手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

十牛図 7

 今日は昼から神田明神で公演があります。お弁当付きで5600円ですが、今からではお弁当は間に合いません。公演だけをご覧になるのであれば、3000円です。ご興味ございましたらお越しください。

 

 さて、連日、禅の十牛図を解説していますが、そもそもマジックの関係書籍や、マジシャン自身が禅の十牛図を語ると言うこと自体が恐らく今まで無かったろうと思います。自分自身が、他のジャンルの人にはどう見えるか、或いは、自分が周囲の芸術家と比べて、どの程度に位置する人物なのか、という客観的に自分を見る発想がマジシャンにはないように思います。

 マジシャンの多くはマジックの世界の中でどう評価されるか、そこにばかり考えが集中しています。然し、それで日本の中で成功することは難しいのです。いや、自分自身では成功したと思っていても、世間は無評価なのです。なぜなら自分が世間から相手にされていないのですから。

 芸能、芸術の発展段階を十牛図に当てはめると、面白いように一致します。特に天一の人生と照合すると、まさに天一は名人の道をまっすぐに進んでいます。ところが、今のマジック界で松旭斎天一は必ずしも大きく評価されてはいません。これは日本人が海外のマジシャンばかり評価して、日本人を見つめないために人の偉大さがわからないのです。日本人の行動は極めて偏(かたよ)っています。特にマジック界は、狭いマジシャン仲間の評価を絶対の評価と勘違いしています。

 十牛図の残り二つを天一の人生と照らし合わせてみてみましょう。

 

十牛図 7

 

9、返本還源(へんぽんかんげん)

 そこには梅の古木が描かれています。ちらほらと花弁が散っています。この風景は自宅の庭に咲く梅です。功なり名を挙げた牧童は自宅の梅を見て、美しいと気付きます。然し、梅は初めから美しかったのです。自分が気付かなかっただけなのです。

 あちこちを彷徨(さまよ)い歩いて、自分自身が見えた時に、気付いたことは、自分がこの世の中にいようといまいと、自分が何を悟ろうと悟るまいと、自然の世界は美しいと言うことです。禅の世界では、あるがままに生きることが大切なんだと教えます。そんなことなら近所の爺さんでも婆さんでもとっくに気付いていることです。何のことはない当たり前のことですが、ここまで来て、当たり前なことを言われると妙に重さを感じます。ここでも禅は原点に帰って物を考えることを勧めます。

 

 学生の頃、何気に浅草演芸ホールを覗いたら、三遊亭円生師匠が出ていて、道具屋を演じていました。円生師匠ほどの名人が前座がするような道具屋を語るのは珍しいと、座って聞いていると、これが絶妙にいいのです。名人の評価を手に入れて、誰も疑うことのない芸を持ちながら、全ての欲を捨て、全てのことがわかっていながら前座ネタをする。この枯れ具合がいいのです。

 話は面白く、語る世界は前座では決して表現できない世界でした。それでいて押しつけがましさがなく、出て来る人はごく自然に仕分けられていて、芝居っ気もありません。明治時代の東京の風景はきっとこうだったんだろうなと推測させます。もう二度と聞くことのできない世界を覗き見て、私は幸せな気分になりました。

 十牛図の梅の枝を眺める図は、まさに円生師匠が道具屋を演じる世界なのではないかと思います。ダイバーノンが晩年に、ウイスキーを飲みながら、ポケットの通うカードを見せてくれた時などは、まさに私のような若者に、無欲で、絶品の演技を惜しげもなく演じてくれたわけで、あれがマジックの返本還源の世界かなぁ、と思います。あるいは、島田晴夫師がもう名声を手に入れた後、欲を捨てて、自然に両手からハラハラカードを出したときなどがそれに匹敵するのかなぁ、と思いました。

 島田氏のカードを見ていると、いつも私はブラームス交響曲の4番第4楽章が脳裏に鳴り響きます。中年の孤独、儚さ、悲しみ、全てが合わさって、木枯らしとともに消え去って行きます。独自の世界です。何にしてもそこまで芸が到達したマジシャンと言うのは少数です。多くは欲を抱えて、発展途上で亡くなっているのですから。

 

 天一は、アメリカ帰国後に、歌舞伎座を10日間開けて凱旋公演をします。今日の天一の評価は、この歌舞伎座以降の興行によるものが大きいと思います。西洋の新しいマジックと、日本の伝統的な手妻を融合させて、文字通り自分の世界を作り上げたのです。

そして天勝をスターに押し上げ、後にアメリカから帰国した、養子の天二のスライハンドマジックを取り入れ、美貌の天勝、技の天二、風格の天一で三枚看板を張って、日本中を回って大活躍をします。

 然し、天一の人生は禅のような恬淡としたものにはならず、やがて天勝と天二のいがみ合いに発展し、一座は分裂します。

 

10、入纏垂手(にってんすいしゅ。但し纏の文字は、左の糸片を取って、右にこざと片がきます。)

 ここでは、牧童は中年になり、布袋様にように腹が出て、粗末な服装をして、ズタ袋を肩にかけ、杖を抱えて旅に出ます。またも原点に帰って、彷徨い歩くのですが、今度は自分を探す旅ではなく、世間の人を幸せにするための旅です。顔は満面の笑顔で、

出合う人すべてに悩みや不安を取り払ってあげます。欲を捨てて人に尽くして生きて行く姿です。

 

 マジックでこの境地に至るかどうかは難しいでしょう。芸能に生きるものは様々な欲を抱えて生きています。すべての欲を捨てて人のために生きると言うのは言うは易く、行うは難しです。

 チャニングポロックが40歳半ばで引退をして、それからは全くマジックを演じることなく、それでもマジックの大会やショウに顔を出して、相変わらずの風格で、堂々と客席で若いマジシャンのマジックを見ている姿は立派でした。多くの鳩を出すマジシャンを見ても決してそのマジシャンの否定はせず、良い評価をしていました。

 ポロックがマジシャンの芸を悪く言うことは一度もありませんでした。師には、自身の偉大さは自身が作るものだと言う信念があったようです。常に背筋を伸ばして椅子に腰かけ、乱れた姿勢は一切見せませんでした。若いアマチュアにも一個の人格者として扱い、あいさつも丁寧でした。これが最終境地とは言えないかもしれませんが、私の知るマジシャンの中では最高の人でした。

 

 天一は天二、天勝の仲たがいを見ながら、明治44年に引退宣言をします。一座は天二に譲り、天勝は新たな一座を起こします。当人は手塩にかけて作り上げた一座をあっさりと養子に譲ったのです。それ以降は病気療養に専念し、時折後進の舞台を見ていたようですが、一切舞台に上がることもなく、マジックをすることもなかったそうです。

 明治45年に癌で亡くなります。死亡記事は当時の新聞のトップ記事になり、葬式の行列は2㎞に及んだそうです。市電はストップし、黙祷して行列を見送ったそうです。日本のマジシャンとしては最高の人気と地位を手に入れた人でした。

終わり