手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

30年後のそもプロ 2

 本題に入る前に、今月、22日にノームニールセンが無くなりました。享年81、私が最も尊敬するステージマジシャンの一人でした。良き時代のマジシャンがまた消えて行きました。グレートトムソーニも亡くなり、ナイトクラブ、キャバレー時代の芸人は終わった感があります。全く寂しい限りです。合掌。

 

 私の知る、かなり確かな情報ですが、大量のコロナウイルスに感染した、台東区の永寿病院で、能勢裕里江さんが連日患者さんの治療に当たっているそうです。多くの医師、看護婦が感染した結果、医師が不足し、健康な医師がそれを補って、連日奮闘しています。裕里江さんは、健康な状態で仕事をしているようですが、余りの激務が続くと心配です。交代制にでもなって、少し休みが取れればいいと願っています。

 

 30年後のそもプロ 2

 昔、ケン正木さんがプロになるときに、私に、「何かいい芸名を考えてくれませんか」。と言って来ました。そこで私は、

 「まさきと言う語感は、濁りも、音便もなく、平坦だから、お客様が聞いても印象に残らないでしょう。例えば私の、藤山は、ふじのじが濁っていますから、人の印象に残りますし、新太郎はしんの『ん』が音便になっていますから、これもアクセントがついて人の心に残ります。芸能で生きるものは、その名前をすぐにお客様に覚えてもらわなければ意味がありません。

 君がどうしても本名の正木を使いたいなら、正木は残したとして、名前はもっと簡単で覚えやすいものがいいですよ。漢字ではなく、ゲン、とか、ケン、にしたらどうですか。ゲン正木でもケン正木でも、覚えやすくて印象に残ると思いますよ」。

 言われてケンさんは、すぐに「ケン正木」を選んで、今も活動しています。私はこれまでも人の名前や、人生を左右する問題にかなり深く関わることが多々ありましたが、幸いなことに、私が命名した人、プロになることを認めた人はみな成功しています。

 これまで私はあまり自身の性格を人に話したことはないのですが、私は人よりも相当に第六感が強いようです。私の当たり癖の強さは、母親がよく知っていて、商店街の福引などによく私を連れて行き、くじを引かされました。すると三枚に一枚くらい、 二等や三等を当てたのです。但し、私はこうした偶然の域を出ないことに運がいい悪いを言うことが好きではなく、あまり人に話さなかったのです。

 然し、私には何となく人の行く先が見えるのです。あぁ、この人こんな表情していて大丈夫かなぁ、と思っているとその人は数日のうちに亡くなります。マジシャンになりたいと言う人を見て、「あぁ、この人は伸びるな」。と思うと、プロになることを認めますし、だめだと思ったら、「やめたほうがいい」。とはっきり言います。名前をつけて欲しいと頼まれても、だめと感じた人は断ります。

 幸条スガヤさんがプロになるときに、「自分は荒城の月と言う曲を使ってマジックをしますので荒城スガヤと言う芸名にしたいと思います」。と言って、仮の名刺を出されたのですが、私は名刺を眺めて直感で、「それはよしたほうがいいですよ。名前に、荒れた城と言うのは縁起が悪いですよ。どうしてもこうじょうを名乗りたいなら、例えば、しあわせの文字を書いて幸(こう)と読ませ、じょうは、一条、二条の条を書いたらどうですか。条と言う文字はまっすぐ先々まで伸びると言う意味ですから、幸せが先々まで伸びると言うなら、すごくいい名前だと思いませんか。と伝えました。すると、数日して、スガヤさんから、「幸条スガヤにします」。と電話がきました。氏の人生の成功は私のおかげだとは申しませんが、その一助を成したとは思っています。

 弟子の大樹も、元々気の弱い、おとなしい性格でしたから、もっと積極的に前に出て、自分だけでなく、周囲の人も助けてあげられるような男になれ。「寄らば大樹の陰」すなわち、多くの人が寄って来て、雨宿りができるような、大きな木になれと言う意味で大樹と名付けました。現在は、まだ人を助けるほどには大きくなってはいませんが、行く行くこの世界で、とても重要なマジシャンになってゆけばよいと思います。

 

 ケン正木さんは最近youtubeに自分の手順をまとめて解説をつけて、演技を残そうとしています。自身の健康のこと、コロナウイルスで仕事が減ってゆくことなどを心配して、ステージマジックとはこうしたものと言う記録を残そうとしています。いいことです。どういう形であれ、自分がこれまで演じてきた作品をきっちり演技として残しておくことはいいことです。

 ケンさんに関しては昔から、私は、弟分のような気持で接してきましたが、考えてみたなら一つ違いです。私が、「君ね、ああしなさい、こうしなさい」、などと言うこと自体がおかしいのです。ほとんど同じ年なのですから。彼が自分で判断して、これまでの演技をまとめたいと思うことも、彼の年齢を思えばもっともなことなのです。コロナの時期に時間があると言うことが、むしろ幸いなのだと思います。

 

 カズカタヤマさんは、この間昼に食事をした時に、先々の不安を語っていました。カズさんに限らず、ほとんどの芸能人はみんな不安でしょう。そして、私が、オイルショックにあった時、天皇陛下が倒れられたとき、バブルがはじけた時、その後の、リーマンショックや、阪神大震災東日本大震災など、災害があった時、その度に仕事が減って、生活が立ち行かなくなった時にどう生きてきたのかを聞いてきました。

 カズさんが私に質問してくる姿は、全く30数年前に私に真剣に相談していた、独立したての頃と同じでした。つまり30年たって、そもプロの体験はまだ続いているのです。私の見るところ、カズさんの現在は、当人が思うほど心配な状況ではないと思います。

 なぜなら、カズさんほどのマジシャンは、もう世界を見渡してもそう数多くはいないからです。ケンさんも、カズさんも共通して言えることは、貴重なジャンルの一人になっているのです。そうとなればそう簡単にはつぶれません。つぶれようにも周囲が守ってくれます。何を隠そう、かく言う私自身、手妻と言う、いわば絶滅危惧種の一人なのですから。その私が言うのですから、そう心配する必要はありません。絶滅危惧種はつぶれません。カタヤマさんには生き残るための秘策を詳しく伝えました。

 その秘策は明日、「大波小波がやって来る」がまだ完結していませんので、大波小波の11でお話ししましょう。どんな場合でも、人はなすべきことがあります。そして、今、何かをしておくと、次の時代にはきっと大きな仕事を手に入れられます。泣いてばかりいては何もならないのです。人が弱っている、人が苦しんでいる時が飛躍のチャンスなのです。うまく行かないとき、みんなが袋小路に入って困ってしまった時、そんな時にスカッとホームランを飛ばして見せるのがスターなのです。

 さて、スターになるにはどうしたらいいのか、明日を乞うご期待。

 

続く

30年後のそもプロ

 「そもそもプロマジシャンと言うものは」、と題する随筆を出して、もう20年にもなります。初めは季刊誌の「ザ・マジック」に載せ、その後単行本として出しました。

 今私のブログの支持者の多くは、その頃の「そもプロ」を購読して、そのまま私の文章中毒にかかった方々だろうと思います。

 そもプロには若いマジシャンが出て来ます。プロマジシャンのスジ山金太郎を訪ね、どうしたらプロとして生きていけるかを尋ねます。この会話が刺激的で、当時、ザ・マジックを読む中学生や、高校生に強い影響を与え、読者がその後社会人になったのち、私を見かけると近づいてきて話しかけるようになります。

 私が、駅のプラットホームに立っている時、新幹線の座席に座ってパソコンをしている時、レストランで食事をしている時、突然人が近づいてきて、「僕は、そもプロの愛読者でした」。と挨拶をされます。その人は、もう30過ぎの社会人ですが、子供のころ読んだ文章の、感動した部分を諳んじて話し出します。その時の読者は、全く中学生の時の顔そのもので、純粋なマジックマニアの頃に戻って昔を懐かしむのです。

 中には、食事代をお支払いしますので一緒に食事をしながら私を叱ってください。という妙な依頼も来ます。それが結構たくさん来ます。私が、中野の文弥(今はない、割烹料理店)や、飯倉片町の野田岩鰻屋)に連れて行き、「芸能と言うのはそういうもんじゃぁない」。などと言うと、読者が、「そうそう、この言い方、これがそもプロなんだよなぁ」と言って、相手は一人、悦に入ります。疑似そもプロ体験です。

 そもプロは単行本になって既に10余年たっています。ある大学のマジッククラブには部室にそもプロが置いてあるそうです。代々の後輩が読んでいるそうです。私が20年も前に渾身の思いで書いたものが、今も読まれていることは有り難いと思います。

 

 その、そもプロで、若手マジシャンとして出てきた、コワザ君や、キムコ君は実は、ある時期のカズカタヤマさんであったり、ケン正木さんであったり、ヒロサカイさん、前田知洋さんだったわけです。彼らが悩んだ挙句に私に相談してきたことを何気に書き留めておいたものが、コワザ、キムコ君のセリフになって登場したのです。

 一昨日の23日、ケン正木さんや、カズカタヤマさんに電話をしました。二人とも、コロナの影響で、仕事が全く来なくてえらく困っています。この先を思うと不安です。どうしたらいいかと私に尋ねます。本来の私なら、「こうしてごらん、あれをやって見たらいいよ」。などと、アイディアを出します。然し、今の私は彼らと同様無職です。私自身が打つ手もなく日々模索をしています。

 然し、こんな時こそ、何かパァーッと明るく世界を変えて見せなければいけません。私はカタヤマさんに、「これから高円寺においでよ。寿司でも食べよう」。と誘い出しました。そして、昼から二人で、ビールを飲みながら寿司をつまみました。30年後のそもプロ疑似体験です。金がない、仕事がないと、愚痴ったところで仕事が増えるわけではありません。

 頭の中はいろいろな悩みがで、どうにもならないと言うときでさえ、よく頭の中を整理してみれば、悩みは三つか四つぐらいしかないものです。つまり、金がない、仕事がないを繰り返し悩んでいるだけなのです。解決のつかない問題が頭の中を支配して、身動きができないなら、一度、悩みを放り出して、くだらない話でもしながら、そのあとゆっくり整理をつけてみるといいのです。

 ダメなことはいくら繰り返してもダメです。解決のつかない問題はいくら悩んでも解決がつかないのです。一度発想を変えることが大切です。例えば、連日雨が降ってうっとおしいと思うのは、雲の下にいるからです。3000メートル上空に上がれば、一年中晴れています。自分のいる位置が雲の下か、上かの違いで、自分の心の中は180度変わります。悩み疲れたなら、一度ポーンと飛んでみることです。

 それには人と話をしてみることです。自分が話がしたいと思うような人は全く違う考えを持っている場合が多いのです。そうした人の話を聞くのです。世間は外に出るな、家にいろと言いますが、こんな時こそ人の話を聞くべきです。

 実際私も、小野坂東さんに頻繁に電話をして、いろいろ話を聞きます。ついこのあいだも、澤田隆治先生を訪ねて事務所に行きました。少しでも自身の考えを前に進めて行くには人の知恵が必要です。自身を知恵ある人のそばに持ってゆく努力をしないと、問題解決はあり得ません。

 

 ケン正木さんは、私よりも歳一つ下です。しかし、私が子供のころから舞台に立っていたのに対して、彼は、大学を卒業して、家電販売店に就職して、勤め人を続けていました。そのためプロの道は随分出遅れたのです。そのため私とケンさんでは随分立場が違って見えます。然し、ケンさんは勤めをしながらも舞台に立ちたがっていました。そこで私が出演しているところに頻繁に尋ねて来て、私の舞台を見ていました。やがてそれが高じて、近所のスナックや何かで自分のショウを見せるようになります。しかし実際やってみるとなかなかうまく行きません。

 そこで、私に月謝を払ってマジックを習うようになります。当人は明日にでもプロになりたいと思っていましたが、母親が絶対に許しません。実際、私がリサイタルをした時に、お母さんが楽屋に来て、息子がプロの道を諦めるように話してくれと言いました。然し彼の思いは高まるばかりです。そして、母親と決別してでも独立を考えます。

 本心は私の所で修業したかったようですが、親が乗り込んできて私に迷惑がかかっては申し訳ないと言って、誰かほかの先生を紹介してくれないかと言います。そこで、人柄が穏やかで、修行の軽い師匠となると、渚晴彦師だろうと思い、私は師に電話をしました。師は了解してくれ、ケン正木さんは渚師の弟子になりました。

時あたかもバブルのさなかでしたから、仕事の本数は多く、ケンさんは周囲に助けられて順調にプロとして育って行きました。

 

 一方カズカタヤマさんは、私が毎年、春秋に九州、関西方面でレクチュアーをしていたころ、カタヤマさんは京都の美大に行っていて、私のマジカルアートでのレクチュアーに熱心に参加していました。ある日、マジカルアートのジョニー黒沼さんが、「片山君がプロになりたがっているんですが、藤山さんは弟子にとってくれますか」。と聞かれました。その時私は、もうすでにイリュージョンチームを起こし、大きなショウの活動をしていました。無論手伝いは必要ですから、人を取ることは問題ありません。

 然し、彼のことを思えば、イリュージョンに主力を置いている私より、現役のスライハンドマジシャンに付いたほうがいいのではないかと思い、弟子の件は断りました。人の運命なんてわからないものです。私についていたら彼はどうなっていたでしょう。

 結局、片山さんはミスターサコーさんの所に弟子入りします。随分苦労もあったようですが、結果を考えるなら、その時の私の判断は間違っていなかったと思います。

 その後片山さんと再会するのは、SAMの東京大会で彼がグランプリを取った時です。

 

続く

 

技術の差はわからない

 ビールの宣伝などを見ていてつくづく思うのですが、各社が、味わい、とか、切れとか、コクとか、さわやか、などと言って自社のビールを宣伝をしています。然し、飲む側はそれを理解して飲んでいるかと考えると、ほとんどよくわからないで飲んでいるのではないかと思います。

 私ごとで言うなら、どこのメーカーのビールもうまいと思います。どうしようもなく不味いビールを作っている会社など一社もありません。然し、各社がコマーシャルにとんでもない費用をかけて、声を大にして叫ぶほどには味の違いを感じないのです。

 例えば、飲み屋に入って、「サッポロビール」。と注文して、店の親父が、「サッポロは置いてません。アサヒしかないんですが」、と言われて、「じゃあ帰ろう、よそで飲むよ」。というお客様は、サッポロビールの関連会社の方を除いてはまず存在しないと思います。大概は、「じゃぁ、アサヒでいいや」。と、あっさり前言を翻します。企業は、何千万円もの広告費をかけ、味で勝負していながらも、その味の違いを支持する人は少なく、ほとんどのお客様は、酔っぱらえるならいい、冷たければいい、とりあえずのどが渇いたから、と思って飲んでいるのでしょう。

 そうなら味なんて関係ないのか、と言うなら、とんでもないことで、とても重要なのです。然し、自社の味に最も敏感なのは、他社の研究者です。彼らはライバル会社の長所も短所も知り抜いています。その上で、鵜の目鷹の目でわずかな違いでも敏感に調べ上げています。つまり、同業との比較に於いて味は重要な差別化になります。ただし、ライバルに勝ち抜くための違いを、一般のお客様に強調しても、賭けた広告費用ほどには効果はないのではないかと思います。

 

 例えば、我々がテレビを買う時に、テレビの中の特定の部品の出来がいいから○○のメーカーのテレビを買おう。とは思いません。○○のメーカーのある部品は、同業者がうらやむようなものすごいアイデアで、特許を取っていたとしても、そんなことをお客様は知りません。部分的な部品の技術でテレビは買わないのです。お客様の興味は、色がいい、サイズがいい、操作が楽だと言って買います。

 自動車も同様です。エンジンや、サスペンションに劇的な発明をした会社があったとしても、お客様はそんなことは知りません。自動車は、壊れなければいい、運転が楽ならいい、見た目がスマートならいい、色が赤ならいい、フレンチブルーがいい、安ければいい、等々、全く別の考え方で買います。

 実際、日本車はどのメーカーも性能がいいですし、壊れません。こうしたメーカーが競合している日本国内では、技術の差を言ってもあまり意味がないのではないかと思います。但し、海外で勝負すると、それは歴然でしょう。

 アメリカに行くと、路上では大概、ボンネットを開けて中を覗き込んでいる人がいます。然し、日本でそうした状況を見ることは稀です。日本車は、ガソリンと水さえ切らさなければ、3年でも4年でも動いています。日本車を買って、数年間、ボンネットを開けたこともないと言う人はたくさんいます。

 車内装備のクオリティの高さも日本が一番です。外国の車に乗ると、必ず意味不明のねじや部品が床に落ちています。意味不明なのではなく、どこかに使われていた部品なんでしょうが、簡単に取れてしまうのです。取れてしまった後、それが何の部品なのかわからなくなって落ちているのです。それで走行に全く問題がなければいいのですが、ある日突然、内装の壁面がはがれて落ちてきたりします。こうした問題を目の当たりにすると、「あぁ、日本車は良く作ってあるなぁ」、と諒解します。

 

 さて、ここまで書けば私が何を言いたいのかお分かりと思います。マジシャンが集まると、必ず、技術とオリジナルの自慢が出て来ます。然し、技術も、オリジナルも、その差がわかるのは同業者だけです。一般のお客様には最も伝わらない世界なのです。工夫が劇的にライバルと差別化できるような作品なら話は別ですが、ちょっとしたアレンジとか、ちょっとした技術では全くお客様は興味を引くには至りません。

 むしろ、一般のお客様に知られるようなマジシャンになりたいと思ったなら、マジックの技術にこだわっている限り目的は達成できません。ただし、これは技術やオリジナルのの否定ではありません。マジックショップに売っている既成の道具をそのまま使ってもいいと言っているのではありません。技術もオリジナルもとても重要なことですし、そこの探求は一生続くことなのです。

 然し、然しです。それを人前で話すことが芸の未熟です。特に技術などと言うものは、実際に演じているときには外に見えないものです。それが見えたならそれはだめなマジシャンです。技もオリジナルも何も使っていないように見えて、次々に自然に不思議が起こせるのがマジシャンなのです。そこのわずかな技術を人に語って、そこに理解を求めようとする人は、いまだマジシャンですらないのです。

 

 私がある飲食店のオーナーと話をしているときに、たまたま若いマジシャンAを同席させました。その若いマジシャンとは別件でこの後、,話をすることになっていました。しかし、私の時間の都合でとりあえず同席させたのです。できることなら、私が仕事先のオーナーとどういう話の仕方をしているか、そんなことを見て学んでくれたらいいと思って同席させたのですが、これが後々痛恨の原因になりました。

 ひとしきりオーナーと話をした後、オーナーが「そちらの方もマジシャンですか」、と尋ねられたので、もしこの店で使ってもらえるなら彼にとってもいい事かと思い、紹介しました。ところがこのAがとんでもない男でした。

 Aは、自分がいかに優れたマジシャンであるかを語り始め、日本のほかのマジシャンがいかに技術の鍛錬を怠っているか、オリジナルの工夫をしていないかを、とうとうと語り始めたのです。終いに、「日本のマジシャンはどれもクソだ」。と言いました。私が目の前にいるにもかかわらず、Aの目には私は十束ひとからげのクソなのです。

 まだマジックの世界で何の実績も挙げておらず、どこでマジックを披露しているかもわからず、どう見ても大した収入も得ているとは思えないような、駆け出しのマジシャンが、心の中で、これほど日本のマジシャンを見下して見ていたのかと思うと、人の心の業の深さを思い知らされました。

 そんなAに対して、オーナーは不快感を示し、さりげなく席を立ち、他のお客様のところに行ってしまいました。気まずい雰囲気になりました。私はAに、「初めて会った人に日本のマジシャンを否定しても、君に仕事は来ないよ。そんなことよりも、どうしたらお客様に喜んでもらえるかという話をしなければだめだ」。と、言いましたが、Aは自分の間違いに気づいていません。自分が王様なのです。

 この日以来私は、若手を仕事先に紹介することが恐ろしくなりました。自分の世界の殻に閉じこもって、他の人のことが一切見えない。そんな若手をオーナーに紹介したことを恥じました。まぁ、初めから私が相手をしてはいけない人なのでしょうが、人に幸せを提供する立場のマジシャンが、自分以外をすべて否定して、周りの人のことが見えなければ、こんな危険なことはありません。マジックをするより何より、まず人との応対、人との付き合い方をしっかり学ばなければ、とても人前には出せません。

 でも、ビールのテレビ宣伝を見ていて、どう見ても他社とクオリティの違わないメーカー同士が、味が違う、コクが違うと言っているのを見ると、案外、メーカーも、駆け出しマジシャンも、同じことをしているのかも知れません。

 

ペンは剣に勝てず、いわんや芸人をや

 私の文章のファンが全国に3000人くらいいます。その支持者が私のブログを常に見ているわけではありませんが、大体一回書くと300人くらいの反応があり、ちょっと気の利いたことを書くとすぐに700人くらいの支持者が見てくださいます。

 そうした人たちに期待されると、ついつい何か役に立つことを書かなければいけないと思い、毎回、2500字くらいの文章を出しています。私の支持者が何を求めているのか、全く手さぐりの状態ですので、マジックの体験を書いたり、手妻の歴史、海外のマジシャン、お世話になったマジシャン。日常のこと、芸能のこと、食べ物のこと、シトロエンクラシック音楽、いろいろ書いて反応を確かめています。

 昨日、一昨日は、クラシック音楽を書いてみたのですが、およそ、100年も前の指揮者のことなど、誰も興味がないのではないかと、ブログの支持者を大幅に減らすのではないかと心配して書きましたが、どうしてどうして、わからないながらもついてきてくださって、300人以上の支持を得ました。そこから逆算して、大体私を支持してくださる方は、私の書くことは一応何でも目を通してくださるのかな。と判断しました。

 実は、私がブログを書こうと思ったきっかけは、何とか、マジック以外のことを書いて、お客様とつながりを持ちたいと思ったからです。どうしてもマジシャンの書くことは、マジックに関連したことであり、しかも極論してしまえば種の解説ばかりしています。然し、道具や技術の解説ができる人は、どのジャンルにも山ほどいます。勿論そうした活動をする人は、そのジャンルでリーダー的な役割をしている優秀な人たちなのですが、しかし、しかしです。そのジャンルの知識を備えた人と言うものが、外の世界に影響を与えることはわずかです。

 かつて、私にマジックを教えてくれたマジック研究家の高木重朗先生は、生涯に何百冊ものマジックの教本を出しました。が、しかし、マジックを離れて、例えば、随筆を書いたとか、世相を書いた本などと言うものはなかったのです。わずかに、探偵小説の解説本などを出したようですが、これとてもごく一部の愛好家のための本です。

 氏は慶応大学を卒業して、国立国会図書館に勤め、多くの日本中のマジッククラブの指導をし、ある時期、カリスマ的な指導家だったのですが、師が、マジックから離れて、自身の心の内を語るような文章はなかったのです。

 それは氏だけではなく、マジックをする人に共通して言えることのようです。彼らの興味は種、仕掛けであり、物を書くときは、ほとんどの場合、それを教えるときです。種仕掛けを語るときは饒舌になりますが、マジックを通して感じた人生観や、いかに人と共存して生きるかなどと言う話にはあまり興味がないようです。

 室町時代世阿弥が、花伝書を残したように、現代のマジシャンが、マジックからどのような芸術論を語るのか。そんな本があったら興味深いのですが、マジシャンは芸能、芸術はおろか、自身の思いも告白しようとはしません。

 こうしたことが、マジシャンと言う存在が、マジックを超えて、芸術家であるとか、人として優れた人物であるなどと言う評価が生まれない原因ではないかと思います。

すなわち、マジシャンが社会的な地位が低いから、芸術家として評価されないのではなく、自らが芸能芸術を語っていないから、評価の対象になっていないのです。

 

 そこで僭越ですが、私が、いろいろと芸能芸術を書いてゆこう、そして、日常感じたこと、私の趣味など、いろいろお伝えしたいと思って、ブログを始めた次第です。

 従って、話は右に左にうろうろします。理解しがたいことも書きます。然し、それもこれも、マジシャン、或いは手妻師が、世間をどう見て、どう考えたか、という、自身の目で正直に世間を見た結果を書こうとしたわけで、何ら他意のないものです。

 この先も、私の心の奥を語ってゆきますので、気長にお付き合いしてください。ほんのひと時の気晴らしにご覧くださるだけで結構です。それで十分私の目的は達成するのですから。 

メンゲルベルクと宇野先生 2

 さて、クラシック音楽のレコードを買い集めていた私は、メンゲルベルクを知り、指揮者の解釈一つで音楽の感動の度合いが全く違ってしまうことを知りました。そこで同じ曲を、別の指揮者のレコードで聞く楽しみを覚えます。こうなると、レコードへの出費はマジックの次に大きくなってきます。

 こうしてレコードを買い漁っていると、レコードのジャケットの裏側に、作曲家のこと、指揮者のこと、いろいろ情報が書かれている裏書を熱心に読むようになります。当時、メンゲルベルクのレコードの裏書は主に宇野功芳(うのこうほう)先生が書かれていました。この先生の文章が私の心を捉えました。通常の音楽のお勉強のような書き方ではないのです。

 作曲家が何を考えてこの曲を作ったか、指揮者が音楽をどうとらえているか、視聴者はどう音楽と向きあうべきか。そのことを直球で語って来るのです。私は宇野先生の文章を読んで初めて芸術を自分事として考えるようになりました。

 先生の書いていることを読んでいるうちに、指揮者が音楽をどう考えているかがわかるようになりました。と、同時に、ちょっと視点を変えて、指揮者の活動を他の芸能に置き換えて考えてみてみると、名優や噺家、奇術師が何を考えて芸能を演じているのかが見えてきます。

 それは例えて言えば、出来上がった家を見て、その外観だけを見て「いい家だ、綺麗な家だ」、と言っていたものが、家の基礎から、構造までもが見えるようになり、むしろ、よい家と言うのは、その構造や基礎を発展させたものであることに気づきます。そうなって初めて「この家は何を提供するための家なのか」、がわかるようになります。

 私は、レコードの裏書を読むうちに芸術がなんであるかを理解してゆくようになりました。そうした点で宇野先生は恩師であるわけです。特に多感な時期のこうしたものの考え方を覚えると、当然人生そのものが変わってきます。マジックの世界を見渡しても、なかなか芸術を教えてくれる奇術師と言うものがおりません。

 そうした中で、宇野先生が、私のマジックの指針となってくれたことは疑いありません。更に先生の文章です。先生は誠に個性的な文章の書き方をします。何が人を感動させるのか、何が面白いのか、を実に詳しく、しかも自分自身の独自の見方、自分の審美眼を信じてで解説します。感動を語るのにテクニックは必要なく、しっかり本質を見て、感動を素直に語れば伝わるんだということがわかります。

 その後、私自身がマジック雑誌にいろいろと文章を書くようになります。その時、子供のころから読んでいた文章で影響を受けた先生を参考にさせていただくようになります。その先生とは、宇野功芳先生であり、「つかぬことを言う」の著者、山本夏彦先生であり、古くは、「江戸から東京へ」の著者、矢田挿雲先生です。これらの先生の文章は若いころ、繰り返し、繰り返し何十篇も読みました。お三方に共通していることは、江戸前の恬淡とした書き方で、それでいてひねりがあって、ばかばかしいことが好きで、洒落ているのです。

 学生の内は、「あぁ、こんな文章が書けたらどんなにいいだろう」。と、憧れだけで読んでいたのですが。実際、自分が文章を書くようになって、少しずつ尊敬する先生方の考え方がよくわかるようになりました。

 

 当の宇野先生は、メンゲルベルクのレコードの裏書以降、音楽評論家として、大きく名を成してゆきます。そもそも先生がべた褒めをする指揮者と言うのが、当時の音楽界で中心に存在していた人たちではなく、どちらかと言うと癖の強い、やりすぎの指揮者とみられていた人たちばかりでしたから、先生の文章そのものが初めは音楽界では軽く見られていたように思えます。

 然し、恐ろしいもので、宇野先生が、熱烈に指揮者をほめ、あちこちの音楽雑誌に書いてゆくと、それまでローカルな活動をしていた指揮者が脚光を浴びて、やがて巨匠に変貌してゆき、レコードの売り上げが大きくなって行ったのです。

 ムラビンスキー、クナッパーツブッシュ、シューリヒト、朝比奈隆小林研一郎、など、先生が褒めると、それまで一顧だにしなかった視聴者が、レコードを買うようになって行ったのです。そうなると、先生自身も徐々に音楽界で力のある評論家になって行きました。私は外から眺めて、先生の成功に喝采を送っていました。

 

 と、ここまでの話なら、私がレコードの裏書を書いていた音楽評論家の影響を受けたというだけの話なのですが、実はある日、重大な事実を知ります。宇野先生のお父さんは、漫談家牧野周一さんだったのです。先生の本を見ているうちにそのことがわかりました。牧野周一先生は、私は何十回も楽屋で顔を合わせています。痩せて小さな人で、喋り一筋で世相を語ります。非常に玄人受けのする漫談で、漫談と言う芸はこういう風にするものだという、お手本のような芸でした。私の父親が同様に漫談家であったので、親子ともども縁が深かったのです。

 実は、牧野先生の亡くなる前日、すなわち最後の舞台が浅草松竹演芸場で、私はその舞台を見ています。演芸場のトリを取っていた先生は、夜の部で、客席がもう30人くらいしかいなくなったところで漫談を語っていたのですが、不思議なことに、舞台の牧野先生が青白く見えました。勿論ブルーライトなど使ってはいません。漫談ですから。その上、いつものネタを話さずに、自分の将来について語り始めたのです。

 話していたことは、これからは、あえて笑いを取るような漫談をしないで、お客様と向かい合って、互いがニコニコしている中で何気ない世間話がしたい。というのです。

全く不思議な漫談でした。しかしその抱負も空しく、翌朝には亡くなっていたのです。

 訃報を知った後、名人の最後とはこうしたものなのか、と思いました。何の衒いもなく、ただお客様と向かい合っている。それが芸の最終到達点なのか、と。

 

 さて、私はその後、先生が牧野先生のご子息と知った時に、20代の時に見た、牧野先生の最後の舞台のことを宇野先生に伝えたくなりました。そこで、いろいろ調べて宇野先生に手紙を出しました。すぐにご返事が来て、会ってもいいということでした。

 私はこの時、もう40を過ぎていたのですが、この時はまるで少年のように嬉しかったのを覚えています。池袋の鰻屋でお会いして、お話をさせていただきました。子供のころからレコードの裏書で知っていた先生と現実に向かい合ってお話ができることの幸せをかみしめました。

 以来、折に触れてお会いする機会があり、私の公演にも何度も見に来てくださいました。先生と、浅草の並木の藪で天抜きで菊正を一杯やったり、千住の尾花で鯉の洗いを肴に古い時代の指揮者の話をするのは無上の楽しみでした。人を知ることは新たな世界を知ることで、とても心を豊かにしてくれます。

 その先生も今は亡く、もう誰ともメンゲルベルクの話ができなくなりました。こうして書き物をしている間も、時々レコードを出しては、1940年のアムステルダムの時代を思いつつ演奏を聴いています。その音はとても深く、聞いていても、いくつもの記憶がよみがえってきます。そして今鳴っていた音が瞬時に消えて行きます。消えることの儚さを思うとともに、消えるゆえに心に価値を刻みます。芸術と言うものは身に染みてつくづく有難い宝物だと思います。

 

メンゲルベルクと宇野先生

 大変古い話になりますが、19世紀末から昭和20(1895~1945)年まで活躍した、オランダの名指揮者で、ウイレン メンゲルベルク(1871~1951)と言う人がいました。生前は世界4大指揮者の一人で、オランダのアムステルダムコンセルトヘボウ管弦楽団ができると、弱冠24歳で常任指揮者に選ばれ、それから50年間指揮をし続けました。生前の欧米での人気は大したもので、オランダ国内でも、優れたオランダ人を国民が人気投票をすると、女王を抜いてダントツに一位になった人でした。

 そのメンゲルベルクが演奏したベートーベンや、ブラームスチャイコフスキーが今も復刻レコードで販売されています。私は中学生のころからクラシック音楽に興味を持ち、高校に入学したときに、母親が、ソニーから出たインテグレートと言う、重低音の出るステレオを買ってくれました。私はそのステレオの音に驚くとともに、この音を生かすレコードはクラシックだとばかりにオーケストラのレコードを買い漁りました。

 たまたま、高校生の時にメンゲルベルクの復刻のLP版を買い、一遍でファンになり、以来出るレコード出るレコードを買いまくりました。当時はLP盤一枚が1500円くらいしたと思います。そのころ私が平和島温泉や、池袋の七色温泉などのお手軽な舞台に立って、一回の出演料が1500円から2000円くらいでしたから、舞台の収入はそっくりLP盤に消えました。池袋の七色温泉に出演したときなどは、その日に貰ったギャラを持ってすぐにヤマハ楽器に行き、レコードを買いました。それが楽しみだったのです。

 ただし、SPレコードの復刻盤ですから、音色は悪く、ソニーのステレオで聞くには物足らないものでした。しかし、メンゲルベルクの演奏が、燃え立つような演奏で、一度聴いたら病みつきになったのです。

 私にとってはその1枚1枚が今も宝物です。大変個性的な演奏をする指揮者でしたから、その癖の強い演奏にはすぐにはまりました。古いものでは1920年代の録音されたものもあり、昔のSP版は78回転で、片面が最大4分程度しか録音できません。ベートーベンの運命などは、各楽章ごとにレコード盤一枚、裏表を丸々使いました。運命一曲で、レコードが4枚必要だったのです。

 無論、私の聞いているレコードは復刻盤ですから、片面30分は録音されています。それを聞いていても、楽章の途中で、つなぎ合わせた部分がわかり、「あぁ、昔の人はここでレコードをひっくり返したな」、と気づきます。その微妙に音色が変わるとこがレトロで面白いと思いました。但し、そんなことを面白いと思って、復刻盤を買う高校生と言うのは日本中探しても何人もいなかったでしょう。

 中にはライブ録音も残されていて、これは格段に音がよかったので、かなりリアルな演奏を楽しめました。私は、夜に試験勉強などするときに、ヘッドフォンをつけて、何度も何度もメンゲルベルクを聞きまくりました。

 お陰で私はレコードの隅々まで記憶しました。私が目隠しをして、友人がレコードの針を降ろすやいなや、1940年のアムステルダムコンセルトヘボウに来ていた観客が、ざわついている中、くしゅんと小さなくしゃみをした瞬間に、「あぁ、これはブラームスの1番の交響曲だ」と分かるようになりました。こうなるとマニアです。

 さて、話が長くなりました。私がなぜここにメンゲルベルクを書いたのかというと、師は戦後オランダで、ナチスに協力した罪で裁判にかけられます。ナチスの占領下でナチスに協力した人を片端から裁判にかけたのです。師は別段ナチスに協力したことはありません。然し、ベルリンに招聘され、ベルリンフィルハーモニー交響楽団を指揮したことなどを協力とみなされ、国外追放に至ります。

 当人は全く不本意だったでしょう。ナチスの勢力下で活動していた有名人は言ってみればみなナチスの協力者です。何らかの形でナチスに協力しなければ、オランダで活動をすることは不可能だったのです。師も、ナチスの命令に従って指揮者をするか、指揮をやめるかの選択を迫られ、ナチスの命令に従ったのです。このことと、ナチスの政策を支持したかどうかということとは別問題です。しかし、当時のオランダは、戦中はナチス一辺倒、戦後は、密告、妬み、讒言でオランダ国内は大混乱しました。

 その被害にあって、メンゲルベルクはスイスに亡命し、その後、指揮をすることなく1951年、生涯を閉じます。私が語りたいのは、師が74歳でオランダを追われ、スイスに亡命して過ごした6年間です。言ってみれば青天の霹靂で、指揮者の立場を追われたわけです。74歳は指揮者にとって円熟期です。もう少し長く活動していれば、ステレオ録音も間に合ったのです。そうすればもっと名前を残せたでしょう。然し、一切の指揮をすることなく人生を終えました。名人としてはあまりに侘しい人生だったと思います。

 然し、然しです。今の時代はどうでしょう。指揮者も演奏家も、役者も、私も含めて、コロナで舞台に上がることを止められています。こんなことをこのまま続けていれば、自分自身の技量も落ちるし、今迄、私を買ってくれていた仕事先の人たちも疲弊してゆきます。私の芸を楽しみにしていたお客様もこの先どうなってしまうか知れません。こんなことを続けていて、芸能芸術にいいことは一つもないのです。ウイルスから身を守るため。被害者を増やさないためとは言うことはわかりますが、非常事態宣言がその解決になるとはどう考えても理解できません。

 政府の言うことを聞くものだけが自粛をして、片方で、山手線、中央線は運転を続けています。パチンコ店は大繁盛です。パチンコ店の感染に関しては、決して小池都知事は言葉にしません。なぜかは知りません。妖しい風俗店もそのまま営業を続けています。これで本当にコロナは封じ込められるのですか。これではまるで、片方でジャージャー水道の水を流しっぱなしにしておきながら、各家庭の水道の蛇口の水漏れがないかを細かく検査して廻っているようなものではありませんか。本当にこれでコロナウイルスは封じ込められますか。

 

 メンゲルベルクは、スイスの別荘で、自問自答をする日々だったと思います。「自分が何をしたというのか」。そう問いかえす毎日だったと思います。その時の師の気持ちを、今になって私は理解します。「私から手妻を奪って、一体国は何がしたいのか。この規制は意味がないのではないか」、と。

 

 紙面はここで一杯です。メンゲルベルクから宇野先生とのお付き合いに発展するお話しはまた明日書きます。

 

 

誤謬の果ての衰退

 今の状況が続くと、体力のない分野で働く人たちが生活が成り立たなくなり、結果引退して行き、その産業そのものが崩壊する可能性があります。特に私がお付き合いしている伝統産業の方々などは、これまで既に仕事が減っているところへ持って来て、この度のコロナウイルス騒ぎです。これが決定的に廃業につながる可能性があります。

 その例を挙げればきりがありません。例えばお稽古事はどうでしょう。長唄や三味線の稽古どころ。日本舞踊。太鼓、鼓の稽古処。私がかかわっているところですら、これまで、お稽古に通う生徒さんが減少しています。

 それでも何とか、カルチャースクールなどで、新しい生徒さんを見つけては稽古を維持していたものが、全て活動が中止となっては無収入になっています。しかも、この先の再開のめどが立たないというのでは、直接の生活が不安になります。とてもお稽古屋さんのお師匠さんは生きては行けません。元々サイドビジネスのような収入で教えていた人たちですから、日々の月謝が入らなければ生活が成り立たなくなってゆきます。

 お師匠さんと言う方々は、単に、長唄や、三味線、鳴り物(笛、太鼓)を教えているだけではありません。習いに来た生徒さんに、行儀から、立ち居振る舞い、江戸(あるいは上方)の話し方、着物の着付け、あらゆる日本文化を保持していて、自らの生活を見せることで生徒さんに文化を伝えているのです。こうした人たちがあって、日本文化は守られて来たのです。

 それがこの度の自粛で、生徒さんを失えば、稽古処とともに、日本文化が失われてゆきます。むしろそのことを私は危惧します。

 

 また、私の道具を作ってくださる職人の方々。これもどこも高齢化していて、後を継がれるお弟子さんがほとんどいない状況です。和傘職人や、キセルのらう(キセルの真ん中の竹の筒のこと、これを作る人は日本に数人しかいません)職人。扇子の地紙に絵を描く職人、男物の帯、羽織紐の職人。印籠職人、根付職人、金銀細工職人、飾り職人。指物師(木工で、小箱や、箪笥などを作ります、私の蒸籠や、引き出しを作ってくれます)、塗師屋(漆塗り職人)、蒔絵職人、ざっと私が関係する職人だけでも十数種類以上いらしゃいます。

 それだけではありません。町の商店街に普通にある、呉服屋さん、履物屋さん、和装小物屋さん。こうした職業の人たちは御自身も高齢化し、お客様も高齢化し、内心廃業しようかどうしようか迷っている人たちがたくさんいます。恐らく今回のコロナウイルスの騒動は、そうした日本文化を生業としていた人たちが、廃業を早める結果になるでしょう。この先、町の商店街から呉服屋さんが消えて行く可能性が高いように思います。

 私が、日常、足袋や、履物や、襦袢を買おうなどと店に気軽に寄っていたものが、この先は、よほどに特定のお店と縁を持たない限り、和の小物は簡単に入手できなくなる可能性があります。今回の騒動が、江戸時代から連綿と続いて来た日本の文化と我々の生活を切り離してしまう結果になりそうで心配です。

 

 今マジックの世界では手妻をしたいと言う人は増えています。逆に言えば、通常のマジックが袋小路に入り込んでしまって活路が見いだせないのではないかと思います。そこで残されたジャンルとして、手妻に挑戦をして、新しい仕事の範囲を広げようとしているようです。お陰で、私の所に習いに来る人も増えています。手妻そのものに関しては良い流れですが、肝心の、手妻を支える職人が極端に減っています。このままでは道具一つ作るにも、残っている職人を探さなければならなくなりそうです。

 このことの危機意識はずっと前から抱いていたことですが、こうして、先の見えない自粛が続くと、今、何気に表現している世界が、この先、二度と演じることのできない世界になってゆくようで、大きな不安が心の中を支配しています。

 

 昨日、トランプ大統領が、各州に自粛をやめるように呼び掛けました。このまま都市の機能が止まってしまっては、アメリカも大不況につながることがわかったのです。そうです、初めから自粛などする必要はなかったのです。安全も、健康も、人の日々の営みが普通に行われていればこそ、維持されてゆくことで、人がまともに生活して行けない状況では、安全も健康も維持するどころではないのです。

 ネットでは、替え歌や、作曲をして、コロナウイルスを防ぐ歌を発表する音楽家がいます。何をしようと自由ですし、何かしなければいけないからしているのでしょうが、でも、そう言う歌が本当に人に聞かせたい芸術なのでしょうか。

 今芸術家がすることは「自粛をやめろ」と訴えることではないのですか。このまま経済が停滞すれば、病院の維持も、健康保険の補助も、保健所の職員の給料も支払えなくなり、ひいては国が維持できなくなります。そうなった時に逆に、ウイルス患者は爆発的に増えませんか。病院も、保険も、保健所に維持も、薬の開発も、人がまともに働いて税金を支払っているから出来ることなのです。国民全体が仕事をやめてどうして安全な社会が維持できますか。政治家が国の基盤を壊して、どうして国が維持できますか。

 トランプさんは気付いたのです。しかし、州知事は気付きません。安倍さんは迷っています。小池都知事は気付いていないのではないですか。一度大きな流れができてしまうと、人は流れを維持しようとして躍起になります。結果、人は破滅の道を大暴走します。

 テレビは連日コロナウイルスばかりを報道します。芸人は手洗いの唄を歌って世の中の役に立とうとします。そんなことをしていていいのでしょうか。どれも誤謬を深めることにしかなっていないようにみえます。このままでは、この先にとんでもない大不況がやってきますよ。