手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

一蝶斎の風景 4

 明日はまた,神田明神の公演です。近くの料理屋から取り寄せた鯛めし弁当が好評です。弁当付き5600円。但しお弁当は事前申し込みが必要です。ショウを見るだけでしたら3000円です。12時開場です。

 明後日、18日から関西方面に指導に行きます。毎月の指導と、神田明神や、玉ひででの舞台。他にパーティーなどがあって、何とか私は、生きて行くことはできます。多くの実演家の苦労を思えば、私は恵まれていると思います。

 昨日夕方、前田知洋さんから電話がありました。急に私と話しがしたかったそうです。声を聞くのは数年ぶりです。今年の正月のブログに築地新喜楽の座敷の話が出て来ますが、当時デビューして間もない前田さんに、座敷の仕事を紹介した話が出て来ます。たまたま前田さんがそれを読んで懐かしくなって電話してきたそうです。全ては30年前のことです。いいですね、こうして同じ世界で30年生きて来て、成熟した仲間の付き合いができるようになって話ができるのは互いが幸せなことです。

 昨日の夕方に、澤田隆治先生から新刊の本が届きました。「永田キング」さんの物語。かなり分厚い本です。80歳を過ぎてここまでの創作活動をされることに敬服します。また私のようなものにまでご本を頂いて、そのご配慮に感謝です。明後日からの指導の旅に出ますので新幹線の中で読んでみようと思います。

 

柳川一蝶斎誕生

 一蝶斎は、近江屋庄次郎から柳川一蝶斎に改名して、心機一転、活動を始めます。この改名がいつなのかははっきりとはわかりませんが、蝶を習った翌年、文政3(1820)年くらいではないかと思います。物の資料によると、一蝶斎は、若いころは柳川蝶之助を名乗っていたと言う資料がありますが、それは間違いです。一蝶斎は初代です。我々の知る一蝶斎より以前に一蝶斎はいません。

 

 昨日お話ししたとおり、一羽の蝶を飛ばすことに人生を賭けようと決意したからこそ、一蝶斎と名乗ったのであって、これ以前に一蝶斎はいないのです。蝶之助と言う名前の「之助」と言うのは、之(これ)を助ける、と言う意味ですから。一蝶斎を補佐する立場の者が名乗る名前です。つまり、初めに一蝶斎がいなければ蝶之助は成り立ちません。近江屋庄次郎は、谷川定吉から蝶を習い、そしてこの芸一筋で生きて行こうと考えて、一蝶斎に改名したのです。

 この時、定吉から習った蝶も、鈴川の家に伝わる蝶も、一羽の蝶を飛ばすのみです。一蝶斎以前の蝶の芸は全て、一羽の蝶を飛ばしながら、情景を語って行くものだったわけです。扇を広げて平らに持って、須磨の渚を表現したり、扇を斜めに立てて、月に見立てて夕暮れに舞う蝶を表現したり、扇を畳んで立てて持って、船の帆柱に留まってしばし羽交(はがい)を休める蝶、などとそれぞれの情景を見せていたのです。然し、この後、一蝶斎の工夫改良によって蝶の芸は徐々に変化して行きます。

 ところで、谷川定吉はその後どうなったのでしょう。江戸で人気を博し、その後大坂に帰ったようですが、肝心の大坂には何一つ資料がありません。その後のことは全く消えています。芸の考案者と名を挙げる人は別の人なのでしょうか。

 ここで私は谷川定吉に対しては少し酷な言い方をしますと、定吉が作り上げたのは技法の工夫です。その後、一蝶斎が蝶の元祖のごとく崇められるようになったのは、彼が作り上げた世界観です。

 一蝶斎は谷川定吉から習った蝶で一躍江戸一番の手妻師になります。しかし本当に彼の真価が発揮されるのはこのあとです。一蝶斎は、定吉の型にとどまることをせず、やがて二羽蝶を考え出します。

 

情景描写から、哲学へ

 二羽蝶への発展はいつだったのか、これも詳しいことは分かりませんが、手掛かりは見つけました。一蝶斎のビラ絵に二羽蝶を飛ばしている一蝶斎の絵があります。これがいつのビラかははっきりしませんが、確実なことは、一蝶斎の頭にまだ髷(まげ)が乗っていることです。一蝶斎は、歩いているだけでも婦女子が集まってくるような、いい男だったのですが、唯一の悩みは、若くして毛が薄くなって来たたことでした。30代末にはもう殆ど髷が結えなくなり、その後はさっぱり頭を剃ってしまったようです。

 ビラに髷が描かれていて、二羽蝶を飛ばしている絵があるとするなら、30代半ばで既に二羽蝶を飛ばしていたのでしょう。そうなら、定吉の蝶から、自分の型を作るまで、案外短時間で仕上がったことになります。

 然し、読者諸氏は、一羽の蝶を飛ばせる手妻師なら、二羽を飛ばすことくらいさほど難しいことではないだろうと思われるかも知れません。実際技術的にはそう難しい技ではありません。然し、一羽の蝶から二羽に至る道のりは簡単ではなかったのです。一蝶斎以前の約200年間に、二羽の蝶を飛ばして見せた手妻師はいなかったのです。

 それはなぜか。一羽蝶なら情景描写の芸です。綺麗にそれらしく飛ばしていれば拍手喝采です。然し二羽は違います。二羽蝶が語る内容は人生であり、夫婦愛です。

 つまり蝶はなぜ飛ばなければならなかったのかの意味を考えたのです。蝶はまるで遊んでいるかのように、京の街中の公家の奏でる横笛に留まり、比叡山の山越えをし、下る道々石山寺の梵鐘を聞き、琵琶湖の途中、浮かぶ船の帆柱で羽交を休め、さて、今日中に急ぎ吉野まで飛ぼうかと考えていたのですが、なぜそんなに急いであちこちを飛んでいたのかと言えば、自らの限られた時間の中で最良の伴侶を探すためだったのです。もう残された時間はわずかです。そこでまだ見ぬ伴侶に巡り合えるか否か、蝶は小さな体を駆使して伴侶を探し求めていたのです。

 そしてめぐり逢い、二羽は結ばれます。然し、幸せは長くはなく、やがて寿命を迎えます。その短い逢瀬を喜び、精いっぱい生きる蝶に当時の江戸っ子は感動したのです。

 決してマジックの些末な技術を見て、人が感心して、話題になったわけではないのです。多くの人の心に染み入るストーリーを拵え上げたからこそ、二百年後にまでその名を残す手妻師になったのです。ここがわからないと一蝶斎の偉大さは見えません。

 さて、一蝶斎は二羽蝶を見つけてそののち、何を考えたのか、その答えは明日、私が神田明神の舞台で蝶を飛ばしますので、実際ご覧になってはいかがでしょうか。

 続く