手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

一蝶斎の風景 5

 今日は神田明神の地下一階の舞台で手妻のショウをいたします。全部客席を作れば150人位入るいい劇場です。但し今は、ウイルスによって席数を制限して、30人程度の入場にしています。こんな規制をされることは残念です。然し、ご興味の方はお越しください。お弁当はもう間に合いませが、ショウをご覧になるのでしたら3000円です。

 

二羽蝶の発想 

 蝶を二羽にしたと言う発想は、斬新なものでしたが、二羽蝶は一蝶斎のオリジナルかと言えば、そうではなかったと思います。私は、蝶の芸には初めから予備蝶があったのではないかと思います。蝶の演技は、何かの都合で風で蝶が遠くに飛んで行ってしまうことなどが結構あります。その時、咄嗟にもう一羽蝶がないと興がそがれます。

 大阪の帰天斎派の蝶が、二羽蝶を演じる際に、お椀を使って、蝶に水を飲ませるくだりがあります。水飲みの形です。帰天斎派では、そこから突然二羽目の蝶が生まれ、蝶の連れ舞になります。

 この二羽蝶にするお碗の段は、元々、谷川定吉の演じた古い型では、予備蝶を入れておいたのではないかと思います。恐らく一蝶斎は何度か予備蝶を使ううちに、予備を使うことで二羽にするアイディアを思いついたのでしょう。

 実際一羽から二羽になると、お客様の反応がパッと変わります。急に客席が明るくなるのです。二羽になったとたん男女の関係が生まれたことが誰にもわかるのでしょう。一蝶斎も、二羽蝶を演じて、観客の反応がはっきり変わったことを悟ったはずです。ここから、一蝶斎は、蝶の演じ方を変えていったのだと思います。すなわち、ただ、型できれいな飛び方を見せていた芸から、人の心の奥を語る蝶になって行ったのです。

 

 蝶が、型をなぞることで様々な情景を見せていたものから、人生を語ることになったと言うのは、演芸の世界から芸術を語り始めたと言うことなのです。時あたかも文政年間。1820年代のことです。先に進む前に、少しこの時代の人物を比較してみましょう。

 

化政時代の日本は芸術の先進国

 一蝶斎は、天明7(1877)年生れ。谷川定吉から蝶を習ったのは、文政2(1819)年。一蝶斎に改名したのは、文政3(1820)年。二羽蝶を飛ばしたのは、文政5?(1822)年頃。死去したのは、明治2(1869)年。

 一蝶斎は、音楽家で言うなら、べートーベン、ロッシーニとほぼ同時代の人で、

 ベートーベン、1770年生れ、1829年死去。

 ロッシーニは、1792年生まれ、1868死去。

 つまり一蝶斎を西洋音楽家と比較したなら、古典派から、ロマン派の最盛期の時代に活動したことになります。

 ベートーベンの晩年の大曲、第9交響曲の発表が1824年です。1824年と言うと日本史との結びつきはピンときませんが、一蝶斎の二羽蝶を発表した文政5年の2年後。すなわち文政7(1824)年と考えると面白いと思います。西洋音楽が初めて、音楽に哲学を取り入れた時代に日本では、一蝶斎は手妻に哲学を取り入れていたのです。

 文化文政期の日本の芸術の成熟度は、世界と比べても最先端にあったでしょう。ざっと当時の芸術家の活躍年代を並べても、

 北川歌麿は、宝暦3(1753)年生まれ。文化3(1806)年死去。

 葛飾北斎は、宝暦10(1760)年生れ、嘉永2(1849)年死去。享年88

 歌川(安藤)広重は、寛政9(1797)年生まれ、安政5(1858)年死去。

 

 北斎などは88まで長生きをしましたが、その名を不動のものにした「富岳三十六景」は文政6(1823)年、実に63歳の発表です。奇しくも、一蝶斎の二羽蝶と重なります。

 日本の浮世絵と比べると、西洋絵画はずっと遅れて発展をします。絵画の中に自己を見つめると言う、ただそれだけのことが簡単ではなかったのです。印象派のモネや、ルノアールセザンヌ、などが活動するのは1860年代です。しかも当時のフランス画壇は彼らに懐疑的で、1860年のパリサロンでは軒並み印象派の画家を落選させています。

 あまりに極端な差別をしために、同情したのは、当時の皇帝ナポレオン3世で、皇帝は、印象派の画家を気の毒がって、落選画家のための展覧会を開催します。これは好評で、多くの観衆を集めました。この催しにより印象派は大きく認められるようになります。1860年代のことです。因みにこの時、ゴッホはまだ7歳でした。

 つまり、日本ではすでに多くの芸術家が一生を終えていたころに、ようやく浮世絵に啓発された西洋画が、改革を始めたわけです。

 

水野忠邦の暗黒政治

 江戸文化が花開いた、化政時代と言うのは、文化元(1804)年から文政13(1830)年までを指しますが、その後の天保期も江戸文化はずっと花開いていました。水野忠邦が現れて天保の改革天保12年)が始まるまでは、大衆は江戸文化を享受していたのです。水野忠邦の改革は、江戸の文化をたちまちひっくり返し、暗黒政治が始まります。

 滑稽本などで、政治を批判した多くの文人が牢獄につながれ、歌舞伎の大改革を行った七代目団十郎は江戸を追われて江戸の芝居小屋に出られなくなります。その芝居小屋は、日本橋の境町、葺屋町を追われ、浅草猿若蝶にそっくり移転になります。浅草は今日では東京の中心ですが、天保時代は郊外です。

 軒並み有名な芸術家が捉えられ、罪とは言えないような罪を着せられて投獄されるのを見て、一蝶斎は身の危険を感じるようになります。そこで、江戸から離れる決意をし、名古屋、京、大坂、西国を回り、広島の宮島歌舞伎にまで興行して回り、3年間江戸を離れます。

 江戸時代になると早くから興行のルートが出来て、興行主も現れて、西、東の芸人、役者が往来するようになります。また、地方の祭礼などと結びついて、大小の興行が切れ目なく手に入るようになっていましたので、芸人たちは地方、中央を一回りするだけで大きな収益を上げていたようです。

 ちなみに地方興行のことをドサ回りと言いますが、これは佐渡ヶ島が江戸初期に金が豊富に取れたための、一時期相川の町は10万人の人が集まり繁栄していました。そこへ出かけて芝居をすると、給金が江戸の二倍、三倍稼げたと言うので、みんな佐渡佐渡へと草木もなびいたわけです。然し、佐渡まで行くと言うと都落ちをするようで聞こえが悪いため「ちょっとドサに行ってくる」。と、言ったのが始まりだそうです。

 当時の一蝶斎は、蝶だけではなく、怪談手品や、衣装変わり、水芸の原型とも思われる作品まで演じていましたので、一座の裏方表方を合わせると20人くらいはいたのではないかと思われます。道具立ては大きく、2トンや3トンはあったと思われます。それらを運んで興行することは簡単なことではなく、かなり早くからコースを決めて、興行先と交渉をして、移動手段まで工夫しなければならなかったでしょう。

 私はこの3年間に及ぶ西国興行にとても興味があります。然しわからないことだらけです。明日はその分かっている部分と私の推測を交えて、お話ししましょう。

続く