを目指そうとしたのですが、私が大反対をしました。それでもプロになろうとしましたので、マジックのパーティーの楽屋で、私が数発顔を殴りました。

 東京大学の大学院まで出て、マジシャンになるなんて意味がないからやめろと言ったのです。それでもマジックの才能があるならそれもよいかもしれません。しかし私の見るところ彼のマジックの才能はゼロに等しいのです。プロになっても苦しむだけです。プロの世界の底辺でうろうろするよりも、東大の看板を生かして仕事を見つけていったほうがどれほど自分にとって有利かを考えろと言ったのです。

 無論、人前で面と向かって殴られたことなどなかったKK君には大ショックな出来事だったでしょう。然し私は、今でもあのときの自分の行為は間違っていなかったと思っています。昔なら親が子を殴って目を覚まさせます。しかし今の親は子を殴りません。子を殴らないことを愛情だと錯覚しています。それは間違いです。

 明らかに間違ったことを子供がしていたら、何としてもやめさせなければいけません。誰かが目を覚まさせなければ、彼は奈落の底に落ちていたと思います。芸能の己惚(うぬぼ)れは業(ごう)が深いのです。どんなに頭のいい人でも、一度欲に取り憑かれると、自分のことは見えないものです。

 さてその彼が、私と田代さんの飲み会に来ると言うのは、どういうことでしょうか。彼とは何年も話をしていません。彼はプロ活動はもうしていません。何か別の仕事をしているようです。それが私と話したいとは、ようやく目が覚めて、現実が見えるようになったのでしょうか。飲みながら、いろいろ聞いてみると、どうやらKK君は大人になったようです。結構なことです。

 この晩は、セミプロのK君と、昔プロになり損ねたKKくんと、田代さんが私に引き合わせ、私からいろいろ話を引き出そうとしたのでしょう。彼らにとっては良い機会だったと思います。人生にはいろいろなことがありますが、この晩は印象深い一晩でした。

終わり

 

 

 

球磨川被害

 球磨川被害

 今から40年も前のことになりますが、私は山口県のマリンランドと言う遊園地に40日間出演していたことがあります。その時に、山口県内や福岡県のアマチュアマジシャンが連日大勢、私のショウを見に来てくれました。この施設は、昼と夕方の二回、ショウをするだけで、その後は用事がありません。多くのアマチュアさんは、

 「この地域にマジックを指導してくれる人がいません。ぜひマジックを教えてください」。と言います。そうなら、ショウを終えて、行ける範囲のマジッククラブを手当たり次第指導して回りました。最西端は福岡、最東端は下松(くだまつ)、その間の山口、下関、宇部などあちこち回りました。幸い好評で、また来月、またその先も指導してほしいと指導を求められました。

 然し、マリンランドの仕事が終われば、そうそうは九州、山口には伺えません。どうしたものかと考えて、そこで、これを機会に指導のルートを作って、年に二回、春と秋とに指導旅行を計画しました。鹿児島、川内、都城、熊本、長崎、福岡、北九州、宇部、下松、松山、丸亀、高松、大阪、京都、名古屋と14か所を約20日間かけて車で回って、そのうち二か所の講習料を経費に充てれば、十分収入になることがわかりました。

 当時は、アマチュアの人口が多く、小さな町でも10人以上集まります。福岡、熊本となると30人以上集まります。京都、大阪なら50人集まります。当時のプロマジシャンはキャバレーの仕事が忙しくて、アマチュアの指導に全く興味を示しません。無論私もキャバレーの仕事は多かったのですが、私はどうしても指導をしなければならない理由がありました。

 それは毎年春と秋にリサイタル公演をしていたのです。そのため新作のイリュージョンや、アシスタントの衣装を作らなければならず、劇場の借り賃や宣伝費も含めて、経費が、毎年200万円くらいかかったのです。キャバレーの収入では年収1000万円は取れなかったものですから、何とか、リサイタル経費をほかで捻出しなければなりません。

 その苦肉の策が指導でした。ワンボックスカーに道具を乗せ、一人で運転して、大阪まで行きます。そこからカーフェリーに乗り、鹿児島県の志布志湾に上がります。そこから鹿児島を指導し、鹿児島に泊まり、翌日川内(せんだい)に行き川内に泊まり、翌朝、都城(みやこのじょう)に行って都城に泊まり。翌朝、熊本に行きます。

 ところが40年前はまだ高速道路が出来ていません。都城から熊本が最も遠い移動距離になります。えびのと言う土地まではずっと平地が続きますが、そこから先は目で見てわかるほど土地の高さが違います。この断崖絶壁に人吉ループ橋とか言うぐるぐる渦を巻いた道があり、それを上ると、上った先が人吉盆地です。まさかこんな山の上にこうまで広々とした平地があるとは思えません。先ずはほっとします。ここで昼飯を済ませて、ここから球磨川越えをします。

 

 さて今回の集中豪雨の被災地の球磨川は、私にとってもなじみの深い土地でした。何しろ毎年二回はこの道を通って鹿児島、熊本間を行き来していたのですから。

 人吉を出るとすぐに山道に入ります。道は球磨川に沿って西に向かいますが、常に道の片側には球磨川が見えます。球磨川はまっすぐには進まず、常に大きく蛇行していますから、直線距離で行く三倍くらいは走らなければならないのでしょう。川が蛇行する度に、道は川の右側、左側を走りますが、いずれにしても、道は細く、車二台が行き替えないのです。それでいてこの道は国道です。

 向かいからトラックなどが来ると、どちらかの車が引きさがって、安全地帯まで戻らなければなりません。安全地帯は何百メートルごとかに少し空き地が用意されています。遠くに見えるトラックは、慣れたものですから、安全地帯の位置を把握していて、私が止まったほうがいい場合は、遠くから私にクラクションを鳴らします。また自分が止まったほうがいい場合はトラックが待機して、私を待ってくれます。

 待つのは別に構わないのですが、その安全地帯に車を止めて周囲を見ると、片側は険しい山の崖です。反対側は断崖絶壁で、はるか下に球磨川が流れています。まったく心細い限りで、わずかな道の隙間にポツンと一人でいるのです。やがてトラックが来ると、私の車と、ギリギリ30センチくらいの間隔でトラックがゆっくり通り過ぎて行きます。トラックに少し押されれば私の車はあえなく球磨川に転落します。

 今の私がこうした旅をするかと言えば恐らくしないでしょう。然し、20代の時にはこんなことは何でもなかったのです。

 

 道はどんどん下って行きます。川沿いにところどころに小さな集落がありました。今たびの球磨川の氾濫でそうした地域の家は随分被害を受けたことでしょう。天気のいい日に見ても、あそこで暮らすことは簡単なことではありません。この被害のあとには、無人の集落も増えるでしょう。

 道は下って行くと八代の町に出ます。東シナ海に面して開けている八代は、球磨川から来ると大都会に見えます。山が遮っていない分、開放感があってほっとします。

 然しこの旅はここまでで半分です。八代は熊本県の南端です。ここから北上して、熊本に向かいます。早朝に都城を立って、昼前に人吉、二時くらいに八代、5時半に熊本市です。熊本の街中に入るとウキウキしました。そして指導会場に、そこから2時間みっちり指導をし、そのあと、有志と一緒に食事をしながら焼酎を頂きます。

 そんな生活をしても少しも疲れませんでした。その翌朝は、宇土まで戻り、三角(みすみ)港からフェリーで雲仙に行き、長崎に入りました。どこも遠い旅でしたが、私にすれば「不便だからほかの人はいかないんだ、この仕事は私にしかできない」。と自負していました。冷静に考えたならずいぶんつらい仕事だったと思いますが、その時は少しもつらくはなく、むしろ楽しいっ日々でした。

 その甲斐あって、収入には恵まれ、一回の指導の度にリサイタルが出来て、その度に道具が増えました。その後、東京イリュージョンを起こすときには人も道具も潤沢に出来ていたのです。それもこれも球磨川越えの絶壁でトラックを待ち続けたあの経験が今につながっているのでしょう。球磨川の氾濫を見て40年前を思い出しました。

 今も記憶する、球磨川の美しい景色に生まれ育った皆様が、何人かお亡くなりになったことは真に悲しく、心からご冥福を祈ります。合掌。

 

秘密の秘密の奥の院

 私は十代の後半から、二十代にかけて実に多くのマジシャンからマジックを習いました。単純なアドバイスなら、フレッドカプスやチャニングポロック、ダイバーノン、スライディーニなどなど、数多く名人と接して多くのアドバイスを受けました。

 時代はネットの文化になってしまいましたが、物としての種仕掛けなら映像でも伝わりますが、芸能の伝承と言うものは、直接習わない限り伝わりません。

 

 例えば、師匠の清子からサムチップを習った時に、テーブルに私が何気にサムチップ(小さなハンカチーフを出したり消したりする)種を置いたときに、清子は、それを見て、さりげなく、ハンカチに挟んで隠したのです。これを見た時私は「あぁ、昔のマジシャンはこうやって種を大切にしていたんだなぁ」。と知りました。

 実際、テーブルの上にサムチップがむき出しで置いてあってはいけません。然し、プロで生活していると、見慣れた道具はついついむき出しで置いてしまいがちです。それをきっちり人目につかないようにハンカチで隠すと言うのは、いかにも昭和初年にマジックを習った、マジシャンの行動です。

 こんな所作を見て育つと、マジックがどういう歴史を持って今日にたどり着いたのかがよくわかります。それを肌で知る、そして自らも生かす。こうしたことは、映像では学べないことです。

 若いころ、名古屋の松浦天海さんのお宅には度々習いに行き、初代天海のハンドリングなど随分習いました。松浦さんは、一通り教えてくれた後、細かな点を重点的にに教えてくれるのですが、その時に、私がかなり突っ込んでいろいろ質問をすると、松浦さんは困って。

「この部分は他のマジシャンには言っていないんだけども、藤山さんがあんまり熱心何で、教えましょう」。等と言って初代の秘密を話してくれました。私に取っては飛び上がらんばかりに嬉しいことで、そうして習ったハンドリングは、天海メモには載っていない部分で、松浦さん亡き後、私に取って宝物です。

 そのことは、高木重朗師も同じでした。師は教え上手で、一つの手順をいくつか簡単に演じる方法を心得ていて、相手を見ながら指導します。そんな時に、「先生が直接習った時の、本当の手順と言うのはどんな風だったんですか」。と尋ねると、しぶしぶ原作を教えてくれます。それを習うと、師がなぜこの手順を隠して教えたがらなかったかがよくわかりました。マジックは本当のことを軽々に教えてはいけません。安易に教えたなら、教えた作品は必ず、レべルが下がって、他の人に伝わるからです。教えるなら本当にその作品を愛して、理解を持った人に教えなければいけないのです。

 習う側も、本当の本当のことはくどいくらいに尋ねて、本心を問わなければ話してはもらえないのです。秘密の秘密の奥の院は簡単には開かないのです。

 

 ただ、若いうちに習ったことは今でもとても役に立っています。特に人に指導をする時には、初心者が何を考えてマジックを学んでいるかを考えると、自分自身の若い時の思いと、私に指導して下さった数々の師匠方の言葉が今になって思い出され、しかも、言われたとき以上にその意味がよくわかるために、とても勉強になります。習うと言うのはその場だけのことではなくて、一生習ったことの思いは付いて回るものです。

 

 ネットで種明かしをしているマジシャンがいますが、それをマジックの普及と言うのは間違いです。それは暴露です。相手の技量も考えず、一方的に種を暴露してしまうのですから、それはマジック界の発展にも、地位向上にもつながりません。むしろ価値を下げてしまいます。そこから優れたマジシャンは生まれては来ません。ネットで覚えたアマチュアはマジックの奥を知り得ないからです。表に見えている現象と種だけでマジックは出来上がっていると思っているのです。それだけでは人を感動させられない。と、こう話しても、ネットの種明かしを見て育ったアマチュアさんには何も伝わらないでしょう。それはやむを得ないことです。

 アマチュアマジシャンが増えることはいいことですが、種だけ知っているアマチュアが増えるのはあまり良い結果にはなりません。恐らく彼らは、マジックショウに3000円5000円と代価を支払って見に来る観客にはならないでしょう。仮に見に来たとしても、「あぁ、あれ知ってる、あれ出来る」と言う人ばかりが集まりそうです。マジックが芸能であることの認識がないまま、種がわかることでしかマジックを見ない人が育つのは、マジックの発展を妨げるだけです。

 

 然し、そんなアマチュアが増えることを嘆いているばかりではいけません。プロがネットの種明かしを見て育ったアマチュアと同じレベルのマジックをしていては将来がありません。今我々がしなければいけないことは、彼らが知っているマジックよりもより深く、よりレベルの高いマジックをしなければならないのです。

 しかも、それを演じる上で、ショウの構成、演出などが優れていなければいけません。はっきりアマチュアよりも上の立場に立って、プロの演技をしない限り、プロの存在感を示すことはできないのです。

 色々考えると、コロナウイルスの影響は、プロが生きる路線を立て直すためには、とても役に立つ時間を提供してくれたと思います。この時間を活かせる人が次の時代のスターです。とはいえ、余りに仕事が激減しては、暮らしもままなりません。それでも、まだ自分自身が少しでもマジックに投資する余力が残っているなら、ここで一つ真剣に考えて、勝負してみることは大切です。

 私が以前ブログで書きましたが、世の中は10年に一度、どうにもならないほどの不景気がきます。そんな時にはマジシャンが30人50人と廃業してゆきます。残念と言えば残念ですがやむを得ないのです。将来の勉強をする努力のない人は消えて行くのです。

 

 私が20歳になりたての頃、マジックショップに立っていた同じ年のマジシャンAが、誰からもマジックを習わずに我流のマジックをして、ステージに出ていました。ショップで指導の案内も出して、教室を開いていました。それに対して私は、親切心から、「まだ技術も身についていない立場で、人に物を教えるようなことをしないで、自分から先輩方に習いに行って、色々覚えたほうがいいよ」。と偉そうに言いました。

 それから30年して、何十年も会っていなかったAが奇術協会に所属してきました。然し、気の毒なことは、もう彼の技量では入会しても、人前に出せないのです。ある時、マジック大会に私がトリで出ていた時に、Aは舞台袖にいた私に静かに近づいてきて、「昔、藤山さんが、若いころは人に物を教えるのではなくて、先輩からいろいろ習ったほうがいいって言ってましたよねぇ。俺、今になってその意味が分かりました」。

 20代で分からなければいけないことが50代で分かっても遅いのです。それから半年後、Aは自分のアパートで餓死していました。仕事がなかったようです。一縷の思いで奇術協会に入って来ても、既に自分の居場所はなかったのです。あの時、人にすがるような寂しげな眼で私の舞台を見ていたAに、私は何の言葉もかけてやれませんでした。どうにかなりたければなぜ、もっと早くに相談に来てくれなかったかと思います。

終わり