手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

奈良の大仏と伝染病

疫病の蔓延 

 奈良と言えば一番人気の観光名所は東大寺の大仏でしょう。しかしなぜ奈良に大仏があるのかをご存じない人が多いようです。東大寺は、日本全国にある国分寺の総本山です。国分寺とは、聖武天皇が、742年に、全国に仏教を定着させるために、模範となる寺を国府に一棟ずつ建てました。今はほとんど残っていないようですが、それでも全国に国分寺の名前は残っています。そのお寺の総本山が東大寺です。

 天平7(735)年に日本で天然痘が流行します。初めは遣唐使が中国から伝えたなどと噂され、たちまち九州中に広まります。当時は天然痘を治す薬もなく、天然痘にかかれば死を待つだけのことでした。実際九州の人口の三分の一の人が亡くなったと言われています。

 翌年になるとウイルスは中国、四国、近畿にまで及び、都では全く政治ができないほどに人材が次々に亡くなってゆきます。結局、天平9年にウイルスは収束しますが、3年間で、百万以上の人が亡くなっています、当時の日本の人口が500万人くらいですので、日本人の5人に一人が亡くなったことになります。

 

寺院建立、大仏建立

 このウイルスを鎮めようと、聖武天皇は、天平13(741)年に、全国の国府国分寺国分尼寺を立てるよう指示します。巨大寺院を建て、そこに仏像を収め、仏の力によってウイルス退散を考えます。大幅な人口減で国民が疲弊しているさなかに、とんでもないプロジェクトを立てて、莫大な税金を徴収します。

 それだけに治まらず、東大寺に廬舎那仏(るしゃなぶつ)の大仏を建てることを思いつきます。大仏建立の詔(みことのり)は天平15(743)年です。年表の年代を見ているだけでも聖武天皇は、天然痘の流行から、ほぼ毎年、寺を建立したり、大仏の建立をしています。実際この時期多くの農民が税金が払えずに餓死しています。

 しかし、聖武天皇には民の苦労は聞こえません。それよりも自国が一流国家であることを内外に伝えたかったらしく、肉食を禁じています。豚や牛ならばその後も日本人は食べませんが、この時は、魚や鳥までも禁じています。食料が足らずに人が餓死しているときに、魚を取るのも、売ってもいけないと言うのは無理な話です。ご丁寧に、魚を取らない漁師に補償金まで渡しています。補償を貰っても、そこに見えている魚を取らない手はなく、結局、漁師は魚を取って販売もします。無理なことは無理なのです。

 とにかく、高さ15m、青銅造り、金メッキの壮大な大仏の建立を考えます。銅だけでも500トンが必要です。通常これだけ大きなものは、木製か石で作りますが、全て銅で作ると言うのは驚きの発想です。当時のヨーロッパには大きな鉱山は見当たりません。中国なら可能性がなくもないですが、500トンを一度に揃えられる国がそうそうあるものではないでしょう。とんでもない大事業です。

 当時の鉱山は、人一人がようやく入れるような穴をあけ、鑿と金づちを持って人が入り、岩盤を崩して岩を袋に詰め、それを背負って、来た道を戻って来ると言う作業です。集めた土から採れる銅はわずかです。それを500トン集めるのですから気の遠くなるような作業です。長門の国(山口県)美祢(みね、秋芳洞の近く)に長登(ながのぼり)銅山と言う良質な銅山があったそうで、多くはそこから運んだようです。

 鋳造方法は、今日でも釣鐘を作るときの工法と同じで、内型と外型を粘土で作り、その隙間に銅を流し込んでゆきます。但し15mもある仏像ですから、一つの型では作れません。

 腰高くらいの鋳型を作っては銅を溶かして流し込み、ひとしきり銅が冷めたら、その上に内型外型を乗せ、また銅を流し込んで作っていったようです。然し、これは大変な難事業で、銅を積み重ねて行くにしたがって、下に整形した銅が重みに耐えかね、一遍に崩れたり、冷たい銅と熱い銅では接着がうまく行かず、つなぎ目がはがれて崩壊したり、多くの失敗があったようです。

 

古代の鍍金(メッキ)法

 総体が出来上がると鍍金(メッキ)です。電気もない時代の鍍金と言うのはどのようにしていたか私は学生時代から興味でしたが、水銀を使って金を溶かし込んでいたと知って古代の発想に驚きました。そのやり方はこうです。

 先ず金を薄く伸ばして、金箔を作ります。その金箔を細かく切って、花吹雪を作ります。花吹雪を薬研(やげん、深く細い舟形の鉄器、車と称する鉄器の車輪と併せて薬などを砕くもの)で、金を粉末にします。そこに水銀を混ぜ合わせかき混ぜます。金は水銀に混ざり、銀色と金色の中間色になります。これを仏像の肌に筆で塗ってゆきます。塗ったところに焼き鏝(こて)を近づけます。水銀は常温では液体ですが、少し温度が高くなれば気化します。熱した鏝を近づけることで水銀を大気中に飛ばし、後に金だけが銅に密着して残ります。これが古代からの鍍金法です。

 合理的な方法です。しかし問題があります。狭い部屋の中で鍍金をしていると、空気中に水銀が漂っています。それを職人は吸い込んでしまいます。水銀は肺に入ると、肺に壁を作って呼吸困難になります。のどに入ると声が出なくなります。それでも鍍金を続けていると、突然倒れてそのまま命がなくなります。大仏建立の際も多くの職人が亡くなったようです。当時は何が原因で亡くなったのかはわからなかったでしょう。ずいぶん多くの犠牲者が出たのです。

 

大仏開眼(かいげん)供養

 長々お話ししてきましたが、こうして天平勝宝4(752)年、4月9日、大仏開眼供養(だいぶつかいげんくよう)の式が盛大に行われます。疫病の後に増税を強いて、多くの国民を餓死させて、多くの職人を水銀中毒にし犠牲を強いて、そうして出来上がった大仏が本当に天然痘の撲滅に役立ったのか、疑問が残ります。恐らく聖武天皇とすれば自分は国民に役に立った良い天皇だと、生涯信じて疑わなかったでしょう。どうも聖武天皇と言う人は誇大妄想の気があり、思い込みの強い人のようです。但し、この催しは海外でも話題になり、日本の国威を示す効果は十分だったようです。

 この式典のために唐の長安から菩提僊那(ぼだいせんな)と言うインド人の高僧を招き、式典の総指揮を任せます。他にも千人を超える招待客を呼び、日本各地は勿論、唐、朝鮮、ベトナム、などの国にも招待状を送り、実際に来賓客がありました。まさに国家行事としての式典です。遠くのほうから来る来客は、定期便などありませんから、全くあてずっぽうでやってきます。早ければ半年も前に日本についてしまい、式典までの間、何も接待しないわけにはいかないため、連日散楽(さんがく、奇術、曲芸、軽業など、様々な雑技)を演じ、来賓を楽しませたそうです。

 

手妻の植瓜術

 そうした催しの中に、手妻で今日まで残っている、植瓜術(しょっかじゅつ)などを演じた記録があるそうです。その情報は、東大寺の菅主さんのご子息から伺いました。実際ご子息は、植瓜術に興味があり、私から植瓜術を習いました。長年の謎だったそうです。

 長い話になりましたが、大仏開眼はそもそもがウイルス退散にあり、そのために国家財政を傾けるほどの費用をかけ大仏を建立し、海外賓客を招いての一大イベントを行ったわけで、いかに大きなプロジェクトだったか、そしてそこに手妻が関与していたことがお分かりいただけたなら幸いです。1270年前のことです。

続く