手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

あのチャン、ケケケロ

あのチャン、ケケケロ

 

 植瓜術(しょっかじつ)とは、見ている目の前で、瓜の種から双葉が育ち、双葉が弦になって伸び、たくさんの瓜が生る。その時の、おまじないで、「生ったり、生ったり」、と言って、呪いをします。実際の昔の演技はこれを何べんも繰り返していたのですが、現代ではいささか単調すぎて、二度目にはお客様がだれてしまいます。

 そこで、二度目のお呪いでは、現代の音楽を使って、歌詞だけ生ったり生ったりを語るようにしているのですが、その時代時代で音楽が古くなってしまいますので、ここだけは頻繁に曲を取り換えています。ある時期は米津玄師のパプリカを使わせていただいたり、「うっせい、うっせい、うっせいわ」だとか、「カーモンベイビアメリカ」など、およそ古典のマジックで使用しない音楽を取り入れて、今まで演じて来ました。

 つまりここは遊びの部分ですから、全然違う内容でいいのです。多くのお客様にとっては、古い形式をしっかり守って演技することに必ずしも面白さを感じてくれない人も多々あるのです。

 そこで、少し人の気持ちを引き付けるために、現代のネタを挟むわけです。この挟み方がまた難しいのです。呪いはせいぜい4小節でまとめなければいけません。その4小節が何の曲を使っているかがすぐにわかるものでなければいけません。思いっきり、印象の強い曲で、しかもその中でも一番個性の強い部分が最適なわけです。

 さてその制約の中で現代の流行曲で、これを入れ合たら面白い、という音楽な何かと探します。ようやく見つけたのは、あのチャンのヒット曲、「ちゅ、多様性。」です。

 まずタイトルからして訳が分かりません。タイトルの中に句読点や丸が入っています。曲の歌詞がまた謎です。中国語と日本語が入り混じっています。何を語ろうとしているのかが分かりません。しかも、あのチャンの日本語の発音がよく聞き取れません。何を語っているのかさっぱり分かりません。

 但し、錆びの部分が面白く、一発で耳に入って来ました。これはいい、この曲なら誰でもわかる。但し、歌詞が何を言っているのかが分かりません。私には何度聞いても「ケケケロ、ケケケロ、ケロケロ」としか聞こえません。

 「ははぁ、これはカエルの歌だな」。と勝手に推測しました。然し、念のため歌詞を調べてみるとまったく違いました。「get get get on, get get get on, get on chu」なのだそうです。驚きです。曲は恋の歌であり、国際的な恋愛の曲のようです。全くカエルは出て来ません。

 その歌詞を見ながら、もう一度プロモーション画像を見て見て、一緒に歌ってみましたが、どうしてもさびは、「ケケケロ、ケケケロ、ケロケロ」と歌っています。決して「get get get on」とは聞こえません。

 これは年齢によるギャップなのでしょうか。そもそもあのチャンの歌い方が何を歌っているのかが聞き取りにくく、歌詞カードを見て、初めて、中国語と日本語のちゃんぽんなんだと知りました。これは私の取っては大ショックでした。

 もし私が作詞家か作曲家で、この詩を考えられるかどうかと言えば、10年考えてもこの詩は作れないでしょうし。更にこの詩に対して、「ケケケロ、ケケケロ」、と言う曲を作曲出来るかと言えば、決して考えつかないでしょう。

 してみると、この曲は、天才の作詞家と天才の作曲家による、歴史に残る名作なのかもしれません。私にできないことを考えつく人は、私は正直に尊敬をします。と、同時に、私は大きな世の中の流れからかなり離れてしまったことを実感します。

 私にはベートーヴェンや、ブルックナーブラームスの面白さは理解できても、あのチャンの音楽は全く理解の他なのです。長唄の松永和風は尊敬をしても、あのチャンの「ケケケロ、ケケケロ」は全く理解できないのです。明らかに私は19世紀の中でしか生きていないのです。

 全く現代ではシーラカンスのような人間です。シーラカンスなら、見つかった時点で世間が大騒ぎをしますが、私は別段騒ぎにはなりません。私が近所を歩いていても、誰も何とも思わないでしょう。

 但し、そうした私でも、何か世の中の役に立っているから生存していられるのでしょう。まぁ、私の芸が見たいと言う人が少なからずいますので、せいぜい、手妻を残して、手妻の面白さを伝えて行きたいと思います。

 昨日は、あのチャンの振りを覚えて、練習をして、ケケケロ、ケケケロを生ったり、生ったりと、詩を変えて呪いを作りました。作業は思ったよりも簡単に進み、後は私が本番で間違えなければ、上手く行きます。この部分は下らなければ下らないほどお客様は盛り上がります。

 芸能には、自身の考えを、がっしりと構築して作り上げて行く部分と、大きく崩して余白を残して行く部分の両方がないと面白味は生まれません。何事も丁寧にきっちり演技を作ろうとするは、お客様の立場からすると、入り込む余地がなくなって、面白みに欠けるのです。

 私が思うに、物凄い巧さと、ばかばかしさが同居するような芸能が最高の芸能だと思います。芸能は所詮嘘ごとです。嘘を嘘と知って見て行くうちに、人間自体も嘘の中で役割を演じて生きているんだ、と言うことに気が付きます。人として生きることそのものが嘘であることに気付くことが、芸能の本質なのです。

 犬は犬を演じているわけではありません。演技なんて全くしていないのです。犬は真剣に犬として生きています。そうすることが犬なので、他の役なんてありえないのです。人間はその都度なんにでもなれます。父親になったり、亭主になったり、先輩になったり、教師になったり、政治家になったり、医者になったり、でも全部嘘です。

 人は嘘の中でそれらしく生きているのです。人は嘘の中で本物になろうとするから、矛盾に苦しむのです。犬に矛盾はないのです。犬は犬です。人はどこまで突き詰めても人ではないのです。

 続く