手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

芸能 芸術 の始まりは

 言葉は時代とともに意味が変化して行きます。 芸術と言う言葉の意味も、この200年で大きく変わっています。芸能、演芸、芸術は何がどう違うか。ことさら業種を区別して、これは演芸、これは芸術とまことしやかに言う人がありますが、私はあまり意味はないと思います。

 例えば、芸術のカテゴリーにある古典芸能や、クラシック音楽の中にも、お粗末な内容の作品を見ることがありますし、ベートーベンや、ブラームスのようにしっかりした考えで作られた作品でも、演奏家や、指揮者の未熟によって、全く心に響いてこない人もあります。これが演芸ならば、下手でも、多少、笑ったりおもしろがってみることが出来ますが、クラシック音楽のつまらない演奏会と言うのは取り付く島がありません。

 

 芸術、芸能、演芸はどう違うのでしょう。少なくとも200年前の頃には特別な違いはなかったはずです。芸も、能も、術も、意味するところは同じです。どれも「わざ」と言う意味です。ピアノが弾ける、バイオリンが引ける、絵が書ける、マジックができる、 それら、人を超えた技術を要している人はすべてが芸術家だったのです。芸術とは、単なる表現するための技術だったのです。

 それは、当時、ピアノ一台所有することは、家一軒建てるのと同じくらいの費用が掛かったために、所有者が限られていたのです。しかも、日がな一日ピアノを演奏できる人と言うのは貴族の子弟か、高所得の実業家の家族でなければ不可能だったのです。

一つの町に何人と居ない家族の中で、ピアノが弾けると言うことはそれだけで選ばれた人であって、ピアノを所有している毎日演奏していると言うことはそれだけで芸術家だったのです。

 然し、今日では素人の弾くピアノを芸術とは言いません。私の家にはピアノがあり、女房が一日3時間くらいピアノの稽古をしています。めったなことでは人前で弾きませません。その彼女の演奏するピアノは芸術かと問えば、今日の間隔では芸術とは遠いものです。

 

 なぜか、それはその後にベートーベンが現れたからです。ベートーベンの肖像はみんな知っていますが、ベートーベンがなぜ偉大かは音楽の授業では語られません。ベートーベンは音楽に哲学を持ち込んだ人です。

 それまでのハイドンなどは、宮廷音楽家でした。宮廷音楽家の仕事は貴族のお茶会や、夜の舞踏会で音楽を演奏をすることです。その音楽は、貴族の会話の邪魔をしてはいけません。なるべく自己主張せずに、綺麗で静かな音楽を演奏していれば一生生活して行けたのです。すなわちBGMの演奏と作曲が宮廷音楽家の仕事だったのです。

 そうした中でハイドンは作曲もし、自分のオリジナル曲を数多く発表しました。それらは貴族の間でも認められていましたが、その知名度は限定されていました、モーツァルトも同様に、貴族のために作曲をしていました。モーツァルトは途中から、大衆の存在に気付き、一般大衆のために音楽を作曲するようになりますが、大衆の好みを読み切れていなかったために、収入に恵まれず、惨めな生活を送りました。

 そしてべートーベンの登場です。ベートーベンと言う人は、音楽室の肖像画から見ると、頑固一徹で、自説を曲げない、偏屈な人のように見えますが、どうしてどうして流行に敏感で、人の心をつかむのがうまく、自作の音楽を高く売り込むことも上手でした。顔つきも若いころは精悍で、貴族の娘たちの間では結構人気があったようです。

 そして何より強烈だったのは、彼の音楽が、強い個性と、意志的なことでした。いきなり「人生いかに生きるべきか」。を問いかけます。ベートーベンの音楽は、お茶会で雑談をしながら聞く音楽ではありません。入場料を払って、音楽会で真剣に聴くための音楽として作られたのです。

 それはこの時代に力をつけてきた、企業家や、資産家を新たなスポンサーとするために、より刺激の強い、明確な考え方の音楽を作って見せる必要があったのです。ベートーベン以降は、特定の貴族の好みに合わせるのでなく、自分自身の個性を世間に訴えて、自己の主張を展開する音楽家が育って行きます。音楽は鳴っている音楽の背景に哲学が存在するようになります。

 べートーベンで言うなら、「苦悩から歓喜への道」がテーマです。ベートーベンは人生をかけて、同じテーマを語り続けます。苦難にめげず、克服してこそ喜びがある。そうした曲を作り続けました。ソナタ形式を形式のとどめるのでなく、弁証法的に考えを戦わせて、徹底的に議論します。音と音とが戦うのです。そして勝利に導きます。

 モーツァルトハイドンには、音の戦いはほとんどなかったのです。そんな曲ができると、それに合わせて曲の意味をきっちり理解して、背景まで語り込める演奏家が求められるようになり、そうした人を芸術家と呼ぶようになったのです。

 

 同時期に、絵画の世界も大きな変革がありました。200年前の画家と言うのは、殆どは肖像画書きを仕事にしていました。金持ちは自分の姿を残そうと、画家に大金を支払って、自分の肖像を描かせたのです。画家の技術とは、頼まれた人を似せて書くことです。似ていれば芸術だったのです。今でも街角にいる似顔絵書きと同じです。

 ところが、ある日突然、失業の危機が訪れます。写真の発明です。写真は一瞬で真実を映しますので、絵描きが半月一か月かかって、肖像画を描く手間がいりません。当初は小さなサイズの写真しか作れませんでしたので、画家連中も高を括っていたのですが、徐々に写真技術が発達すると、画家の職業を脅かしてゆきます。

 ここで画家ははたと悩みます。似せると言う点では絵は写真にかないません。似せて描くことは技術にならなくなったのです。悩みます。そこで出した答えは、似せることを諦めることです。絵画は似ていなくてもいいと気付いたのです。

 似せることよりも、「自分はこう見た」、「こんな世界を描いてみたい」、という、画家の意思のほうが重要で、画家の考え方、画家が作り上げた世界に理解者が代価を支払うようになったのです。

 おりしも、幕末期に至って、西洋は、日本との交流を深めます。すると、日本の浮世絵がたくさん輸入されるようになります。それらの絵は、当初は、二束三文で売られていました。と言うのも、売れ残った浮世絵が、たまたま紙くず屋に渡り、当時しきりに輸出していた、お茶を入れるための木箱が湿気を防ぐために、内張りに、和紙を張っていたのです。その和紙がたまたま売れ残りの浮世絵で、茶箱の裏に何重にも浮世絵を張っていたのです。このため、三代目広重などは、西洋では、茶箱の広重と呼ばれて、人気を博します)。

 西洋人は茶箱の裏紙を丁寧にはがして行き、それらの浮世絵を見てびっくりです。そこに描かれていたものは、全く自由な画風で、少しも真実が描かれてはいなかったのです。西洋人は浮世絵を見て、初めは単に未熟で下手な絵だと思っていました。しかし一度見たら忘れられません。何度も何度も見ているうちに、この荒唐無稽な版画こそ真実を語っているのではないかと気づき始めます。

 浮世絵を見ると、人間の骨格など無茶苦茶です。写楽の絵などは、胸から突然両手が出てきたような絵があります。歌麿美人画も、実際人を立たせたらあんな風には立てません。しかしそんなことはどうでもいいのです。リアルに描く必要がないのです。自分はこう考えた、自分の描きたい世界はこれだと言う画家の意思こそが重要なのです。

 写真に押されて、絶滅の危機だった西洋絵画は、浮世絵を見て、生きる道を学びます。そこから近代の絵画が発展して行きます。

続く