手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

あられちゃんが亡くなった

あられちゃんが亡くなった

 

 漫画家、鳥山明さんが一昨日亡くなりました。死亡報告は昨日(4月8日)に報道され、世界中に伝わりました。68歳でした。私とほぼ同じ時代に同じ年齢を生きた人が亡くなってしまうと、かなりショックです。

 68歳と言うのは微妙な年です。そろそろ老人になろうと言う年齢ですが、でも、まだまだやって行けそうな感じもします。漫画家と言うのはマジシャンと同じく定年がありませんから、読者(お客様)がいる限り描き続ける(マジックを続ける)ことは出来ます。

 然し、なまじいくらでも続けて行けるがゆえに自ら止めることができません。それは舞台芸も同じです。「まだできる」。と思っているうちに、70を超え、80を超えて行きます。

 それでも、お客様がいて、「もっと楽しませてください」。と言われ続けたならそれは幸せなことです。然し、長く続けると言うことは、いろいろな問題を抱えて行くことになります。漫画家も同様です、いつ連載が切れるか、いつ読者に飽きられるか。あるいは、次の号のアイディアが浮かんでこない。何本もの連載を抱えながら、アイディアが枯渇してしまって全く描けない。等々、精神的なストレスがたくさん溜まります。

 大体芸術家は自身の十代、二十代の感性を持ち続けて作品を作り続けます。然し、ある日それが飽きられるときが来ます。「古い」。と言われます。そうなったときに、自身の考えの中に代わりのアイディアが見つからないと、挫折感がやって来ます。

 今まで支持されていたものが、ある日突然受け入れられなくなっても生き続けなければならないのはこれはこれで苦しい人生です。

 

 また、漫画家は、そもそもが座り詰めの仕事ですから、仕事場の環境は最悪です。健康に良くありません。それも何本も連載を抱え、締め切りに追われ、一日15時間以上も描き続けるなんて言うことを、何十年もやり続けたりします。連日部屋に缶詰めになって、食事も丼物ばかりを食べて、外にも出られない日々は苦痛でしょう。

 当人は好きで選んだ仕事ですから、そんな生活も苦ではないのでしょうが、余りに忙しすぎると、もう自分が何者であるか、何が何だかわからなくなってしまいます。結局、漫画を描くのではなく命を削って仕事をすることになります。

 売れれば収入は大きいでしょうが、どんなに売れても、遊びに行く時間もありません。毎日アトリエで漫画を描いているのでは、服を買う必要もありません。手作業で、ひと升ひと升漫画を描いて行かなければならないのですから、一生机の前から離れることは出来ません。とても過酷な仕事です。

 

 鳥山さんの漫画は、時にリアルに精緻な漫画を描いたかと思うと、如何にも漫画というラフな書き方がされたり、作画が変化に富んでいて大きく振れます。ギャグも多く、読んでいて展開が早いのが特徴です。話の進め方が売れている漫才を見るようです。

 それでいてDr.スランプに出てくるあられちゃんのようにキャラクターが可愛くて、実に魅力のある漫画を描きます。あられちゃんは、「んちゃ」、と言う挨拶が流行語になりました。あらゆるグッズにあられちゃんが貼られて売り出されました。もう40年も前のことです。とにかく売れまくりました。

 少年ジャンプは鳥山さんのお影で毎週100万部を売り続けました。ちょうどこの時期、そもそも漫画は子供の物だったものが、子供が成長して、大学生になって、社会人になっても漫画を愛し続けるようになって行きました。それに合わせたかのように、ジャンプは、子供から徐々に大人の週刊誌に変身して行きます。それを支えたのが鳥山さんです。

 やがてゲームの時代になると、鳥山さんの考えたキャラクターがゲームで活躍するようになります。ドラゴンボールは、漫画を知らない人、ゲームをしない人ですら誰もが知るキャラクターです。孫悟空は鳥山さんによって全く違うキャラクターになってしまいました。

 やがて鳥山さんが作ったキャラクターがどんどん独り歩きをするようになって、鳥山さん自身が連載を止めるに止められなくなって行きます。余りにゲームが売れすぎて、次々に対戦相手を見つけなければいけなくなります。

 確かこのキャラクターは始めは孫悟空が主人公ですから、西遊記を書いていたのでしょうが、いつの間にか、西遊記はどこかに飛んで行ってしまい。孫悟空が、新たな妖怪や悪魔とバトルをする内容に変わって行きます。その都度新たな破壊技が生み出されて行きます。

 恐らく当初、鳥山さんが書きたいと思っていた内容とは全く違うところに話は発展して行ったのだと思います。然し、読者、(いや、ゲーマー)が求める所に大きく軌道修正され、作者でも元に戻せないほどに話は発展して行きます。こんな仕事を鳥山さんが望んでいたのかどうか。いや、いや、私が何かを言うことではありません。それでよかったのでしょう。

 とにかく、亡くなる間際まで仕事が続き、漫画を描き続けたわけです。病名は、急性硬膜下血腫。初めて聞く病名です。頭の中にある硬膜と言う膜と脳の間に血液が溜まる病気だそうです。どうすればそんな病気になるのかはわかりません。決して当人が望んでなった病気でないことは確かです。突然死だったらしいです。何年も闘病生活を送るわけでなく、漫画を描き続けてある日突然亡くなったのですから、漫画家としては幸せな人生だったと言えるでしょう。

 日本の漫画が、世界中に大きな影響を与えるようになった時期の、先駆けのリーダとして活躍してきた人であり、余りに呆気ない死は残念です。お会いしたことはありませんでしたが、ほぼ同じ年月生きて来た者として、その活動は讃えなければなりません。合掌。

続く