手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

芸能 芸術 なんのこと

 昨日は、来年2月の仕事の打ち合わせのために埼玉まで行ってきました。埼玉は決して遠くはありません。私の家から車で40分足らずです。水芸や蝶々を含めたフルショウを一日2回披露する企画を引き受けました。大きな仕事です。別にワークショップの仕事が一本つきました。全くの芸術、文化事業です。

 私はこうした大きな仕事が年間十本近くあるために、舞台回数が少なくても生きて行けます。これは長くこの道を続けてきたことで手に入る仕事ですので、有難いことだと思っています。

 但し、ネックとなるのは入場者数です。通常300人入る劇場なら、コロナウイルスの影響で、150人しか容れられません。意味のない入場制限です。こんなことをするから芸術がしぼんでしまうのです。ウイルスが感染するかもしれない。と心配して、過剰に対応した結果です。ご心配なく、コロナウイルスは感染しません。

 それが証拠に、京浜東北線や、中央線、山手線をご覧ください。相変わらず通勤ラッシュで人がひしめき合っています。連日、数分毎にあれだけの人を電車に乗せて、走らせていて、日本人のほとんどがウイルスに感染しないなら、コロナウイルスは感染しないのです。そうであるなら、ことさら劇場だけ入場制限するのはアンフェアな行為です。私が言っていることが違うと言う人がいるなら、山手線の混雑で、なぜ感染しないのか、その因果関係をどなたか解説してくださいませんか。

 人を集めると言うことは大変な努力が必要です。コロナウイルスが起こる前ですら、我々は自分の公演をどう満杯にするか、いつもいつも苦心していたのです。それを、一方的に、入場者を半分にすると言う行為は芸術の冒涜です。実演家の生活を全く無視しています。これでこの先芸能、芸術が生存してゆけるのかどうか。不安になります。誤った行為は一刻も早く正していただきたい。劇場の規制は無意味です。

 

芸能 芸術 なんのこと

 画家は、写真技術が生まれたことで、ものを似せて書く技術が無意味になります。そうなら画家の技術とは何か、と言うことを真剣に考えるようになります。そして初めて自分の心の中と向かい合います。その時日本の浮世絵に出会います。浮世絵がこの時代の西洋の画家に与えた影響は大きく、その後に出て来る印象派の絵画や、ゴッホなどに熱烈に支持されます。ゴッホの生涯の憧れは日本に行くことだったのです。

 西洋絵画は、独自の発展をして行き、後のキュビスムなど、個性的な作風がどんどん現れます。それに対して、多くの大衆は、旧来の、綺麗な素直に描かれた絵画の価値基準から超えることなく、新しい発想の絵画を「変だ」。と見るようになります。

 丸いリンゴを四角に描いたり、赤いリンゴを紫色で描いたり、ゴッホのように、農村風景をまるで炎のように、木も、道も、教会も、すべてゆらゆら揺らめいて描いたりします。実際の風景とゴッホの世界とはきっとずいぶん違うもののはずです。

 これらの絵画を見て、多くの人はただ「変だ」と言います。今となっては信じられない話ですが、実際ゴッホの絵を見て、当時の批評家が、「木がまっすぐに描けていない」。と真面目に批評しています。批評家には、ゴッホが単に下手な画家に見えたのでしょう。が、ゴッホにとってはその「変な絵」こそ自分の発想なのです。曲がった木だからゴッホなのです。

 芸術は、発展するに及んで、古典的な考えでものを見る大衆からどんどん離れて行きます。と言うよりも、大衆の理解が追いつかなくなって行くのです。多くの人が、ほんの少し発想を変えて、描き手の意思を推量してあげたなら、何ら難しいことをしているわけではないものを、自分の理解を超えた作品に対して、大衆は、難解なもの、理解しがたいものと考えてしまいがちです。

 

 音楽も同様で、音楽が発展して来ると、表に聞こえている音楽をただ弾いて見せることだけでは音楽を表現していることにはならなくなります。決して複雑なことではないのですが、作曲家が何を語りたいと考えてこの曲を作ったかを、音符から読み取れなければ音楽にはならないのです。そのためにプロの演奏家が必要になります。

 芸術は、百年の歳月を経て、楽器を演奏する技術から、曲をどう解釈するかという考え方の方に比重が移ってしまったのです。時代が進むにつれて、音楽はどんどん複雑になり、作曲家の個性が際立つようになって行きました。 それにつれて、芸術と言う言葉の意味も変わって行ったのです。

 芸術が複雑化すると、表現方法も多様化し、なかなかアマチュアの理解で表現することは難しくなってきます。作曲家や、作者の意図するところが読み取りにくいことは多々あります。指揮者が膨大なスコア(全オーケストラの音符)を眺めながら、何日も曲の解釈について苦しむ姿などは、その例です。

 演じる側も、単純に喜怒哀楽をそのまま表現することが成功につながるとは限らないのです。むしろ、芸の本質はもっと、意地悪くひねくれて存在することも多々あるのです。それを見つけ出して、ひねって演じるのが演者の仕事です。

 

 私事で恐縮ですが、私が紙の蝶を飛ばしていると、お客様の中で、私をほめてくれようとする意味で、「まるで生きている蝶みたいですね」。と仰ってくださる方があります。しかし、私は蝶を本物のように飛ばしてはいません。本物の蝶は飛ぶときはもっとせわしないのです。一度モンシロチョウなどが飛んでいる姿をご覧ください。

 蝶は、遠目に見れば優雅に飛んでいるように見えますが、近くで見たなら、ものすごい運動量で、上に下に、右に左に、実にせわしなく、風に吹き飛ばされないように、必死に飛んでいます。然しそれを真似て、舞台で表現したら全く蝶になりません。

 舞台の蝶はもっとゆっくり、優雅に飛んでいます。つまり蝶の芸は決して生きた蝶の模写ではないのです。舞台の蝶は、天上の蓮の台(うてな)の上を飛ぶ蝶なのです。それを、まるで生きているかのよう、と言って褒めてくださることは、有難くはあっても、実は、多くのお客様の理解が、芸能が物を写すことと考えていた時代の芸術観であって、その先の芸術の発展に気づかれていないのです。

 但し、お客様が耽美的な古典の世界を求めていることは一向にかまわないのです。然し、演じる側の意識が百年以上も前の考え方でいては将来がないのです。

次回このあたりを詳しくお話ししましょう。

続く