手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

台湾のカオス 1

台湾のカオス 1

 

 現在の台湾はアジアの中でも急成長を遂げた、大きな経済力を持った国です。地政学的に見ても極めて重要な島で、共産主義の中国と、自由主義の日本、韓国に挟まれ、南はベトナム、フィリピン、インドネシアなどのASEAN各国にも近く、経済的にも、貿易上も、政治的にも最も重要な国と言えます。

 それでいながら、長く中国と対立する立場にいて、いつ中国軍が攻めて来るかも知れない緊張した状況にあります。無論、中国は、台湾を独立国として認めてはおらず、自国の領土の一部と宣言しています。そうした中国の圧力があるために、国連に加盟することも出来ませんし、ASEANに加盟することも出来ません。

 そうなら世界に与える影響力は小さいかと言えば、そのGDPは韓国を抜いて、アジアでは日本に次いで強い経済力を持っています。

 台湾島の国土は、日本の九州くらいしかありません。韓国が北海道くらいのサイズですから、韓国よりも小さいのです。そこに約2000万人が暮らしています。九州の人口が1500万人くらいですから、相当過密な地域です。然し、初めからこれほど人口の多い島だったわけではありません。

 

 台湾ははるか昔から様々な人が住んでいたのですが、都市が作られ、開発されるようになったのは、16世紀末、明(みん)時代の末期からになります。元々中国と言うのは内陸から発達した国で、船で海外に出て貿易することなどほとんどなかったのですが、明の皇帝は、頻繁にやってくるようになった南蛮(西洋)の貿易船に注目するようになります。

 インドに貿易拠点を持った、オランダや、フィリピンに港を持ったスペインなどが、頻繁に中国を訪れ、交易を求めて来るようになります。明は始めは積極的な付き合いを断っていて、限定的な貿易をしていたのですが、彼らはやがて日本の存在に気付きます。

 当時日本では金銀銅が豊富に採れ、陶器、刀、漆器など、西洋人が望む工芸品がたくさん作られていました。始めは明を通して日本の製品を買い求めていたのですが、明が貿易に積極的でないために、スペイン、オランダ、ポルトガルが、直接日本との交易を結ぼうと、船を北に進めます。

 我々が学校で種子島に鉄砲が伝来したと習った、1543年は実はこの南蛮貿易のさ中のことだったのです。別にポルトガル人が善意で鉄砲を日本人に伝えたわけではないのです。とにかく、西洋人は、日本との交易がしたいため、日本との中継地として台湾島に拠点を置くようになります。明も遅ればせながら、南蛮貿易の大きさに気付き、日本との交易に前向きになります。

 1500年代半ばになると、台湾島の北はスペインが占領し、南はオランダの東インド会社が占領するようになります。この時代の台湾は全く無秩序な島で、そもそも、台湾の港には早くから倭寇(わこう=海賊)が住み着いて、台湾を根城に、対岸の中国の港を襲って、金品を強奪していました。

 倭寇と言うと日本人の海賊だと思っている人が多いのですが、実は、日本人はわずかで、多くは中国人、朝鮮人が日本人を装って、日本刀を持って、月代(さかやき=頭の髪のてっぺん)を剃って日本人を装いました。この髪形を見ると、当時の中国人は恐れ慄いたそうですから、ニセ倭寇が常習化して海賊が増えて行きます。台湾島は、海賊と金儲けを狙った南蛮人が混在し、本来の台湾島民とは違った、ならず者やくざ者が跋扈(ばっこ)する無秩序な土地だったのです。

 1600年代になると、明の力が急激に衰え、明は北方民族の清(しん)に押されるようになります。こうした状況を救うため、明の忠臣、鄭成功(ていせいこう)が、自前の船を持って清と戦い、明を助けます。

 鄭成功とはこの時代を代表する軍人、政治家で、世界史の中でも特筆すべき英雄です。父は明の役人で同時に貿易商、鄭芝龍(ていしりゅう)と言い、父親は日本との交易を求めて平戸(長崎県)に行き、平戸の藩主と入魂になります。母親は平戸の生まれの日本人で、平戸で鄭成功は生まれます。日本と中国の混血です。幼いころから頭が良く、人をまとめる才能があって、勇敢で、貿易に長けていました。

 後に一家は中国に移り、成功は明の科挙の試験を受けて合格します。当時としては超エリートで、成功は安泰な一生が送れるかと思われましたが、時は明朝末期で、北方から清が攻め込んできます。

 成功は父親と共に、私設海軍を駆使して清に戦いを仕掛けます。その戦い方は天才的で、数倍の清の軍隊をたびたび破り、明の皇帝を助けます。

 然し、一度傾いた明を立て直すのは容易ではなく、やがて明の皇帝は投降します。その際に父親、鄭芝龍は皇帝に付き添い、皇帝の助命を願いますが、清はそれを許さず、皇帝も芝龍も処刑されます。

 鄭成功は残された父親の海軍をまとめて、台湾に拠点を移し、スペイン、オランダを撃破して、台湾に独立国を作ります。それまで貿易の中継地としてのみ利用していた台湾を、中国人を定着させ、倭寇を追い払い、秩序ある国にしたのは鄭成功の功績です。

 この鄭成功の一連の活躍は日本にも伝わり、鄭成功は日本でも英雄として扱われます。鄭成功亡き後、半世紀経って、近松門左衛門が「国姓爺合戦(こくせんやがっせん)」と言う芝居を書いて、大坂竹元座で空前の大当たりをします。内容は中国と日本をまたいで皇帝を助けるために大活躍する国姓爺(鄭成功)の一代記で、当時としては空前のスケールの芝居で、今でも歌舞伎で演じられます。

 

 さて、台湾ではこの鄭成功の時代に、政庁が作られ、治安維持がなされ、寺が建立され、都市としての景観が整います。然し、鄭成功の成功を清政府は喜ばず、やがて討伐軍がやって来て、鄭一族は皆殺しになります。

 

 さて、その後は清政府が台湾島を統治します。然し、元々交易の得意な政府ではないため、台湾は放置されたに等しく、産業も栄えず、貿易も振るわないまま月日が過ぎて行きます。

 それから再度台湾が注目されるようになったのは、明治維新以降で、日本が台湾に出兵して、占領しようとします。それまで何ら台湾に興味を示なかった清政府でしたが、日本が触手を伸ばすと、急遽台湾の防備を固め始めます。その後、日清戦争が起こり、日本が勝利して、賠償として台湾島を手に入れます。実は台湾の繁栄はここから始まります。その話はまた明日。

続く