手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

火渡りの術

 古代のマジックの中で最もポピュラーだったものに火渡りの術があります。但し、この術が、ヨーロッパにあったものかどうかは分かりません。東アジアからインドくらいまででよく演じられていたようです。火渡りは今日の感覚で言うなら危険術であり、当時も超人として尊敬を受けるような技です。

 薪を幅1m長さ10m程度に並べ、火をつけて、さんざん燃やした後、そこを修験者が呪文を唱えて素足で歩いてゆきます。炎は下火になってはいますが、近づけば熱は伝わってきますし、炭状になった薪は素足で歩くとパリパリに折れて、中の赤い炎が出て来て、足の裏を焦がします。中国ではこれを「走火」と呼び、その名の通り、燃えた薪の上を走り抜けたのだと思います。

 太古の大道芸は、入場料を取りません。見ることは只です。その代りに、お札を売ります。走火を見せてから、火伏のお札(火事や火傷があっても、怪我が最小で済む)、刀の刃渡りを演じた後に、剣伏せのお札を売ったのです。目の前で超能力を見せられた後ですから、お札はよく売れたはずです。

 当時の農村の百姓は、現金は持っていません、何か祭りでもあると、自分の畑で作った、コメ、麦、豆、ゴマ、などを袋に入れて、現金の代わりに持って行き、物で支払います。物の相場はかなり細かく知れていたらしく、芝居でも、大道芸でも普通に麦、豆で支払っていたようです。

 

 時代は下って、明治初年に、天一は、刃渡りの術を得意芸にしていました。天一は、松旭斎天一(しょうきょくさいてんいち)と言って、近代日本の西洋奇術のパイオニアです。然し、子供の頃には西洋奇術は見たことがありません。阿波の国(徳島県)の鳴門の渦潮のある近辺の寺で小坊主として修業をしていました。

 何とか人並み超えた技を身につけたいと言う野望を持って、寺を抜け出し、修験者にくっついて、狐降し(狐が憑いて情緒不安定になった人を元に戻してやる)や、剣伏せの技を習います。習った天一は、稽古も修行もせず、年上の女と仲良くなり、高知に渡り、小屋掛けを張って、剣渡り(つるぎわたり)を演じます。

 当時、明治維新直後で、廃刀令が出て、刀は二束三文で道具屋に売られていました。それを10本ほど買って来て、梯子を改良して、脚立のようなものをこしらえ、そこに刀の刃を上にして、10本全て並べます。それを順に素足で登って行き、また下って行きます。無論、足の裏には傷一つありません。

 当時の土佐(高知県)は二重鎖国をしていて、江戸の幕府が外国との交際を断って居た時に、四国の中で、土佐だけは、周囲の国とも交際を断っていたのです。それが明治維新を迎えると、二重鎖国は解け、それに合わせて、他の地域からどっと、商人や、芸人が押し掛けます。お陰で新しいものがいっぺんに入って来て、見るもの何でも大流行で、興行も何を見せても観客が集まりました。

 その機に乗じてやってきた天一の剣渡りは大当たりで、何か月も興行したようです。まだ天一は17歳くらいの時です。全く芸能の修行をしないで、たまたま習い覚えた剣渡りで一躍人気者になり、そこに手下の芸人が付き、たちまち一座ができます。

 高知の大当たりに気を良くして、その後ぐるり四国を回って、相当に稼ぎました。それから大阪に渡ります。大阪で興行したかどうかは分かりません。何しろ素人芸ですし、連れている芸人も三流ばかりです。大阪では通用しなかったのかもしれません。

 大阪は敷居が高いと見たのか、和歌山に行きます。和歌山の小屋掛け興行では剣渡りは大当たりです。するとある日、興行主が、「私は大阪で、火渡りの術と言うのを見てきました。赤々と炭を燃やした上で白い装束の修験者が、呪文を唱えて火の上を歩きます。足の裏は全く火傷のもありません。すごい術です。もしや、先生は、剣渡りをするくらいですから、火渡りもなさいますか」。言われて天一は、確かに修験者から火渡りは聞いていた、然し、やり方は詳しく聞いてはいないし、今までやったことがない。それでも若気の至りで、「できる」。と言ってしまいました。興行主は大喜びで、「火渡りと、剣渡りの二つを一緒に演じたなら、近郷近在から大勢人が押し掛けるでしょう。早速ビラを撒いて、明日にでも興行しましょう」。と、話はどんどん進んで行ってしまいました。

 安請け合いした天一は、内心不安に駆られます。何しろやったことがない術ですから。然し、どんなに熱くても、素早く走り抜けたらそう大したことではないだろう。と高を括っていました。

 翌日、興行主は大きな張り紙を町中に貼って宣伝し、炭俵を10荷も仕入れ、渡り道を作り、炭を並べ。すべての炭を撒いて火をつけました。長さ10mに渡って、大きな炎が上がりました。観客は炎を見て大喜びです。「では先生よろしくお願いします」。と促されて、天一登場。天一自身も、炎の大きさに圧倒され、しばらく躊躇します。念仏を唱えて時間を稼いでいますが、いよいよ逃げられないとわかると、度胸を決めて火の上を走ったのですが、一歩足を入れた途端、とんでもない熱さで、ひっくり返ってしまいました。そのまま気絶して、丸一日宿で寝てしまいます。目を覚ますと、興行主だけが恨めし気に座っていたそうです。三か月宿で寝込み、その間に女房もいなくなり、座員も逃げ出し、財産全てを宿に支払って、ようやく歩けるようになって身一つ、杖をついて和歌山を後にしました。

 

 いかに若いとは言っても、種を知らずに火渡りをするのは無謀です。火渡りは、初めに、渡り道の下に30㎝程の溝を掘ります。溝には水を張ります。その溝の上に、梯子段のように枝を並べ、枝の上に、木っ端の薄い木を敷き詰めます。木っ端に火をつけ、十分燃えた後に、塩とかん水(ラーメンの麺をこねるときに使うつなぎの粉)を撒きます。火の温度が下がるそうです。その上で、火の上を渡るのです。

 火はほとんど消えていますし、炭状になった木っ端も、煙は出ていますが、足を踏み入れた途端に溝の水に落ちますので、煙は上がりますが、熱くはありません。足は、少々炎が残った木っ端を踏んでも、すぐに下の水で冷やしますので熱くはないわけです。

 やはりどんなことにもやり方があり、それを知らずに行えば大怪我をします。天一は、数年間稼いだ金を使い果たし、座員にも、女房にも見放され、足は焼けただれ、以後剣渡りもできなくなります。当人は、和歌山の失敗を後世面白おかしくみんなに話をしましたが、その実、足の火傷を恥ずかしがったようで、生涯足袋を履いていて、素足で外に出ることはなかったそうです。明治5年のこと、天一20歳の時です。

続く

古代のマジック 2

 秦から唐に続く散楽(幻戯、百戯、散楽と続く)の歴史は、個々の芸能の内容は多少変わって行っても、歴代皇帝は芸能を守り続けて行きました。恐らく宮廷内に、スカウトマンがいて、巷で優れた芸人がいると聞くとすぐに見に行って、よければ年間契約をしたのでしょう。芸人の側からすれば、あちこち放浪して見せて回ることの非効率さ、天気に左右される観客の不安定さなど、日々の苦労を思えばお抱え芸人のほうが生活は楽なはずで、何としても宮廷に認めてもらいたかったでしょう。

 スカウトマンからすれば、皇帝が、飽きの来ない程度にメンバーを変えることも必要条件だったはずです。丸抱えだと芸人は努力をしなくなりますから、適宜に演者の差し替えなどを行っていたと思います。

 

探湯(くがたち)

 前回もお話ししたように、古代のマジックは、今日でいう危険術の類が多く、火渡りは前回書きましたが、他にも、刃渡り(刀の刃の上を歩く)、焼けた鉄の棒を握る、

 熱湯の中から石をつかむ、探湯(くがたち)、探す湯とかいて「くがたち」とはなかなか読めません。しかしこれは古代では頻繁に行われた術です。鍋の中に小石を入れ、水を入れ、鍋を火にかけて水を沸騰させます。そこに手を入れて、小石を握って掴んでくる術です。修験者などが今でもこれを演じます。これにも仕掛けがあります。

 手を湯に突っ込む前に、小さな袋の中に雪を入れておいて、袋の中で手を良く冷やしておくのです。いざ湯に手を入れるときに、間際まで雪で冷やしておいて、いきなり手を湯に入れて石を握って出せば、火傷はしないと言うものです。理屈はわかりますが、本当の大丈夫なのかは分かりません。

 

 変獣化魚術(へんじゅうかぎょじゅつ)

名前は物々しいのですが、言ってしまえば交換改めの総称です。周囲をお客様に囲まれ、テーブルも使えず、スチールやロード(お客様に気付かれないように道具を盗み取ってくる、或いは、ばれないように他の物を持ってくる技法)の未熟な時代は、布一枚使って、物を隠したり出したりするうちに、周辺に隠しておいたものを密かに持ってくると言う技法が頻繁に行われていました。

 古い草鞋(わらじ)に布を掛け、呪い(まじない)をして布を取ると子犬に変わる。あるいは、鉢に水を張り、笹の葉を数枚浮かせて布を掛け、さっと取ると、笹が小鮒数匹に変わっている。等、草鞋が犬に変わる場合は変獣。笹が小鮒に変われば化魚。です。変獣化魚は交換改めの総称です。交換改めは、例えば、紙うどんなどはその原型がよく生かされています。今日でも普通に使われている優秀な技法です。

 

 さて日本政府は奈良に都を建設し、唐の様式を真似て政治から、仏教から、芸能に至るまで、唐の一切を取り入れようとします。芸能も、度々中国に行った遣唐使の若い僧や、役人から、「中国の芸能はすごい」。と言う話を聞かされていたのでしょう。そこで、散楽の諸芸一切を取り入れようと、唐の宮廷と交渉をして、優秀な芸人を招聘して、指導を乞うことにします。

 奈良以前に散楽の芸能が日本になかったのかと言うなら、それはかなり古くから、伝わってはいたのでしょう。前述の修験者などが山から降りて来て、山で修業した成果を村人に披露するときなどに、火渡りや、刃渡り、探湯などを行ってはいたのです。これらの術は、修行僧などが中国に行った折、仲間や、巷の芸人から習ったのでしょう。

 然し、奈良の政府が求めていたのは、個々の作品ではなかったと思います。むしろ、衣装から、音楽から、演出から、宮廷風に高雅に作り上げた唐の様式の芸能が欲しかったのでしょう。つまり、似たような術を行う芸人は日本にもいたでしょうが、およそ巷の芸人たちは音楽から、衣装から、演出まで工夫すると言う発想は、持ち合わせていなかったのでしょう。

 中国から散楽の指導家がいつ日本に来たのかは明確な資料はないのですが、続日本紀に、天平7(735)年、聖武天皇が中国から来た散楽一座を見たと言う記録があります。

散楽一座をわざわざ日本に招いた理由は、ショウを見るためではないはずです。明らかに、日本人に散楽を指導をしてもらうのが目的でしょう。

 

 奈良の政府はかなり本気で散楽を育てようと考えます。先ず芸人はすべて国家公務員として、給料で抱えられます。そのセクションは、治部省(じぶしょう) 雅楽寮uta

りょう) 散楽戸(さんがくこ)です。治部省とは今日でいう自治省でしょうか、雅楽寮とは、散楽戸ができる以前から、雅楽が先に国に抱えられていましたので、雅楽の下部の組み込まれたのでしょう。そこの散楽戸です。寮とは今日の役所でいう局でしょうか、戸とは、課でしょうか。

 何分、芸人だけでも30人くらいはいたでしょう。それを管理する役人、興行する場所の日程を仕切る役人、衣装方、道具方、更には衣装、道具の製作部門まで、すべて合わせたら50人はいただろうと思います。それだけの人数を国が丸抱えしたと言う歴史は、この以前にも、これ以後にもありません。現代で考えても、芸人がこれほど手厚く扱われたことはないのです。

 

 ここで日本の芸能は大きく飛躍を遂げます。先ず作品そのものの数や幅が広がったこと、更に、どう教えるか、どう習うかという指導の仕方が明確になったこと。そして断片的に入ってきた作品の全体像が見えたこと。そのメリットの大きさは計り知れないものがあります。

 ここからは推測ですが、日本の芸能で、一子相伝等と言って、子供や、出来のいい弟子にのみ芸を伝えようとするシステムなどはこの時中国から伝わったのではないかと思います。その伝え方も、口伝(くでん)と称して、文字に残さない。口伝えで教えると言うやり方もこの時受け継いだのだと思います。

 それから、この時代は、綱渡りと、曲芸、マジックなどと言う技が、専門職として分かれていません。綱渡りをする人がマジックもし、踊りも踊り、漫才もし、楽器演奏もしていたのです。とにかく修行は一通りみんなが同じように学んだのです。

 このことは、今も、曲芸の世界が、三味線を弾き、踊りも踊り、軽口(漫才)をし、獅子舞もし、曲芸をするのと同じことです。能の世界も同様で、仕舞(能の舞踊)をし、脇(脇役)をし、鼓を打ち、謡(うたい、語り)をし、全て能に関することをみんなが学ぶのと同じです。日本の古典芸能で、一座を持って動いていた人たちは、何かあった際にはすぐに役が代われるように、みんながすべてを学んでいたのです。

こうした芸能の学び方は、中国から指導家が来た時に学んだのでしょう。以後、日本の芸能は、指導方法を守り継いで発展して行きます。

 

 さてこうして、和製の散楽一座ができると、日本国内の催事や祝いごとの際に一座が招かれ、各地で芸能を披露することになります。天平勝宝4(752)年の大仏開眼法要での散楽の披露もその一環として演じられたわけです。

続く

黒いスーツケース

  エースと言うカバンメーカーがあります。今はプロテカと言う名前のスーツケースをテレビ宣伝していますので、ご存知の方も多いかと思います。このメーカーで、今から15年前に最高級の皮を使ったスーツケースを2つ買いました。前々からいいスーツケースが欲しくて、何とか金をためて思い切って買ったのです。黒いスーツケースで、外側に茶色の皮で角あてがしてあり、更に茶色の長いベルトが外から二本締めてあるようなデザインになっています。

 高島屋で一目見た時に、この高級感が気に入って、傘と蝶の手順は是非、このスーツケースに入れたいと思い、2台購入しました。気に入って買っただけに、持って歩くのが楽しくて、国内も海外もどこでも持って行きました。

 但し、その後に、飛行機の荷物の重量制限が厳しくなって、しっかり作ってあるこの手のスーツケースは重量があるため、敬遠されるようになり、重いスーツケースは売れなくなったようです。従って今はこのタイプのスーツケースは販売していないそうです。

 確かに、今、デパートなどで売られているスーツケースは、外観が樹脂製で、へにゃへにゃしていて、「こんな作りで中の道具がきっちり守られるのだろうか」。と不安になります。やはり大切な道具は、丈夫なスーツケースに入れて運ぶべきと思います。

 私にとっては重量制限よりも安全重視です。海外の行く際も頻繁に使いました。しかし、海外の飛行場で担当官が、外の皮ベルトをぞんざいに開けて、カバンの中をチェックした後にちゃんとベルトを締めないために、スーツケースのベルトを挟んだまま、無理にふたを閉めたため、一台のスーツケースのベルトが、ほとんど千切れそうになってしまいました。大事にしていたのに残念です。

 修理に出そうと思っていても、仕事が忙しくて、なかなか修理に出せません。幸か不幸か、今回のコロナウイルスで仕事がなくなり、暇ができたので、スーツケースを修理に出しました。ところがあちこちの皮が痛んでしまって、全部直すと16万円かかると言われました。私がこのスーツケースを15年前に買った時は、新品で16万円だったのです。16万円で買ったものを、皮を取り替えるだけで16万円かかると言うのは勿体ないと思います。それなら最新のスーツケースを買ったほうがいいとなります。

 然し、このスーツケースの佇まいは捨てがたいものがあります。何とか安く修理できる方法ないものかと交渉をしました。取り合えず、切れかかっている皮のベルトだけ取り換えると、34000円かかると言われました。やむを得ません。修理を依頼しました。それが一昨日届きました。

 開けてみると、ベルトだけ新しい物と取り換えられています。その他の皮部分は以前のままです。然し、取り替えた部分との違和感がないように、修理部分だけが目立たないように色が塗られてありました。そうなんです。これです。これでいいのです。

 私はこういう重厚なスーツケースを持って仕事に行くことが長年の夢だったのです。直ったスーツケースを見てつくづく、「あぁ、新しいものに買い替えなくて良かった」。と思いました。長年使ったものが古くなるのは当たり前なのです。然しどんなに古くなってもいいものは汚くなりません。年輪が重なって、歴史を感じます。壊れてしまった部分は取り換えなければいけませんが、古くなったものは古いままでいいのです。最小限の修理で、またこの先、10年は使えるでしょう。

 でもそろそろ、新しい手順を作って、その手順を収める新規のスーツケースも必要かなとも思います。これまで、2,3年に一つくらいづつ、5分程度の手順を考案してきました、しかし、このところ、新規作品ができません。特にコロナ騒動のさ中は、時間がたっぷりあったのですから、作品を考えられたはずです。

 ところが、手順を作りたいと思っても全く体が動こうとはしません。それは私の場合、一度製作を始めると、やりだすと見境なく大きな費用をかけるため、先々を考えると、おいそれと新規製作ができないのです。50代のころまでは、後先のことなど考えずに作品を作っていたのですが、今回のウイルスはつくづく自分が保守に回ってしまったことを痛感しました。

 「あぁ、こんなことではいけない。芸能に生きるものは費用対効果など考えてはいけないのだ。面白そうだと思ったことには無条件に金を出すべきなのだ。自身の芸能のスポンサーは自分自身なのだ。自分で自分の創作にブレーキをかけていては想像は生まれてこない。こんなことをしていてはいけない。ウイルス騒動が去り、仕事が徐々に復活して来ている今こそ、創作活動も復活させよう」。と考えを新たにしています。内に内にこもって小さくなって行ってはいけません。創作に300万円かけても、その舞台が、1000万円で売れれば、十分生きていけるのですから。

 修理の終わったスーツケースを見ていると、また、創作意欲がわいてきました。「少々の苦労はしてはも、一作品を作って、その道具に合った、いいスーツケースを買って、車にズラリ綺麗なスーツケースを並べて、仕事に行こう」。そんな風に考えているうちに休んでいた体が活動を始める意欲がわいてきました。いい傾向です。

 私にとって、スーツケース一つ一つは、それ自体が時間の蓄積なのです。「あの時、あれを一芸にするためにこんな風に考えた」。」「このアイディアをもう少しハンドリングを変えてみよう」。「取りネタに決め手がなさすぎる。もっともっと強烈な演技にしよう」。などと考えて、一作一作作り上げたのです。その時、その時は苦しくても、出来てみればどれも宝物です。秋の公演までに何とか一作作ってみます。

続く

古代のマジック

 須美様、植瓜術の誤字ご指摘ありがとうございました。

 

 今週から舞台活動が始まります。半年近く舞台を休んだと言う経験は、私の人生では初めてです。12日が神田明神の伝統館です。13日は人形町玉ひでです。どちらもお客様が待ち望んで下さっていて、結構人数が集まっています。有難いと思います。

 神田明神は舞台がしっかりしていますので、ステージの演技を演じます。玉ひでの方は30人程度の座敷ですので、小さな作品をじっくりと語り込んで演じて行こうと考えています。同じような演目でも、場所が変わると見た感じも随分違うと思います。特に玉ひでは、私の芸能の集大生として、これまで演じてきた作品で、珍しいものも色々出ると思います。DVDにも残しておこうと考えています。ご興味ございましたらどうぞお越しください。

 

古代のマジック

 古代のマジックと言うのはどんなものなのでしょう。マジック関係者に、「最も古いマジックは何だと思いますか」。と質問すると、「カップアンドボール」「リンキングリング」「コインアクロス(貨幣が右手から左手に移動)」などと様々出て来ますが、カップアンドボールもリングも、出来たのは恐らく室町時代でしょう。日本では江戸時代の初期になって入って来ています。もっと古いマジックは何かと探してみると、

 「見世物研究」(朝倉無声著)の中に、「散楽源流考」(尾形亀吉著)の引用があります。朝倉無声と言う研究家は、およそ世間の芸能研究家が興味を示さなかった、見世物や大道芸などを事細かに調べて世間に発表した人で、この人がいなければ残らなかった資料はたくさんあります。その中の散楽源流考は、文字通り、散楽(さんがく)の初期の芸能を調べていて興味深いものです。

 先ず、基本的な説明を申し上げますと、唐の時代に散楽と言う芸能集団が生まれます。散楽とは様々な芸能を指し、コント、漫才、声帯模写、楽器演奏、奇術、曲芸、軽業、あらゆる芸能を集めたものが散楽です。今日で言うなら雑技団と同じです。これは唐の政府が丸抱えで城の中で育て、海外、国内から賓客が来た時にもてなすために雇っていたもので、いわば国家公務員の芸人集団です。唐以前には、例えば秦の時代などには百戯と呼ばれ、同様に皇帝の城の中で養われていました。その中で、奇術は、幻戯

 (げんぎ、日本では目くらましと読みました)と呼ばれ、散楽源流考の中に9種類ほど古くからの幻戯が解説されています。この中には今も演じられている作品もあり、大変興味深いものがあります。面白そうなのでひとつづつ解説してみましょう。

 

 1、口中吹火(こうちゅうすいか)

 これは現役のマジックです。通常は、火食いとして演じます。ティッシュに火をつけて食べるなどしますが、紙では後の処理に困るため、とろろ昆布に火をつけて、そのまま本当に食べると言う方法を聞いたことがあります。日は燃え盛った後、下火になった時に食べると熱くないと言います。本当かどうか試したことはありません。

 どうしても火食いだけでは手順として盛り上がりに欠けますので、そのあと、口から火の粉が飛ぶ奇術を演じます。これは懐炉灰(かいろばい)と呼ばれる小道具を使います。口に入れられるくらいの小さな懐炉をおがくずと一緒に口に押し込み、息を吹くと、懐炉から炎が出て、口に含んだおがくずに燃え移って、口から火の粉が飛びます。これがゴジラのようで、派手ですので、結構受けます。

 こうした芸は今では危険術になってしまい、余りマジシャンはしなくなりましたが、私の子供の頃は、李彩さんという中国人が時折り演じていました。喋りの達者な人でしたから、面白く演じていました。

 

2、自縛自解(じばくじかい)

 文字通り、紐抜けです。脱出マジックの元祖です。結び方はいくつもあるようです。

 

3、呑刀(どんとう)

 昔の奇術はこうした危険術が多いのが特徴ですが、刀を飲む芸はポピュラーで頻繁に演じられていました。特に仕掛けはなく、口を真上に向けて、喉と胃の中を一直線にすれば、30㎝程度の刀なら入るそうです。刃は怪我をしない程度に丸くしておくようです。事前に鞘を飲んでおくと言う手もあるそうです。30㎝の鉄の棒を呑むと言う、棒呑み言う芸もあります。

 

4、走火(そうか)

 火の上を走る術で、日本では火渡りと言います。主に修験者などが今も見せています。この種の危険術は、道教などの修験者と結びついて、宗教がらみで演じられていたようです。薪を数十m並べて火をつけて、呪文を唱えたり、数珠で気合を入れたりして火の上を歩くのですが、そのまま渡れば大けがをします。実際明治の松旭斎天一が若いころ、火渡りのやり方を知らないまま、やってみたところ大怪我をして、三か月寝込んでいます。火渡りの仕掛けは天一のページでお話ししましょう。

 

5、植瓜術

 地面に種を植えて、水をかけ、布で覆うと芽が出ます。再度布で隠して、水をかけると、弦が伸びます。何度か繰り返すうちに、瓜が幾つも生ります。昔のお客様にはよほど興味だったらしく、世界中にこの術があります。生るものもマンゴーであったり、オレンジであったり、その地方によって違います。仕掛けは同じで、変獣化魚術(へんじゅうかぎょじゅつ)の一種です。(後で解説します)。

 

6、屠人裁馬(とにんさいば)

 馬の首を切ってつなげる術、もしくは馬の口に入って、尻から出て来る術など、詳細はわかりませんが、呑馬術(どんばじゅつ)の原型かと思われます。いわゆるブラックアートの元祖でしょう。

 

7、手為江湖(しゅいこうこ)

 手から水があふれ出る。水芸の原型でしょうか。

 

8、口幡耗(こうばんもう)

 今では口中紡績と呼ばれているマジックです。火を食べたり、糸を飲み込んだりして、そのあと、色とりどりの紙テープを口から出してゆきます。古代のマジックは口を使ったものが多くあります。それは囲まれた場所で、テーブルや、体から種が取れないため、口を使って物を入れ替えるほかには手がないため、頻繁に口を使いました。現代のマジシャンは高知に物を入れたり出したりする芸を好みませんが、実際やってみるととんでもない効果を生みます。うまく生かしたらいいマジックになります。

 

9、挙足堕珠玉(きょそくだしゅぎょく)

 意味不明です。足を上げ下げして、玉を出したり消したり、これに類するマジックを見たことがありません。

 

 以上、9作品が書かれていますが、他にも古代の作品はいろいろあります。見ていると、今でも使っているものがたくさんあります。マジックは大きな変化はしていないと言うことでしょうか。明日はこのほかの古い作品をご紹介しましょう。

続く

 

 

奈良の大仏と伝染病

疫病の蔓延 

 奈良と言えば一番人気の観光名所は東大寺の大仏でしょう。しかしなぜ奈良に大仏があるのかをご存じない人が多いようです。東大寺は、日本全国にある国分寺の総本山です。国分寺とは、聖武天皇が、742年に、全国に仏教を定着させるために、模範となる寺を国府に一棟ずつ建てました。今はほとんど残っていないようですが、それでも全国に国分寺の名前は残っています。そのお寺の総本山が東大寺です。

 天平7(735)年に日本で天然痘が流行します。初めは遣唐使が中国から伝えたなどと噂され、たちまち九州中に広まります。当時は天然痘を治す薬もなく、天然痘にかかれば死を待つだけのことでした。実際九州の人口の三分の一の人が亡くなったと言われています。

 翌年になるとウイルスは中国、四国、近畿にまで及び、都では全く政治ができないほどに人材が次々に亡くなってゆきます。結局、天平9年にウイルスは収束しますが、3年間で、百万以上の人が亡くなっています、当時の日本の人口が500万人くらいですので、日本人の5人に一人が亡くなったことになります。

 

寺院建立、大仏建立

 このウイルスを鎮めようと、聖武天皇は、天平13(741)年に、全国の国府国分寺国分尼寺を立てるよう指示します。巨大寺院を建て、そこに仏像を収め、仏の力によってウイルス退散を考えます。大幅な人口減で国民が疲弊しているさなかに、とんでもないプロジェクトを立てて、莫大な税金を徴収します。

 それだけに治まらず、東大寺に廬舎那仏(るしゃなぶつ)の大仏を建てることを思いつきます。大仏建立の詔(みことのり)は天平15(743)年です。年表の年代を見ているだけでも聖武天皇は、天然痘の流行から、ほぼ毎年、寺を建立したり、大仏の建立をしています。実際この時期多くの農民が税金が払えずに餓死しています。

 しかし、聖武天皇には民の苦労は聞こえません。それよりも自国が一流国家であることを内外に伝えたかったらしく、肉食を禁じています。豚や牛ならばその後も日本人は食べませんが、この時は、魚や鳥までも禁じています。食料が足らずに人が餓死しているときに、魚を取るのも、売ってもいけないと言うのは無理な話です。ご丁寧に、魚を取らない漁師に補償金まで渡しています。補償を貰っても、そこに見えている魚を取らない手はなく、結局、漁師は魚を取って販売もします。無理なことは無理なのです。

 とにかく、高さ15m、青銅造り、金メッキの壮大な大仏の建立を考えます。銅だけでも500トンが必要です。通常これだけ大きなものは、木製か石で作りますが、全て銅で作ると言うのは驚きの発想です。当時のヨーロッパには大きな鉱山は見当たりません。中国なら可能性がなくもないですが、500トンを一度に揃えられる国がそうそうあるものではないでしょう。とんでもない大事業です。

 当時の鉱山は、人一人がようやく入れるような穴をあけ、鑿と金づちを持って人が入り、岩盤を崩して岩を袋に詰め、それを背負って、来た道を戻って来ると言う作業です。集めた土から採れる銅はわずかです。それを500トン集めるのですから気の遠くなるような作業です。長門の国(山口県)美祢(みね、秋芳洞の近く)に長登(ながのぼり)銅山と言う良質な銅山があったそうで、多くはそこから運んだようです。

 鋳造方法は、今日でも釣鐘を作るときの工法と同じで、内型と外型を粘土で作り、その隙間に銅を流し込んでゆきます。但し15mもある仏像ですから、一つの型では作れません。

 腰高くらいの鋳型を作っては銅を溶かして流し込み、ひとしきり銅が冷めたら、その上に内型外型を乗せ、また銅を流し込んで作っていったようです。然し、これは大変な難事業で、銅を積み重ねて行くにしたがって、下に整形した銅が重みに耐えかね、一遍に崩れたり、冷たい銅と熱い銅では接着がうまく行かず、つなぎ目がはがれて崩壊したり、多くの失敗があったようです。

 

古代の鍍金(メッキ)法

 総体が出来上がると鍍金(メッキ)です。電気もない時代の鍍金と言うのはどのようにしていたか私は学生時代から興味でしたが、水銀を使って金を溶かし込んでいたと知って古代の発想に驚きました。そのやり方はこうです。

 先ず金を薄く伸ばして、金箔を作ります。その金箔を細かく切って、花吹雪を作ります。花吹雪を薬研(やげん、深く細い舟形の鉄器、車と称する鉄器の車輪と併せて薬などを砕くもの)で、金を粉末にします。そこに水銀を混ぜ合わせかき混ぜます。金は水銀に混ざり、銀色と金色の中間色になります。これを仏像の肌に筆で塗ってゆきます。塗ったところに焼き鏝(こて)を近づけます。水銀は常温では液体ですが、少し温度が高くなれば気化します。熱した鏝を近づけることで水銀を大気中に飛ばし、後に金だけが銅に密着して残ります。これが古代からの鍍金法です。

 合理的な方法です。しかし問題があります。狭い部屋の中で鍍金をしていると、空気中に水銀が漂っています。それを職人は吸い込んでしまいます。水銀は肺に入ると、肺に壁を作って呼吸困難になります。のどに入ると声が出なくなります。それでも鍍金を続けていると、突然倒れてそのまま命がなくなります。大仏建立の際も多くの職人が亡くなったようです。当時は何が原因で亡くなったのかはわからなかったでしょう。ずいぶん多くの犠牲者が出たのです。

 

大仏開眼(かいげん)供養

 長々お話ししてきましたが、こうして天平勝宝4(752)年、4月9日、大仏開眼供養(だいぶつかいげんくよう)の式が盛大に行われます。疫病の後に増税を強いて、多くの国民を餓死させて、多くの職人を水銀中毒にし犠牲を強いて、そうして出来上がった大仏が本当に天然痘の撲滅に役立ったのか、疑問が残ります。恐らく聖武天皇とすれば自分は国民に役に立った良い天皇だと、生涯信じて疑わなかったでしょう。どうも聖武天皇と言う人は誇大妄想の気があり、思い込みの強い人のようです。但し、この催しは海外でも話題になり、日本の国威を示す効果は十分だったようです。

 この式典のために唐の長安から菩提僊那(ぼだいせんな)と言うインド人の高僧を招き、式典の総指揮を任せます。他にも千人を超える招待客を呼び、日本各地は勿論、唐、朝鮮、ベトナム、などの国にも招待状を送り、実際に来賓客がありました。まさに国家行事としての式典です。遠くのほうから来る来客は、定期便などありませんから、全くあてずっぽうでやってきます。早ければ半年も前に日本についてしまい、式典までの間、何も接待しないわけにはいかないため、連日散楽(さんがく、奇術、曲芸、軽業など、様々な雑技)を演じ、来賓を楽しませたそうです。

 

手妻の植瓜術

 そうした催しの中に、手妻で今日まで残っている、植瓜術(しょっかじゅつ)などを演じた記録があるそうです。その情報は、東大寺の菅主さんのご子息から伺いました。実際ご子息は、植瓜術に興味があり、私から植瓜術を習いました。長年の謎だったそうです。

 長い話になりましたが、大仏開眼はそもそもがウイルス退散にあり、そのために国家財政を傾けるほどの費用をかけ大仏を建立し、海外賓客を招いての一大イベントを行ったわけで、いかに大きなプロジェクトだったか、そしてそこに手妻が関与していたことがお分かりいただけたなら幸いです。1270年前のことです。

続く

 

 

指に足りない一寸法師

 今は童謡を歌う人も少ないと思いますが、私の子供の頃は学校でも、テレビでも普通に動揺が歌われていました。その中で私は、一寸法師の歌と言うのが、子供のころからいい歌だなぁ、と思っていました。歌詞は「指に足りない一寸法師、小さな体で大きな望み、お椀の舟に箸の櫂、京へはるばる上り行く」

 この曲は、初めの「指に足りない一寸法師」から「小さな体で大きな望み」までは音符が跳ねていて、軽快で、トッコトッコとスキップするようなリズムです。三行目「お椀の舟に箸の櫂」になった時に、突然、視界が開けたような平穏で雄大な、希望にあふれたメロディーに変わります。ここが私の好きな部分です。そして、四行目はまとめとして、またトッコトッコとスキップを踏むようなリズムで、「今日へはるばる上り行く」、と締めます。

 

 私はこの曲を聴くと、幕末から明治にかけて海外留学した日本人の心の内を思います。当時に日本人は身長が低く、食料も粗末で、特に留学などとなると、イギリスや、フランスなどでアパートに暮らし、宿代、学費を払うと自由になる金などほとんどなく、毎日パンの耳などを食べて空腹をしのいでいたのでしょう。当然、栄養になる物など食べられず、やせ細っていた人が多かったようです。病気になっても病院にも行けず、異国で亡くなる若者も多かったのです。

 当時の日本は後進国で、有色人種で、白人社会からひどい差別を受け、学生は、貧しく、痩せて小さかったのです。外国人に対して自慢のできることなどほとんどなく、美人の女性を見つけても全く相手にもされず、差別の中で苦しんでいたのです。

 夏目漱石などは、イギリスに留学して、人種差別に会い、プライドを大きく傷つけられ、それがもとで胃病を患い、学業の途中で帰国をしています。彼らがどれほど苦しい思いで勉強していたか、それを考えながら、一寸法師の歌を歌うと、私は涙が止まらなくなります。

 

巌谷小波のお伽芝居

 一寸法師の童話は明治38(1905)年に発表されています。作者は巌谷小波(いわやさざなみ)と言い、近代の童話作家の大家です。作曲家は田村虎蔵、実は私は巌谷小波を少し調べて知っています。なぜかと言うなら、松旭斎天勝の小説を書こうとして、いろいろ資料を集めていた中に巌谷小波が出て来ます。

 天勝は、明治44(1911)年、師匠の松旭斎天一から独立をして、天勝一座を起こしますが、ほとんどのマジックは天一の演じていたものばかりで、目新しさがありません。何とか独自の路線を作りたいと苦慮していた時に、亭主であり、一座の支配人である野呂辰之助がお伽芝居と言うジャンルに注目します。元々お伽芝居は巌谷小波と、役者の川上音二郎貞奴一座が本腰を入れてはやらせようと躍起になって興行したのですが、掛け声とは裏腹に思うように成功しませんでした。

 

児童演劇の難しさ

 もともと巌谷小波はドイツに留学し文学を学び、日本に帰国をすると、日本に子供が見る演劇のないことに気付きます。そこで子供でも分かるようなストーリーを作るべく、昔からの童話や民話をもとに童話を考案します。そうして生まれたものが、桃太郎、かちかち山、花咲爺、一寸法師などで、今日に残る数々の童話を作ったのです。その後、大正期になって、お伽芝居は家庭劇などと名前を変えて、石川木舟(もくしゅう)、矢野雉彦(きじひこ)などとともに舞台で興行をします。

 然し、家庭劇は当たりません。それは今に続く、児童演劇の歴史を見れば明らかなことで、子供を対象にするため、料金設定を低くしなけらばならず、初めから収益が期待できないのです。

 また、子供にわかる内容にするため、大人が見るには刺激が足らず、白塗りの男女が出て来て、イチャイチャするようなところもなく、二枚目が、波模様の着物を着て、悪漢をバッタバッタと切り伏せるような場面もありません。山の中から爺さん婆さんが出て来て、キツネやタヌキに化かされる。と言った話では、若い娘は熱狂しないのです。

当然、巌谷も家庭劇の座員も経営難に陥ります。

 

救世主天勝

 家庭劇の苦境を救ったのは天勝でした。当時日本の興行界のドル箱スターだった天勝は、何とか独自の舞台スタイルを作りたかったのです。元々天勝一座には親子連れが数多く来ていましたので、これを一つ、家庭劇を取り入れることで親子連れを大きく売り出そうと考えました。マジックのショウの中に、必ず一幕、童話が入り、童話の中にはダンスを取り入れ、マジックもいれて、子供が退屈しないように工夫しました。

 家庭劇の座員には積極的に芝居に協力してもらい、演技指導から、出演まで、かなりの高給を支払って迎え入れました。巌谷小波に対しても、旧作に対しても使用料を支払いました。巌谷もそれにこたえるように、新作童話の、小公子、チュウチュウ鼠、などを書いて天勝一座で初演をしました。

こうして、童話劇は天勝一座で定着をし、天勝一座の「坊ちゃん、お嬢ちゃん、お揃いでどうぞ」と言うキャッチフレーズとともに、大正期から、昭和15年まで、日本中の舞台で当たり続けたのです。

 天勝と言う人は、子供の頃に奉公に出されて、ろくに学校に行かせてもらえなかったため、平仮名はかろうじて読めましたが、漢字はほとんどわからなかったようです。しかしそんな人でも、巌谷小波のような、第一級の文化人をブレーンにして舞台活動を続けたわけです。なかなか現代のマジシャンが到達できないところに天勝は存在していたことになります。

続く

天職とは何か

 人は何かをなそうと生きています。然し、その何かが何であるか、はっきりわかっている人がどれだけいるでしょうか。このことの最も顕著な例が、横田滋さんの人生ではないかと思います。昨日、横田滋さんは87歳で亡くなりました。

 横田さんは日本銀行に勤務し、日本中の支店を家族とともに転勤して回っていました。新潟支店に勤務の折、1977年11月15日に、突然、娘さんのめぐみさん(当時13歳)が学校の帰宅途中に姿を消します。手掛かりは全くなし。しかし色々な捜査の中、北朝鮮による拉致事件だと知ります。

 それから、日本中には、同じように拉致された被害者が数多くいることを知り、被害者の会を設立。政治を動かして、北朝鮮との交渉にまでこぎつけます。

 2002年、日朝首脳会談が開催され、その過程で何人かの拉致被害者が日本に帰りました。しかし横田めぐみさんは死去されたことを知ります。やがてめぐみさんの遺骨が届きましたが、DNAの鑑定結果、めぐみさんのものではないことが判明します。そうであるなら生存の可能性もあると、善意に解釈をし、めぐみさんの帰国活動を訴え続けました。

 

 めぐみさんは亡くなる前に、朝鮮で結婚をし、孫娘を生みました。キムウンギョンさんです。横田滋さんと奥さんの早紀江さんは、孫娘に会うために、モンゴルに渡り、キムウンギョンさんに会います。なぜモンゴルでなければ会えなかったのかはわかりませんが、全く予想だにしない人生を体験したことになります。それにしても、娘、孫の数奇な人生に呆然としたことでしょう。

 そしてその後も、日本全国で、拉致被害者の会を開き、各地で講演活動をつづけ、政治を動かし続けたのですが、めぐみさんは帰らず、ご自身も昨日亡くなられました。

 普通に生きていたなら、銀行勤めで、硬い勤め人として何一つ不安のない人生だったでしょう。横田さんは見た限り、どこにいても全く目立たないような人です。しかし北朝鮮の拉致によって、もっとも有名なサラリーマンとして、連日ニュース番組をにぎわすことになりました。

 ご当人が望む望まないにかかわらず、度々テレビのインタビューに出演し、娘を日本に戻すと言う、それだけを訴えるために人生を費やしたのです。

 その姿勢は一貫していて、常にマスコミや、視聴者に対しても誠実な対応をしました。知名度を利用して、政界に出ようなどと言う野望もついぞありませんでした。日本中のどこにでもいるような生真面目なサラリ―マンで、一途に娘さんが戻ることにのみ精力を使っていました。それだけに果たせなかった想いに同情を感じます。横田さんを見ると、人の天職とは何かを考えさせられます。自らが望まぬ立場に立ってなお、自らが果たさなければならない役目を背負った時に、人はどう生きなければならないかを身をもって教えてくれた人でした。

 天職と言うのは、通常、絵の才能がある人が画家になる。作曲の才能のある人が作曲家になる。そうしたときに、天職だと言われるのですが、世の中はそうしたドラマのような天職ばかりではありません。現実に、今いるマジシャンにあなたは天職を自覚してマジシャンになったのですか、と問うてみるとよいでしょう。案外半分近くの人は言葉を濁すのではないかと思います。また、仮に、胸を張って「はい私にとってマジックは天職です」。と言った人がいたとして、その周辺のマジック関係者はきっとその人の才能を疑って見ているのではないかと思います。私も含めて、才能と言う言葉も、当人の存在価値も、何もかも、それらは自己申告であって、どうにも怪しいのです。

 「トムソーヤの冒険」を描いたマークトゥエインが、「私は40歳にして自分がいかに才能がないかを悟った。しかしその時私は既に有名で、多くの著作を書き上げていた」。と述べています。面白い言葉です。充分うなずける話です。天職であるか否かも考えずに、ひたすら仕事をしてきて、ある時気が付いたら何の才能もなく仕事をしていたと気づく人は少なくないのではないかと思います。マークトゥエインの場合は多分に自分を卑下して語っているのだろうと思います。人は彼の才能を認めているのですから。実際、長らく一つの世界に生きて来て、そこそこいい仕事をしてきたつもりでいたら、自分の才能なんてないに等しく、ほとんど誰の役にも立っていなかった。何んて言う結果になりかねません。才能、天職何て、生涯わからないことなのかもしれません。

 

 実は、私は横田滋さんに何度かお会いしています。特別なことではありません。飛行場で、新幹線のホームで、たぶん横田さんが講演会に行く途中だったのでしょう。無論相手は私を知りませんから、顔を合わせただけのことです。然し、どうも私は、何度もニュースなどで見ているので、他人のような気がしません。特に私の所にマジックを習いに来る生徒さんで、横田さんによく似ている人がいるために、ついつい顔を合わせるとあいさつしてしまいました。その都度、横田さんも挨拶を返してくれますが、あとで、「あぁ、横田さんだった」。と思い、私の勝手な人違いを恥じていました。

 あの人を見ていると、決して自分の望まない人生を素直に受け入れ、全うした人と言えるでしょう。「それが天職なのか」、「それで幸せであったのか」は、別の話であって、良かった悪かったなどと他人が言うことではないのでしょう。但し、ご当人がこれを天職と自覚して行動していたのなら、実に重い人生だったと言えます。

 

続く