手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

御贔屓(ごひいき)様の接し方 1

御贔屓(ごひいき)様の接し方

 

 私が10代20代の頃は、私の親父が漫談家だったこともあって、よくお笑い芸人や、落語家との付き合いが多く(それは今も続いています)、彼らからとても多くのことを学びました。

 お笑い芸人は、今も昔も、売れている人は大きく稼ぎますが、売れるまでは殆ど稼げずに大変な苦労をします。多くは、女房や、彼女に食べさせてもらったり、水商売を手伝ったりしてわずかな小遣いを作って暮らしていました。

 御贔屓客でもいればそのお客様から小遣いをもらったりして少しは助けてもらえますが、私の知る限り、お笑い芸人でご贔屓との付き合い方のうまい芸人をあまり見ることはありませんでした。

 ご贔屓を作ることのうまいのは噺家(はなしか)で、一度見込んだお客様には、くらいついて何が何でもご贔屓にしてしまう噺家を何人も見ました。小遣いをくれそうな社長にはバーでも、寿司屋でもついて行って、場をにぎやかして、周囲を笑わせ、まるで太鼓持ちのように一緒に遊んで小遣いをもらいます。

 社長がゴルフに行くときには、一緒にゴルフをして、コンペで司会をしたり、釣りに出かけたり、極端な人は、社長が、どこそこの焼き立てのパンが好きだと知ると、早朝に有名店のパン屋に出かけ、社長の好みのパンを買い、毎朝、社長の自宅に焼き立てのパンを届けたり、全く涙ぐましい努力をして社長から小遣いをもらっていました。

 噺家には前座、二つ目、真打、と言う階級があり、昇進をすると寄席で出世披露をします。その際の配り物や、幟(のぼり)、暖簾(のれん)、引幕、新しい着物などをこしらえなければならず。大きな費用がかかります。付き合いのうまい噺家は、ご贔屓に頼んですべてを揃えてもらいますが、ご贔屓がいなければ自己負担になります。

 そのため彼らは日頃から必至でご贔屓客を作るためにあちこちで遊びながらお客様を探しています。

 

 私の親父は、さほどにご贔屓客をあくせく追いかけることはしていませんでしたが、親父は日常が面白い人でしたから自然とお客様がいて、よくお客さんと一緒に飲みに出かけていました。中には、社長の家族と一緒に海外旅行にまで連れて行ってもらったり、息子さんの結婚式で司会をしたりと、随分入れ込んで面倒を見てくれる社長がいました。中にはラドーの時計をくれる社長もいました、但し3日で動かなくなりました。

 「社長はいい人なんだよ。一度紹介してあげるよ」。などと親父に言われて出かけてみると、その社長が見るからにやくざの顔をしていて、建設会社社長とは言いながら、連れて歩いている社員がこれまた絵にかいた通りのやくざ。

 当時私は学生で、立派なマジシャンになりたいと考えていたのに、やくざやチンピラの皆さんに囲まれて、親父から「な、いい社長だろ」、と言われても素直にうなづくことも出来ず、どんな顔でいたらいいのかも分からず、場違いな中で居づらくて困りました。

 帰る道々私は親父に「私をこんなところに連れて来ないでくれ」、と、散々に苦情を言いました。

 そんなこわもての社長ですが、マジックを見る目は実に素直で、私のマジックを喜んで見てくれました。その後会社の宴会に呼んでくれたり、社長の経営するバーでマジックをしたり、私が、藤山新太郎を名乗って披露をしたときには、松竹演芸場に花輪を送ってくれて、お祝いの品まで送ってくれました。

 そうすると、私もいつしか、社長のこわもての顔に慣れて行き、社長がいい人に見えてきました。私にも免疫が育ってきたのです。親父のことを悪くは言えません。まぁ、昭和の芸人とやくざは何かと付き合いを持っていたのです。

 

 ただし、ご贔屓様と言うのは、怪しげな人たちばかりではありません。むしろ、社会的に地位の高い、マジックを純粋に愛する方々も多くいて、何彼となく気を配ってくれて芸人やマジシャンを支援してくれました。

 私にとっての最大の御贔屓様は、クロネコヤマトの元社長の都築幹彦さんと、千葉大学名誉教授の多湖輝先生でした。このお二人が平成10年以降から最近お亡くなりになるまで、私や、弟子や、手妻を応援してくださったことはどれほど助けになったことかわかりません。いろいろな分野のアッパークラスのお客様を紹介してくださったり、大きなイベントを紹介してくださったり、随分と舞台活動を助けて下さいました。

 私の40代は、作品つくりに苦心し、弟子を育て、手妻を体系化し、著作を出しと、えらい忙しい時期でした。そんな時期にタイムリーに実力ある支援者が現れて、惜しみなくチケットを買ってくれたり、資金提供をしてくれたことは不思議な人生のめぐりあわせだったと思っています。

 

 話は少し変わりますが、明治の長唄界の名人で、四代目吉住小三郎と言う人がいました。元来が吉住流の跡取りで、本来なら何の不自由もなく長唄の家元となる人だったのですが、門閥の争いに巻き込まれ、芝居小屋に出勤が出来なくなります。当時の長唄は、日本舞踊や、歌舞伎のBGMの演奏で生活をしていたのですが、歌舞伎に出られないとなると、全く失業も同然になります。小三郎はやむなく稽古屋の先生を始めます。

 この時小三郎は舞踊の伴奏でない、純粋な演奏会のための長唄を考えるようになります。今日では何でもないことですが、明治大正期にあっては画期的なことでした。ところが、指導をしてゆくうちに、長唄演奏の矛盾に気付きます。

 今まで役者の舞踊に合わせて唄を唄っていたため、視覚的に見てお客様に筋が伝わっていたものが、舞踊なしで演奏すると、言葉だけでは伝わらない部分が多々あることに気付いたのです。

 歌詞をとんでもないところで切ったり、とんでもないところで伸ばしたりすると、全く日本語として意味が伝わらなくなるのです。ここで初めて、長唄音楽を学問として論理的に捉えて改革することになります。小三郎は後に吉住慈恭(じきょう)と名乗り、三味線名人の稀音家浄観(きねやじょうかん)との名コンビで長唄界の中心的な存在に立ちます。

 二人の演奏は多くの長唄愛好家に支持され、東京音楽大学(のちの芸大)の講師になり、更に人間国宝になります。当時の上流階級の子女が多く稽古に通い。父母の中には、慈恭の芸にほれ込み、番町にある百坪の家屋敷をぽんとプレゼントしてくれる人まで現れます。私の親父のように、すぐ壊れるラドーの時計をくれる社長とは、スポンサーの桁が違います。

 今も番町の屋敷は紫山会館と名を変えて、長唄や日本舞踊の発表会のホールとなっています。私は、太鼓持ちのようにご贔屓を追いかける芸人には賛成しかねますが、芸能で生きる以上、ご贔屓を持つことは大切だと思います。そこで明日は、ご贔屓の作り方、接し方を詳しくお話ししましょう。

続く