手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

芸能 芸術 いとをかし

 私は20代のころ随分高木重朗師からマジックを習いました。師は、今ではカードマジックの研究でその名を残していますが、実はステージマジックも大好きで、要は、ジャンルにこだわりがなく、物事を公平に見る目を持っていました。

 但し、師からステージ物を習おうと言う人はごくわずかでした。その一人が私で、師のマジックを見る目のすごさは単純なマジックを否定しないことでした。

 師は、「マジックの最高傑作はリンキングリングです」。と明確に仰って、人前で見せるときも、いくつものリング手順を持っていて頻繁に演じていました

 また晩年は、電動のライジングカードを良く見せていました。カードが競り上がって来るときに、必ずスーツの右ポケットに手を入れて、左手で魔法のジェスチュアーを掛けながら演じていました。そして楽屋で、「こうした道具ネタこそがマジシャンの価値なのです」。と言いました。スイッチ一つで現象の起こるマジックを決して否定しないのです。マジックをやり込んだ末のライジングカードの発言は重みがありました。

 同様に、中華蒸籠です。中華蒸籠とは、言ってしまえば二重筒の交換改めです。時代の流れから言って、最も若者がやりたがらないマジックです。しかし師は違うと言います。細かな改良が幾つもされていて、どれも不思議だと言うのです。その改良部分を飛ばして演じてしまうから、交換改めにしか見えないのだと言うのです。

 実際、習ってみると目から鱗の手順でした。とても古い作品ですので、古典を演じるものにはちょうどいい研究材料です。私の弟子は必ずこれを勉強します。実際に仕事先で演じるかどうかは別としても、プロダクションマジックがどういう考えでできているのかがよくわかります。まさに私の一門の芸です。

 実はこれを明日から前田に教えます。前田はまじめで、何でもよく稽古をしますので、きっとこれもものにするでしょう。いいマジックです。

 

芸能 芸術 いとをかし

「藤山さんはよく芸術の話をされますが、殆どのマジシャンは芸術家を目指してはいないんじゃないですか。エンターティナーで十分だと思うんですけど」。その通りです。

私が芸術を尤もらしく述べると、エンターティナーすなわち演芸家で生きて行って何が悪い。と居直りたくなりますよね。ただ、覚えていただきたいことは、エンターティナーの出来のいいものがアート(芸術)になるのです。演芸と芸術は別物ではありません。エンターティナーの行き着く先がアートです。今あなたの演技がアートのなっていなくても、長い年月の末にはアートになる可能性があります。いやいや、アートにならなかったとしても、よくよく考えてみたなら。アートとはこういうものだったのかと、気付くようになります。子供が大人になってゆくように、いつかアートの道は見えて来ます。エンターティナーとアートが別物と思っているマジシャンは、子供が大人になろうとしていないだけなのです。

 いつでもネットでマジックの種を探したり、DVDを買って人のアイデアを拝借したり、そうした研究をなさることは結構なのですが、そうして出来上がったマジックは、世界中似たり寄ったりの、誰もがするような作品になりませんか。

 気を付けなければいけないことは、発想を誰か、数人の司令塔に任せていては自分の名前が世に出ることはあり得ないのです。(数人の司令塔=世界中に何万人もマジシャンがいますが、実は、多くのマジシャンは、ほんの数人のマジックしか見ていないのです。そして、数人のマジシャンのすることを常に真似たり、追いかけたり、その人の出すマジックグッズを必死に買い集めたりしています。司令塔になるマジシャンは勿論、能力を認められた人ですが、それを追いかけるマジシャンは、マジックの世界では単なる餌になってしまいます)。みんなが検索するネットの販売店で、人気の商品を買えば、それだけであなたは、何万人といるマジシャンの一人になってしまいます。プロで生きるなら、頭脳を人任せにしてはいけません。人が知らない仕入れ先?を見つけださなければ成功はないのです。

 

 話を初めに戻して、自分のマジックはエンターティナーでいいなどと、自分から垣根をこしらえないでください。もう少し広く世の中を見て、他の芸術家が何に苦しんでいるか、何を目指しているかを考えてみてください。そのことがわかったなら、少し、自分のマジックに応用してみることです。お喋り一つ考えるのでも、少し知性のある話を舞台で提供すれば、新たな観客層を開拓できます。マジックの道具を持ちながら、マジックの話ばかりしているから、観客の共鳴を受けにくいのです。その話し方が知的に見えないから、アッパークラスの客層から相手にされないのです。

 

 モーツァルトは初めから芸術を作ろうとして音楽を書いたわけではありません。その時は生きることに必死で作曲していたのだと思います。然し、同時代の音楽家の中で抜きんでていい作品を残したから、後世、モーツァルトの音楽は芸術として残ったのです。芸術であるか否かは後に時代の人の判断によるものです。然し、だからと言ってそれが偶然に残ったわけではありません。実際モーツァルトはとんでもなく高いプライドを持っていました。絶対自分の作品は最高のものだと信じていました。

まず初めに才能がなければ作品は残りません。偶然では残り得ないのです。

 

 マジックの演技も、後世に乗りうる可能性は十分にあります。然し、そのためにいろいろ仕掛けておく必要があります。お喋りで下手なダジャレやギャグを言わないこと。同じ喋るなら、もう少し知性のある話をすること。似たり寄ったりのマジックをいくつもしないこと。どんなマジックもあなたにしかできないマジックであると思わせること。そこまで周到に自分の考えを張り巡らして、芸術に王手をかけておくのです。

 こうした形で手順を作れば、仮にコロナウイルスで仕事が減っても、ファンは必ず集まります。小さな仕事でも依頼が来て、生活が成り立つようになります。

 今、多くのマジシャンは仕事がなくて苦しんでいます。そんな時こそ、いろいろな資料を調べて、自身のマジックを肉付けしていって、厚みのある演技に仕上げるのです。泣いていても仕事は来ません。仕事はいい演技をする人にのみ来るのです。いい演技のできるマジシャンになることです。

芸能 芸術 いとおかし 終わり

芸能 芸術 なんのこと

 昨日は、来年2月の仕事の打ち合わせのために埼玉まで行ってきました。埼玉は決して遠くはありません。私の家から車で40分足らずです。水芸や蝶々を含めたフルショウを一日2回披露する企画を引き受けました。大きな仕事です。別にワークショップの仕事が一本つきました。全くの芸術、文化事業です。

 私はこうした大きな仕事が年間十本近くあるために、舞台回数が少なくても生きて行けます。これは長くこの道を続けてきたことで手に入る仕事ですので、有難いことだと思っています。

 但し、ネックとなるのは入場者数です。通常300人入る劇場なら、コロナウイルスの影響で、150人しか容れられません。意味のない入場制限です。こんなことをするから芸術がしぼんでしまうのです。ウイルスが感染するかもしれない。と心配して、過剰に対応した結果です。ご心配なく、コロナウイルスは感染しません。

 それが証拠に、京浜東北線や、中央線、山手線をご覧ください。相変わらず通勤ラッシュで人がひしめき合っています。連日、数分毎にあれだけの人を電車に乗せて、走らせていて、日本人のほとんどがウイルスに感染しないなら、コロナウイルスは感染しないのです。そうであるなら、ことさら劇場だけ入場制限するのはアンフェアな行為です。私が言っていることが違うと言う人がいるなら、山手線の混雑で、なぜ感染しないのか、その因果関係をどなたか解説してくださいませんか。

 人を集めると言うことは大変な努力が必要です。コロナウイルスが起こる前ですら、我々は自分の公演をどう満杯にするか、いつもいつも苦心していたのです。それを、一方的に、入場者を半分にすると言う行為は芸術の冒涜です。実演家の生活を全く無視しています。これでこの先芸能、芸術が生存してゆけるのかどうか。不安になります。誤った行為は一刻も早く正していただきたい。劇場の規制は無意味です。

 

芸能 芸術 なんのこと

 画家は、写真技術が生まれたことで、ものを似せて書く技術が無意味になります。そうなら画家の技術とは何か、と言うことを真剣に考えるようになります。そして初めて自分の心の中と向かい合います。その時日本の浮世絵に出会います。浮世絵がこの時代の西洋の画家に与えた影響は大きく、その後に出て来る印象派の絵画や、ゴッホなどに熱烈に支持されます。ゴッホの生涯の憧れは日本に行くことだったのです。

 西洋絵画は、独自の発展をして行き、後のキュビスムなど、個性的な作風がどんどん現れます。それに対して、多くの大衆は、旧来の、綺麗な素直に描かれた絵画の価値基準から超えることなく、新しい発想の絵画を「変だ」。と見るようになります。

 丸いリンゴを四角に描いたり、赤いリンゴを紫色で描いたり、ゴッホのように、農村風景をまるで炎のように、木も、道も、教会も、すべてゆらゆら揺らめいて描いたりします。実際の風景とゴッホの世界とはきっとずいぶん違うもののはずです。

 これらの絵画を見て、多くの人はただ「変だ」と言います。今となっては信じられない話ですが、実際ゴッホの絵を見て、当時の批評家が、「木がまっすぐに描けていない」。と真面目に批評しています。批評家には、ゴッホが単に下手な画家に見えたのでしょう。が、ゴッホにとってはその「変な絵」こそ自分の発想なのです。曲がった木だからゴッホなのです。

 芸術は、発展するに及んで、古典的な考えでものを見る大衆からどんどん離れて行きます。と言うよりも、大衆の理解が追いつかなくなって行くのです。多くの人が、ほんの少し発想を変えて、描き手の意思を推量してあげたなら、何ら難しいことをしているわけではないものを、自分の理解を超えた作品に対して、大衆は、難解なもの、理解しがたいものと考えてしまいがちです。

 

 音楽も同様で、音楽が発展して来ると、表に聞こえている音楽をただ弾いて見せることだけでは音楽を表現していることにはならなくなります。決して複雑なことではないのですが、作曲家が何を語りたいと考えてこの曲を作ったかを、音符から読み取れなければ音楽にはならないのです。そのためにプロの演奏家が必要になります。

 芸術は、百年の歳月を経て、楽器を演奏する技術から、曲をどう解釈するかという考え方の方に比重が移ってしまったのです。時代が進むにつれて、音楽はどんどん複雑になり、作曲家の個性が際立つようになって行きました。 それにつれて、芸術と言う言葉の意味も変わって行ったのです。

 芸術が複雑化すると、表現方法も多様化し、なかなかアマチュアの理解で表現することは難しくなってきます。作曲家や、作者の意図するところが読み取りにくいことは多々あります。指揮者が膨大なスコア(全オーケストラの音符)を眺めながら、何日も曲の解釈について苦しむ姿などは、その例です。

 演じる側も、単純に喜怒哀楽をそのまま表現することが成功につながるとは限らないのです。むしろ、芸の本質はもっと、意地悪くひねくれて存在することも多々あるのです。それを見つけ出して、ひねって演じるのが演者の仕事です。

 

 私事で恐縮ですが、私が紙の蝶を飛ばしていると、お客様の中で、私をほめてくれようとする意味で、「まるで生きている蝶みたいですね」。と仰ってくださる方があります。しかし、私は蝶を本物のように飛ばしてはいません。本物の蝶は飛ぶときはもっとせわしないのです。一度モンシロチョウなどが飛んでいる姿をご覧ください。

 蝶は、遠目に見れば優雅に飛んでいるように見えますが、近くで見たなら、ものすごい運動量で、上に下に、右に左に、実にせわしなく、風に吹き飛ばされないように、必死に飛んでいます。然しそれを真似て、舞台で表現したら全く蝶になりません。

 舞台の蝶はもっとゆっくり、優雅に飛んでいます。つまり蝶の芸は決して生きた蝶の模写ではないのです。舞台の蝶は、天上の蓮の台(うてな)の上を飛ぶ蝶なのです。それを、まるで生きているかのよう、と言って褒めてくださることは、有難くはあっても、実は、多くのお客様の理解が、芸能が物を写すことと考えていた時代の芸術観であって、その先の芸術の発展に気づかれていないのです。

 但し、お客様が耽美的な古典の世界を求めていることは一向にかまわないのです。然し、演じる側の意識が百年以上も前の考え方でいては将来がないのです。

次回このあたりを詳しくお話ししましょう。

続く

芸能 芸術 の始まりは

 言葉は時代とともに意味が変化して行きます。 芸術と言う言葉の意味も、この200年で大きく変わっています。芸能、演芸、芸術は何がどう違うか。ことさら業種を区別して、これは演芸、これは芸術とまことしやかに言う人がありますが、私はあまり意味はないと思います。

 例えば、芸術のカテゴリーにある古典芸能や、クラシック音楽の中にも、お粗末な内容の作品を見ることがありますし、ベートーベンや、ブラームスのようにしっかりした考えで作られた作品でも、演奏家や、指揮者の未熟によって、全く心に響いてこない人もあります。これが演芸ならば、下手でも、多少、笑ったりおもしろがってみることが出来ますが、クラシック音楽のつまらない演奏会と言うのは取り付く島がありません。

 

 芸術、芸能、演芸はどう違うのでしょう。少なくとも200年前の頃には特別な違いはなかったはずです。芸も、能も、術も、意味するところは同じです。どれも「わざ」と言う意味です。ピアノが弾ける、バイオリンが引ける、絵が書ける、マジックができる、 それら、人を超えた技術を要している人はすべてが芸術家だったのです。芸術とは、単なる表現するための技術だったのです。

 それは、当時、ピアノ一台所有することは、家一軒建てるのと同じくらいの費用が掛かったために、所有者が限られていたのです。しかも、日がな一日ピアノを演奏できる人と言うのは貴族の子弟か、高所得の実業家の家族でなければ不可能だったのです。

一つの町に何人と居ない家族の中で、ピアノが弾けると言うことはそれだけで選ばれた人であって、ピアノを所有している毎日演奏していると言うことはそれだけで芸術家だったのです。

 然し、今日では素人の弾くピアノを芸術とは言いません。私の家にはピアノがあり、女房が一日3時間くらいピアノの稽古をしています。めったなことでは人前で弾きませません。その彼女の演奏するピアノは芸術かと問えば、今日の間隔では芸術とは遠いものです。

 

 なぜか、それはその後にベートーベンが現れたからです。ベートーベンの肖像はみんな知っていますが、ベートーベンがなぜ偉大かは音楽の授業では語られません。ベートーベンは音楽に哲学を持ち込んだ人です。

 それまでのハイドンなどは、宮廷音楽家でした。宮廷音楽家の仕事は貴族のお茶会や、夜の舞踏会で音楽を演奏をすることです。その音楽は、貴族の会話の邪魔をしてはいけません。なるべく自己主張せずに、綺麗で静かな音楽を演奏していれば一生生活して行けたのです。すなわちBGMの演奏と作曲が宮廷音楽家の仕事だったのです。

 そうした中でハイドンは作曲もし、自分のオリジナル曲を数多く発表しました。それらは貴族の間でも認められていましたが、その知名度は限定されていました、モーツァルトも同様に、貴族のために作曲をしていました。モーツァルトは途中から、大衆の存在に気付き、一般大衆のために音楽を作曲するようになりますが、大衆の好みを読み切れていなかったために、収入に恵まれず、惨めな生活を送りました。

 そしてべートーベンの登場です。ベートーベンと言う人は、音楽室の肖像画から見ると、頑固一徹で、自説を曲げない、偏屈な人のように見えますが、どうしてどうして流行に敏感で、人の心をつかむのがうまく、自作の音楽を高く売り込むことも上手でした。顔つきも若いころは精悍で、貴族の娘たちの間では結構人気があったようです。

 そして何より強烈だったのは、彼の音楽が、強い個性と、意志的なことでした。いきなり「人生いかに生きるべきか」。を問いかけます。ベートーベンの音楽は、お茶会で雑談をしながら聞く音楽ではありません。入場料を払って、音楽会で真剣に聴くための音楽として作られたのです。

 それはこの時代に力をつけてきた、企業家や、資産家を新たなスポンサーとするために、より刺激の強い、明確な考え方の音楽を作って見せる必要があったのです。ベートーベン以降は、特定の貴族の好みに合わせるのでなく、自分自身の個性を世間に訴えて、自己の主張を展開する音楽家が育って行きます。音楽は鳴っている音楽の背景に哲学が存在するようになります。

 べートーベンで言うなら、「苦悩から歓喜への道」がテーマです。ベートーベンは人生をかけて、同じテーマを語り続けます。苦難にめげず、克服してこそ喜びがある。そうした曲を作り続けました。ソナタ形式を形式のとどめるのでなく、弁証法的に考えを戦わせて、徹底的に議論します。音と音とが戦うのです。そして勝利に導きます。

 モーツァルトハイドンには、音の戦いはほとんどなかったのです。そんな曲ができると、それに合わせて曲の意味をきっちり理解して、背景まで語り込める演奏家が求められるようになり、そうした人を芸術家と呼ぶようになったのです。

 

 同時期に、絵画の世界も大きな変革がありました。200年前の画家と言うのは、殆どは肖像画書きを仕事にしていました。金持ちは自分の姿を残そうと、画家に大金を支払って、自分の肖像を描かせたのです。画家の技術とは、頼まれた人を似せて書くことです。似ていれば芸術だったのです。今でも街角にいる似顔絵書きと同じです。

 ところが、ある日突然、失業の危機が訪れます。写真の発明です。写真は一瞬で真実を映しますので、絵描きが半月一か月かかって、肖像画を描く手間がいりません。当初は小さなサイズの写真しか作れませんでしたので、画家連中も高を括っていたのですが、徐々に写真技術が発達すると、画家の職業を脅かしてゆきます。

 ここで画家ははたと悩みます。似せると言う点では絵は写真にかないません。似せて描くことは技術にならなくなったのです。悩みます。そこで出した答えは、似せることを諦めることです。絵画は似ていなくてもいいと気付いたのです。

 似せることよりも、「自分はこう見た」、「こんな世界を描いてみたい」、という、画家の意思のほうが重要で、画家の考え方、画家が作り上げた世界に理解者が代価を支払うようになったのです。

 おりしも、幕末期に至って、西洋は、日本との交流を深めます。すると、日本の浮世絵がたくさん輸入されるようになります。それらの絵は、当初は、二束三文で売られていました。と言うのも、売れ残った浮世絵が、たまたま紙くず屋に渡り、当時しきりに輸出していた、お茶を入れるための木箱が湿気を防ぐために、内張りに、和紙を張っていたのです。その和紙がたまたま売れ残りの浮世絵で、茶箱の裏に何重にも浮世絵を張っていたのです。このため、三代目広重などは、西洋では、茶箱の広重と呼ばれて、人気を博します)。

 西洋人は茶箱の裏紙を丁寧にはがして行き、それらの浮世絵を見てびっくりです。そこに描かれていたものは、全く自由な画風で、少しも真実が描かれてはいなかったのです。西洋人は浮世絵を見て、初めは単に未熟で下手な絵だと思っていました。しかし一度見たら忘れられません。何度も何度も見ているうちに、この荒唐無稽な版画こそ真実を語っているのではないかと気づき始めます。

 浮世絵を見ると、人間の骨格など無茶苦茶です。写楽の絵などは、胸から突然両手が出てきたような絵があります。歌麿美人画も、実際人を立たせたらあんな風には立てません。しかしそんなことはどうでもいいのです。リアルに描く必要がないのです。自分はこう考えた、自分の描きたい世界はこれだと言う画家の意思こそが重要なのです。

 写真に押されて、絶滅の危機だった西洋絵画は、浮世絵を見て、生きる道を学びます。そこから近代の絵画が発展して行きます。

続く

芸能 芸術 を書くつもりが

 昨日、27日は昼に富士の指導をしました。なかなか会員が病気を恐れて集まらずに、5人で指導を致しました。どうも、コロナウイルスは、病気以上に、人の目が厳しくて、人は出歩かず、なかなか日常の生活に戻れないようです。こんなことで過大な対応をしていると、日本自体の経済がやがて回復不能の事態に陥ってしまいます。マスコミも、病気を煽ることばかりしないで、安全宣言をもっと徹底的に伝えるべきでしょう。

 夕方17時30分には新富士から新幹線に乗り、19時15分に名古屋、そこから在来線で、19時50分に岐阜に着きました。岐阜駅には、峯村健二さんと、辻井孝明さんが待っていてくれて、3人で柳ケ瀬にある料理屋、八祥(はちしょう)に行きました。

 八祥とは、同名の高級料亭の系列店の、カウンターの料理屋で、辻井さんおすすめの店です。ここで3人でうだうだ言いながらうまいものを食べようと言う趣向。毎度のことですが、辻井さんの店の選択はいつも感心させられます。先ずはずれがありません。お二人はまずビールで一杯。私は三千盛り(岐阜の高級酒)の常温でのどを潤し、そこに加茂茄子の田楽。甘い味噌ダレがさっぱりとした茄子によく合っていきなり大当たりでした。そしてからすみ。酒の肴の定番ですが、炭火で炙ってあって香ばしく、塩気が適度で、酒が進みます。

 クジラの焼き物、クジラは今時珍しいと箸を伸ばすと、昔小学校で食べた筋張ったクジラ肉とは打って変わって、霜降りの牛肉のような柔らかさで、全く牛肉を食べているような高級感がありました。クジラにも味に上下があるのだと知りました。この辺で酒はお代わりをしました。お二人も八海山の酒に変わりました。三人はマジックの話題で盛り上がっています。内容は秘密です。

 お終いにはのどぐろのかなり大きな魚が塩焼きで出て来ました。これが文句なく絶品でした。肴に塩を振って焼いただけの料理ですが、恐らく私が人生で食べたのどぐろの中では最高にうまい塩焼きでした。何でも単純なもので人を納得させたらそれは名人です。塩加減は濃くはなく、魚はしっかりと脂が乗り、身は柔らかく、大ぶりの魚はどこを食べても味わい深いものでした。どれも満足のゆく料理でした。

 

 それから、八祥を出て、道路を回り込んで、高級クラブのグレイスへ、今年の3月に行った店でしたが、あの後、すぐに、柳ケ瀬で、コロナウイルスの感染者が出て、柳瀬は火が消えたようになり、グレイスもその影響で、つい最近まで店を閉店していたようです。この時期はどこもそうですが、コロナの影響で、飲食店街は大打撃でした。

 ようやく再開しましたが、昨晩はお客様もまずまず集まっています。然し、一時の華やかさはなかなか戻っては来ません。早く元のようにたくさんお客様が来るといいと思います。チーママは小紋の薄い水色の絽の着物です。早、もう夏の装いになっています。ママがやってきましたが、ママは濃い目の黒系の着物で、刺繍のしてある絽の着物でした。実に着物がよく似合います。ママも着物ですが、ママは濃い色が似合います。黒系の絽の着物です。然し、よく見ると夏物に豪華な刺繍が施してあるのが贅沢です。この店はみんな服装がよく、いかにもアッパークラスに支持されている高級感が漂っています。先ほどの八祥で味の贅沢を楽しみ、ここでは女性の綺麗な着物を楽しみ、久々の柳ケ瀬で贅沢な思いをさせていただきました。

 全く気の置けない仲間と酒を飲むのは楽しいことです。と言っても、私は、病気がありますので、この日のために10日間酒を抜いています。その分この晩は随分飲みました。まぁ随分と言っても酒で2合、ハイボールで2杯。至っておとなしい酒です。抑えて押さえて飲むことを覚えたため、酒量はささやかなものです。それでもこの晩はとても楽しい思いをしました。

 この後、峯村さんはJRで帰るのですが、いつも峯村さんは上機嫌で、気持ちよく酔っぱらっていますので、電車を乗り越さないかが心配です。実は、前に、余りに気持ちが良くて、自宅のある春日井の駅を通り越して、多治見まで行ってしまったそうです。深夜に多治見まで行ったなら取り返しのつかないことになったのではないかと思います。峯村さんほど冷静な人でも、機嫌がよくなればミスもするのだと知りました。

 私はホテルに泊まって、翌朝名古屋に入ります。楽しい晩はあっという間です。

 

よく朝は、岐阜から名古屋に、UGMでの指導です。こちらも4人の集まりです。時間はありますのでじっくりと指導をしました。15時に指導を終え、15時30分に名古屋駅、16時30分に新大阪に入りました。さて、昨日からのお約束のブログを書こうかと思って、パソコンをあけましたが、そのまま数時間寝てしまいました。少々疲れました。眠りから覚めて、さてブログを書こうかと思ったら、空腹を感じました。

 そこで、新大阪駅の二階にある東洋亭に行き、ハンバーグライスを頼みました。本当は大山地鶏のソテーが食べたかったのですが、ここもコロナの影響か、メニューの数が半分になっていました。食べたいものが自由に食べられないのは悲しい話です。無論ハンバークもこの店の看板メニューではありますが、今晩は地鶏が食べたかったのです。

 いたし方ありません。少々不機嫌になりましたので、ハイボールを頼み、サラダをおかずにハンバーグが来るまで、一杯やりました。本当は一杯飲んではいけないのです。

というわけで、部屋に戻り、ブログを書き始めましたが、食事ばかり描いているうちに既定のページがいっぱいになってしまいました。芸能芸術のお話はまた明日。

続く

 

 

 

 

 

コロナ後の指導

 昨日の、神田明神は、日向大祐さん、早稲田さん、村川さんの3人が見に来ました。

神田は広々したいい舞台ですので、本当なら、毎月、若手マジシャンのライブをやりたいくらいの気持ちです。実際そうなるといいと思います。私にもう少し力があれば、それくらいのこと楽々として見せるのですが、非力で済みません。

 

 今日から3日間、指導に出ます。コロナウイルス後初めての関西行きになります。参加者もそう多くはないと思いますが、少ないからと言って休んでいては維持できませんので出かけます。

 マジシャンの中には、ネットを利用して指導する人がいます。うまい方法だと思います。しかし私は芸能の継承は直接指導することによってのみなされる。という考えで指導していますので、ネット指導は致しません。その価値のわかる人のみご指導いたします。とにかく、これから新幹線に乗ります。

 芸術芸能について書いた文章がありますので、夜か、明朝まとめてブログに出します。ご期待ください。

 

十牛図 7

 今日は昼から神田明神で公演があります。お弁当付きで5600円ですが、今からではお弁当は間に合いません。公演だけをご覧になるのであれば、3000円です。ご興味ございましたらお越しください。

 

 さて、連日、禅の十牛図を解説していますが、そもそもマジックの関係書籍や、マジシャン自身が禅の十牛図を語ると言うこと自体が恐らく今まで無かったろうと思います。自分自身が、他のジャンルの人にはどう見えるか、或いは、自分が周囲の芸術家と比べて、どの程度に位置する人物なのか、という客観的に自分を見る発想がマジシャンにはないように思います。

 マジシャンの多くはマジックの世界の中でどう評価されるか、そこにばかり考えが集中しています。然し、それで日本の中で成功することは難しいのです。いや、自分自身では成功したと思っていても、世間は無評価なのです。なぜなら自分が世間から相手にされていないのですから。

 芸能、芸術の発展段階を十牛図に当てはめると、面白いように一致します。特に天一の人生と照合すると、まさに天一は名人の道をまっすぐに進んでいます。ところが、今のマジック界で松旭斎天一は必ずしも大きく評価されてはいません。これは日本人が海外のマジシャンばかり評価して、日本人を見つめないために人の偉大さがわからないのです。日本人の行動は極めて偏(かたよ)っています。特にマジック界は、狭いマジシャン仲間の評価を絶対の評価と勘違いしています。

 十牛図の残り二つを天一の人生と照らし合わせてみてみましょう。

 

十牛図 7

 

9、返本還源(へんぽんかんげん)

 そこには梅の古木が描かれています。ちらほらと花弁が散っています。この風景は自宅の庭に咲く梅です。功なり名を挙げた牧童は自宅の梅を見て、美しいと気付きます。然し、梅は初めから美しかったのです。自分が気付かなかっただけなのです。

 あちこちを彷徨(さまよ)い歩いて、自分自身が見えた時に、気付いたことは、自分がこの世の中にいようといまいと、自分が何を悟ろうと悟るまいと、自然の世界は美しいと言うことです。禅の世界では、あるがままに生きることが大切なんだと教えます。そんなことなら近所の爺さんでも婆さんでもとっくに気付いていることです。何のことはない当たり前のことですが、ここまで来て、当たり前なことを言われると妙に重さを感じます。ここでも禅は原点に帰って物を考えることを勧めます。

 

 学生の頃、何気に浅草演芸ホールを覗いたら、三遊亭円生師匠が出ていて、道具屋を演じていました。円生師匠ほどの名人が前座がするような道具屋を語るのは珍しいと、座って聞いていると、これが絶妙にいいのです。名人の評価を手に入れて、誰も疑うことのない芸を持ちながら、全ての欲を捨て、全てのことがわかっていながら前座ネタをする。この枯れ具合がいいのです。

 話は面白く、語る世界は前座では決して表現できない世界でした。それでいて押しつけがましさがなく、出て来る人はごく自然に仕分けられていて、芝居っ気もありません。明治時代の東京の風景はきっとこうだったんだろうなと推測させます。もう二度と聞くことのできない世界を覗き見て、私は幸せな気分になりました。

 十牛図の梅の枝を眺める図は、まさに円生師匠が道具屋を演じる世界なのではないかと思います。ダイバーノンが晩年に、ウイスキーを飲みながら、ポケットの通うカードを見せてくれた時などは、まさに私のような若者に、無欲で、絶品の演技を惜しげもなく演じてくれたわけで、あれがマジックの返本還源の世界かなぁ、と思います。あるいは、島田晴夫師がもう名声を手に入れた後、欲を捨てて、自然に両手からハラハラカードを出したときなどがそれに匹敵するのかなぁ、と思いました。

 島田氏のカードを見ていると、いつも私はブラームス交響曲の4番第4楽章が脳裏に鳴り響きます。中年の孤独、儚さ、悲しみ、全てが合わさって、木枯らしとともに消え去って行きます。独自の世界です。何にしてもそこまで芸が到達したマジシャンと言うのは少数です。多くは欲を抱えて、発展途上で亡くなっているのですから。

 

 天一は、アメリカ帰国後に、歌舞伎座を10日間開けて凱旋公演をします。今日の天一の評価は、この歌舞伎座以降の興行によるものが大きいと思います。西洋の新しいマジックと、日本の伝統的な手妻を融合させて、文字通り自分の世界を作り上げたのです。

そして天勝をスターに押し上げ、後にアメリカから帰国した、養子の天二のスライハンドマジックを取り入れ、美貌の天勝、技の天二、風格の天一で三枚看板を張って、日本中を回って大活躍をします。

 然し、天一の人生は禅のような恬淡としたものにはならず、やがて天勝と天二のいがみ合いに発展し、一座は分裂します。

 

10、入纏垂手(にってんすいしゅ。但し纏の文字は、左の糸片を取って、右にこざと片がきます。)

 ここでは、牧童は中年になり、布袋様にように腹が出て、粗末な服装をして、ズタ袋を肩にかけ、杖を抱えて旅に出ます。またも原点に帰って、彷徨い歩くのですが、今度は自分を探す旅ではなく、世間の人を幸せにするための旅です。顔は満面の笑顔で、

出合う人すべてに悩みや不安を取り払ってあげます。欲を捨てて人に尽くして生きて行く姿です。

 

 マジックでこの境地に至るかどうかは難しいでしょう。芸能に生きるものは様々な欲を抱えて生きています。すべての欲を捨てて人のために生きると言うのは言うは易く、行うは難しです。

 チャニングポロックが40歳半ばで引退をして、それからは全くマジックを演じることなく、それでもマジックの大会やショウに顔を出して、相変わらずの風格で、堂々と客席で若いマジシャンのマジックを見ている姿は立派でした。多くの鳩を出すマジシャンを見ても決してそのマジシャンの否定はせず、良い評価をしていました。

 ポロックがマジシャンの芸を悪く言うことは一度もありませんでした。師には、自身の偉大さは自身が作るものだと言う信念があったようです。常に背筋を伸ばして椅子に腰かけ、乱れた姿勢は一切見せませんでした。若いアマチュアにも一個の人格者として扱い、あいさつも丁寧でした。これが最終境地とは言えないかもしれませんが、私の知るマジシャンの中では最高の人でした。

 

 天一は天二、天勝の仲たがいを見ながら、明治44年に引退宣言をします。一座は天二に譲り、天勝は新たな一座を起こします。当人は手塩にかけて作り上げた一座をあっさりと養子に譲ったのです。それ以降は病気療養に専念し、時折後進の舞台を見ていたようですが、一切舞台に上がることもなく、マジックをすることもなかったそうです。

 明治45年に癌で亡くなります。死亡記事は当時の新聞のトップ記事になり、葬式の行列は2㎞に及んだそうです。市電はストップし、黙祷して行列を見送ったそうです。日本のマジシャンとしては最高の人気と地位を手に入れた人でした。

終わり

十牛図 6

 私は日本と言う国を愛する一人ですが、唯一日本人の他人を監視する目だけは辟易します。これはもう異常と言っていいくらいです。あまりに偏狭なものの考えで、自分以外の人を自分の尺度に閉じ込めて考えようとします。特に芸人などはこれではばかばかしい発想も生まれなくなります。

 今は、渡部健さんがみんなにとっちめられていますが、芸人として考えたなら、彼は強姦したわけではありませんし、互いに同意のもとに遊んだわけですから、誰一人迷惑をかけたわけではありません。謝罪しなければいけないのは、奥さんの希さんに対してであって、世間の人が糾弾する話ではありません。

 ただ、やり方があまりに夢がありません。ちゃんと立派なマンションでも用意してことをしているならいいのに、トイレでことを済ませるなどと言うのはみみっちい話です。大物タレントとしての大きさがありません。

 然しそれ以外のことは、他人の口をはさむ話ではありません。ましてや、テレビ番組の降板などは必要のない話です。もっときわどい浮気をして、それがばれて、しかも堂々マスコミに出演しているタレントは山ほどいます。

 それが渡部さんに許されない状況にあるのは、彼の本来持っている性格の暗さかもしれません。「やってしまいました。ごめんなさい」。と早くに謝れば大した話ではなかったはずです。だらだら話を伸ばしているから、ライバルからよからぬ話が出たり、性格やら、日常の些事にまで口出しされて、悪者扱いになっているのです。

 そもそも芸能界には、性格の悪いタレントは山ほどいます。人前に出よう。人を押しのけて成功しようとする人に性格のいい人などいないのです。そんな中でこれまで何とか生き伸びてきた渡部さんは、ましな部類の人なのではないかと推測します。

 私はまだ渡部さんにお会いしたことはありませんが、この人の情事を追いかけて、連日話題にしているテレビ局は、めでたいと思います。公共電波を使ってやるべきことは他にもっとあるはずです。また、それを見ている主婦は、「あの人はひどい人だ」。と表向き正義感をかざしつつ、その実セレブの集まるクラブを密かにメモして、有名人と一緒に楽しいことが出来るなら、ママ友を誘って遊びに行きたいと考えている人も多いのではありませんか。あぁ、日本は平和です。めでたし、めでたし。

 

十牛図 6

人牛俱忘(にんぎゅうぐぼう)

 ここから先はまさに禅の世界です。絵は全くの白紙で、何も書いてはありません。つまり空(くう)を表現しています。色即是空、空即是色(しきそくぜくう、くうそくぜしき)の空です。色(しき)とは色々な物を意味します。つまり物です。空とはなにもない空間を意味します。訳せば、物は実は何もなく、何もないと言うことはすなわち物だと言うことです。よくわからない話ですが、順に考えたなら納得できます。

 例えば石造りの宮殿は、立派な作りで永久に壊れずに残りそうですが、実は長い年月の内には壊れて粉々になり、砂や塵になって消えて行きます。

大木も、何千年もそびえていそうですが、やがては枯れて、土になってしまいます。物に永久はなく、どんなものでも形を変えて、しまいには消え去ります。逆に、空は空ではなく、物だと言うのです。一見何もないように見えますが、空には実は酸素もあり、窒素もあり、コロナウイルスもあります。空は空に見えて実は何かがあると昔の人は考えていたのでしょう。

 人は周囲から認められたり、地位を得たりすると余計なことばかり考えます。それが偉くなればなるほど余計なことを考え、様々な悩みを抱えます。そんなことを考えていると全く人が変わって行きます。そこで禅では、地位も名誉も、知識も、一度捨てなさいと教えます。悟りすらも捨てなさいと教えます。全くの空にならなければこの先には進めないと言います。物を持つから不幸が増えるのです。

 

 マジックで言うなら、地位や人気が上昇すると、金儲けにあくせくしたり、地位を維持するために余計なことばかりするようになります。元々、少年の頃は、ちょっとマジックが出来て、周りの人が喜んでくれればそれで満足だったものが、うまくなって、人気が出れば、余計なことにばかり関わり合うことになります。そうなら、全く原点に帰って、純粋に人を楽しませることのみに専念すべきだと言うのです。(禅では度々原点に帰ることを勧めます)。但し、この立場で原点に返ることは至難の業です。

 

 天一は、人気が出て、日本中で実力を認められると、たくさんの弟子を取りました。その上で、弟子が学びたいマジックがあると、惜しげもなく教えたのです。後の話ですが、天一の得意芸のサムタイも、天洋が学びたいと言うとすぐに教えます。天勝には水芸を教えています。どちらも松旭斎の重要な芸であるのに弟子に教えています。こうしたところは天一の度量の大きさを意味しています。それがために、百年以上たった今も松旭斎一門は、奇術界の最大派閥なのです。

 話は前後しますが、明治28(1895)年に、天一は、天勝を弟子に取ります。この時天勝は9歳でした。初めは女中見習で入ってきたのですが、天勝の美貌を見るや、直ちに舞台で使うようになります。愛嬌のある子でたちまち人気が出て、こののち、アメリカから帰って来ると、もう天一と二枚看板になっていました。

 天一の偉大さは、明治34(1901)年に、アメリカヨーロッパに公演旅行に出かけたことです。この時天一48歳。今の48歳とは違い、この時代の日本人の平均寿命は、50歳~55歳くらいです。夏目漱石が49歳で亡くなっていますが、その頃は漱石を早死にだとは誰も言わなかったのです。つまり天一は、人の寿命が終わるころにさらなるチャレンジをしたわけです。なぜそんな晩年に海外に出かけたのかと言えば、一つは、新しいマジックを習得するため。二つ目は、自身の技量を試すため、三つめは稼ぐため、

 天一は海外に出るために一座を畳み、座員の中から腕のいいものを7人選び、通訳を雇ってアメリカに渡ります。日本では知らぬ人のいない天一ですが、アメリカでは無名です。全くの最低ランクのギャラから仕事を始め。苦労を重ねますが、たちまち実力を認められ、トップランクで活躍します。そしてヨーロッパにもわたり、ドイツ、フランス、イギリスなど各国を回って、王侯貴族の前で披露し、一流劇場に出演して、好評を得て帰国をします。マジック雑誌のスフィンクスには、世界5大マジシャンの一人に天一が選ばれています。

 この天一の行動は、功なり名を遂げた天一が、アメリカに渡って、一から演技を見せたと言う点が、まさに、人牛俱忘の空の世界を意味し、空からもう一度自分を見つめることになったと考えます。50に近い天一が3年半も海外に出ることは容易なことではなく、英語は全く話せず、西洋の食事もほとんど口に合わなかったと思われます。それがために相当ストレスをためたと思われます。成功の陰に苦悩は大きく、晩年には胃癌になって、60歳で寿命を終えています。

 然し、天一のこの行動は、明治という時代にあって特筆すべき活動です。今日までも天一の偉大さを伝える偉業です。

続く