手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

台湾のカオス 2

台湾のカオス 2

 

 台湾は、誰が台湾の原住民なのかを決め難い島です。これが台湾人と言う人種がいないのです。勿論、鄭成功が独立国を作ったのは事実ですが、それ以前にも台湾に住んでいた原住民はたくさんいました。が、国としてのまとまりはなかったのです。

 遥か昔から、南方から人が漂流して、台湾に住み着いた人はいたのですが、多くは海岸沿いの港で魚を取ったり、わずかな耕作をして暮らしていました。が、台湾が大きく発展しなかったのは、南部の平野にはマラリア蚊が生息していて、これが農耕を阻んでいました。広い平野はあっても人を寄せ付けなかったのです。

 このため、漂流した南方の部族民は標高1200mあたりの山岳地帯で暮らすようになります。この標高だとマラリア蚊が昇って来ないからです。然し、高地では耕作地が少ないため、多くの人を育てることは出来ません。

 しかも、漂流民が南方の部族である、と一括りに言っても、太平洋にはたくさんの島々があり、それぞれ異なった人種、異なった言語を話すため、言葉の障壁があって、部族同士の意思疎通ができなかったのです。山一つ違うとまったく言葉が通じず、隔絶された生活をしていたため、統一国家を作ることは不可能でした。

 一方、明時代末期になると、山東省あたりの中国人が台湾にやって来て、海岸沿いに住み着いて、商売をしたり、田畑を耕作するようになりました。

 ところが、こうした人々の活動を阻んだのは、倭寇と呼ばれる海賊でした。倭寇は全く無法者の集まりで、強盗、盗みは日常でした。倭寇と同居していてはまともに生活しては行けません。更に、スペイン人やオランダ人などの西洋人がやって来て、城や港を築きました。そして容赦なく現地人に過酷な税金を課して簒奪して行きました。多くのアジアがそうだったように、西洋人の過酷な植民地政策は、島の繁栄を奪うのみで、治安は維持されなかったのです。

 そうした点では鄭成功が台湾を統治した1860年代は、国を統一するチャンスだったのです。但し、統治時代が二十年しか続かず、清軍によって滅ぼされます。鄭成功は清軍と戦いながら、再三江戸幕府に支援の要請をしています。三代将軍家光の時代です。

 然し、幕府は既に鎖国を敷いていて、海外に軍を進める意思はありませんでした。もし、鄭成功を支援して、台湾にまで出兵していたら、中国の歴史も台湾の歴史も大きく変わっていたでしょう。日本はもっと早くに台湾を手に入れていたかも知れません。

 鄭成功以降は、清政府が台湾を統治しますが、そもそも清は台湾に対しての興味が薄く、未開の山に踏み込むことをせず、わずかな平地のみで税を取り立てて本国に送っています。その税は少しも台湾を潤すことがなかったのです。

 

 明治27(1895)年、日清戦争に勝利した日本は、台湾を領土としましたが、すんなりと日本に帰属したわけではなく、台湾在住の中国人は、日本への帰属を拒み、直ちに台湾民主国を建国します。

 これに対して日本政府は軍を引き連れ上陸し、たちまち台湾民主国を鎮圧します。さらには山岳地帯の各部族へも、日本への帰属を求めました。抵抗は小さなものでしたが、日本政府に対する反発は大正半ばまで続きます。

 台湾統治が飛躍的に発展するのは、1898年に、児玉源太郎が総督になり、副官として後藤新平を連れて来たことで台湾は大きく発展します。児玉源太郎は後に日露戦争旅順港攻撃で参謀となり大活躍します。

 後藤新平は、後に関東大震災の際に帝都復興総裁になって、東京市を災害に強い都市にすべく都市改造計画を立てた人です。その規模が余りに大きくて、世間からは「大風呂敷」と呼ばれたのですが、もし後藤新平のプランのままに東京市を改造していたなら、靖国通りも昭和通も100m幅の通りとなり。明治通り、山の手通り、環七通りなどの環状通りは昭和の早い時期に完成していたのです。

 後藤と言う人は、元々が医者で、日清戦争の際には負傷兵の治療していたのですが、そこで児玉源太郎と出会い、児玉は、てきぱきと治療を指揮する後藤の仕事ぶりに感心し、自身が台湾総督になったときに後藤を引き抜いたのです。

 医師である後藤を副官に据えた児玉の慧眼は大したもので、台湾に長くはびこるマラリアと、阿片(アヘン=麻薬)を撲滅するために後藤は多大な功績を残しました。後藤は台湾に到着後、ただちに、徹底した衛生管理を実施して、島民にも衛生観念を植え付けます。毎年何千人もマラリヤデング熱にかかって死亡していた島民を治療し、マラリア蚊を撲滅のために、下水や沼地などを殺菌し、瞬く間にマラリア蚊を撲滅し、台湾の耕作地が増えて、バナナや砂糖キビ、米の生産が上がって行きました。

 最も苦心したのは阿片でした。かつてイギリスが香港に阿片を持ち込んで売りつけ、中国を経済的にも身体的にも蝕んで行ったのは歴史の事実です。阿片の被害は対岸の台湾も同様で、多くの阿片の喫煙者がいました。日本が台湾を統治するとなったときに、多くの台湾人は日本人の統治に反対しました。その理由は、日本が阿片を禁止するのではないかと思ったからです。日本国内は阿片の販売は禁止ですから、日本を警戒したわけです。おかしな話ですが、阿片を取り締まる日本は中国人に嫌われたわけです。

 後藤は、阿片を禁止しようとはしませんでした。これは後藤の生涯を通しての考え方ですが、今あるものはなるべくそのまま認める。改めるものは旧弊を崩さないように行う。必要があるからそうしているのであって、安易に変えてはいけない。と言うのが後藤の根本的な考えでした。

 そのため、後藤は、先ず吸引を認めています。そして、阿片を政府の専売にして、阿片の販売をしたのです。同時に阿片の価格を上げて、買いにくくしました。更に、年々少しずつ、アヘンの濃度を薄くして、徐々に阿片中毒を押さえるようにしました。こうした政策が功を奏して、昭和の初年には台湾での阿片吸飲者は激減し、それに連れて販売を禁止したのです。見事と言う外はありません。

 後藤新平は人として面白い人で、そのエピソードは興味が尽きません。松旭斎天勝のファンで、随分天勝を応援しています。25歳で名古屋の医学学校の校長をしていた頃に、板垣退助が岐阜で演説中に暴漢に刺されました。その時急ぎ駆けつけて診察をしたのが若き後藤新平で、後藤は、血を流して苦しんでいる板垣に向かって、「さぞやご本懐でしょう」。と言ったそうです。それを聞いた板垣退助は「この男を医者にしておくのは勿体ない、何とか政治の世界に引き入れたい」。と思ったそうです。面白い話はたくさんありますが、ここは台湾の話をしなければならないので、後藤新平は別の機会にお話しします。

 と言いつつ紙面はもう終わりになりました。台湾のカオス(混沌)はまだ続きます。

続く