手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

30年後のそもプロ

 「そもそもプロマジシャンと言うものは」、と題する随筆を出して、もう20年にもなります。初めは季刊誌の「ザ・マジック」に載せ、その後単行本として出しました。

 今私のブログの支持者の多くは、その頃の「そもプロ」を購読して、そのまま私の文章中毒にかかった方々だろうと思います。

 そもプロには若いマジシャンが出て来ます。プロマジシャンのスジ山金太郎を訪ね、どうしたらプロとして生きていけるかを尋ねます。この会話が刺激的で、当時、ザ・マジックを読む中学生や、高校生に強い影響を与え、読者がその後社会人になったのち、私を見かけると近づいてきて話しかけるようになります。

 私が、駅のプラットホームに立っている時、新幹線の座席に座ってパソコンをしている時、レストランで食事をしている時、突然人が近づいてきて、「僕は、そもプロの愛読者でした」。と挨拶をされます。その人は、もう30過ぎの社会人ですが、子供のころ読んだ文章の、感動した部分を諳んじて話し出します。その時の読者は、全く中学生の時の顔そのもので、純粋なマジックマニアの頃に戻って昔を懐かしむのです。

 中には、食事代をお支払いしますので一緒に食事をしながら私を叱ってください。という妙な依頼も来ます。それが結構たくさん来ます。私が、中野の文弥(今はない、割烹料理店)や、飯倉片町の野田岩鰻屋)に連れて行き、「芸能と言うのはそういうもんじゃぁない」。などと言うと、読者が、「そうそう、この言い方、これがそもプロなんだよなぁ」と言って、相手は一人、悦に入ります。疑似そもプロ体験です。

 そもプロは単行本になって既に10余年たっています。ある大学のマジッククラブには部室にそもプロが置いてあるそうです。代々の後輩が読んでいるそうです。私が20年も前に渾身の思いで書いたものが、今も読まれていることは有り難いと思います。

 

 その、そもプロで、若手マジシャンとして出てきた、コワザ君や、キムコ君は実は、ある時期のカズカタヤマさんであったり、ケン正木さんであったり、ヒロサカイさん、前田知洋さんだったわけです。彼らが悩んだ挙句に私に相談してきたことを何気に書き留めておいたものが、コワザ、キムコ君のセリフになって登場したのです。

 一昨日の23日、ケン正木さんや、カズカタヤマさんに電話をしました。二人とも、コロナの影響で、仕事が全く来なくてえらく困っています。この先を思うと不安です。どうしたらいいかと私に尋ねます。本来の私なら、「こうしてごらん、あれをやって見たらいいよ」。などと、アイディアを出します。然し、今の私は彼らと同様無職です。私自身が打つ手もなく日々模索をしています。

 然し、こんな時こそ、何かパァーッと明るく世界を変えて見せなければいけません。私はカタヤマさんに、「これから高円寺においでよ。寿司でも食べよう」。と誘い出しました。そして、昼から二人で、ビールを飲みながら寿司をつまみました。30年後のそもプロ疑似体験です。金がない、仕事がないと、愚痴ったところで仕事が増えるわけではありません。

 頭の中はいろいろな悩みがで、どうにもならないと言うときでさえ、よく頭の中を整理してみれば、悩みは三つか四つぐらいしかないものです。つまり、金がない、仕事がないを繰り返し悩んでいるだけなのです。解決のつかない問題が頭の中を支配して、身動きができないなら、一度、悩みを放り出して、くだらない話でもしながら、そのあとゆっくり整理をつけてみるといいのです。

 ダメなことはいくら繰り返してもダメです。解決のつかない問題はいくら悩んでも解決がつかないのです。一度発想を変えることが大切です。例えば、連日雨が降ってうっとおしいと思うのは、雲の下にいるからです。3000メートル上空に上がれば、一年中晴れています。自分のいる位置が雲の下か、上かの違いで、自分の心の中は180度変わります。悩み疲れたなら、一度ポーンと飛んでみることです。

 それには人と話をしてみることです。自分が話がしたいと思うような人は全く違う考えを持っている場合が多いのです。そうした人の話を聞くのです。世間は外に出るな、家にいろと言いますが、こんな時こそ人の話を聞くべきです。

 実際私も、小野坂東さんに頻繁に電話をして、いろいろ話を聞きます。ついこのあいだも、澤田隆治先生を訪ねて事務所に行きました。少しでも自身の考えを前に進めて行くには人の知恵が必要です。自身を知恵ある人のそばに持ってゆく努力をしないと、問題解決はあり得ません。

 

 ケン正木さんは、私よりも歳一つ下です。しかし、私が子供のころから舞台に立っていたのに対して、彼は、大学を卒業して、家電販売店に就職して、勤め人を続けていました。そのためプロの道は随分出遅れたのです。そのため私とケンさんでは随分立場が違って見えます。然し、ケンさんは勤めをしながらも舞台に立ちたがっていました。そこで私が出演しているところに頻繁に尋ねて来て、私の舞台を見ていました。やがてそれが高じて、近所のスナックや何かで自分のショウを見せるようになります。しかし実際やってみるとなかなかうまく行きません。

 そこで、私に月謝を払ってマジックを習うようになります。当人は明日にでもプロになりたいと思っていましたが、母親が絶対に許しません。実際、私がリサイタルをした時に、お母さんが楽屋に来て、息子がプロの道を諦めるように話してくれと言いました。然し彼の思いは高まるばかりです。そして、母親と決別してでも独立を考えます。

 本心は私の所で修業したかったようですが、親が乗り込んできて私に迷惑がかかっては申し訳ないと言って、誰かほかの先生を紹介してくれないかと言います。そこで、人柄が穏やかで、修行の軽い師匠となると、渚晴彦師だろうと思い、私は師に電話をしました。師は了解してくれ、ケン正木さんは渚師の弟子になりました。

時あたかもバブルのさなかでしたから、仕事の本数は多く、ケンさんは周囲に助けられて順調にプロとして育って行きました。

 

 一方カズカタヤマさんは、私が毎年、春秋に九州、関西方面でレクチュアーをしていたころ、カタヤマさんは京都の美大に行っていて、私のマジカルアートでのレクチュアーに熱心に参加していました。ある日、マジカルアートのジョニー黒沼さんが、「片山君がプロになりたがっているんですが、藤山さんは弟子にとってくれますか」。と聞かれました。その時私は、もうすでにイリュージョンチームを起こし、大きなショウの活動をしていました。無論手伝いは必要ですから、人を取ることは問題ありません。

 然し、彼のことを思えば、イリュージョンに主力を置いている私より、現役のスライハンドマジシャンに付いたほうがいいのではないかと思い、弟子の件は断りました。人の運命なんてわからないものです。私についていたら彼はどうなっていたでしょう。

 結局、片山さんはミスターサコーさんの所に弟子入りします。随分苦労もあったようですが、結果を考えるなら、その時の私の判断は間違っていなかったと思います。

 その後片山さんと再会するのは、SAMの東京大会で彼がグランプリを取った時です。

 

続く