手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

幻想交響曲

幻想交響曲

 

 昨晩(3月3日)はNHK教育のクラシックコンサートで、ファビオ・ルイーズ指揮の幻想交響曲をじっくり聞きました。なんせ1時間に及ぶ交響曲ですので、すべての用事を済ませて、テレビに集中して聴かないとこの曲は楽しめません。

 今の時代で、クラシック音楽がなかなか多くの支持者を得られないのは、現代の人は、一時間、他のことをしないで音楽に釘付けでいられないからでしょう。多くの人はどうでもいいような雑用でやたらと忙しいのです。

 しかし、幻想であれ、ブラームスであれ、ベートーベンであれ、内容のがっしりと詰まった、長編の交響曲を楽しむには、余計なことをしないで、気持ちを音楽に集中しなければなかなか作者の言わんとすることが入り込んできません。まず聴き手の姿勢が大切なのです。

 とにかく、幻想は、数ある交響曲の中でも内容が充実していて、現代でも人気の交響曲です。時代としては、古典派の音楽が終わり、ロマン派の時代を切り開いて行った先駆的な音楽です。

 内容は、ベルリオーズ自身が体験した失恋話を元に書かれており、当時貧乏な音楽学校の学生だったベルリオーズが、有名女優に恋をして、熱烈なファンになって、女優に接近して交際を求めます(現代で言うならストーカーです)。女優とすれば、とても交際できる相手ではないため、けんもほろろな扱いをします。失恋した(と当人は勝手に思い込み)学生は、睡眠薬を飲み自殺を図りますが、夢の中で女優を殺害し、捕まり、ギロチンにかけられ、あえなく絶命。更に死後、地獄送りになり、妖怪や、殺害した女優と再会、みんな一緒になって踊りを踊って幕。と言う、奇っ怪な結末を迎えます。

 ベルリオーズに文才があれば、この体験を小説にしたでしょう。音楽学校の学生であったから交響曲になりました。それにしても、当時としては桁外れの巨大なスケールの音楽で、ティンパニーは通常のオーケストラでは一人ですが、この曲を演奏するために、太鼓、ティンパニーだけで4人が必要で、金管楽器も全て通常の二倍の人員を使います。

 とんでもない大音響で、当時の人はびっくりしたことでしょう。そもそも、交響曲と言う形式はドイツでは盛んでしたが、フランスではおよそ流行っていませんでした。特にベートーベンのように、音楽を哲学として捉える風潮が弱かったらしく、フランスで、交響曲は不人気だったのです。

 然し、幻想交響曲が出来た時にはセンセーショナルで、ベルリオーズ自身この曲一曲で世界的に有名になり、世界中演奏旅行して回るような超有名人になります。

 幻想交響曲は、ベートーベンの影響が濃く、特に6番の田園と7番の交響曲が強く影響されているのではないかと思います。6番は、そもそもが標題音楽で、小川のせせらぎや、小鳥のさえずりが、音楽になって写実的に語られています。ベートーベンは古典派の音楽家ですが、田園を聞く限り、もう完全にロマン派の作曲家になっています。自ら新しい時代に踏み込んでいます。

 ベルリオーズはそのベートーベンに傾倒し、さらに発展させて、古典派の根底にあった形式すらも切り崩してしまい、自由奔放な音楽を作っています。

 幻想交響曲が出来たのが1830年。日本では文政から天保時代です。ベルリオーズ26歳です。ベルリオーズの学生時代はまだベートーベンが現役で活躍しており、ベートーベンの第9番合唱が演奏されたのが、1824年です。その6年後には真っ向から古典主義を否定した幻想交響曲が演奏されていたのです。

 初演当初は大変な前衛藝術だったろうと思いますが、そう書くと何が何だかわからない複雑怪奇な音楽を想像しますが、決してそんなことはなく、どの楽章もとても綺麗で親しみやすいメロディーがたくさん出て来ます。第二楽章などは、スケルツォや、メヌエットなどと言う古典的な舞曲を使わず、当時流行していたワルツが出て来ます。それが如何にもフランス的な洒落た音楽になっています。

 「一時間もの音楽を聴くのはどうもね」。と尻込みしている人には、第二楽章か、第四楽章だけでも聞くことをお勧めします。時間も短く、親しみやすく、楽しめると思います。巨大な構想で出来た曲ですが、そこはフランス人の音楽ですから、ベートーベンやブラームスのように、真っ向から人生と向き合うようなストイックさは薄く、多分にウイットが効いていて、快楽的な要素も加わります。逆に言えば、それだけに演奏するにはつかみどころがない音楽なのかもしれません。

 軽く演じてしまうと音楽の厚みが無くなり、ドイツ風に演じると、洒落心が無くなります。中庸が見つけにくい音楽でしょう。かつての名人、シャルルミンシュが、最晩年、死ぬ前年に歴史的なレコードを出しています。これを聴いてしまうとどの幻想も物足らなくなります。日本人の指揮者では、小林研一郎さんか、佐渡豊さんが壮絶な演奏を聞かせてくれます。

 つまり、余り真面目に演奏してもつまらなくて、どこか俗な、素人客を喜ばせる仕掛けを仕込まないと面白くない曲なのでしょう。そもそもベルリオーズと言う人自体がそうした人だったのではないかと思います。

 

 そうした点で、ファビオ・ルイーズさんは、誠実に、コンパクトに、お洒落に指揮をしています。この人の弦の艶やかな指揮ぶりは見事です。又管楽器が今まで気づかなかった、陰で演奏していた音が、表にチラチラ聞こえてくるのも新鮮です。

 そうして出来上がった音楽全体を眺めると、ちょっと小振りな演奏に感じます。もうこれは性格と言うしかないのかと思います。ミンシュのように、大目玉を剥いて、大見えを切るような歌舞伎を見るような大時代の演奏とは真逆な指揮ぶりです。

 私は生演奏を聞いてはいないのですが、半世紀以上前にカール・シューリヒトと言う地味な指揮者がいましたが、あの人と、ファビオ・ルイーズさんのイメージが重なって感じます。シューリヒトは文句ない名人でしたが、地味な指揮者でした。でも、私は今でも10代の時に買ったシューリヒトのレコードを時々聞きます。

 ただ、どうも幻想は、もっともっと俗人を喜ばせるコケ脅しの仕掛けをしてもいいと思います。手品で言うなら、くす玉や万国旗をたくさん出して、色や、派手さで人を喜ばせたほうがいいと思います。幻想とは歴史に残る最高峰の芸術であるとともに、俗人の入門曲でもあるのです。幻想とはそんな曲です。

続く