手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

顔 2

顔 2

 

 プロマジシャンの価値は顔です。長くマジシャンを続けていると、マジシャンらしい顔になって行くのです。これはアマチュアでは達成できません。アマチュアでマジックがうまい人はたくさんいますが、技は素晴らしくても、顔がマジシャンではないのです。 

 一つの仕事を続けていれば、教師は教師の顔になって行きますし、医者は医者の顔になって行きます。医者が趣味でマジックをしても、顔は医者です。それでいいのです。アマチュアは本業を長く続けていれば、本業の顔になって行くのは当然なのです。アマチュアは本業を大切にすべきです。むしろ医者であるのにマジシャンの顔をしていたら変です。

 

 ただし、プロが気を付けなければいけないことは副業です。今の時代のように、コロナで舞台活動が出来ないとなると、ほかに仕事をしなければ生きては行けません。何らかのアルバイトをすることは致し方のないことです。

 然し、そのアルバイトを長く続けていると、徐々に体に染みついて行きます。コンビニで働いていればコンビニの店員になって行きますし、飲食店でアルバイトをしていれば飲食店の店員になって行きます。

 自称俳優だと言う人は私の周囲にもいますが、そうした人と一緒にいると、動作が何となく居酒屋の店員を思わせるとか、コンビニの店員をのような人がいます。それは長時間話をしていると、顔や動作に出てきます。

 自称俳優に、年間何日俳優をしているのかと尋ねると、自主公演を年に二回開き、その都度、一か月稽古をして、本番を三日すると言います。つまり俳優は年に二か月しかしていないのです。あとはずっと水商売をしているのです。それを十年続けていれば俳優とは言い難く、顔はすっかり「お水」の顔になっています。

 顔は決して作ってできるものではありません。自然自然と日ごろの動作が体に身についてきて、やがて顔がそれにふさわしいものになって行きます。

 

 江戸から明治にかけて、東京に寄席がたくさんできました。寄席と言うのは、初期のころは、飲食店の二階を借りて、そこで数人の噺家が落語を聞かせたり、講釈を聞かせたりしていたものが始まりで、専門の寄席と言うのは少なかったようです。

 噺家自体も、噺だけで生活して行ける人は東京でも数人で、みんな昼はほかの仕事をしていたようです。噺家の多くは大工、左官、鳶などの仕事をしていて、晩になると寄席に出ていたそうです。当然噺家の多くは職人の顔をしていたわけで、話し言葉も職人丸出しだったわけです。

 「するってぇと何かい、あっしに一杯呑ませてくれるてぇのかい」。などと言う口調は、職人の口調であって、江戸の標準語ではないのです。喋っている人が大工だったり左官だったりするためにそんな口調で語っているのです。

 噺家は昭和になっても職人や商売をしていた人が多かったと言いますから、これが噺家の顔、と言う顔はなかなか生まれづらかったのではないかと思います。方やあっちの座敷、こっちの宴会と引っ張りだこの人気噺家がいた陰で、じっと職人仕事をしながら、夜に上がる寄席の舞台を生きがいにしていた噺家もまた大勢いたわけです。

 

 話は戻って、よくマジックの雑誌に、手首から先だけの写真で、コインやカードを解説している人がありますが、もし演者がプロであったなら、あんな写真は撮らせないはずです。マジックにとって大切なのは、手順と同等に表情が大事です。表情の見えない写真などマジックではないのです。

 そのことはyoutubeでマジックを種明かししている人も同様です。手先だけで解説してもそれは演技にはなりません。それは種明かしをしているだけです(種明かしをしているのですからその通りです)。その映像を見た人は種を覚えたことにしかなりません。これでは芸能としてのマジックは育ちません。

 また、顔を覆面して演技するのもダメです。顔を出せない理由があるのかもしれませんが、覆面してマジックをしていてはショウにはなりません。お客様にすれば得体のしれない人に思えて、警戒心が先に立ってしまいます。マスクをする、サングラスをすると言うのは、演者が自らの心を閉ざしています。これは芸能の否定なのです。

 こんなことをしていては、いつまでたってもマジシャンとお客様との心がつながりません。種がわかるかわからないか、お客様を挑発しているだけでしかないのです。これではお客様がマジシャンを育ててやろうと言う、暖かな心は芽生えないのです。

 

 話は変わりますが、私が幼いころは紙芝居屋さんが町内の子供の集まる場所にやってきて、連日紙芝居を見せてくれました。子供たちはスカスカの煎餅を買って、それを食べながら紙芝居を見るのが楽しみでした。然し、いつの間にか紙芝居屋さんは来なくなりました。

 私が中学生になったころ、偶然空き地でその紙芝居屋さんを見つけました。ハンチング帽をかぶり、黒縁の眼鏡をかけて、やせて小さな体つきは、私が五歳のころに見た紙芝居屋さんそのものでした。無論、昔よりも年を取って貧相になっていました。私は思わず走って自転車を追いかけて行き、「おじさーん」、と大きな声で呼びかけました。

 すると、おじさんは信じられないような暴力的な言葉を投げてきました。「うるせぇ、このやろ、来るんじゃねぇ」。と言って、自転車で走り去って行きました。私は素直な気持ちで子供の頃に紙芝居を見せてもらったことを伝えたかったのです。然しおじさんは逃げ去って行きました。

 昔なら、空き地に行けばすぐに30人も40人もの子供が集まって、にぎやかに紙芝居が出来たのに、その空き地で見たときには、子供が3人4人しかいませんでした。テレビが普及して、子供は紙芝居を見なくなったのです。

 そんな流行から取り残された姿を、大きくなった昔の子供に見られるのは恥ずかしかったのでしょうか。幼いころのおじさんの語り口は今も忘れていません。子供心に魅力的な話し方で、毎日紙芝居を見るのが楽しみでした。それゆえに10年近くたって空き地で見つけたときには嬉しかったのです。

 然しおじさんは逃げて行きました。なぜ逃げたのか、中学生だった私には皆目わかりませんでした。今にして思えば、時代を終えた芸にすがって生きる姿が恥かしかったのでしょう。おじさんは、恥ずかしさとみじめさと貧しさのないまぜになった複雑な表情をしていました。

 過ぎ去った芸にすがって生きるのは恥ずかしい行為なのでしょうか。そうなら私も古い芸能をなりわいとしている身として、おじさんの姿を自分事と考えなければいけません。私はあまりに堂々と何の恥じらいもなく古い芸能を演じていますが、私の芸にも、あの恥じらいとみじめさが見えなければ、本当の芸能ではないのかも知れません。芸とは恥ずかしいもの。おじさんの芸こそ本物。おじさん顔は萎れて、歪んで卑屈でした。でも嫌な顔ではなかったのです。十年経ってもすぐにわかるようないい顔だったのです。あの顔は今も忘れられません。

続く