手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

マジシャンレース 1

マジシャンレース 1

 

 昭和40年代当時、10代末から20代くらいで、実際マジシャンになった人は何人くらいいたでしょうか。日本全体で言うなら100人くらいはいたと思います。

 多くの場合、始めはわずかな伝手(つて)を頼って舞台に出始めます。1年2年と活動してゆくうちに、徐々に仕事の数が減って行き、うまく生活して行けなくなってきます。「生活なんてできなくても自分の夢が実現できるならそれで満足だ」。そう思って続けているとやがて、結婚する、子供が出来る。あるいは病気になるなどして現実に収入がなければどうにもならないところに追い込まれて来ます。

 演劇であれ、歌手であれ、バンドであれ、みんな生きて行かなければならないと言う現実の前に自身の夢が潰えて行きます。

 

 ミュージカルの「ラマンチャの男」。と言う演劇は、中世の騎士道に憧れた近世の貴族が、当時としても既に時代遅れの重たい鉄の鎧(よろい)を着こみ、ロバにまたがり、余り頭のよくない家来を連れて、毎日街を彷徨します。町の住民は誰も相手にしません。「またバカ殿が来た」。と言う目で眺めいます。

 ある日、主人公は敵を発見します。それは人ではなく、町はずれにある風車でした。然し、主人公はそれを敵と妄信します。そして決闘を申し込みます。主人公は長い槍を持ち、正々堂々と敵である風車に突っ込んで行きます。

 結果は大けがをして自分の城に運ばれます。然し、自分自身は大きな敵を前に一つもひるまず戦ったことに満足をしています。然し、主人公の親や家族は主人公を諭します。いくら言われても主人公は考えを改めません。そこである時、家族みんなが鏡を持ってきて、主人公に鏡を見せます。この鏡攻撃は覿面(てきめん)で、主人公はあまりのショックで寝付いてしまいます。

 鏡に映った自分は、美しい古(いにしえ)の若々しい騎士ではなく、醜くやつれて疲労した老人の姿だったのです。

 それからしばらくは城の中で人とも会わずに失意のうちに暮らします。然し、主人公は自身に問い、世間に問います。「自分が騎士道に憧れて何が悪いんだ。勇敢で、敵を尊重し、しかも気高く、誇りを持って生きて行く騎士がなぜいけないのか」。そして、有名な「見果てぬ夢」と言う歌を歌い、やがて息絶えて行きます。

 松本白鴎(前松本幸四郎)さんの当たり役のミュージカルです。私はこの芝居を見るたびに、「マジシャンとは何だろうか」。と自問自答します。

 

 私がマジックを始めたころには、100人くらいの若いマジシャンがいて、それらが実に生き生きとして活動していました。然し、年を追うごとに一人減り二人減り、マジシャンの道を諦めて行きます。ある人は自ら限界を知って辞めて行きます。またある人は、世間に冷遇され、全く舞台のチャンスが無くて辞めざるを得なくなって行きます。又ある人は舞台を諦めて、指導を始めたり、ディーラーとなって活動を始めます。自身が願っていた舞台の出演チャンスは巡って来ず、方向を変えて生きて行きます。

 

 私事で言うなら、スライハンドの技術に限界を感じていた私は、イリュージョンに乗り出します。幸いにバブル景気が始まって、大きなマジックショウは当たりました。いきなり収入に恵まれて、生きて行けるマジシャンになりました。然しこれが生涯かけてやりたかったマジシャンの姿なのかと言うと自信がありません。内心はまだ自分がどうしていいのかわからなかったのです。

 

 そんな中で、仲間が一人二人、キヤキヤとマスコミに出演するようになり、時代を掴んで売れて来ます。そうなるとなおさら自分自身の心は焦ります。何とか売れなければ、何とかチャンスを掴まなければ。と気ばかり焦ります。

 このころ、マギー司郎がテレビのお笑いスター誕生と言う番組に出て、人気が出て来ました。マギーさんとしては、この頃既に30代半ばです。10代20代の若手の登竜門の番組に出て若手と競うなんて言うことは内心恥ずかしかったでしょう。うまく当たればいいが、こけたらもう先がありません。背水の陣で挑んだテレビ出演だったと思います。結果は幸いしてマギーさんはテレビで知名度を獲得します。

 10代の頃から仲間だったマギーさんが売れ出したことは私にとってはショックでした。一緒に新宿のアシベ会館を借りて勉強会をしていた仲間でした。それが売れ出したのですから唖然としました。

 更にそれから二年くらいして、今度はナポレオンズ花王名人劇場に出演するようになり、知名度を上げて来ます。これも私にとっては大ショックです。アシベの仲間だったものがどんどん先を越されてしまいます。

 

 イリュージョンは収入にはなりましたが、どうにも知名度が上がりません。仕事は忙しいのですが、内心はどうにかしなければいけないと悩みまくります。

 しかし、いくら焦ってもどうになるものではありません。同じことをしても成功するわけではありません。人は人、自分は自分です。人と違うことをしなければ成功しないのです。でも、どうやって違う道を見つけなければいけないかが分からないのです。

 誰しもそうでしょうが、20代末から30代と言うのはとにかく苦しい毎日の連続です。私に取っての成功は、「手妻」を見直すことでした。伝統的な日本のマジック、手妻を復活上演したり、改案したり、20代から自主公演をして手妻を演じ続けて来ました。これはイリュージョンの活動をしつつ、同時に行ってきたことです。かなり地味な、目立たない活動をずっと続けてきたことが結果として私の成功につながったのです。昭和63年の公演が評価され文化庁の芸術祭賞受賞につながりました。

 そこから多くの仕事が来るようになり、活動の場が広がりました。私はおよそテレビで活躍するマジシャンではありませんでしたが、それなりの評価を受けて安定した舞台活動が約束されました。この時期になって自分自身が何をしなければならないかが初めて分かり。「これで、マジック界で自分の居場所が出来た」。と、実感しました。

 さらに平成になった途端に、ミスターマリックが出て来ます。その出方がセンセーショナルで、マスコミで大変な人気を獲得しました。マリックさんは昔からよく知っている人です。あの人があんな形で人気を勝ち取るとは予想もしなかったのです。

続く