手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

指に足りない一寸法師

 今は童謡を歌う人も少ないと思いますが、私の子供の頃は学校でも、テレビでも普通に動揺が歌われていました。その中で私は、一寸法師の歌と言うのが、子供のころからいい歌だなぁ、と思っていました。歌詞は「指に足りない一寸法師、小さな体で大きな望み、お椀の舟に箸の櫂、京へはるばる上り行く」

 この曲は、初めの「指に足りない一寸法師」から「小さな体で大きな望み」までは音符が跳ねていて、軽快で、トッコトッコとスキップするようなリズムです。三行目「お椀の舟に箸の櫂」になった時に、突然、視界が開けたような平穏で雄大な、希望にあふれたメロディーに変わります。ここが私の好きな部分です。そして、四行目はまとめとして、またトッコトッコとスキップを踏むようなリズムで、「今日へはるばる上り行く」、と締めます。

 

 私はこの曲を聴くと、幕末から明治にかけて海外留学した日本人の心の内を思います。当時に日本人は身長が低く、食料も粗末で、特に留学などとなると、イギリスや、フランスなどでアパートに暮らし、宿代、学費を払うと自由になる金などほとんどなく、毎日パンの耳などを食べて空腹をしのいでいたのでしょう。当然、栄養になる物など食べられず、やせ細っていた人が多かったようです。病気になっても病院にも行けず、異国で亡くなる若者も多かったのです。

 当時の日本は後進国で、有色人種で、白人社会からひどい差別を受け、学生は、貧しく、痩せて小さかったのです。外国人に対して自慢のできることなどほとんどなく、美人の女性を見つけても全く相手にもされず、差別の中で苦しんでいたのです。

 夏目漱石などは、イギリスに留学して、人種差別に会い、プライドを大きく傷つけられ、それがもとで胃病を患い、学業の途中で帰国をしています。彼らがどれほど苦しい思いで勉強していたか、それを考えながら、一寸法師の歌を歌うと、私は涙が止まらなくなります。

 

巌谷小波のお伽芝居

 一寸法師の童話は明治38(1905)年に発表されています。作者は巌谷小波(いわやさざなみ)と言い、近代の童話作家の大家です。作曲家は田村虎蔵、実は私は巌谷小波を少し調べて知っています。なぜかと言うなら、松旭斎天勝の小説を書こうとして、いろいろ資料を集めていた中に巌谷小波が出て来ます。

 天勝は、明治44(1911)年、師匠の松旭斎天一から独立をして、天勝一座を起こしますが、ほとんどのマジックは天一の演じていたものばかりで、目新しさがありません。何とか独自の路線を作りたいと苦慮していた時に、亭主であり、一座の支配人である野呂辰之助がお伽芝居と言うジャンルに注目します。元々お伽芝居は巌谷小波と、役者の川上音二郎貞奴一座が本腰を入れてはやらせようと躍起になって興行したのですが、掛け声とは裏腹に思うように成功しませんでした。

 

児童演劇の難しさ

 もともと巌谷小波はドイツに留学し文学を学び、日本に帰国をすると、日本に子供が見る演劇のないことに気付きます。そこで子供でも分かるようなストーリーを作るべく、昔からの童話や民話をもとに童話を考案します。そうして生まれたものが、桃太郎、かちかち山、花咲爺、一寸法師などで、今日に残る数々の童話を作ったのです。その後、大正期になって、お伽芝居は家庭劇などと名前を変えて、石川木舟(もくしゅう)、矢野雉彦(きじひこ)などとともに舞台で興行をします。

 然し、家庭劇は当たりません。それは今に続く、児童演劇の歴史を見れば明らかなことで、子供を対象にするため、料金設定を低くしなけらばならず、初めから収益が期待できないのです。

 また、子供にわかる内容にするため、大人が見るには刺激が足らず、白塗りの男女が出て来て、イチャイチャするようなところもなく、二枚目が、波模様の着物を着て、悪漢をバッタバッタと切り伏せるような場面もありません。山の中から爺さん婆さんが出て来て、キツネやタヌキに化かされる。と言った話では、若い娘は熱狂しないのです。

当然、巌谷も家庭劇の座員も経営難に陥ります。

 

救世主天勝

 家庭劇の苦境を救ったのは天勝でした。当時日本の興行界のドル箱スターだった天勝は、何とか独自の舞台スタイルを作りたかったのです。元々天勝一座には親子連れが数多く来ていましたので、これを一つ、家庭劇を取り入れることで親子連れを大きく売り出そうと考えました。マジックのショウの中に、必ず一幕、童話が入り、童話の中にはダンスを取り入れ、マジックもいれて、子供が退屈しないように工夫しました。

 家庭劇の座員には積極的に芝居に協力してもらい、演技指導から、出演まで、かなりの高給を支払って迎え入れました。巌谷小波に対しても、旧作に対しても使用料を支払いました。巌谷もそれにこたえるように、新作童話の、小公子、チュウチュウ鼠、などを書いて天勝一座で初演をしました。

こうして、童話劇は天勝一座で定着をし、天勝一座の「坊ちゃん、お嬢ちゃん、お揃いでどうぞ」と言うキャッチフレーズとともに、大正期から、昭和15年まで、日本中の舞台で当たり続けたのです。

 天勝と言う人は、子供の頃に奉公に出されて、ろくに学校に行かせてもらえなかったため、平仮名はかろうじて読めましたが、漢字はほとんどわからなかったようです。しかしそんな人でも、巌谷小波のような、第一級の文化人をブレーンにして舞台活動を続けたわけです。なかなか現代のマジシャンが到達できないところに天勝は存在していたことになります。

続く