手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

技術の差はわからない

 ビールの宣伝などを見ていてつくづく思うのですが、各社が、味わい、とか、切れとか、コクとか、さわやか、などと言って自社のビールを宣伝をしています。然し、飲む側はそれを理解して飲んでいるかと考えると、ほとんどよくわからないで飲んでいるのではないかと思います。

 私ごとで言うなら、どこのメーカーのビールもうまいと思います。どうしようもなく不味いビールを作っている会社など一社もありません。然し、各社がコマーシャルにとんでもない費用をかけて、声を大にして叫ぶほどには味の違いを感じないのです。

 例えば、飲み屋に入って、「サッポロビール」。と注文して、店の親父が、「サッポロは置いてません。アサヒしかないんですが」、と言われて、「じゃあ帰ろう、よそで飲むよ」。というお客様は、サッポロビールの関連会社の方を除いてはまず存在しないと思います。大概は、「じゃぁ、アサヒでいいや」。と、あっさり前言を翻します。企業は、何千万円もの広告費をかけ、味で勝負していながらも、その味の違いを支持する人は少なく、ほとんどのお客様は、酔っぱらえるならいい、冷たければいい、とりあえずのどが渇いたから、と思って飲んでいるのでしょう。

 そうなら味なんて関係ないのか、と言うなら、とんでもないことで、とても重要なのです。然し、自社の味に最も敏感なのは、他社の研究者です。彼らはライバル会社の長所も短所も知り抜いています。その上で、鵜の目鷹の目でわずかな違いでも敏感に調べ上げています。つまり、同業との比較に於いて味は重要な差別化になります。ただし、ライバルに勝ち抜くための違いを、一般のお客様に強調しても、賭けた広告費用ほどには効果はないのではないかと思います。

 

 例えば、我々がテレビを買う時に、テレビの中の特定の部品の出来がいいから○○のメーカーのテレビを買おう。とは思いません。○○のメーカーのある部品は、同業者がうらやむようなものすごいアイデアで、特許を取っていたとしても、そんなことをお客様は知りません。部分的な部品の技術でテレビは買わないのです。お客様の興味は、色がいい、サイズがいい、操作が楽だと言って買います。

 自動車も同様です。エンジンや、サスペンションに劇的な発明をした会社があったとしても、お客様はそんなことは知りません。自動車は、壊れなければいい、運転が楽ならいい、見た目がスマートならいい、色が赤ならいい、フレンチブルーがいい、安ければいい、等々、全く別の考え方で買います。

 実際、日本車はどのメーカーも性能がいいですし、壊れません。こうしたメーカーが競合している日本国内では、技術の差を言ってもあまり意味がないのではないかと思います。但し、海外で勝負すると、それは歴然でしょう。

 アメリカに行くと、路上では大概、ボンネットを開けて中を覗き込んでいる人がいます。然し、日本でそうした状況を見ることは稀です。日本車は、ガソリンと水さえ切らさなければ、3年でも4年でも動いています。日本車を買って、数年間、ボンネットを開けたこともないと言う人はたくさんいます。

 車内装備のクオリティの高さも日本が一番です。外国の車に乗ると、必ず意味不明のねじや部品が床に落ちています。意味不明なのではなく、どこかに使われていた部品なんでしょうが、簡単に取れてしまうのです。取れてしまった後、それが何の部品なのかわからなくなって落ちているのです。それで走行に全く問題がなければいいのですが、ある日突然、内装の壁面がはがれて落ちてきたりします。こうした問題を目の当たりにすると、「あぁ、日本車は良く作ってあるなぁ」、と諒解します。

 

 さて、ここまで書けば私が何を言いたいのかお分かりと思います。マジシャンが集まると、必ず、技術とオリジナルの自慢が出て来ます。然し、技術も、オリジナルも、その差がわかるのは同業者だけです。一般のお客様には最も伝わらない世界なのです。工夫が劇的にライバルと差別化できるような作品なら話は別ですが、ちょっとしたアレンジとか、ちょっとした技術では全くお客様は興味を引くには至りません。

 むしろ、一般のお客様に知られるようなマジシャンになりたいと思ったなら、マジックの技術にこだわっている限り目的は達成できません。ただし、これは技術やオリジナルのの否定ではありません。マジックショップに売っている既成の道具をそのまま使ってもいいと言っているのではありません。技術もオリジナルもとても重要なことですし、そこの探求は一生続くことなのです。

 然し、然しです。それを人前で話すことが芸の未熟です。特に技術などと言うものは、実際に演じているときには外に見えないものです。それが見えたならそれはだめなマジシャンです。技もオリジナルも何も使っていないように見えて、次々に自然に不思議が起こせるのがマジシャンなのです。そこのわずかな技術を人に語って、そこに理解を求めようとする人は、いまだマジシャンですらないのです。

 

 私がある飲食店のオーナーと話をしているときに、たまたま若いマジシャンAを同席させました。その若いマジシャンとは別件でこの後、,話をすることになっていました。しかし、私の時間の都合でとりあえず同席させたのです。できることなら、私が仕事先のオーナーとどういう話の仕方をしているか、そんなことを見て学んでくれたらいいと思って同席させたのですが、これが後々痛恨の原因になりました。

 ひとしきりオーナーと話をした後、オーナーが「そちらの方もマジシャンですか」、と尋ねられたので、もしこの店で使ってもらえるなら彼にとってもいい事かと思い、紹介しました。ところがこのAがとんでもない男でした。

 Aは、自分がいかに優れたマジシャンであるかを語り始め、日本のほかのマジシャンがいかに技術の鍛錬を怠っているか、オリジナルの工夫をしていないかを、とうとうと語り始めたのです。終いに、「日本のマジシャンはどれもクソだ」。と言いました。私が目の前にいるにもかかわらず、Aの目には私は十束ひとからげのクソなのです。

 まだマジックの世界で何の実績も挙げておらず、どこでマジックを披露しているかもわからず、どう見ても大した収入も得ているとは思えないような、駆け出しのマジシャンが、心の中で、これほど日本のマジシャンを見下して見ていたのかと思うと、人の心の業の深さを思い知らされました。

 そんなAに対して、オーナーは不快感を示し、さりげなく席を立ち、他のお客様のところに行ってしまいました。気まずい雰囲気になりました。私はAに、「初めて会った人に日本のマジシャンを否定しても、君に仕事は来ないよ。そんなことよりも、どうしたらお客様に喜んでもらえるかという話をしなければだめだ」。と、言いましたが、Aは自分の間違いに気づいていません。自分が王様なのです。

 この日以来私は、若手を仕事先に紹介することが恐ろしくなりました。自分の世界の殻に閉じこもって、他の人のことが一切見えない。そんな若手をオーナーに紹介したことを恥じました。まぁ、初めから私が相手をしてはいけない人なのでしょうが、人に幸せを提供する立場のマジシャンが、自分以外をすべて否定して、周りの人のことが見えなければ、こんな危険なことはありません。マジックをするより何より、まず人との応対、人との付き合い方をしっかり学ばなければ、とても人前には出せません。

 でも、ビールのテレビ宣伝を見ていて、どう見ても他社とクオリティの違わないメーカー同士が、味が違う、コクが違うと言っているのを見ると、案外、メーカーも、駆け出しマジシャンも、同じことをしているのかも知れません。