手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

ブラームスの手招き

ブラームスの手招き

 

 ブラームスと言う人は、四曲の交響曲で今日まで知られた作曲家ですが、無論、他にも、名作を数々出しています。然し、全くクラシックを知らない初心者がちょっと聴いて、これは面白い、と、ファンになるような音楽は殆どありません。

 大なり小なりどれも陰鬱で、ドイツ北部の天気のように、常に短い時間に晴れたり曇ったりするような、音楽自体、「何が言いたいのか、一体どうしてほしいのか」、どうにもはっきりしないものが多いように思います。実際、私生活も、はっきりこうだと言って、人を引っ張って行くようなカリスマ的な人ではなく、気難しくって、シャイで、人見知りで、そもそも人付き合いのできないような人だったようです。

 自身を支援してくれたシューマンに対しては生涯尊敬の念を持ち、シューマンが自殺したのち、妻であったクララ・シューマンを生涯支援し続けます。実際クララに対して、恋焦がれていたようですが、思いは深くても、尊敬したシューマンを思えば、手も触れることは出来ず、生涯その愛情を吐露できずに、ひたすら支援し続けました。

 つまりブラームスの人生は不器用そのもので、たった一つの恋も成就することが出来ずに、生涯独身を貫いたのです。そうまで好きなら一歩前に進んで、心を告白すれば良さそうなものですが、それが出来ないのです。

 同時に、ブラームスベートーヴェンを神の如く尊敬しました。ブラームスベートーヴェンは半世紀時代がずれているのですが、ベートーヴェンの全ての音楽の完成度の高さに、強い劣等感を感じ、生涯畏敬の念を失いませんでした。

 ブラームスは、ベートーヴェン交響曲に憧れ、20歳頃から自らも交響曲を書き始めたのですが、書いては消し、書いては消し、筆が進まない日々が続きます。常に背後にベートーヴェンがいて、自身の作品を冷淡に眺めているような不安が支配し続けていたのです。そして交響曲一番が完成したときには、40歳になっていました。

 1番は、たちまち欧州で大評判となり、一躍交響曲作曲家として名前を上げます。一度成功を手に入れると、その後は二年に一度くらいのペースで2番3番4番を作りますが、さて5番を書こうかと思いつつも、ベートーヴェンの5番が常に脳裏にあって、なかなか手を付けられず。結局、交響曲は四曲だけに終わります。

 ところが、四曲の交響曲は、同時代の作曲家にとっては、物凄い重圧になります。どの作品も内容の濃い、がっしりとした構成の曲ですので、同時代の作曲家にとっては、越えるに越えられない壁となりました。まるでブラームスにとってのベートーヴェンが、若い作曲家にとってのブラームスとなって新たな圧力になります。

 実際ブラームスに引き立ててもらって名前を成したドボルザークは、ブラームスの三番を聴き、自分の今まで書いた6曲の交響曲が物足らなくなったようで、その後に作った7番はそれまでとは違った、構造の大きな作品になっています。

 実際、ドボルザーク交響曲は、7番以降、8番、9番がよく演奏されますが、7番はなかなか演奏の機会はありません。私が聴いた印象では、第一楽章が漠然として、まとめ切れていないような印象を受けます。然し、第二楽章、第三楽章と進むと俄然、曲は面白くなります。そして第四楽章はなかなかドラマチックで、しかもドボルザークにしては珍しく、ハッピーエンドな終わり方をしません。悲劇的なのです。相当に、ブラームスの3番の影響を受けているのではないかと思います。

 レコードはバーツラフ・ノイマンチェコフィルが文句なくいい演奏です。古い演奏ですが、テンポが良く、又ニュアンスがチェコの昔の雰囲気(勝手な想像ですが)を感じさせます。

 チャイコフスキーも、ブラームス交響曲を聞いて強い衝撃を受け、後期の4番5番6番はどんどん機構が大きくなって、内容が深まって行きますが、同時に陰気臭くなって行きます。6番の悲愴などは、暗く、答えのない沼の中に埋没して曲は終わります。

 実際に6番を書き上げた半月後にチャイコフスキーは自殺を遂げています。まるで遺書のような音楽です。チャイコフスキーはどの音楽も美しく、親しみやすく、ファンも多いのですが、私はどうもあまり好きになれません。後期の三曲はどれもいい曲ではありますが、どうでしょう。

 この人は、自分の悲劇を片眼で眺めていて、その悲劇的な自分の姿に美意識を感じているような、妙な客観性があります。悲しい出来事が美しいのでなく、悲しい出来事に遭遇して涙を流している自身が美しいのです。常に自己愛の世界を感じます。

 それが並みの自己愛ならまだしも、徹底的に演出を考え抜いて、どう表現したら自分が美しく見えるか、を真剣に考えるような性格なのです。「音楽の中にあからさまに見えるのがどうにも付き合いきれないなぁ」。と思います。

 日本の指揮者には、チャイコフスキーの得意な人がたくさんいます。そして、後期の交響曲なら観客もよく集まります。「でもねぇ」。と私は思います。

 チャイコフスキーブラームスもめったに聞きませんが、チャイコフスキーなら、ムラヴィンスキーブラームスならメンゲルベルクを相変わらず聞いています。6番悲愴のメンゲルベルクの演奏が、今もって一番だと思います。フルトヴェングラーの悲愴をいいと言う人がいますが、オーケストラの音色が暗く、指揮者が暗く、作曲家が暗いとなると、聞いた後に自殺したくなります。

 面白いし、名演ではありますが、体にいい演奏ではありません。シャルル・ミンシュのブラームスの1番2番は申し分のない演奏です。これはカラッと陽気な指揮振りですので時々聞きます。

 と、何のかんのと言って、ブラームスは暗い、気難しいなどと言いつつも、結構色々な指揮者で聴いているのです。でも、なかなかこれはいいと言わないだけなのです。どうも年齢を重ねて行くと、ブラームスの気持ちがよくわかるようになってきます。然し、そこを肯定すると、自分の世界に引き籠って行くようで、私はずっと避け続けて来ました。

 ところが、最近はなかなか逃げきれなくなっています。私よりずっと若くして亡くなったブラームスが、夜になるとやってきます。「ねぇ、4番聴こうよ」。と言って近づいて来ます。その誘惑を断り切れません。

続く